【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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五十六話

 青とブロンズのネクタイを結び直してやりながら、ウィスタはぼそりと呟いた。

「俺のレディはいささか積極的じゃないか?」

「どこかの騎士様が兎みたいに臆病だから」

 さらりと返され、何とも言えず顔を背ける。空には月が浮かんでいて、さほどの時は経っていない。「ちょっと風に当たってくる」を大幅に超えてはいるが。

 半ば押し倒されたような形で襲われ――この体たらくだ。あれこれが困るので決定的なそれは我慢するだけの理性は残ってはいる。残っていなかったらそれはそれで問題だ。万が一できちまったら困る。

「慎重と言ってほしいね」

 嘆息し、今度は釦に手をかける。ひとつ、ふたつ、みっつ。こうなるのなら隠し部屋で話すのだった。

 じりじりとクインから距離をとり、己で衣服とネクタイを整えた。また噛みつかれたらかなわない。まさしく獅子に狙われた子兎の気分であった。

「……俺と付き合ったら、下手しなくても地獄行きだと思うぞ?」

 我ながら往生際が悪いと思うが、言わずにはいられなかった。なにせクインにとってなんの得もなく、損しかないようなものだ。最善はその手を離すこと。《ランパント》の後継者は養子をとるか、人としてどうかと思うが適当な女と致してつくって調達することだ。

「私だって選ぼうと思えば選べるわよ。だけどあなたと出会った」

 それでいいでしょう。

 静かな静かな声だった。ウィスタはゆるゆると眼を瞑り、開いた。クインの許へ一歩、二歩と距離を詰める。月の光が彼女の白金を柔らかく縁取っていた。

――これが運命だというのなら

 呪ってやりたい。出会うべきではなかったのに。大事なものは手のひらからこぼれ落ちていくのに。何よりも赦せないのは己の弱さだ。どうしても割り切れない。欲しいと思ってしまう。誰のためでもない、自分のために。

 手を伸ばす。細い身体を抱きしめた。

「俺もあんたも……」

 きっと正気じゃないんだろう。

 ◆

 寮に戻れば外出禁止時間はとうに過ぎていた。エリュテイアに何事か言われるかと思えば「お帰りなさいませ」とそれだけだった。肩すかしを食らった気分で自室に上がる。談話室は熱気に包まれていて、ウィスタがなにをしてようが、どこへ行こうが気にしていないようだ。

 グリフィンドールの部屋へ行き、風呂に入る。浮ついた気持ちと重く沈んだしこりを抱え、頭の中はしっちゃかめっちゃかだった。

「誰かに相談できたらいいのになあ……」

 呟きは虚しく消えていく。友人たちには言いたくないし、養父はもってのほかであるし、実父はもういないし、である。そもそも親に己の惚れた腫れたの話など御免である。たとえ実父が生きていたとしても、だ。

 ああだこうだと考えつつ、風呂から上がる。衣服を身につけながら、白金の魔女が残した痕に眼をやって、唇を噛んだ。やっぱり積極的すぎる。どうにか見えないけれど。貴族のお嬢様なんて嘘じゃないのか。そもそも立場が逆である。なぜウィスタが押し倒されている。いつだって彼女相手だと調子が狂うのだ。

「……言えんだろう」

 無理だ。惚れた腫れたかつ生々しい話など、口に出すべきではない。破廉恥罪でアズカバン行きになるかもしれない。

「なにやらお楽しみだったらしいな」

 大広間――ウィスタはそう呼んでいる――に戻れば、ネフティスがにやにやしていた。

「何人も子どもを生ませたあんたに言われたくねえし、そこまでいってねえよ」

「お前くらいの年齢だと盛っているものだがな」

「俺は騎士なんでね」

 燃やしてやろうか。ゴドリック・グリフィンドールの孫――ネフティスは、魔法騎士にしてすぐれた錬金術師であったらしい。死後、彼の肖像画はグリフィンドールの部屋の番人となった。

「九人もよくもまあ」

「断っておくがな、昔は子の生存率が――」

「それでも多いね」

 ウィーズリー家ですら七人である。時代背景抜きにしても多いだろう。

 祖先の言を切り捨てて、眉間に皺を立てる。

 ウィスタとネフティスでは違うのだ。なにせ彼はゴドリックの息子とヘルガの娘との間に生まれた魔法使い。なおかつロウェナの孫――つまりヘレナの娘を娶ったのだ。つまり、今日まで続く、リアイスの礎を築いたといっても過言ではない。そしてネフティスにはなんの瑕疵もない。偉大な祖として歴史に名を刻んでいる。

「肩の力を抜け」

 昔のリーンを思い出す。呟かれ、舌打ちが漏れる。ぶちまけられたらどれだけいいか。おそらくネフティスならば、すべてを胸の内にしまってくれるだろう。なにせ己の九番目の息子を襲った悲劇が――後に続く因縁をつくりあげたと知っているから。たとえ己が死んだ後のこととはいえ、思うところが無いわけでもないだろう。

「若い当主には色々あるのさ」

 親が早死にしたもんで。ネフティスが呻いた。彼はさほど長生きしたわけではなかったようだ。九人の子を成して、末っ子のペンドラゴンが物心つかないうちに死んだとかそうでないとか。ペンドラゴンがスリザリンに組分けされた時、父たるネフティスがいれば物事はこじれなかったかもしれない。気負った長子――ランパントが暴走した結果だと踏んでいる。

――ランパントは

 命で償ったわけだ。彼はペンドラゴンによって殺害されたと言い伝えられている。やむなしであろう。己の祖とはいえ、ウィスタはランパントに同情する気はない。かといってペンドラゴンに肩入れもしない。ペンドラゴンとスリザリンの娘だか孫だかが結びついて、ユスティヌの祖となったのだから。そしてユスティヌが『分霊箱』なんてもんをつくりあげ、どこぞのろくでなしが利用して現在に至るのだ。笑えない。

 濡れた髪を杖の一振りで乾かし、寮への『扉』へ足を向けかけ、踵を返す。遠い祖を見据えた。

「俺は至らない当主だし、こんなことを言うべきじゃないが……」

 いざとなればすべてを擲ってでも

 惚れた女は生き残らせたい

 

 ハリーの周りだけ春風が吹いているような有様だった。四年生、五年生と陰湿な目にあってきたのだから、予期せぬ――あるいは約束された幸運に浮かれるのも仕方ない。ホグワーツ中にハリー・ポッターとジニー・ウィーズリーが付き合っているという噂が広がり、英雄殿を虎視眈々と狙っていた連中はハンカチを噛んだとか噛んでいないだとか。

「……つきましてはご友人である貴方の所感を」

「ご友人は言うだろうよ。いつから新聞部は低俗なネタを扱うようになったんだ? タイムズやガーディアン路線でいけよ」

 青とブロンズのネクタイに囲まれ、小さくちぎったパンを飲み込んでウィスタは返した。昨夜に丁寧な招待状をもらい、それが新聞部の下っ端だったものだからほだされたのだ。たまにはいいだろうと思ったらくだらない。

 タイムズ? と首を傾げる下級生の額を指で弾く。

「色恋を取り上げるくらいなら、防衛呪文講座でも記事にしろ」

 ひらひらと手を振って下級生を追い払う。テーブルに視線をはしらせれば、五年生だか六年生だかが苦く笑っていた。口だけ動かして「躾をきちんとしろ」と伝える。

「ハリーも大変ね」

「あー……」

 クインの皿にあれこれ盛ってやりながら、眼を泳がせる。強いてチョウのほうを見ないようにした。

「今年はまだ穏やかだからな」

 ろくでもない野郎の復活と、それに伴う混乱はあるものの、ホグワーツという箱庭への影響は少ない。ハリーの名誉は回復しているし、精神的な負担は軽いはずだ。

「甘い匂いがこっちにまで届きそうよ」

「反論できないね」

 どこぞのウィーズリーのように公衆の面前で絡み合っているわけではないのだが、端から見てもなんだか甘いのだ。ジニーは初恋が実っているわけで、それはもう顔が明るい。秘密の恋どうこうの発想がハリーとジニーにないのは明らかだった。

「どこかの誰かさんは忍ぶ恋がお好きだものね」

「恋の段階は超えたと思うが? 忍んで育む感情もあるだろうよ」

 不意打ちにさらりと返せたのだから及第点だろう。油断のならない魔女である。北塔で襲われ――いや押し倒さ――ともかくあれこれあってからというもの、クインは強靱になったようだ。流されるウィスタもウィスタだが。

「見えるところに噛みついたっていいのよ」

 天気の話をするような調子で攻めてくるのだから質が悪い。

「とっくの昔に楔が打ち込まれているよ」

 ◆

 ハリーとジニーの幸せそうな様子をあまり見ないようにし、時折ロンの愚痴に付き合い、と日々は過ぎていった。

「なに言っても無駄だ」

 談話室の片隅でウィスタは告げた。向かいのソファには尻尾を膨らませたハーマイオニーが鎮座している。尻尾ではなくて栗色の髪が膨らんでいるのだけど、猫もハーマイオニーも怒る様子はたいした違いはないだろう。

「あなたはちゃーんと自制してらっしゃいますけど?」

「そりゃ俺はいい雄だからね」

 かといってハリーがクソな雄とも言い切れない。チョウとは煮えたぎった鍋のようになる前に別れたわけだし、ジニーと燃え上がっても責められないだろう。つまり、普通魔法試験を控えた五年生の勉強の邪魔をしたくなる気持ちも分かる。

「私の小言にはうるさそうな顔をするんだもの」

「正論は耳に痛いもんさ」

 ハーマイオニーのすることはたいていが筋が通っている。正しいことがすなわち善とも言い切れないし、受け入れられるわけでもないということだ。そして色恋にのぼせた雄に――雄でいいだろうもはや――ありがたい教えは染みないものだ。

「なんとかなるさ」

 言葉を切って紅茶を飲んだ。友人の恋愛模様に関して深入りするつもりはない。どうせ試験勉強がもっと忙しくなり、ジニーは図書館にこもりきりになることだろう。クインと同じように。

「あなたは我慢強すぎるのよ」

「お育ちがお育ちでね」

 煩悶を隠し通せたかは神のみぞ知る。ともかくも素っ気なく返した。ハーマイオニーは暗に問うているのだろう。あなたはクインとどうこうしないのか、とか。あなたならハリーと違って巧くやるでしょう、とか。

――巧くはやっているのだろうな

 ひっそりと、密やかに。寮が違うので都合をつけるのも難しいのだけれど、時折会ってはいる。二人とも四六時中「盛って」いるわけではないので、慎ましく近況報告やら、図書館の穴場で勉強するだとかもあるわけだ。見えるか見えないかすれすれの箇所にある独占欲の証は、薄くなったりならなかったりである。今のところウィスタの理性が完全に吹っ飛ぶような事態にはなっていない。神は試練を与え賜うと聞くが本当であった。しかも相手は意地悪な女神様であった。なかなか厳しい戦いである。

『あなたって押しに弱いわよね』

 そんな台詞を笑顔で吐かれる身なのである。

「……ウィスタ?」

「なんでもない」

 片手で顔を覆う。なんでこんなことになっているんだ。なにかがおかしくはないか。想定外の方向に転がっていて収拾不可能である。別れを切り出そうものならはり倒されそうだし、絶対また襲われそうだ。男としてどうなのか。

「実はそんなに会えてないの?」

 才女の声が跳ね上がる。違うのだと訂正するのも面倒で、はいともいいえともつかない回答を差し出した。

 ◆

 そうこうしているうちに、普通魔法試験と高等魔法試験が近づいてきた。親友と妹が仲良くしている光景に苛立っていたロンは静かになった。ウィスタに言わせれば、ロンのほうがよほど恥知らずである。ハリーとジニーはまだ慎ましいほうだ。

――完全に吹っ飛んでるな

 とある夜の廊下。ウィスタはハリーを追いかけた。色恋が頭から吹っ飛んでいるのは間違いがない。ハリーの足取りはこの世のすべてを置き去りにしそうな勢いである。

「マルフォイとスネイプがなにか……なにかするかもしれない」

 ダンブルドアが否定的だったのに? と余計なことを言って煽るのは莫迦だけだ。ため息を飲み込み、返した。

「お前の妄想はけっこうな確率で当たるからな」

 時たま暴走していらない被害を生むのだが。ここで父の件を持ち出せば穏和しくなるだろうか。

――じきに一年になるか

 偶然の欠片が悪意をもった手によって組み合わされ、引き起こされた事件である。いまさら蒸し返したところで仕方がない。

「歓声をあげていたのはマルフォイだった」

 必要の部屋で仕事をやり終えたんだ。固い意志に裏打ちされた言である。狂信とも言い換えられる。

 これから『分霊箱』探索の旅に出るというのに、ハリーの志気を下げるつもりはない。なおかつ念には念を、石橋は叩いて渡れ、という言葉が世の中にはあるのだ。

「お前は一旦寮に戻れ。ロンとハーマイオニーに事情を説明すればいい」

 ダンブルドアはすぐにでも発ちたい様子であったし、玄関ホールに五分後と告げていた。既に一分は経っている。ハリーに関する預言を聞いたのがスネイプで、それをヴォルデモートに耳打ちした罪だとか、マルフォイらしき人物の不穏な動きだとかを議論している暇はない。できるのは備えることだけだ。

「エリュテイア、留守を頼む。俺のトランクから忍びの地図を引っ張り出せ」

「加えて肖像画とゴーストたちにも協力を仰ぎましょう」

 話が早くて結構だ。

「ああ。レディとネフティスに……」

「通しましょう」

 では、とエリュテイアがハリーの腕をひっつかむ。引きずるようにして寮方面へと拉致して行った。

 ウィスタは小走りになりながら、守護霊を飛ばす。

「クイン」

 今夜何かが起こるかもしれない。どうか警戒を怠らず。

――ハリーの悪い癖が伝染ったのかもしれない

「厭な予感がするな」

 思い過ごしかそうでないのか。

 蓋を開けてみなければわからないものだ。

 

 優れた将は機を見るに敏、とどこかの詩人か軍人が書いていたように思う。どこにでも危険はある。しかし絶対に安全などありえない。可能性ばかりを検討していれば、暗がりにありもしない影を見てしまい動きが鈍る。

 ダンブルドアはまさしく優れた将であった。玄関ホールで待ち合わせるや、ウィスタとハリーに姿を隠すように言い、可能な限り早くホグズミードへ赴き、姿を見せつけた。

「ホッグズヘッドで飲んでいると思うじゃろうて」

 これでよし。ダンブルドアは一つ頷く。

「景気付けに一杯ひっかけてからでもいいですよ」

「そうしたいのは山々じゃがの」

 ウィスタの茶々にダンブルドアはにやりと笑う。そうすると若者のようだ。

「時は巻き戻らぬからして……出立せねば」

 小さな、しかし腹に響く声であった。ウィスタは不可視の衣を脱ぎ捨て、杖を振った。目的地は聞いている。ならばできるだろう。

「早めに習得しておいてよかったです」

 と、と地を蹴る。景色が滲み、耳がふさがるような圧迫感。そうして空間を跳躍した。

 固い感触を踏みしめ――と思えば、均衡を崩しかける。肩を掴まれ、そちらを見ればハリーがいた。頭を巡らせる。反対側にはダンブルドアがいた。二人とも平然としている。少なくともウィスタのように吐きそうになってはいないのだ。

「飲んでも意味がなかったろうの」

 言わんとすることを察し、ウィスタは頬をひきつらせた。胃の中に入れたところで逆戻りだったろう。そう言いたいのだダンブルドアは。

「お前が羨ましいよ」

「あれだけ箒を乗りこなせるのに、これは苦手って不思議だよね」

 やれやれといわんばかりのハリーである。そうして現場を見回し顔をしかめた。

「こんなところに孤児を?」

 黒々とした海と岩場。そして岸壁――崖。遠足に連れて行くような場所ではないだろう。ウィスタは遠足だろうが動物園だろうが水族館だろうが縁がなかった育ちであるが、さすがにここが楽しくない場所だということくらいは分かる。ハリーの意見に同意するしかない。

「少し離れたところに村がある。遠足はそこへ行き、海岸で遊ぶ……こんなところに赴いたのはあやつと幼い犠牲者だけじゃろう」

 登山家でもなければ崖を登れぬ。海も危険で近づけぬ。無論、魔法を使えば別だが。

 言いながら、ダンブルドアは崖に近づいていく。ウィスタたちは後を追った。白髪と髭を風になびかせるダンブルドアは、魔法使いよりも修行者の呼称がお似合いだった。

 ダンブルドアが足を止め、二人を振り返る。

「ちと濡れてもらうぞ」

 確認ですらなかった。ウィスタはダンブルドアが見ているものをみようと近づいてげんなりした。黒い鏡の奥底に、切れ目がある。いっそのこと崖のてっぺんに城でも構えてくれてりゃ楽だったのに。

「冥府の主でも気取っているんですかね」

 悪態をひとつ。地獄やら冥府やらは地の下にあるものだ。海の中――海中洞窟だろうか――でも要件は満たしているだろう。

 ハリーがいそいそと透明マントを仕舞う。ウィスタは泡頭呪文を全員にかけた。少し濡れるだけに思えても、なにがあるか分からないものだ。

 幸いにして罠はなく、切れ目の奥は隧道になっていた。自然と作られたものなのだろう。岩壁は粗く、人の手が入った痕跡はない。

――開発しても益はなし

 観光地に近いわけでもなく、伝説もなく、マグルがリゾート開発に乗り出すわけもない土地である。なので崖近辺を調査する酔狂な者もいなかったのだろう。

 口を閉ざしたまましばらく歩く。濡れた衣服はとうの昔に乾かしていた。やがて階段が見えた。ウィスタならば手間を省略するために、坂道にするのだが。『分霊箱』を収める器には、それなりの様式が欲しい。そういうことだろうか。

 よくよく眼をこらせば、仄かに光る岩壁には蛇の装飾が彫られている。首を振って階段を上る。踊り場の先は洞穴になっていて、行き止まりだった。開口部らしきものはなく、もちろん扉もない。

「過去視は使わんでいい」

 機先を制された。ウィスタは沈黙でもって肯定に代え、ハリーは小さく囁いた。

「やはり魔法で――」

「この場所が見つかるはずもない。しかし最低限の守りは敷く……容易く見破れるような最低限じゃの」

 ダンブルドアの杖が、何度目か振られる。壁に銀の輪郭が描かれた。しかし儚く消えてしまう。

「押しますか」

 斬っても構わないし、魔法で破壊してもいい。力業である。趣味の悪い男に付き合ってやる必要もないだろう。

「多少の捧げもので済む」

 ため息混じりの言である。ダンブルドアは素早くナイフを取り出した。

「肉体的損傷を厭うあの者らしいの」

 ウィスタにはこう聞こえた。「愚か者が」と。

 ダンブルドアがさっさと通行料――血を支払い、路が開けた。進めば、湖が広がっていた。

――手が込んでいることだ

 洞穴の改造にかかる手間その他諸々を弾き出す。それなら北極かどこかに埋めたほうが早いだろうよ。

 不穏なものを感じているのか、一族の至宝『冬の息吹』が熱を帯びる。ためしに手をかざし、あちらこちらに動かしてみると、どうやら湖に反応しているようだ。湖と――遠くに見える小島――鎮座しているであろう『分霊箱』に。

「先生、試してみても?」

 ハリーが控えめに許可を求める。黒々とした湖面に、得体の知れない闇に黙っていられなくなったのだろう。ウィスタだってこんな陰気な場所は御免被る。グリフィンドール塔が早くも恋しくなってきた。ここはまさしく冥府だ。うかうかしていたら取り込まれそうだ。オルフェウスのような竪琴の腕前はないのだ。戻れなくなる。

 ハリーの呼び寄せ呪文は不発に終わった。正確には発動したが弾かれ、しかもなにかの影が湖から飛び上がった。

「……渡らないといけない、と」

 面倒な男である。眼の端に影がよぎる。ふ、とそちらを見れば鎖と小舟があった。人影が乗り込む。どこかで見たように思う。誰だろうかと思う間もなく、そこにはなにもなかった。

「ウィスタ?」

「小舟が」

 無意識に過去視が発動したのだ。ウィスタの示す場所を調べ、ダンブルドアが頷いた。

「君の異能に感謝しよう」

 答えず、小舟に歩み寄る。

「三人だと重すぎるのでは?」

 ウィスタの危惧を、ハリーが口にした。

「重さは問題ではあるまい。ヴォルデモートは未成年がここにたどり着くとは思ってもおらんだろう」

 先にお乗り。促され、若者二人は小舟に乗った。悲しいかな、小さく身を縮めるはめになった。ダンブルドアが乗りこめば満員御礼状態である。華やかな冒険などそうそうないものだ。たいていが泥臭いのだと改めて思った。もっとも、ウィスタは自伝を書く予定はない。

 小舟が滑るように動き出す。湖面にさざ波を立て、音もなく。灯りに照らされ、白いものが浮かび上がった。ハリーがごくんと息を呑む。

「大層なことで」

 調達したのか、己が殺したのか。両方であろう。水は念を溜めやすいと聞くし、亡者の『保存』場所には最適。くわえてスリザリンの血筋は水の気――属性が強いともいわれる。水面の下の洞窟。湖。亡者。このうえなく水の気が強く、また陰の気も強い。穢れを流す水ではなく、澱み、念を捕らえる陰の水だ。

 やがて小島についた。ウィスタたちはそろそろと上陸し、鎮座している台座と、据えられている水盆を見て取った。その身を満たしているのは緑の水である。

「あらゆる防衛がかけられておる」

 水を変質させることはできぬであろう。ダンブルドアは一瞥のみで見抜き、流れるような動きで杖を振った。指揮者の命で現れたのは杯である。

「破壊するにしろ、崖を丸ごと吹き飛ばす威力でないとの……それですら、『分霊箱』を破壊できぬであろう」

 きっちり釘を刺された。今にも冬の息吹を顕現させようとしていたウィスタは、眼をつぶった。

「俺が飲みましょう」

「死にはしない」

「でも……先生」

 ハリーも食い下がったが、ダンブルドアは退かなかった。

「儂の言うことをお聞き。この薬がいかなる働きをしようと、儂が飲むのを嫌がっても、飲ませるのじゃ。水盆が空になるまで」

 ◆

 喉が炙られている。焼けた鉄でも突きつけられたよう。

――僕は

 やらねば、と思う。ほんの少しの勇気しかないけれど。それでもやらねばならぬことがあるのだ。ここで怖じ気付いてはいけない。

 『誰か』の感情に支配され、ウィスタはあえいだ。ウィスタはウィスタなのか、それとも誰かなのか。

『もう、僕は……』

『坊ちゃま、どうか』

 泣きじゃくる誰かの声。どこかで聞いたような気もする。どこだったか。いつだったか。それすらわからない。

「厭じゃ。助けてくれ……」

「先生、もう少しですから!」

 はっと息を呑む。ウィスタは膝を突いている。ダンブルドアが涙をこぼし、杯を干す。両の眼が熱を帯びた。輪郭が立ち上がる。黒髪の青年。ひどく懐かしい気がした。思考をかき乱される。強固な意志、わずかな未練。

――飲まねばならない

「兄……」

 攪拌された心で、何事か呟く。若者がくずおれる。どこかで鋭い音がして、続いて熱い感触が頬に走った。

「しっかり!」

 ハリーであった。遠慮なくぶっ叩いてくれたものだ。杯が転がり、幻は失せ、『分霊箱』はハリーが握っている。

 よろめきながら立ち上がる。目眩がするが構っていられない。役に立つのだか立たないのだか。過去視のくそったれ。スリザリンの莫迦野郎。

 どろりとした臭い――手でつかめそうなほど濃厚な臭いが鼻を突く。水辺から亡者が這い出てきている。顕現した冬の息吹で次々に斬り捨てる。しかし、亡者は無限にわいてくるようだ。次々と手が伸びてくる。振り払い、切り払い、足が一歩、二歩、と動き。水を踏む。

――しまった

 猫の額ほどの小島だ。亡者に殺到されれば分が悪い。考えておくべきだったのに。

 別の手がウィスタの足首を掴もうとした――そのとき、伸びてきた手が、ウィスタを突き飛ばした。蹈鞴を踏む。喘ぎ喘ぎ振り返れば、亡者が立っていた。まばらな黒髪。両の眼は灰色。比較的新しい亡者だ。

 誰だ。助けてくれたのか。そんな莫迦な。追いつめられてありもしない可能性を見ているのだ。

 考えている暇はない。多勢に無勢。ひっくり返すには一息に始末するしかない。

 穢れを滅する魔法剣。脈々と引き継がれてきた至宝の、その切っ先を地に突き立てる。

「凍て砕け」

 次の瞬間、魔力の風が洞穴を席巻し、亡者も湖面も銀色の封じに閉じこめる。一呼吸もしないうちに、亡者が砕け、獄から解放された。

 凍り付いた湖面を駆ける。元の洞穴に戻る間際、振り向いた。魔法騎士の礼をとる。

 数多の亡者への、弔いに代えて。

 

 最低だ。最低なことなんて腐るほどあるのだが、今度という今度は最低だ。

 『分霊箱』を手に入れて、意気揚々と帰るはずだったのに。ダンブルドアは少し休めば回復するはずだったのに。

――よくやった

 それが最期の言葉だなんて、ウィスタは認めたくなかった。

 闇の印が打ち上がり、天を忌まわしい緑に染めている。輝きは校庭で向き直る二つの影をも染めていた。

 フォークスの歌声が、ウィスタの戦意を掻き立てる。対してスネイプは顔をゆがめていた。

「あんたは計算のできない阿呆じゃないと思ってたんだが」

「ダンブルドアの眼は曇っていたのだ」

 汗みずくになりながらも、スネイプは冷静そのものだった。つい先刻、人を殺したとは思えないほど。

「金か名誉か」

「我が輩は命が惜しくてね。ダンブルドアは老いていた。闇の帝王は不死身に近い」

 どちらにつくのがよいか、わかるだろう。

「俺ならそっちにゃ賭けないね」

「ダンブルドアに言ってやるべきだった。騙されるほうが悪いのだ」

 魔法薬学の授業の時のような口振りだ。ここが地下教室でないことに驚くくらいだ。

 次の瞬間、呪文と呪文がぶつかり合い、火花を散らした。一、二、三。矢継ぎ早に呪文の応酬がなされ、ウィスタの頬に、スネイプの肩に血が飛沫く。スネイプは舌打ちすると踵を返した。脱兎のごとく駆け出す。

――陰気な引きこもりなくせして

 火事場の馬鹿力だろう。スネイプは飛ぶように走る。対してウィスタは疲労困憊し、足は軽くしびれ、身体は鉛のようであった。それはダンブルドアの死の衝撃のせいかもしれず、スネイプの裏切りがまだ信じられないせいかもしれない。

 校庭の端で、スネイプのローブを掴みかける。しかし、黒衣はウィスタをあざ笑うようにすり抜け、スネイプもまた夜闇に紛れて消えていた。

 フォークスが舞い降りて、ウィスタの肩にとまる。神秘的な双眸に問いかけた。

「お前の主は……友達が……殺されたんだぞ」

 それでいいのか?

 しかし、不死鳥は静かにウィスタを見返すだけだ。その気になればくちばしと爪で戦うこともできる神鳥が、スネイプに対しては行動しなかった。魔法生物相手でなければ力を発揮しないのか、そうでないのか。どこかで釦を掛け間違えたような居心地の悪さと、今し方起こった裏切りがウィスタの内で混ざり合う。

――ダンブルドアは

 もしかして死んでいないのかも。ホグズミードに着いて、襲撃の報を受け取り、闇の印を見てホグワーツに急ぎ帰還した。ハリーとダンブルドアを先に行かせ、ウィスタは遅れて到着したのだ。だから、ダンブルドアが影武者でもなんでも使って、死を偽装していても……。

 足を引きずるようにして、校庭を抜ける。目指すは北塔。ああ、ハグリッドの小屋が燃えている。しかし些末事に過ぎない。今は、なによりも確かめなければ。

 草を踏み、進んで進んで。人垣を見つけた。かき分けるようにして前へ。

「こんなのってありかよ」

 訊きたいことがたくさんあった。それに、まだ路半ばなのだ。こんなところで脱落していいわけがない。

 ハリーがうずくまっている。ハグリッドが吼えるように泣いている。ウィスタは膝を突くことすらできなかった。

 ダンブルドアは、身じろぎもしない。眼を見開いたまま。ライトブルーの眼は夜空を映すのみ。足と腕が折れている。

――ああ

 癒しが効かないのは明白だ。父と同じだ。二度と取り返せない。癒しは意味を成さない。成さないのだ。

 膝を突くわけにはいかない。絶望を見せてはいけない。リアイスが見せるべきは、希望であり萌しであり、善きものでなければならぬ。

 杖を振る。ダンブルドア家の不死鳥紋があしらわれた聖骸布を出現させ、門をくぐってしまった老賢人にかけた。

 

「あんたはなにを考えてたんだ?」

 白い墓標の前で、ウィスタは座り込んでいた。真新しい墓である。刻まれているのはグリンデルバルドを倒した魔法使い。殺された英雄の名であった。

 ダンブルドアの死は、魔法界に衝撃を与えた。彼が魔法省の権を犯すのではないか、頂点に立とうとするのではないか。そんな疑心暗鬼に囚われていた一派ですら、少なからず動揺し、寄る辺のない顔をしていた。葬儀に現れたファッジなど、怒ればいいやら嘆けばいいやら、どうしていいやら、といった風であった。

「――分かっていたはずだろう」

 居もしない者に語りかけるのは、狂者だけだろう。しかし、ウィスタは己が狂っていようがそうでなかろうがどうでもよかった。滅多に人の踏み入らぬ墓地は、思索するにはうってつけだ。

「マルフォイのことも察知していた。でも泳がせた。スネイプのことだってそこまで信用してなかったんじゃないか?」

 あんたは秘密主義だから。

 吐き捨てる。しかし応えはない。茶目っ気たっぷりに考えを披露してくれればいいのに。

 ウィスタに――ウィスタたちに残されたのは、断片だけだ。『分霊箱』の件も片づいていない。スネイプは野放しで、ヴォルデモートは言わずもがな。

 クソ爺め。吐き捨てて、澄ました顔をした墓標をにらみつける。直後、固い音――馬蹄音に振り返った。

「墓参りかい」

「静かに過ごしたい時もあります」

 フィレンツェは驚くほど蒼い眼でウィスタをみた。白皙には憂いが刷かれている。絵描きならばよろこんで題材にしそうだ。

「俺も隠者になりたいもんだよ」

 軽口を叩く。しかし幾ばくかの嘆きがこもるのは仕方ないだろう。

「――ダンブルドアは無駄なことはしません。ヒトにしては驚くほど賢かった」

 フィレンツェは黄昏の空をみやり、ウィスタには窺い知れない叡智――あるいは神秘に双眸をはしらせた。

「彼は信じる路を往き、役目を果たした。星はそう告げています。そしてリアイスの男。天狼の息子よ。禍つ星を祓うのは、貴方の役目――無論、従うも従わぬも貴方次第です」

 鼻を鳴らす。フィレンツェはケンタウルス失格だ。星読みの結果はみだりに口にすべきではないと聞く。ご親切に逃げてもいいとも付け加えた。

「心遣い傷み入る。星の声が告げるまでもなく、俺は俺のすべきことを」

 長く続く因縁を絶ち切ろう。

 星読みに告げたその瞬間、黄昏の世界に鐘の音が渡った。




謎プリ編終了です。
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