「――お前は《ランパント》の従者でありながら、なにをしていた」
研ぎ澄まされた剣がエリュテイアの胸をえぐった。ウィーズリー家の古びた床に膝を突き、灼熱を帯びる空色を見上げる。苛烈な性分はステータント様を思わせるな、と場違いなことを思った。いいや、そうでもなければ耐えられなかった。
「もしものときは、私の首をもってあがないます」
「お前の首にどれほどの価値があるか」
第二分家当主ナイアード、号を《ステータント》が吐き捨てる。激するままにエリュテイアを始末しないだけの理性は残っている。しかし、その理性もいつ吹き飛ぶかわからない。なにせ彼らの盟主《ランパント》が敵の手に落ちたのだ。激さずにはいられまい。
「ウィスタが出て行くのを止めなかった僕たちにも責はある」
割って入ったのは第三分家のルキフェルである。外套はあちらこちらが汚れ、裂け、金の髪もくすんでいる。紫の眼は静かに凪いでいた。
「まだ黒い炎は顕現していない。ナイアード、今すぐどうこうはならない。エリュテイアばかりを責めてもなんにもならない」
ルキフェルを援護したのは第七分家のヘカテである。壁にもたれかかったまま、あちらこちらに炎を飛ばしている。それはナイアードもルキフェルも同様だ。リアイス一族に伝達し、手勢を動かしているのだ。本家当主の拉致など一大事である。最悪といってもいい事態だ。
彼らは一族の所在が掴めない恐怖を、不吉を知っている。通信途絶。そうして顕現する黒い炎。発見されるのは亡骸と闇の印。何度もあったことだ。人間である以上、どこかに隙や間違いがある。どれほど優れた者でも、計画を練り策をろうしてはめることができる。生きている限り殺すことができる……不死ではないのだから。
「――余計な手勢は割くな。万が一、敵に捕らわれたとしても救出しようとするな」
凛とした声。固い靴音が、旧家の厨房に響く。
「《ランパント》はそう言って戦場に出たのでしょう。ならばそうすべきよ」
「ネメシス」
ルキフェルが嘆息する。腰の杖に手を添えている。同じく、ネメシス――第六分家の魔女、魔法法執行部長官も、すぐさま杖を抜ける構えであった。
「彼は《ランパント》だ」
「それが? のこのこ出て行って捕まるような未熟者。おまけに従者はおめおめと逃げてきた。情けないこと」
断罪に、エリュテイアは唇を噛む。なにも言い返せなかった。ネメシスはまったくもって正しい。エリュテイアは主を止めるべきだったのだ。
「《ランパント》ならば、自力で脱出くらいしてのける。無理ならそうね」
敵に操られる前に、死ぬくらいの分別はあるでしょう。
風切り音。杖を抜いたのは、ナイアードとエリュテイアで。
「――お放しください。ルキフェル様」
「おい、ビル!」
「……ここで喧嘩してもどうにもならないだろう」
「これだから君は!」
片腕を掴まれ、エリュテイアはルキフェルを睨む。しかし、ルキフェルは頑として動かない。対してナイアードは厨房に飛び込んできたビルに、杖をもぎとられていた。
「リアイスは狂ってるって知っていたが」
酷いものだ。ビルがナイアードの杖を持ったまま、頬にはしる三本の傷跡をゆがめた。
「年若い少年なら、友人のために出張るのは当然。闇の帝王とベラトリックスが出てきたのであれば、たとえ白百合の騎士がいようが、マッド・アイがいようが、厳しかったろう」
まあ、マッド・アイはかなりの人数を道連れにして死んだわけだが。
苦々しくビルが言い、長く長く息を吐いた。わめくナイアードを無視し、杖を放り投げる。細長い影を掴み取る手があった。
「少なくとも、君ならナイアードのために身体を張ると?」
「あなたもウィスタのためならそうしたのでは?」
リーマス、と返されて、古びた外套をまとった魔法使いは黙した。
第二分家当主の無二の親友と、本家当主の養父は視線を交わす。
「君たちは当主のこと、一族のことになると熱いんだか冷酷なんだか」
極端なんだ。ルーピンが首を振り、ナイアードの杖をもてあそぶ。
「ちょっと先輩」
「よそのお宅で刃傷沙汰なんて認めないからね」
「僕の実家なんだから」
ふ、と張りつめた空気がゆるむ。
「君たちの盟主はしぶとい。それに、あれはウィスタを殺さないだろう。いよいよとなればわからないが」
利用価値があるからね。静かにルーピンが言う。しかし、杖をもてあそぶ手は止まらない。双眸がほのかな金を帯びる。
「なにせブラックとリアイスの子だ。簡単に殺せるものか。殺してしまえば……それこそ君たちの歯止めがきかなくなる。リーンが殺されて、けれどあれが消えて……君たちは拳の振り下ろしどころを失った。けれど今回は違う」
あれが生きていて、けれどウィスタが殺されれば――。
「闇の陣営に与した家門を、ひとつひとつ潰すだろう? 今度という今度は我慢の緒が切れるだろうからね」
リーンの父に、母に。そして君たちの父母も、リアイスの何人もが殺されて。多くの協力的な家門も滅ぼされた。
「私だってドーラをどうこうされたら、なにをするかわからない。君たちが血の雨を降らせても仕方ないかなあとは思うわけだ」
流れるように言い、ルーピンは小さく笑った。
「あれの思想にはまったく共感できないけれど、損得の計算くらいはできる男だ。ウィスタは生きる。殺されるとしたら最後の最後だ。大丈夫だよ。そこのネメシスが言うように、自死したときは――」
私が全力で仇を討ちに行く。君たちとともにね。
◆
「エリュ」
手を引かれ、階段を登る。旧家の、あたたかい――素朴なつくり。上階の一室に案内され、寝台に座らされた。
「ねえ、エリュ」
夜明け近く。ほのかに明るい室に、銀のきらめきが華を添える。妖精の君は今日も輝くような美しさだ、とぼんやり思った。
「貴女だって失敗するのよ」
大丈夫よ。優しく言われ、眼をつぶった。いたわりが突き刺さる。そんな資格などないのに。
「私は、今回も……」
何度間違えたろう。何度失ったろう。
失いたくない。けれど、主の意に背き、閉じこめるのでは意味がない。エリュテイアは主たちに生きてほしかった。生をまっとうしてほしかった。それはただ生きているだけではなく、幸福に、生き生きと。主の幸せこそがエリュテイアの幸せなのだから。
「失いたく、ないのです」
両の眼が熱くなる。じんわりと銀の獅子――聖痕が浮かんでいるのだろうが、銀の妖精たる姉――フラーはなにも言わなかった。
「願いなさい。叶うのだから。望みなさい。与えられるのだから。立ち上がりなさい。貴女を助ける者が現れるのだから」
まだ負けてはいないのだから。囁かれ、軽く抱きしめられる。
――何度亡くせばいいのだろう
何度奪われればいいのだろう。
ゴドリック・グリフィンドールはスリザリンと決闘し、隻眼となり……晩年は心を病んで――。
ランパント・グリフィンドール・リアイスは不遇な裏切り者に殺された。
エスター・グリフィンドール・リアイスは人狼に咬まれ――従者に首を刎ねられた。エリュテイアは、主の首を落とした感触を覚えている。鉄錆の香も、己の叫びも。そうして狂った。狂って狂って狂った。
どこからか、恨みの声がする。
『グリフィンドールよ、貴様に呪いあれ! 我を追放しようとも、我の子孫は汝の子孫の前に現れるであろう! グリフィンドールを滅ぼすまで、幾度でも幾度でも!』
あの紅を覚えている。主の蒼い眼も。スリザリンとグリフィンドールの虹彩を。
両方の色彩を持つ者に、かつて見えたことがある。
よみがえるのは、戦場を舞うグリフィン。無数の魔法が花開き、砂塵のなか、押し立てられる旗があって。
『ようやく』
復讐の機会が巡ってきた。
相反する色を受け継ぎ、連綿と続く呪詛を纏い、虹彩の奥底に燃えるような心を秘めて。
『滅ぶがいい! グリフィンドール!』
破滅の祈りは終わらない。
「……今度こそ」
亡くさない。
灼熱とともに吐き出したとき、一滴の涙が眦から零れ、砕けた。
そうか。ノクトというのか。
蒼の眼が、注がれる。澄んだ色。しかして熱を秘めたまなざし。
すすけた村の、焼け落ちた家屋、泥と血にまみれ、地にへたりこんだ彼に、差し出された手。
よく無事だった。
なんと答えたろうか。まったく良くはない。なにが無事だ。みんな死んだ。僕と母は、ただの薬師だったのに。僕はちょっと狩りがうまかっただけなのに。村のみんなはありがたいと言ってくれて、これは妖精さんの恩恵かと言ってくれて。
――ひもじいときもあったけれど
喧嘩もしたけれど、それでもなんとか生きていた。
なのに。
「外のやつらが……」
枯れたはずの涙が、またこぼれた。不思議だ。泣いて泣いて、喉が痛むほど叫んだというのに。自分がなくなってしまうのではないかというほど泣いたのに。まだ泣けるのだ。
「不吉だって」
襲撃は夜。近隣の村の連中とはつきあいがあった。ちょっと相談があってと笑顔でやってきた。そうして鍬や鉈――それこそ石だろうがなんだろうが、得物を持った連中が入り込んで、火をつけて、暴れた。
ここは魔女の村だ。怪しい薬をつくっている。魔女の息子は不思議の業をつかって、俺らから獲物をうばっている。だったらいいだろう。だったら。
――俺たちが奪っても!
抵抗した。そんな目にあう意味がわからなかった。ただ生きていただけだ。ただそれだけなのだ。母とノクトは少しだけ、ほんの少しだけなにかの恩恵があるだけなのに。
戦って、けれど隣村の男たちのほうが数が多かった。
お前のせいだ、と向かいの小父に言われ、逃げるんだと隣の小母に言われ、助けてと一緒に薬草摘みをした幼子にすがられ、責めといたわり、求めの声と、悲鳴、怒号、怨み――混沌とした時が過ぎ、すべてが終わった。
気づけば母は焼けたなにかになり、ノクトの手には弓があった。矢筒は空で、あちらこちらに獲物が転がっていた。そうして片手には短剣。獲物にとどめを刺すとき、それに解体するときによく使っている、愛用のもの。
――生きているのは彼だけ
誰も彼も死んだ。
名も知らぬ男は、膝を突く。分厚い手のひらが、ノクトの髪をかき分け、頬に触れ、あちらこちらを検分した。
「おい、サラ」
「黙れ。いい加減その呼び方はやめろ」
「サラ、この坊主、怪我してるんだ。お前得意だろう」
「……人の話を聞け」
冷えた声とともに、新たな誰かがやってくる。銀色の髪は流れるようで、眼は紅。
――悪魔だろうか
悪魔は人を惑わすのだという。髪も眼も、見たことのない色だ。サラ、と呼ばれた男はノクトを見て舌打ちした。
「これだからなにも知らぬ卑しい者どもは」
村ごと滅ぼすか。
銀髪の男は、黒髪と蒼い眼の男を押しのけて、指を鳴らす。
「幼き者に癒しを」
軽やかな旋律。それは祈りであり願いであった。ノクトがなにを言う間もなく、痛みも熱も消えていく。
「冬で食糧がなくて……ってとこだろうな。ちょうどいいから近隣で評判の薬師と狩人がいるここを狙った、と」
「クズめ」
「母は、魔女なんかじゃない」
僕だってそうだ。食いしばった歯の間から、声を絞り出す。す、と蒼と紅が交錯し、蒼い眼の男がうなりながら黒髪をくしゃくしゃにした。腰には一振りの剣がある。騎士――いいや、放浪の剣士だろうか。ぼんやりした記憶で、この男が一撃で襲撃者を斬り殺したところを見た……ように思う。
「あー……お前の母親もたぶん魔女で、お前はあれだよ魔法使いだ」
「ただの薬師と狩人だ!」
「お前さ、こいつの髪と眼は何色に見える」
示された先を見やる。なにを言っているのだか。
「銀と紅……ねえあんた、悪魔なの?」
「悪魔のように知恵は回るが、生き方はど下手」
「お前に言われたくない」
「で、やっぱりお前は魔法使いだ」
サラは誤魔化しの術をかけているから、力がないと見破れないのさ。にやりと黒髪の男が笑う。
「悪しき者じゃない。なあ少年。お前やお前の母君の力は善きことに使っていた」
で、俺たちはそんな魔法の徒のために、居場所をつくろうとしているんだな。
「一緒に来い。俺はゴドリック。こいつはサラ――サラザール」
騎士と癒し手にして。
魔法使いだ。
あの裏切り者を殺せ! 殺せ、殺せ!
ペンドラゴンを!
忌まわしき九番目を!
激を飛ばすのは、かつての主、ゴドリックの孫――ネフティスの、第三子、ステータント。兄たるランパントを殺され、怒りのままに命じる。
殺せ殺せ。引きずり出し、血であがなわさせよ! 兄殺しの大罪おかした、あの愚か者を! 我らが末弟を!
「……さて、どこに逃げたものか」
どこかの森。小さく焚かれた火に、黄金とも朱ともつかぬ輝きが明るさを増す。
「大陸に行ったのやもしれませんね」
ノクト――いいや、ニュクスは呟いた。ゴドリック様の時代は過ぎた。今は主もなく、主の曾孫ランパント様に仕えている。仕えていた。
――殺された
実の弟に、ニュクスの主は殺された。ゴドリック様の剣に貫かれ、壁に身を縫い止められて。そうして主の末弟は――ペンドラゴンは、ニュクスをも刺したのだ。青玉のはまった業物――ゴドリック様の孫がつくった『冬の息吹』で。
「あれが賢ければ、な」
大陸に行っておろうが。グリフィンドールの九きょうだい、第五子セイリャントが呟く。探索の技に秀でた魔法使いであり、討手の第一陣に選ばれたのだ。双子の兄たるシージャントは、別の方面を探索している。
「禍根となる弟を、兄は赦すまい」
ええ、とだけ答えた。もはやペンドラゴンは禍根、悪徳の芽でしかない。排除せねばならぬ。だが。
そっと腹を――貫かれた腹を撫でる。死んでいてもおかしくない傷。しかし、ニュクスは生き残った。わずかな癒しが施されていたから。ペンドラゴンを追いつめたのは誰なのか。どの一族なのか。分かり切っているのに誰しもが口を閉ざす。
――なぜこのようなことに
幼い時から見守っていた。主の弟であり、主の子孫であったから。健やかに生きてほしかった。ゴドリック様は、きっとこのような事態を望んでいなかった。
「……消さねばなりません」
血であがなわさせねばなりません。
眼を開けば、くすんだ天井が見えた。窓――カーテンを透かして陽が射し込んでくる。瞬けば、冷たい滴が頬を流れていった。
「私はエリュテイア。エリュテイア・リアイス・リエーフ」
そっと呟く。今の名を。そうしてかつての名を――人格をそっと仕舞う。もはや過ぎたこと。理想は変質し、ゆがみ、今に続いている。
明るい室をそっと抜け出す。下に降りれば、ウィーズリー夫人――モリーが朝食を用意しているところだった。
よく眠れたかしら。ごめんなさいね、狭い室しかなくて。
柔らかな声に小さくうなずく。常ならばもっとまともな受け答えができるのだが。しかし、モリーはエリュテイアを責めず、テーブルに朝食を並べていく。
「ウィスタが戻ってきたら、あの子の成人のお祝いもしたいわ」
明るく、しかしどこかにかげりがあった。エリュテイアはモリーの赤毛と、青い眼を見る。旧姓をプルウェット。彼女は兄弟を亡くしている。死喰い人に殺されたのだ。彼女は知っているのだ。失うことを。それがいかに突然やってくるかも。
「気持ちだけで十分だと言うでしょうが……その時は、是非」
モリーが、エリュテイアの肩にそっと手を置く。知らないぬくもりだった。エリュテイアの親は、娘に関心がなく、狂って狂って死んだので。祖父は正気であったがやはり壊れていて、孫のエリュテイアを手駒にしようとしたものだ。
――まあ
誰も彼もが冷たい土の下なのだが。
ウィーズリー家はエリュテイアの生家と違って、ぬくもりと明るさがある。古びていようが、大事なものがちゃんとある。きっと血筋や誇りよりも大切なものだ。
「珍しくお寝坊ね」
それともホグワーツ式なのかしら。食堂に入ってきたのはフラーだった。エプロンを身につけて、かすかに草の香を漂わせている。
「七時間寝ないと駄目な体質でして」
「嘘おっしゃい」
三時間くらいでしゃきしゃき動いていたくせに。親愛なる姉はぴしゃりと言い、エリュテイアの向かいに腰かける。
「私とビルの式には出てね。愛する『我が君』を探したいでしょうけど」
「手勢は動かしていますから」
いくら余計な人員を割くなと言われようが、聞けない命令というものはある。せめて所在だけでも掴み、動けるようにはしておきたい。本当に最低限を動かしていた。
――主のことだ
転んでもただでは起きないだろうが。グリフィンドールはしぶといのである。殺されることはなかろう、と思っていても。責め方などあれこれとあるものだ。ブラックとリアイスの血筋、そうしてあれの孫という秘められた血統……おいそれと無体を敷かない、と思うほかない。
「ハリーのことはぶっ殺すだろうが、俺のことは手駒にしたいだろう」
だから囮に最適だ、と主は言った。なんてことのないように。それが当然だと言わんばかりに。
「だから出るぞ」
主の宣言に、エリュテイアは屈したのだ。今となっては痛恨の極みだ。
「我が主も、私が出席しないとなれば――己が捕まったせいだと思うでしょうしね」
現状、できることは少ない。ならば式に出たほうがマシだろう。デラクール家の人間とも顔を合わせておきたい。
「なにかあれば、私とビルの新居か……大陸においでなさい」
「新婚のところへ転がり込むほど無粋ではありませんし、デラクール氏はなんと?」
「ビルは快く頷いてくれたわ。傷跡で男っぷりが増したわね。惚れ直したの。父はデラクールの名において庇護する、と。さすが私の父様」
小気味よいほど滑らかな返答であった。美しい薔薇にはなんとやら、である。フラーはその実、刃を秘めているのである。そうでなくば寄ってくるあれこれを退けられなかったろう。巧みな魅了術と鋭い舌鋒、なおかつ誇り高さ。ただの美しいだけの令嬢ではないのだ。
「もしもの時は、遠慮なく」
「頼ってくれてうれしいわ」
「あなたと姉妹の契りを結んでよかった」
心から言えば、愛する『姉』は小さく笑んだ。
「成人したてなのよ」
例のあの人打倒は、大人の仕事です。
杖を振ってジャガイモを切りながら、エリュテイアはため息をこらえた。やれやれ。昼食の支度を手伝ってと呼び出されたらこれか。
「たしかに」
モリーの言を受け止める。ふくよかな赤毛の魔女は満足げに頷いた。
「けれど、それがなんなのです」
若いからといって庇護される時は過ぎたのです。
「ハリーはどうせ狙われる身です。いつまでも貴家に匿ってもらうわけにもいきません。リアイスで引き取ってももちろんかまいませんが――少なくとも、我が主ならば諾と言うでしょうが――引きこもっていても事態は打開できません」
「だからといって、ハリーやあなたたちが……」
視線をはしらせる。モリーは料理上手だ。段取りがよく、つまり手際がいいのだが、肉やら人参やらは、悲惨な有様になっていた。不揃いな切り口はモリーの心情そのものだ。
「……本当はわかっているのでしょう」
小母様。囁けば、モリーは唇を噛んだ。青い眼に涙の膜が張る。
「駄目よ。弟たちのようになるかも……あんなのはもう――」
モリーの肩をやさしく叩き、昼食の材料を綺麗に切り直し、厨房を後にした。
食堂を抜け、庭へ出る。ハリーとロンが庭小人に八つ当たりしていた。もとい、駆除していた。
「泣き落としにかかってきたろ?」
ロンが三匹まとめて庭小人を投げ、手をたたき泥を払った。
「最悪夜逃げしますよ」
「僕ら犯罪者みたいだね」
なんだか納得がいかないぞ、といわんばかりのハリーに肩をすくめた。
「親不孝者ですからね」
せめて結婚式まではいてちょうだい、とモリーに粘られ、ウィーズリー家に滞在しているのだが、このままでは永遠に外へ出られそうもない。あれこれと用事をいいつけられ、庭掃除から室の掃除、そして庭掃除からまた室の掃除……と忙しく働いている。闇雲に主救出に動くこともできないので、気が紛れてよいのだが――限度というものがある。
――過保護と言い切ることもできない
モリーのみならず、世間一般の親ならば似たようなことをするだろう。よりにもよって我が子と、我が子のように思っている子どもたちが『役目』を果たすことはないと。お前たちより優れた者がいるのだからと。
『どこかの誰かがするだろう。俺たちでなければできないわけじゃないだろう』
それがなんだ? 泡沫のように浮かび上がってきた記憶。どこかの森。野営しているのは男が二人に女が二人。それに自分で。
『この時代に、それをしようとしているのが俺たちだ。他の誰でもなく』
それができる力があるのならばなおさらに。
『成さなければならない』
家に戻り、階段を登る。ベランダにはためく洗濯物を回収し、ぽそりと呟いた。
「……そうですね。ゴドリック様」
なんとしても果たさねばならぬことがあると。
貴方は――貴方たちは教えてくれた。
◆
「マッド・アイの亡骸は今もって見つからず」
わかった、とだけ答えた。そうして付け加える。
「訃報は引き続き伏せろ。しかし――」
「マーリン勲章その他の用意はしているそうです」
「それでいい。時機を見て公表する」
「亡骸の探索は……」
「打ち切れ。お前は引き続き、首相の警護を」
頼んだぞキングズリー。
麾下の背を見送って、スクリムジョールは眉間に皺を立てた。不死鳥の騎士団が独自の計画でハリー・ポッターを移送させたのはいい。魔法省に間諜が入り込んでいる今、重要人物の護衛などという危うい橋は渡れなかった。せいぜいが闇祓い数人を非番にするくらい。
――不自由なものだ
わかっていてファッジを蹴り落としたのだ。わかっていたつもりだった。ダンブルドアのローブの裾にすがりついていたような――下手したら本当にやっていたかもしれない――男よりも、スクリムジョールがやったほうがマシだと思った。時代が求めているのは決断力に富み、闇に対抗できる人材であった。幸か不幸かスクリムジョールはできてしまった。完璧ではないが。
「……現場のほうがよかったかもしれんな」
自嘲を刻み、積み上がる書類に眼を通す。お前は闇祓い局を確固としたものにするの。人脈を築き、信頼を勝ち得なさい。将来はきっと大臣を輩出するような、そんな局になさい。そう告げたのは苛烈なる魔女であった。
『ルーファス。お前は内を、アラスター、お前は外を』
両輪のどちらも欠いてはいけない。
厳かに告げた彼女の、燃えるような眼を覚えている。両輪とは聞こえがいいが、スクリムジョールはひたすらに走っていただけだった。好き勝手するアラスターもといマッド・アイなんて異名をつけられた同僚の尻拭いやら。局の方針に口を出して来ようとする阿呆を引きずりおろすだとか。
無論、罪人も狩ったものだが、マッド・アイにはおよばない。スクリムジョールが劣っているわけではない。あれが飛び抜けていたのだ。
走って走って、大臣にまで登りつめたが、得たものはたいしてない。せいぜいが大臣として名を残すこと。仕事は山積し、身動きもままならない。ハリー・ポッターは無事だが、リアイスの青年――ウィスタの消息が失せている。ひそやかに報せてきたのはルキフェルであった。研ぎ澄ませた双眸は、今にも爆ぜんばかりの熱を宿していた。
――もしその場にいたのならば
スクリムジョールが一介の闇祓いであったのなら、しがらみもなにもかも引きちぎって、動けていたのなら……。
成せたこともあったろう。どこかで思っていても、麾下たちの前では決して口にできない。
――亡骸は決して見つからない
騎士団も探しているだろう。闇の陣営も動いているだろう。それでも絶対に見つからない。なぜならば。
澄んだ音がした。音なき音。張り巡らせた守りの一部が、切り裂かれた。
来たか。小さく呟き、足許を軽く踏む。仕掛けられていた方陣が輝き、四方八方に光が散っていった。
立ち上がり、杖を構える。最悪の想定をしていたが、思ったより早かった。足音は複数。肌を刺す魔力がある。歩調からして、ただの荒くれ者ではない。腕利きばかりを揃えてご苦労なことだ。
音もなく、魔法大臣執務室の扉が開く。
「人払いまでしてお出迎えか。大臣」
「私は礼儀を心得ているのでね」
紅茶はどうだね? わざと親しげに訊いてやれば、ヴォルデモートは片頬をゆがめた。
「らしくないぞ。歴戦の闇祓いが……それに、配下は腑抜けらしい」
なんとしても窮地に駆けつけるものだろうに。
「無駄に血を流すこともあるまい」
多勢に無勢である。なおかつ、闇の勢力が――ヴォルデモートがここまで入り込んできた。となれば、スクリムジョールは失敗したのだ。間諜が思ったよりも入り込んでいた。食い込んでいた。
「シックネスか」
「かなり抵抗されたが、もはや我々の傀儡よ」
紅い眼が爛々と輝く。新しい玩具を手に入れた子どもを思わせた。そもそも、マグル生まれの排斥だの純血だのを言っている段階で妄想癖のガキだが。
「で、なんのご用かな。私の退任か。代わりはシックネス……と」
向けられた杖は数本。これが烏合の衆ならば勝ち目はあったが、相手が相手だ。しかし、スクリムジョールは揺らがない。年若い者が――当時二十歳を一つ二つ過ぎただけの若造が、ヴォルデモートに立ち向かって死んだのだ。老いたスクリムジョールが毅然としていなくてどうする。
「病死か事故死、どちらがいい?」
スクリムジョールは肩をすくめた。ただまっすぐに、ヴォルデモートを見やる。数多の死を生み出した男を。そこにまとわりつく影を認め、にぃっと笑った。
「どちらも御免被る」
狂ったか。誰かが呟く。理性的な男だと聞いていたのだが。
――理性的だとも
この上なく。
状況ならばわかっている。麾下たちは来ない。内に残る者、外に脱出する者に分けた。何人かが駆けつけたところで遅いのだ。魔法省は陥落する。シックネスの傀儡政権が誕生する。省全体で抵抗すれば、数で押せるかもしれない。だが、そんなものは夢物語だ。スクリムジョールはバグノールドのような傑物ではなかった。そうしてバグノールドですら、ヴォルデモート打倒は果たせなかった。
「それに、私から情報を引き出そうとしても無駄だ」
どうせハリー・ポッターの居場所をついでに吐かせようという魂胆だろう。ヴォルデモートにとって残念なことに、スクリムジョールも知らないのだ。知らなければ吐きようがなく、知っていたとしても絶対に吐かない。頑固者の若者を売り飛ばすほど落ちぶれてはいない。スクリムジョールは魔法大臣だ。英国魔法界の長だ。ならば、守るものは決まっている。
「服従――」
ヴォルデモート手ずからの呪文を、かろうじて防ぐ。そうして口笛を吹いた。
最期まで腹が立つ男だ。スクリムジョールは戦いの果てに死んだ男を罵倒する。どこまで読んでいたのやら。己の亡骸まで利用した。マッド・アイの血も肉も、もはやこの世にはない。
その光景が見えるようだ。戦果を確かめ、嬉々として亡骸に寄るヴォルデモートと配下。崩壊する亡骸。降りかかる血と肉、そして魔力。マッド・アイを構成するすべて。
「お前に呪いあれ。ヴォルデモート」
不可視の刃が迫る。誰もが――ヴォルデモートですら反応できない、刹那の半分。滑らかにスクリムジョールの肉を絶ち、転、と彼の首が落ちた。
遅れて胴が倒れ――血が溢れ、魔力が乱舞する。
紅の霧が充満し、空間が軋みを上げる。
伝説の闇祓いが仕掛けた呪詛が、階を駆け上った闇祓いによって解き放たれ――。
大臣室に悲鳴が木霊し、やがて止んだ。
夜更けの馬蹄音、黒い炎は不吉の証。
そうして今宵現れた銀色の使者もまた同じ。
「魔法省陥落。大臣死亡。すぐ離脱しろ!」
華やかな祝いの場に飛び込んできた銀の山猫――守護霊は、キングズリー・シャックルボルトの声で告げた。
音楽が止まる。人声も、衣擦れの音も、静寂に書き換えられる。続いて悲鳴が溢れた。
エリュテイアは杖を抜き、一振りで衣を変えた。
「来い」
大天幕が混沌に覆われるまでいくらもなかろう。ハリー、ロン、ハーマイオニーを「呼び寄せ」た。
「待ってくれ、家族が――」
「これくらいでくたばるものですか!」
もがくロンを押さえ込む。ハーマイオニーは青ざめたまま、エリュテイアの腕を掴んだ。ハリーも何事か察したのか、同じようにした。
たん、と地を蹴ろうとしたそのとき、革袋が二つ降ってきた。別々の方向から一つずつ。ちらりと見やれば、双子とリーが「行け」と唇を動かしている。そうしてもう一つ。今宵の主役、ビルとフラーもまた杖を構えエリュテイアを見ていた。
「武運を」
フラーの唇が動く。彼らに頷き、エリュテイアは今度こそ『跳んだ』。
◆
一瞬か数瞬か。刹那にも永遠にも思える滞空ののち、エリュテイアの靴はざらりとした感触を踏む。
――成功した
付き添い姿くらましは、熟達した使い手でなければ事故が起こりやすい。複数人ならばなおさらだ。そもそも、まともな人間ならば三人いっぺんに――術者本人もふくめれば四人だ――転移させようとも思わない。エリュテイアはまともなんてものも、世間一般なんてものも捨てている。出し惜しみしても仕方がない。
「エリュテイア、あなた……なんて無茶を――」
失敗すればどんな「ばらけ」になっていたか! ハーマイオニーの顔色は土気色だ。博学な彼女のこと、姿くらましの事故事例集も読み込んでいたのだろう。
「四の五の言ってられませんでした」
「魔法省が陥落って……そんなバカな――。きっと死喰い人たちがうちに――」
ロンが呻き、ふらふらと手近な椅子に座り込む。拍子に埃が舞い散った。
「そのうちに安否の報が入りましょう」
「キングズリーの報せがなければ――」
どうなっていたか。ハリーが唇を噛み、ぐるりと室を――避難場所を見回す。鮮やかな緑が、見開かれる。
「ここはブラック邸……だよね?」
僕の知っているはずの場所じゃないぞ。困惑がありありと浮かんだ言に、エリュテイアはため息をこらえた。
「獅子が暴れまして。一年ほど前になりますか」
室は嵐が駆け抜けたような有様だった。いや、玄関ホールも食堂も応接間も似たような状態だ。エリュテイアたちがいる居間もそう。壁は巨大な獣の爪痕を思わせる傷がはしり、肖像画は破壊されている。無事なのはフィニアス・ナイジェラスのものだけだ。祖に懇願され、さしもの主も彼とブラックの家系図だけは残した。
――だが
蛇も幻獣も、ほかの装飾も破壊され、長い歴史を誇る邸は廃墟も同然。
「……二階は無事です」
「――ウィスタ、本気になればホグワーツの廊下くらい吹っ飛ばせるよね」
「できるのと、実際にするのとでは別です」
ハリーの震える問いに、明言を避けた。父を失って荒れ狂った主は、一階を破壊しただけで精魂尽き果てたのだ。エリュテイアは主の好きにさせた。物に当たってはいけませんなんていう常識なぞ放り捨てた。ブラックの家督は主のもの。ならばどう使っても構うまいと思った。
――どうなさっているのか
死んでいないのはわかっている。死ねばエリュテイアにはわかる。だからこそ耐えられている。一族の先視、筆頭分家当主。号を《パッサント》、名をクロードがエリュテイアに炎を送ってきたからだ。
『ハリーたちと行動をともになさい。必ず巡り会えるから』
ロウェナ・レイブンクロー伝来の能力を、エリュテイアは信じている。いいや、信じるしかない。みだりに動けば未だ来たらざる『時』を乱しかねない。
「脱出はできたけど、僕たち荷物が……食料はここにあるだろうけど」
ロンが呟き、ポケットに手を入れた。取り出したのは銀のライターだ。
「火消しライターくらいしか持ってきてない」
ダンブルドアの遺品の一つを、ロンはすがるように握っていた。リアイス一族最長老アシュタルテを通じて贈られたのは、今朝のことだ。ハリーにはスニッチ、ハーマイオニーには『吟遊詩人ビードルの物語』。
「僕も似たようなものだ。着替えとかはさすがに」
ハリーが巾着からスニッチを取り出し、いたわるように撫でた。
「問題ありません」
「あら、エリュテイアも同じことを?」
「検知不可能拡大呪文?」
問えば、ハーマイオニーが胸を張った。せっかく結い上げた栗色はほどけ、ドレスも乱れているが、このうえなく堂々としていた。持つべきものは度胸と機知に富んだ才女である。
「着替えも下着も用意してあります」
「待って」
「下着ドロだよハーマイオニー」
「お黙り坊ちゃんたち」
きゃー、とロンが悲鳴を上げ、ハリーは顔をひきつらせ、ハーマイオニーはぶった切った。なんだかんだで三人とも神経が太い。
一階は放置し、二階の室を借りることにした。リアイスに劣るとはいえ、長い歴史を誇る一族の本邸だ。室は有り余っている。
ハーマイオニーが一緒に寝たいと言ったので、二人で寝台に潜り込む。
「……子どもみたいでしょ」
「ただの十七歳なら、泣き叫んでいるでしょうよ」
魔法省の陥落。大臣の死。となれば、なにが待ち受けているかは明々白々。マグルやマグル生まれの迫害だろう。そしてグリフィンドールの才女は、迫害される側である。
「今なら間に合いますよ」
「友達を見捨てて逃げろって?」
できるわけないじゃない。断固とした口調に、小さく笑んだ。ゴドリック様が好む勇気と、ロウェナ様が愛した叡智。どちらも持つ魔女。
「詮無いことを言いました」
「……あなたこそ」
ウィスタを助けにいってもいいのよ。小さく小さく紡がれた言の葉。
助けに行ってほしい、と聞こえた。『分霊箱』は私たちがどうにかするから、と。
「敵陣に切り込むには情報が足りません。それに、私一人が乗り込んだところで――主に届くかどうか」
戦記物の英雄ならば、あらゆる状況をひっくり返すだろう。だが、囚われた者を救い出すには、相応の準備が必要だ。
「……時が来れば」
主は必ず助け出します。