【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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六十話

 ハリーの頬はひどく腫れてしまっていた。治癒の呪文をかけてやる。赤みがすっと引いていった。

「……挑発するものじゃありませんよ」

 言えばそっぽを向かれた。

「だってリーマスが莫迦なことを言うから」

「腰抜けだなんて言ってはだめよ」

 ハーマイオニーが追い打ちをかけ、ハリーは顔をしかめた。

「トンクスのもとに戻ったなら……戻るだろうけど、いいだろう?」

 祈りにも似た言葉だ。エリュテイアはハーマイオニーに目配せした。これ以上言ったところでどうしようもない。

――戻っているならいいが

 そうでないならトンクスにどんな影響があるかわからない。身重なのだ。精神も安定しない。流産でもすれば事だ。たとえ魔法があっても、確実に出産させるなんてことはできないのだから。

 ハリーが挑発していなければ、エリュテイアが説得して帰らせているところだ。ルーピンはいくら腕が立とうが、主の養親だろうが人狼を同行させられない。惨いことであるが。月の後半になれば体調を崩す。脱狼薬がある限り、変身しても人を襲わないとはいえ、旅の道連れには適していない。さらには。

――エリュテイアは、己に確信が持てない

 人狼となったルーピンを、殺さない確信が。どこか奥底に眠っている衝動を、なだめられるかどうか。エリュテイアではなかった頃の己は、主を失っている。ユスティヌとの戦で、人狼をけしかけられて。主は咬まれ、人狼となり、狂い、エリュテイアが始末した。そうしてエリュテイアも狂い、主の子によって首を落とされた……。

 魂に灼きついた泣き顔を振り払う。あのとき主の子はいくつだったろうか。とんだ仕事をさせてしまった。

 厨房へ爪先を向ける。なんとも苦々しい気分だ。紅茶でも飲んで切り替えよう。

 一歩踏み出そうとしたとき、鋭い音とともに、すえた臭いが広がり、汚らしい塊が落下した。

「なんで俺がこんな――どういうこった」

「黙れ黙れ盗人め!」

 塊に見えたのはもつれあうマンダンガスと妖精であった。マンダンガスが立ち上がろうとする。しかし、硬直した。ハリーが手を伸ばし、クリーチャーを引きずり寄せる。

「ご機嫌よう。ダンク」

 口許がほころぶ。ああ、停滞している時に、仕事があるというのはすばらしい。全身金縛りにかかっているというのに、呪縛を解こうとしているならず者を一睨みした。

「お、おう。久しぶりだな従者さんよお……で、俺になんの用だい」

 ぺらぺらとよく回る舌である。眼はせわしなく玄関ホールや二階への階段に向き、逃走の隙を窺っているのは明らかだった。

「マッド・アイのことは――」

「それはいいんだ。今はね」

 ハリーがエリュテイアに負けず劣らず冷たく言う。ロンとハーマイオニーはそれぞれ扉と階段の前に陣取った。わかっているではないか。

「お前はブラック家の品を盗み出し」

「待ってくれよ。ブラック家の黒い遺産はクリーンに使ったぞ。約束は守っ――」

「寄付は確認しました」

 話の腰を折るな、と再度睨む。小汚いろくでなしは黙った。

「お前が売却したなかに、ロケットはありませんでしたか」

「あったなあ……エメラルドがいくつかついてて、古いやつが」

「それを誰に売りました?」

 マンダンガスは視線を宙に向ける。せわしなく双眸が動いた。

「役人への賄賂にした」

 ダイアゴン横丁で商売をしてたら、使用料がどうとか許可がどうとか難癖つけてきてよ。

「面倒だったからくれてやった」

「特徴は?」

 つらつらとマンダンガスが並べ立てる。髪の色、眼の色、白人系か黒人系か、それとも東方の顔立ちか。男か女か。それらをすべて書き留めて、マンダンガスの記憶をいじくった。妖精のことからブラック本邸への連行までなかったことにする。最後の最後に妖精がどこかに『跳ばして』仕舞いだ。

「振り出しに戻ったね」

 ハリーが呟き、頭をかきむしった。エリュテイアは頷く代わりに言った。

「すぐに調べさせます」

――そもそも

 エリュテイアが気づいていればよかった話だ。ノクトだった時に見た覚えがあった。エメラルドはすべてはまっていて、Sの文字を描いていた。ゴドリック様が「恋人の絵でもいれてるのか」とからかっていたことまで思い出してきた。たしか、ロケットの中身は一族の秘薬だとかそうでないとか。今となってはわからない。なんにせよ、ゴーント家に引き継がれ、中に入っていたなにかは売られただろう。ユスティヌに潰され、ゴーントは追いやられ、段々と衰退していった。困窮し必要に駆られてあらゆるものを手放したろう。そうして残ったのは誇りと執着、血族婚のみ。

 人を使い、調べを進めた。もしや収賄をした何者かはとうに魔法省から姿を消しているかもしれない、海外に行っていてもおかしくない……と危惧していたが、届いた炎は懸念を潰した。

 エリュテイアは羊皮紙を燃やした。笑えばいいのか泣けばいいのかもはやわからない。

「……エリュテイア?」

 マンダンガスの尋問から一日後、皆が夕食の席についていた。ハーマイオニーがおずおずと問いかける。

「ロケットの現在の所有者がわかりました」

 ああ、眉間に皺が刻まれる。よりにもよってだ。名前を出すのも厭だ。舌が腐りそうである。

「ドローレス・アンブリッジ」

 あの愚か者です。

 

 

 

 翻るのは、青地に黄金の幻獣があしらわれた旗。敵の色彩、敵の徴。リアイスを蹴散らした者どもの証。

――主は逃がした

 ならばいい。それがナハトの使命なのだから。リアイスを守ることこそ存在意義なのだ。

「相変わらず、リエーフは忠義者だ」

 紅と青の虹彩が、ナハトの顎に指をかける。ぐいと上向かされた。魔女の顔に見知った影を認めた。

――エスター様を殺した、あの魔法使いの

 若い魔女は笑う。拘束したナハトをとっくりと見やって指を鳴らした。黒地に銀の双狼をあしらった装いの魔法使いが、ナハトを戒めている鎖を引いた。

「ブラック……ユスティヌの走狗めが」

「なんとでも言うがいい」

 声に温度はなく、ブラックが無理矢理ナハトを立たせた。抗う術はない。敵陣の奥深く。逃亡できる道理がない。

 ユスティヌの幻獣、ブラックの双狼、マルフォイの竜が翻る。厭でも現実が突きつけられる。

「――連れて行け」

 ◆

 足枷から伸びるのは鎖。その先は壁に繋がっている。時間の感覚はもはやなく、ナハトに打つ手はなかった。そこは牢というよりも室であった。ナハトが拘束されていることと、柩が鎮座していることを除けば。

――俺のために用意したのか

 悪趣味なことだ。殺したいのならさっさとすればよいものを。何度も死んできた身だ。

 堅く閉ざされた扉を睨んでいると、弾むような足音が聞こえてきた。歩幅は狭く、軽い。女のもの――一人だ。

 扉が開かれる。紅と青をきらめかせ魔女がナハトの空間に踏み入ってきた。右手に短剣。左手に大きな皮袋を持って。

「手土産だ」

 短剣が皮袋を引き裂く。ずるりと何かが落ち、鈍い音を立てて転がった。臭気があふれ、紅がしたたる。

「我が君」

 声がかすれる。虚ろな青がナハトを見返す。もはや命はなく、ただの抜け殻だった。

「ああ、その顔……見たことがある」

 魔女が歌うように言って、優雅に床を――こぼれた血を踏みしめる。ナハトの主の血を。邪魔だと言わんばかりに、主の首を蹴る。

 紅と青が、そそけだった顔色のナハトを映し出した。

「確かランパントを殺された時も……我が祖父がエスターに人狼をけしかけた時も、そのようだったな」

 いましも燃え上がらんばかりの憎悪が、ナハトを突き刺す。グリフィンドールの青とスリザリンの紅を見つめ返した。

「なにを――」

 魔女が生まれる前の話だ。知っているはずもない。しかし、魔女は知っているかのように話す。その場にいたのだと言わんばかりに。

「私は視たのだよ。忠義者のリエーフ」

「お前は、過去を――」

 おぼろげな記憶。ゴドリック様の姿。去っていくスリザリン。彼は確か……癒しの力だけでなく――。

「過去視か」

「ご名答」

「お前の祖先は苦しんでいた。いい気味だ。我が祖スリザリン、そうしてペンドラゴンまで放逐したのだから!」

 甲高い笑いが幾重にも木霊する。最後の最後は喉をひきつらせ、なお笑う。

――狂っている

 この魔女は狂っている。しかし、ナハトには逃れる術はない。ああ……せめて主は逃がしたからと安堵していたのに。

「すべてはお前たちが撒いた種。そして、貴様には役に立ってもらうぞリエーフ」

 ナハトに身を寄せていた魔女が踵を返す。向かうのは柩だ。軽く叩けば蓋がずれる。ややあって宙に浮かんだのは亡骸だった。髪は白銀。つい先ほど眠りについたかのように、瑞々しく、頬に赤みが差していた。

「これは我が従兄弟にして夫」

 愛しげに魔女が言う。彼女は軽やかに杖を振った。ほとばしる魔力がナハトを縛り上げる。全身金縛り――自由になる双眸から、涙がこぼれた。

 短剣を片手に、魔女がやってくる。髪を掴まれ、頭を反らされる。喉がさらされた。

――ああ

 わかる。わかってしまう。なにが起こるのか。心臓が暴れる。だがそれだけ。なにもできはしない。

「光栄に思うがよいぞ、リエーフ。お前は贄となり我が不死への扉を開くのだ」

 冷えた刃が滑る感触、鉄錆の香。異なる色彩の双眸が、最期の記憶。

 ◆

 は、と眼を開いた。震える手で喉に触れる。大丈夫だ。大丈夫……切れてはいない。エリュテイアはエリュテイアであってナハトではない。

 呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ数えて寝台に身を起こす。隣で眠るハーマイオニーを起こさないように室を出た。

「……あれは」

 最初の『分霊箱』だろうか。きっとそうに違いない、と思う。断片的な記憶が繋がり、過去の一場面を思い出した。自分は捧げられたのだ。闇の魔術のために。『分霊箱』のためであろうがなかろうが、どのみち殺されていただろうが酷いものだ。せめて死の呪文で即死ならばよかったのに。溢れた己の血で溺れるように、喉を裂かれて悲鳴もあげられず、苦しんで苦しんで死んだのだ。

 拳を握って開いて、呼吸をゆっくりにする。大丈夫だ。エリュテイアは生きている。ナハトは死んだけれど、血を繋いだ。今代までリエーフは続いている。

 居間に降りる。机には羊皮紙が散らばっていた。魔法省の図面、人員の名前、出勤時間。ありとあらゆる情報があった。

 椅子に腰かけ、アンブリッジに関する調書に眼を通す。何食わぬ顔で魔法省に復帰している。投獄されていたのだが、魔法省の乗っ取りに伴って釈放されたようだ。ファッジ政権において冤罪であったどうこう……。つまり無罪ということになっている。乗っ取りから約一ヶ月。アンブリッジは生き生きと辣腕を振るっており、胸許にはロケットが輝いているのだとか。それを『献上』したのはマグル生まれの役人だったそうだ。アンブリッジから逃れるために必死だったのだろう。責める気にはなれない。

――再起不能にしておけばよかった

 投獄したから安心していた。とんだことになってしまった。

「……己の愚に気づいていないのが、あの女らしいが」

 羊皮紙にはアンブリッジに対する反発が、ひそかに強まっているのだと記されている。情報源は省に残っているリアイスや、協力者たちだ。たとえばルード・バグマンだとか、エイモス・ディゴリーだとか。それにセルウィン家の者からも情報を吸い出しているようだ。

 純血名家セルウィン家。アンブリッジが「セルウィンの血筋」だと詐称しているのがお気に召さないらしい。それはそうだろう。ぬけぬけと魔法省に舞い戻ってからはばかりなくセルウィンの血筋を吹聴したものだから逆鱗に触れたのである。あのスクイブめを排除できるなら喜んで、らしい。スリザリン系の名門ゆえに、弾圧を逃れている。それをいいことに密かに動いているようだ。

「あれは名家の誇りを分かっていませんからねえ」

 嘆息し、杖を振る。珈琲を手早くいれて、飲み干した。そろそろ動いてもいいだろう。今日は九月一日。ブラック本邸に張っている連中は、一日を潰すことになるだろう。ハリーたちがホグワーツに行くかもしれないと足りない頭で考えているだろうから。

 四人で代わる代わる偵察に行き、羊皮紙の上だけではない情報も集めた。計画も練った。明日にでも動こうと進言しよう。

「待っていなさいアンブリッジ」

 二度と陽の下を歩けないようにして差し上げましょう。

 

 計画は単純だ。襲撃し、奪い、変装。潜入だ。とはいえ失敗する可能性もあり、確実とはいえなかった。

「……君がかけた保険とやらで、僕はちょっと安心していたんだけど」

 初っ端からこれか。アルバート・ランコーンに化けたハリーが呟く。セルウィン家の魔女に扮したエリュテイアは肩をすくめた。

「仕方ないでしょう」

 ロン扮するレッジ・カターモールは厄介な仕事を押しつけられ、泣く泣く離脱している。カターモール夫人の処遇がかかっているのだ。見捨てるわけにもいかない。

「ハーマイオニーがアンブリッジに近づいているうちに、手早くすませましょう」

 彼女は魔法不正使用取り締まり局の次官、マファルダ・ホップカープに扮していた。今は大法廷に呼ばれている。

 大ホールを抜け――エリュテイアは後で趣味の悪い黄金の像を破壊することに決めた――上級官の区画へ向かう。ハリーはマントを被り、エリュテイアもまた透明になった。廊下をゆく道すがら、指を鳴らして簡単な伝令を飛ばす。いくつもの紙飛行機が飛翔していった。省内の伝令はたいていが紙飛行機である。紛れたところで誰も気にしないだろう。

 アンブリッジの室は廊下の奥にあると突き止めていた。その手前に会議室――大部屋がある。扉は開放されていて、几帳面に机が並んでいた。

 年若い魔法使いと魔女たちが、なにか作業をしていた。杖を振る。淡い色の紙が折られていく。今年の新人たちだろう。つい、と顔ぶれを見回して瞬いた。

「……クイン」

「彼女、魔法省に入ると言っていたような」

 互いに透明になっていても、相手の表情がわかった。すなわち「しまった」である。主の消息が絶え、魔法省が陥落し、おまけにロケットの奪取……と忙しく、エリュテイアは主の良い人への伝達を失念していた。主はマグダラ家のクインとの関係をはっきりとは公言していなかったとはいえ。見る者が見ればわかるわけで――つまりやらかしたのだ。

 元から線が細いレディだというのに、さらにほっそりしているではないか。

――主になんと申し開きをしようか

 彼女は主の最愛である。本人に訊こうものならそっぽを向くだろうが、明らかである。クインに何事かあれば主がどういう風に爆発するかエリュテイアにも読めない。そもそもどこかに押し込められている主を助けねばならないのだが、それはそれである。

 ハリーとエリュテイアは厭な想像を振り払い、会議室を横目に廊下を進む。クインに声をかけて現状を説明したいが余裕がない。それに、彼女はなにも知らないほうがいい。ハッフルパフ系の名門、かつてクラウチ家と並んで中立派の調停者一門に手を出す者はおるまい。

 息も音も殺し、ようやくのことでアンブリッジの室に到着した。鍵はかけてあるがお粗末なものだった。双子とリーからもらった鍵開けナイフで開く。

――監獄に入って

 さらに趣味が悪くなったようだ。壁はきついピンク色。さらには強烈な薔薇の香。猫の皿が一面を飾っている。

「悪夢かよ」

 ぼそりとハリーが呟いた。いつもは穏やかなハリー・ポッターもさすがに口調が崩れていた。無理もない。エリュテイアはこの室を燃やしたくて仕方がない。

 一刻も早く出たくてエリュテイアとハリーは家捜しを開始した。誰か来るかもしれないということより、ともかくもけばけばしい室から出たかった。長くいれば精神を病みそうである。

 ハリーは引き出しを片っ端から開け、エリュテイアは念のために探知の呪文をかけた。

「反応なし」

「こっちもない。常に身につけてるか……」

「そのようですね。撤退しましょう」

「クソ爆弾を投下したら駄目かな」

「落ち着いてください」

 ハリーとエリュテイアは素早く透明になった。長居は無用だ、と一歩踏み出した時誰かがやってくる荒々しい足音がした。

――成人男性ひとり。精神が不安定。痩せ形

 それに、女の足音がひとつ。

 扉が開く。入ってきたのは傀儡ことパイアス・シックネス。あわよくば服従の呪文を解除しようとして諦めた。護衛という名の監視がひとり、ふたりいるようだ。存在が露見することを覚悟で戦ったとして――シックネスを解放したところで、あらたな傀儡が立てられるに違いない。

「上級次官への言伝なら、私が承ります」

 シックネスの後から入ってきたのはクインであった。

「いや、いや……ここにメモを残しておこう。新人には荷が重いだろう」

 シックネスは服従の呪文にかかっているとはいえ、本来ならばよい上司なのだろうと思わせた。それか、うかつに新人を使って行き違いやすれ違い、齟齬を起こしたくなかったか。

 ともかくも傀儡のシックネスはすばやくメモをつくり、踵を返した。肘が本の山に『清浄なる魔法界』という最悪の題だった――に当たる。一冊が滑り落ち、ハリーとエリュテイアが潜んでいる壁際まで滑った。エリュテイアはひやりとする。ほんの一瞬マントがめくれた。

 幸い、何事かで頭がいっぱいのシックネスは気づかなかったようだ。そのまま室を出て行った。沈黙が満ちる。クインは杖を構え、鋭い目つきで壁際を見た。

「……私はなにも見ていない。これは独り言よ。早く出て行きなさい。ここにはなにもないわ」

 静かな声に、腹を括った。透明呪文を解除する。同時にマントが翻った。

「お久しぶりでございます。訳あって変装していまして。私がエリュテイア。こちらがハリーです」

「あなたたち……」

 クインは藤の双眸を細め、二人を注視する。杖を離さないまま。寸毫とも揺らがないのは見事なものだ。

「ウィスタの守護霊は」

「紅の眼のグリフィン」

「……わかったわ。早く身を隠して。誰がくるかわからないから。ハリー、あなた手配されているのよ。なんで潜入なんて」

「捜し物があって」

「それもいいけど私の最愛の探し人はどこへ行ったの。連絡がないのだけど」

 主が身悶えしそうな台詞をさらりと吐き、クインは冷え冷えとした眼で二人を見やった。別に夫婦でもないのに、主とたまに似ているのだ……とエリュテイアは現実逃避したくなった。

「闇の陣営のどこかに監禁されているかと」

「エリュテイア、あなた従者だというのになにをしていたの」

 ぴしゃりと返され、エリュテイアは傷口に塩をすりこまれた。ハリーが肩を叩いてくる。優しい英雄である。

「ウィスタは僕のために戦場に出て」

「莫迦なのあの人!」

 主のレディは烈火のごとく怒った。エリュテイアはなにも言えなかった。

「……死んではないのね」

 一転して、静かな声で問いかけてくる。エリュテイアはうなずいた。

「生きております」

「本当ね?」

 嘘でも吐こうものならエリュテイアの首と胴が分かれそうだ。

「マーリンに誓いましょう」

 クインは長々と息を吐く。扉のほうをちらりと見た。

「用事を済ませて早く脱出なさい。ホールで騒ぎを起こせばいいかしら?」

「よろしいのですか」

 脱出を手伝うと言ったも同じだ。傀儡政権だろうと、クインは安全だ。名門の令嬢であり純血なのだから。危ない橋を渡る必要などない。

「――先輩方もうんざりしているようだし、紙飛行機がやたらと飛んでいるし」

 どうせ派手にやるんでしょう?

 エリュテイアはついにっこりしてしまった。

「お祭り騒ぎとなるでしょう」

 アンブリッジからロケットを奪うだけではもったいない。

 狙うは一石二鳥である。

 

 

 

 石の廊下を走る。神秘部への扉を無視し、一路大法廷へ向かうべく、階段を降りようとして腕を伸ばした。ハリーがぶつかる感触がした。

「エリュテイア?」

「吸魂鬼です」

 ハリーの腕のあたりを引き、廊下――つらなる小部屋のひとつに滑り込んだ。防護の呪文をかけ、ハリーにマントを脱ぐように促す。己も呪文を解いた。

「守護霊は出せないよね」

「後半になれば出してもいいですよ」

「待ってなにをするつもり!?」

「大暴れがしたくありませんか」

「笑顔で言わなくていい」

 ポッター家の人間はたまに暴走する癖があるのだが、ハリーはあまりその血を継いでいないらしい。突っ走る傾向はあるものの可愛いものである。母君の血かな……と思いを馳せていると小突かれた。

「敵方にロケットが目的だと悟られるのは時期尚早です。ならば攪乱すべきで、小汚い女は大法廷にいます」

 ハリーは頷いた。

「……で、暴れるって?」

「マグル生まれが裁かれているはずです。逃がせばよろしい。ついでにあちこちで動きがあるでしょう」

「リアイスのひとたちって結構残ってるんだよね」

「私の手の者も」

 ほんとうに君たちときたら敵に回したくないよ。ぼやくハリーに角灯を手渡した。

「『冥夜の灯火(イグニス・インフェルヌス)』。吸魂鬼除けに身につけておいてください」

 守護霊の呪文は高度なものだ。使える者ばかりでない。そのためにある魔法具であった。開発したのは第二分家。殊に使っているのは第五分家。第五分家の者たちはアズカバン創設に噛み、また吸魂鬼の監視者としての職務もあった。いまとなってはアズカバンは放棄され、第五分家は吸魂鬼狩りに熱心だが。

 ベルトに鎖を通す。角灯をつり下げた。

「仕切り直しです」

 ◆

 大法廷に滑り込む。とたんに冷気が忍び寄り、角灯がそれを打ち消す。

「心を閉じて」

 ハリーにささやく。吸魂鬼は感情を読みとる生き物だ。心を閉じれば気づかれにくくなる。あるいは動物もどきになればよいが――今世のエリュテイアは習得していないし、ハリーも同様だ。あれは手間がかかるので後回しにしていたのだ。

「待ってくれ! 父はアルダートン家の魔法使いだ。私は半純血だ!」

 魔法使いが引きずられる。ずらりと並ぶ扉――地下室もとい罪人を一時押し込める場所へと。

 大法廷を見回す。莫迦となんとかは高いところが好きというが、予想に違わずアンブリッジは階段状の席――もっとも高いところに陣取っていた。隣にはマファルダことハーマイオニーがいる。そうしてふんぞり返っている死喰い人のヤックスリーも。その下段にはちらほらと人影があった。

 ざっと把握し頷いた。遠慮はいらないようだ。

 銀色の猫が優雅に歩く。アンブリッジの顔は薔薇色で、眼は爛々と輝いていた。そして趣味の悪さが増していた。見ているだけで吐き気を催しそうだ。

 すり鉢状になった大階段の底は被告人席である。無骨な椅子と、着座させられている魔女が見える。

「さあカターモール夫人。あなたはどうやって杖を手にしたの? 誰から奪ったのかしら」

 甘い声が降ってくる。裁判とは名ばかりの私刑であった。狂った行いだと笑いきれない己がいる。魔力を増すために、肉を食らい血をすすったマグル生まれの狂気を見たことがあった。純血にさげすまれ続け壊れたのである。どうしようもなかったので処分したな……とエリュテイアではないエリュテイアの記憶が囁きかけた。

 あの時よりはよほどまともな世の中になったのに。内心で嘆きつつ、脚は着実に動く。ハリーとともに最上段へ。素早くハーマイオニーの後ろに回り込む。無言呪文を行使して、ハーマイオニーが書き留めている、形ばかりの裁判記録をいじくった。

『動きますよ』

 書き込むや否や、魔法を使う。普段の生活では使うことの少ない音響魔法――大法廷に響く嘆きの声を、轟くような馬蹄音が埋め尽くした。壁に影が躍る。半人半馬の影。鳴弦が響く。

「女、女。ヒトの女め」

「我らが森に踏み入った!」

 唸りが溢れる。

「あぁあああ!」

 アンブリッジが耳をふさぎ、眼をつぶる。

「ああ、これはいけないわ!」

 勇敢なるマファルダことハーマイオニーは、アンブリッジを案じるそぶりで失神させ、介抱するふりでロケットを奪った。

「なんだ!?」

「誰だ!」

 答えは赤い光線であった。ヤックスリーをハリーが失神させ、エリュテイアは守護霊を出した。銀色の獅子が穢れ者を咬み裂いていく。

 ヤックスリーをやられ、先までマグル生まれの嘆きを笑ってみていた連中が立ち上がる。しかし、次々と倒れた。

「――反吐の出るような茶番だこと」

 冷たく言ったのは魔女である。透明呪文を脱ぎ捨てた――変装しているエリュテイアに片手を振った。

「さっさと行きなさい」

「武運を。ネメシス様」

 名も知らぬ者に変装しているといえど、ネメシスの傲慢な態度はそのままであった。

「よくも我が家をかたり、好きにしたな」

 怒り狂った声が聞こえる。昏倒したアンブリッジが数人の魔法使いと魔女たちに囲まれていた。おそらくセルウィンの者だろう。

「殺さない程度によろしくお願いしますね」

 つまり始末さえしなければどうなってもいいのだ。セルウィンの者たちは頷いた。アンブリッジが撒いた種である。自業自得。因果応報だ。

 地下室が次々と解放される。もちろんカターモール夫人もだ。混乱の法廷を抜け出し、廊下を駆ける。エリュテイアは伝令を飛ばした。飛ばすまでもなく、始まっていた。どこもかしこも混乱状態である。名もなき掃除人やら事務員が暴れている。省に残ったリアイスたちだ。

 変装が解けつつある。マントを脱ぎ捨てたハリーを窺い見れば、だんだんと顔かたちが戻りつつあった。魔法を追加する。エリュテイアは赤毛に、ハリーは金髪になった。

 ホールに戻れば、混沌はなく静寂そのものがあった。累々と転がる影を縛り上げ、その魔女はにやりとした。隣にはせっせと杖を振り、死喰い人やその手下を拘束しているクインがいた。

「やあ。リアイスの御しがたさときたら」

 私の在任中も大変だった。しみじみと言う魔女は、変装を脱ぎ捨てた。

「バグノールド閣下」

 背後のざわめきをよそに、エリュテイアは魔法騎士の礼をとる。元魔法大臣までお出ましになるとは思わなかった。

「かしこまるな。ちょっと散歩に来ただけさ」

 女傑はさらりと言い、またも死喰い人を蹴りつけた。

――隠居を決め込むと思っていたが

 多少の関わりはあった。ファッジに引導を渡したのは目の前の女傑。その手紙を仲介したのはリアイス当主こと――エリュテイアの主であった。しかし、傀儡政権誕生と伴う混乱に対しては静観するだろうと予想していたのだ。バグノールドは第二次紫薇戦争時に省をまとめた辣腕家。勝算なしには動かない。

「マッド・アイとスクリムジョールが身体を張ったとなれば、出てこないわけにもいかなくてね」

 エリュテイアの心を読んだのか、バグノールドが肩をすくめながら言う。ひょいと杖を振った。

 暖炉に炎が躍る。

「さあ行きたまえ諸君。ネメシスも――リアイスも、マグル生まれたちも」

「大臣お早く!」

 ファッジが小走りにやってくる。息を切らし、外套はところどころ破れていた。

「私はもう大臣ではないぞファッジ」

「食堂と厨房の妖精たちがなぜか暴れていて、手に負えません。ほかにもあっちこっちで待遇改善を求めて省員が……シックネスはてんてこまいで」

「うん。仕方ないな」

「ええ。仕方ありません。シックネスもお気の毒で」

 二人で頷き合い、再び呼びかけた。

「さっさと行け」

 マグル生まれたちが暖炉に飛び込んでいく。付き添うのは「不真面目な」省員たちやリアイス。そしてリエーフたち。

「私は宿に戻る」

 気づかれる前にな。ネメシスが言い、ややあってクインを見つめた。

「おいでなさいマグダラの令嬢。君もしばらく離れたほうがいい」

「頼めますか」

「ナイアードあたりに伝達を飛ばしておけ」

 簡潔な応えとともに、ネメシスも暖炉に飛び込んだ。

 次々へと人を送り出し、残りが少なくなった頃ロンが這々の体でやってきた。自力で変身を継続させたのか、ところどころがロンでところどころがカターモール氏であった。

「僕は一生分の修羅場を経験したよ」

 だからあなたの妻は無事だって僕言ったよね! 後ろで縮こまっているカターモール氏に叫び、彼の背を押してやる。引き裂かれた夫妻は再会を果たした。

「ほら早く行った」

 二人を蹴るようにして暖炉に押し込む。

「私たちも行きましょう」

 暖炉に飛び込もうとして、忘れ物を思い出した。杖を振る。

 不可視の刃が醜悪な黄金像を真一文字に斬った。

 ずるり、と巨大な上半身がずれていく。そのまま床に落下して、轟音を轟かせた。

 エリュテイアは己の仕事に満足し、今度こそ仲間たちとともに暖炉に飛び込んだ。

 

 

 

 お前なんて。

 罵倒には慣れていた。たいして長くもない人生で幾度聞いたろうか。お前なんて。消えてしまえ。お前のせいで。

 だから、投げつけられる言葉に動揺するほどのかわいげはない。

「我が君はお前のせいでお前しか見ていないなんたること私がいるというのにアリアドネめリアイスめ私こそが忠たる者だというのに忌々しい!」

 切れ目のない連なり。燃えるような灰色。殴られ蹴られ、壁に頭を打ち付けられ、爪を剥がされ磔刑の呪文を受け、背を切られ、卑しい子と腕に刻まれ。

 執拗に執拗に傷つけられ、意識を遮断すれば無理矢理に起こされ、治療され、また傷つけられ。

「屈しろ」

 声が聞こえる。屈しろ。膝を突け。俺様を見ろアリアドネ。俺様を祖父と呼べなにせ家族なのだから。

「これは躾だ。お前は更正せねばならぬ。正しきを知らねばならぬ。お前を救ってやる」

 お前を愛しているのだからな。

 変わり果てた顔で笑み、杖を振る。旋律が奏でられる。昼も夜もなく責めたかと思えば間隔が空き、安堵していれば不意にやってきて痛めつける。

 苦いものを含まされ、たまらずに吐き出した。厭だと首を振る。それは厭だ。やめてくれ。絶対に――。

「お飲みになって」

 坊ちゃん、と柔らかく言われ眼を開けた。ふっと意識がはっきりする。同時に痛みという針が全身に突き刺さった。内からも外からもあぶられているよう。灼熱になったかのよう。

 ゆっくりゆっくりさすられる。皺の深い顔だ。

――なんで

 老婆がここにいるのだろう。ぼんやりしているうちに、吸い飲みをあてがわれる。覚えのある苦さではない。薬だと知れた。素直に飲み込む。そっと寝台に横たえられる。

「失礼いたしますよ」

 服を剥がれ、小さな手が丁寧に処置をしていく。慣れた手つきだった。

「……ナル、シッサは」

 たどたどしく口にした。まともに話したのはいつぶりだろう。記憶は混濁していて、しかも痛みと罵倒、そして悲鳴に彩られている。今日と昨日の境が曖昧だ。いつ寝たのかもわからない。ただ、ウィスタの世話はナルシッサとマルフォイが主にしていたはず。こんな老婆は知らない……。

「お休みになっています」

 私はナルシッサお嬢様の乳母です。小さな老婆は胸を張り、丁寧にウィスタを治療した。

――あんたのお嬢様は失敗したんだ

 あんたもきっと道連れだ。選んだ陣営が悪かった。

「言っても仕方ありませんよ坊ちゃま。私は私の仕事をするだけです」

 思っていただけだったのだが、口に出していたらしい。乳母は淡々と返して、ウィスタに服を着せていく。もはや羞恥心はなくなっていた。いいや、鈍麻しているのだろう……と他人事のように思う。

 手にまんべんなく軟膏を塗られ、包帯を巻かれる。左右どちらもだ。右手の爪をクソ野郎が。左手は狂った女がやったのだ。磔刑の呪文よりもマシとはいえ、ウィスタは悲鳴を上げて上げて、喉がいかれた。今ではぼそぼそと話すことしかできない。

「はいおしまい」

 よくがんばりましたねと頭を撫でられる。首筋の脂汗をぬぐわれた。

――飴と鞭か

 そうに違いない。こんな状況で世話をされれば情がわく。ウィスタは年寄りに無体を働けない。働こうと思えばできるけれど、なるべくしたくない……。ナルシッサがそこまで計算して乳母をよこしたのかどうなのか、いまいち判然としない。そもそも今のウィスタはまともにものを考えられない。

 目許が腫れていますねと、熱いタオルを載せられる。ああ助かった。ご丁寧に防腐処理をほどこされ、飾られたスクリムジョールの首を見なくて済む……。

「お望みのものはありますか。坊ちゃま」

「ここから……出して、くれ」

 願いを口にする。出ても無駄だろうとわかっている。追いつかれて連れ戻される。意味がない。

――出られないだろう

 ウィスタが拷問の末に死ぬのが先か。業を煮やしたヴォルデモートに始末されるのが先か。ウィスタを苦しめて苦しめて、這いつくばらせて、鳴かせて楽しんでいるクソ野郎。ウィスタを見ているときもあれば、違う誰かを重ねている時もある。

 俺が死ぬのが先だろうか。ぼんやり思う。治療されては拷問され、治療されては拷問され。ウィスタは超人でもなんでもないのだ。壊れる時は壊れるし、死ぬときは死ぬ。死に方くらい選びたいものだが。

――わかっている

 助けは来ない。来ても間に合うかどうか。ヴォルデモートの機嫌次第では、すぐにでも殺されるだろう。それかベラトリックスが加減を間違えてウィスタを殺すか。なんにせよ事態は最悪だ。

――リアイスは見切りをつけて

 次の当主を選んでいるかもしれない。だって助けに来るなとウィスタは言った。ならばウィスタはもういないのだ。割り切っていたはずなのに。なぜこれほどに心がむしばまれていくのか。ウィスタひとりのために人員を割くわけにはいかないのだ。これが最善だ。

「今はおやすみなさい」

 囁きとともに、湯に浸かったような心地よさが広がった。それはウィスタの奥深くにまで染みていき、ゆるゆると眠りに誘っていく。

「……たい」

 唇を動かす。脳裏にちらつく影。焦がれた輝き。ウィスタの黒とは正反対の。

 スクリムジョールが死んだのだから、魔法省はもう駄目で……でも、彼女は大丈夫だろう。お嬢様で、純血で。ハッフルパフの系統だ。狩られる対象ではない。関係も極力秘密にした……。

――ああ

 振り払っても振り払っても。思いが募る。未練が降り積もる。

 彼女にもう一度会いたいと願ってしまう。

 もはや叶わぬのだと分かっていてもなお。

 

 求めてやまない。

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