【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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六十二話

 ヴォルデモートは忙しくしているのか、ここのところ現れない。ウィスタにとっては幸いで、ゆっくりとだが傷が癒えていった。闇の陣営が嫌って手をふれない、不死鳥の首飾りのおかげかもしれない。

 鎖を引きずる音が、ウィスタの日常にはついて回った。当初より鎖は長くなっている。痩せて杖もないのだ。たいした抵抗もできないと思われているらしい。

「大きさは合いますか」

 膝を突いた老婆が、ウィスタに靴を履かせる。柔らかく、それでいて強靱なドラゴン革の靴だ。いまのいままで裸足だったのだが、いったいぜんたいどうしたことだろう。

「哀れみか」

 ばあさん、と呼びかければ老婆はにっこりした。

「必要でしょうから」

「虜囚だぞ?」

「お飲みになって」

「おい」

 人の話を聞かないばあさんだ。ウィスタが風呂に入りたいとごねたら湯船を用意してくれるし、なんだかんだで待遇が向上したのは老婆のおかげだけれど。「あんまり酷い有様だと、お嬢様が失神するので」とのことだ。お嬢様命な乳母である。だったらもう一人のお嬢様もどうにかしてほしかった。人の爪を剥がして喜ぶような女にどうしてなった。その他諸々最悪である。狂った女が惚れているクソみたいな男と組み合わされば、最悪なんて言葉では言い表せない。やつら、人を壊すことにかけては一級品だ。ウィスタがぎりぎりで耐えられているのは、スネイプが「壊してしまえば直せませんから」ともの申したからだ。ほかの死喰い人も同調した。思うに、暇つぶしの玩具に壊れられては、やつらも困るのだろう。つまりウィスタは体のよい贄である。

「毒は入っていませんよ」と言われ、仕方なしに飲んだ。生まれてきたことを後悔するほどまずかった。

「たくさん動くことになりますからね」

「なんの――」

 ぱちり、と老婆が指を鳴らす。あっけなく鎖が砕けた。待て……ウィスタも少しずつ、気づかれないように気づかれないように『冬の息吹』の力を使ってもろくしていたのに。それを一息に?

「あんた、誰だ」

「遅くなり申し訳ありません。坊ちゃん」

 一瞬後に現れたのは、黒髪の青年。双眸はゴールデンオレンジ。彼は緑の杖をウィスタに投げてよこす。

「ある程度、回復して頂かないといけなかったので」

 ここを出たいとのご要望、叶える時が来たようです。

 

 引きずられるようにして、牢を出た。イルシオンは侍女に化けている。面が割れるのが厭なのだろう。といっても、いつものあの姿が、本当の姿なのかも知らないのだけど。

 どこからか爆発音が聞こえる。通路の向こうから、ハリーとロンがやってきた。なぜかは知らないが傷だらけだ。ハリーは片腕に妖精を抱えていた。見たところ息がない。詳しいことを聞いている暇もなかった。ドビーのように見えるが、そんなことはない。そんなはずはない……。

「ウィスタ!」

「リエーフがマグルの女の子を連れてきます」

 合流して脱出なさい。イルシオンはさらりと言い、素早く通路を曲がった。

 ウィスタは湿った地下――さらに下る階段に足をかける。

 貴族の館のつくりは、似たようなものだ。秘密の通路があるとしたら奥深く、底の底。

 よろめきながら階段を下りる。身体ががたがたである。体力も落ちている。だけれども腕も足も動く。動く限りは戦える。

 ふ、と段を踏み外す。すかさず腕が伸びてきて、ウィスタを支えた。

「あまり心配をかけないでください」

「遅かったな」

「ベラトリックスに手こずりまして」

 イルシオンに押しつけました。

 仄かな杖灯りだけでは、従者の様子はわからない。それに振り向いて確認もできない。

「わかっておりますね?」

「あとでたっぷり聞くよ」

 じわじわと、ウィスタの衣が湿っていく。従者から香る鉄錆は、敵のものだけではないだろう。なるたけ早く出なければ。

 階段を下り終わる。小部屋があるだけだった。

「仕掛けは……」

「なさそう、だわ」

 ハリーが言い、ハーマイオニーが返す。ウィスタは眼をつぶった。さてどうしよう。戻るべきか――しかしイルシオンが制圧を終えているかわからない。

 逡巡のなか、どこからか歌声が響いた。

 

 すべては揺れ 青ざめ 沈み 裂けて

 歌は濠気と眠りの高波のなかに没してしまった

 突風が朽葉を砕き

 かつての痛手がまたも血を噴く

 

 夢と現の狭間で聞いた歌声だった。瞬く。ふ、と影が――過去が立ち上がる。ドレスがひらりと躍った。

 細い影。華奢な背。黒髪は絹糸を思わせて。

 過去は突き当たり――壁に手を突く。ウィスタは導かれるようにして、彼女に倣った。

『過ぎ去りしものを私は視る。邸の主すら忘れたものを……』

 かつての忠誠心の名残ね。ふ、と影は笑う。細い細い音が漏れ出る。蛇語であった。少女は唱え、ウィスタは従った。

『我グリフィンドールとスリザリンの混ざり子。理解されぬ幻獣。路を開け!』

 幻獣の紋が浮かび上がる。壁が消え、現れた通路に飛び込んだ。つ、と背後を向けば、少女は笑んでいた。

『よいものを見つけたわ』

 ああそうだとも、と過去に語りかけた。

――貴女が見つけてくれなければ、窮地に陥っていただろう

 ユスティヌ、と囁いた。

 

 

 

 眼を開ければ、飾り天井が飛び込んできた。

――ああ

 そうそう都合よくことが進むはずもなかった。脱出はできなかったし、ウィスタはマルフォイ邸に囚われているのだ。いつ眠りに落ちたのかもわからない。

 寝台に手を突いて、半身を起こした。熱があるのだか寒いのだかわからない。身体が重い。眼の端を白いものがかすめる。誰かが治療してくれたのか。手には包帯が巻かれている。そして手首の枷がなくなっていた。

「うん?」

 クソ野郎がはずせと命じたのだったか。ベラトリックスなんぞ、口枷までしようとしていたが。多少の方針の違いはあるが、二人ともいかれているし、ウィスタと誰かを混同しては痛めつけるし、拷問がお好みだしで最悪だった。

 二人そろってやって来るんじゃないだろうな、と扉に眼を向け――首を傾げた。そこは整えられた牢ではなく、広々とした一室だった。落ち着いた灯りに、柱には装飾がほどこされ、壁紙には幻獣や蛇が躍っている。マルフォイの竜がない。本棚、卓、箪笥……どれも牢にはなかったものだ。

 諸々すっ飛ばしてくたばったのか。『門』の向こうに関しては諸説あるが、邸宅らしき場所の一室というのはなかったはずだ。渓谷だとか花畑だとか森林だとか、滝だとか河だとかが唱えられている。

 願望が見せる夢にしては、必要なものがない。ぐるりと頭をめぐらせて、視界がぶれた。穏和しくうずくまる。せめて最期に会いたいのだけど。焦がれる藤の双眸を、白金の輝きを探そうにもままならない……。最期の最期まで本当に駄目なやつだ。巧くできたことがいくつあったろう。思えば失敗ばかりなのではないか。そもそも《ランパント》なんて荷が重いのだ。

「……ただの孤児だったのになあ……」

 寝台に転がった。もしかしたらウィスタはまだ孤児院にいるのではないか。ダンブルドアも来なかったしリーマスの迎えもなかったのではないか。汚らしい十いくつの子どものままで、どこにも行けずに空ばかり見上げていて。

 じわり、と胸許が熱くなる。潤んだ眼に、黄金の珠が飛び込んできた。封印されているのは紅と黄金の羽根。神鳥の名残。悪しきものにとっては忌まわしく、善きものにとっては輝かしきもの。これがここにあるということは、夢ではないのか。手首の腕輪も熱を発している。父の形見。悪夢の日々も、遺されたものがあったから耐えてきた……。

 かすかに空気が揺らいだ――ような気がした。落ち着いた声が降ってくる。

「お気がつかれたようでなにより」

「なんだお前か」

 眼だけ動かして落胆した。灯火の色をした双眸は冷たいままだ。第四分家のイルシオン。リアイスのなかでは出来損ないの烙印を押されている昼行灯で通っている。

「私で悪かったですね」

「……脱出できたんだな?」

「現実ですよ」

 慣れた手つきで身を起こされ、杯を口許にあてがわれる。屈辱的だが仕方ない。今のウィスタは襤褸と大差ない。せき込めば背を叩かれ、寝ろとばかりに転がされる。

「状況を」

 喉がひりつく。少なくとも、もう拷問されることはないのだろうか。今にもあれやあれが現れそうで落ち着かない。高い靴音が響いている。笑い声も。鎖の音も。片方の鼓膜は破れていて――聞こえないはずなのだが。治療してもらったのだったか、どうだったか……。

 両手で耳をふさごうとして、どうにかやめる。安全地帯だ。そうなのだから、構えなくていい。代わりに胸許を握りしめる。ぬくもりがじわじわと染みていった。

「ポッターたちは無事です。この邸におります。マルフォイのところに囚われていた者たちは、一族が保護して匿っています」

 別口、と呟こうとして声が出なかった。黙って頷く。

「闇の陣営は追ってこられないでしょう」

 イルシオンはにっこりする。寒気がした。なにかやらかしたな、と悟った。眼だけで問えば、彼はあっさり答えた。

「ベラトリックスの片腕を落としましたので」

「……よくできたな」

 理解が追いついて、けれど気の利いたことは言えなかった。あの副官だ。実力は群を抜いている。そいつの腕を落とした?

「リエーフが毒矢で肩をぶち抜きまして」

 いやあ、半分ちぎれかけていたので、私は仕上げを。

――返礼をしたのか

 なにって、ウィスタの肩を貫いたのはベラトリックスである。従者ならやりかねない。そもそもベラトリックスと対峙してよく無事に……。

「エリュテイアは」

「マグル生まれの……グレンジャーでしたか。彼女が看病を。ベラトリックスのやつめがあれの腹をぶちぬきましたので」

 室は血まみれでしたよ。

「さしものあれも私にベラトリックスを押しつけて撤退したというわけです……まあ、マルフォイ夫妻とベラトリックスを三人相手どれば十分すぎるでしょうよ」

「本当に大丈夫なんだろうな?」

 血を流していると察してはいたが、大事ではないか。

「あれはしぶといから問題ありません。治療もしました。無理矢理眠らせています」

 断言され、引き下がるしかなかった。ウィスタがわめこうが、事態は変わらないのだ。

「そうそう、ルーファス・スクリムジョールの首は回収して、しかるべきところに送っておきましたよ。気になさっていたでしょう坊ちゃん」

「よくできた乳母だよ」

 イルシオンが優秀なのは知っていたが、マルフォイ邸に潜り込んでいるとは思ってもみなかった。ウィスタは人手を割くなと通達していた。だから、助けも期待していなかった……。

「私が勝手に動いていただけですよ」

 いざとなれば、連れて逃げてと言われてましたしね。囁きに問いを返そうとして、眼をそらされる。詳しいことを話すつもりはないらしい。

「今は休まれるといい。ここなら守りは堅い」

 眠っている暇はない、と反駁しようとしても、イルシオンは鼻を鳴らすだけだった。腹の立つ男である。臍を噛む。そうして気がついた。まだ訊いていないことがあったのだ。

「……で、ここはどこなんだ。ブラックの別邸か?」

「ユスティヌの邸ですよ」

 リアイスの宿敵、そうして滅んだ幻獣の森。いまとなっては打ち捨てられていたはずの場所です。

 ◆

 脱出の経緯やら、おおまかな状況は掴んだものの、ウィスタは臥せったままだった。潜り込んでいたイルシオンが事を起こす前、ウィスタに飲ませた薬は無理矢理身体を動かすが、後で反動がある類のものだったらしい。くわえて、多少は癒えたとはいえ身体は傷ついていて、動けるはずもない。よってエリュテイアやハリーたちの様子を見に行くこともできない。眠って起きてを繰り返し、どうにかこうにか着替えができるようになり、よろよろと歩けるようになり、しかし入浴の介助は必要で――嫌々ながらイルシオンの手を借りて……と何日か過ぎた。

 夏に捕らえられ、外界から切り離されているうちに季節は冬になっていた。

 早く動かなければと思うのに、心身ともに疲弊しているのは確かだった。焦っても仕方ない。じっくりと取り組まなければと言い聞かせ言い聞かせ、療養に専念する。移動するにしても体調を整えてからだと告げられていた。

 やることもなく、手元に戻ってきた紅の杖と緑の杖をなでさすっていると、不意に音が聞こえた。卓の上に眼をやる。四角いなにか――本と、箱がある。

 寝台から降りようとしてよろめく。あきらめて腰を下ろせば、本と箱がひとりでにやってきた。見えない手に運ばれているかのように宙を滑る。ウィスタの傍らに着地した。

 革表紙の古い本だ。触れたとたんに指先が熱くなる。

――呪いの品か?

 それにしても邪な気……魔力を感じない。どうしたものかと躊躇しているうちに、本が輝きを帯びる。表紙に文字が現れた。題は『死の書』。なにもできないウィスタをよそに、本が開いた。最初の頁に文字が浮かぶ。

 

 我らの愚かなる罪をここに記す

 すべてが終わった時、この世から消え去ることをユピテル・ペンドラゴン・ユスティヌは願う。

 

 古い古い時代の、誰かの祈りだった。これはウィスタが触れてよいものではない。しかし、眼が離せなかった。凍り付いたように動けない。滅んだ幻獣の遺物は、またも頁を開く。そうして現れたのは、覚えのある筆跡だった。

 

 どうか助けとなりますように

 

「……は、」

 息が漏れる。現実に思考が追いつかない。なぜこの書に筆跡があるのだ。ありえない。

「母さんの……」

 記されているのは、先代《ランパント》、ウィスタの母親の字であった。

 

 

『私が読み解いたことを記します』

 震える指で、母の字を撫でた。混乱しつつ続きを読む。

『これはユスティヌの秘文。私は姉のウラニアから継承しました。そうして次は貴方が引き継ぐことになるでしょう』

 ウィスタ。

 母の声が聞こえる気がする。亡いひとの名残を撫でる。彼女はたしかに存在していて、こうして遺してくれたのだ。必要となるであろう鍵を。そんな日が来ないことを祈っていたろう。けれど、世界に絶対なんてものはないから……。

『この書は継承者――所有者の前に姿を現すでしょう。古い魔法の産物。ユスティヌの歴史そのもの。闇と悔恨の証。計り知れない叡智と意志を持っている』

 選ばれた者にしか読めず、解読も至難だ、と母は綴っていた。

『それでも成さねばならない。できうる限り読み解いていきましょう』

 ユスティヌの興り、過去視と蛇語の能力。森に潜み……血と呪いに彩られ、雌伏して生きていた。ゴーントを追いつめ、ついに立ち上がる。仇敵を討たんと。その名をリアイス。彼らを不当に放逐した憎き敵にして鏡写しの一族。

 第一次紫薇戦争。流された数多の血。荒れ果てた国土。疲弊する魔法界。

『ユピテルは母親を討った。鍛えられた剣を手に取り、『分霊箱』を破壊して。そうして本体――母も滅ぼした』

 『分霊箱』を壊し、そのうえで本体を始末しなければならない。備えもなく挑めば、死ぬであろう。最初の『分霊箱』の贄たるリエーフの、その娘は命を落とした……。

『『分霊箱』――分霊は術者か術者の血縁の血を錬金術で吸収させた武器で破壊ができる。ただし、相手は闇の魔術そのもの。対峙する者は心を強く持たねばならない』

 そこで母の字はとぎれている。点々とインクが飛び散るのみ。

――読み解けなかったのか、書き足す時間がなかったのか

 たしかなのは、ここまで解読し、そうして死んだということだけだ。

「……ナイアードを呼ぶか?」

 一族の錬金術師といえばナイアードだ。剣でも弓でもなんでも錬金術でどうにかしてくれるだろう。ひとまず吸収特性とやらを付与させればいいのか。付与させて、あとでウィスタの血を吸わせれば――『分霊箱』は破壊できる。しかし、だ。ウィスタは眉間の皺をもみほぐした。記述は『分霊』と『本体』と言及している。もう一段なにか隠れていそうだが。単に『分霊箱』を壊して、術者を殺せば済む話ではないのか……。

 困ったな、と呟いたとき、どこからか風が吹いてきた。冷えた風だ。書から顔を上げる。両の眼が熱を帯びた。

 影が動く。華奢な少女だ。

 白皙に、紅藤の双眸。淡い色の唇が歌を紡ぐ。

 

 悲しい目的のために嵐が野を呼び起こした

 昼の暗さのさなかから死の鳥の叫びが洩れた

 

 彼女はどこでもないどこかを見つめ、さながら病者のようであった。

 ウラニア・ユスティヌ。母の姉。呪いの血を受けた二人のうちのひとり。幻獣の一族の、最後の末裔。

 ウィスタは呼吸を整えて立ち上がる。指を鳴らせば杖が――魔法の杖ではない、歩行用の杖が飛んできた。過去の影を追うように歩を進める。ゆっくり、ゆっくり。過去はウィスタを待っていた。亡いひとの後をついていく。

 

 まわりの丘々はほとんど

 灰色の時間の飛翔を示さぬ

 一本の樹が低く頭を下げて

 崖ぎわの草をつかもうとしている

 

 暗い廊下を進み、彼女は階段を降りていく。下って下って、死者の国への入り口を思わせる、塗り込めた闇の中に踏み込む。ぽつりぽつりと主を失ったことを知らぬ邸が、灯りをともしていった。

 過去に導かれ、現実は遠ざかる。ひたすらに伯母の背を追った。時が止まったままの娘を。

 

 荒蕪はすでに

 暗い谷に逆流してくる

 苦悩と暗黒のひびきが

 最後の絶叫のようにほとばしる

 

 長い長い階段の底で、伯母が立ち止まった。

「開け」

 銀の蛇の血族は、ともに詠唱する。石床が失せ、口を開く。怪物の顎に飛び込むような心地で、伯母に続いた。下った先は突き当たりで、黒い扉が鎮座している。すんなりした手が扉を押す。ウィスタも彼女に倣った。現れたのは室である。ただの室ではあるまい。過去と現実が入り乱れる。ぼうやりと白い柩が現れては消える。

 伯母が戸棚に歩み寄る。ウィスタもそちらに踏み出して、瞬いた。上階に置いてきたはずの小箱があった。過去の影は、小箱に手を伸ばす。ウィスタも箱を手に取った。すべきことはわかっていた。

「開け」

 再び唱える。かちり、と音ではない音が響いた。蓋がするりと開く。座していたのは円形の鏡。銀の縁には蛇が彫り込まれている……。

 過去が終わる。ウィスタは座り込んだ。

――何年さかのぼったのか

 伯母の姿と、もっと古いものと……ひどく消耗している。戻れる気がしない。

 後で考えよう。ウィスタは鏡を見つめる。美しいそれ。ただし鏡面には闇が渦巻いている。ユスティヌの宝――。

「『追憶の眼』」

 今代で使えるのはただひとり。ウィスタだ。過去視の異能を持ち、母を通じて『ユスティヌ』を引き継いだ者。ヴォルデモートにすら資格はない。使い方は『死の書』に書いてあった。

 ウィスタは口で手の包帯を解き、流れる血をそのままに、鏡へと落とした。鏡が急速に冷えていく。静かに望みを口にした。

「魂を裂いた愚者に、滅びを与える方法を」

 闇が吹き祓われ、光が躍る。鏡が――過去が迫る。

 影が浮かぶ。いくつもいくつも。

 瞬き、眼を細める。並ぶ彫像。凛とした面差し。ある者は剣を、ある者は杖を手に取り……。ウィスタは彫像たちに覚えがあった。ゴドリックの谷の、奥底で幾度みたことか。

――リアイスの聖域

 黄金の方陣が輝いている。彫像に複雑な陰影を描いていた。彼らが見つめているのは一人の魔女。

――母だ

 母が、方陣の中に立っていた。剣を横たえて――『冬の息吹』だ。母が継承していたとは、聞いたことがない。

「糸は紡がれ」

 意図は繋がる。囁いて、母は杖を向けた。一族の宝が黄金の炎に包まれる。炎は黄金から鮮やかな紅に変わり、やがて目もくらむような白へと変じた。

「汝は新たな力を与えられる。記憶する力……その力で以て、邪悪を滅ぼせ」

 母の手から真紅が滴る。白い光のなかに吸い込まれ、炎は再び黄金へと回帰し、収斂していく。冬の息吹は何事もなかったかのように横たわるのみ。

「あれの直系である私の血を捧げた。あとは……あれの血を吸わせれば滅ぼせる」

 剣が姿をとかし、母の腕に銀の腕輪となって収まった。過去が遠ざかる。時間を超え、距離を越え、現世へ立ち戻った。

 ウィスタは息を吐き出した。今の今まで呼吸を止めていたことすらわからなかった。己の左手を――傷ついた手の、中指を見やる。

「……そういうことか」

 分霊を壊すには血縁か術者本人の血が。そうして本体を滅ぼすには本人の血が必要だ。冬の息吹は『分霊箱』を壊したことがある……悪を滅ぼす魔法剣だからだと思っていた。けれど、それだけではなかった。すでに仕掛けはされていた。吸収されていたのは血縁者の血……母の血。だから分霊を壊せたのだ。

――墓場であいつに斬りつけた

 忌まわしい片眼を裂いたのは単なる返礼のつもりだった。それ以上の意味があったのだ。母が仕掛けを施した剣は、術者本人の血を吸った。

 

 冬の息吹は、ヴォルデモートに終わりを与える剣となっていたのだ。

 

 

 

「……どうして貴方様そうも奔放なのですか。私の心臓が保ちません」

「血を吐きながら言うなよ」

 ウィスタは従者の口に丸薬を突っ込んだ。オレガノ――ハナハッカのエキスを煮詰めたものだ。

「んで寝ろよお前」

「もう動けます」

「馬鹿野郎が」

 寝台に半身を起こしながら、ウィスタは従者を罵った。頑固者の従者――エリュテイアはハンカチで口許の血を拭う。だが、休もうとしない。椅子に腰かけ――いいやもたれかかっている時点で相当辛いはずなのだが。常は立ち居振る舞いに隙がない従者のこと、主であるウィスタの前でだらけた姿をさらすはずがないのだ。

「腹を貫かれた癖して」

「……鬱陶しい女です」

 でも腕を落としましたから。ほめろと言わんばかりだ。ウィスタは己がとんでもないもんを飼っている気になってきた。ウィスタには忠実であるが、裏を返せばウィスタにしか御せないのだ。

「あー、よくやった。お前はすごい」

 ひとまず誉めておく。最終的にベラトリックスの片腕を落としたのはイルシオンであるが、それは言うまい。エリュテイアがここまで疲弊しているのはウィスタのせいなのだから。

「ふらふら出歩いたのは悪かった。どうしても彼女を追わないといけなくて」

「倒れた貴方を見つけた私の気持ちになってください」

「……すまなかったよ」

 重ねて謝った。ユスティヌ邸の奥深くでウィスタは昏倒したのだ。気がつけば寝台の上で、傍らには顔色の悪いエリュテイアがいて、ついでに激怒していたわけだ。

「で、お前は寝ろ」

 杖を振る。銀色の影が飛び出して、ほどなくしてハーマイオニーがやってきた。頼むと言うまでもなく、ハーマイオニーがエリュテイアを引きずっていく。

「ウィスタ様!」

「命令だ」

 ぴしゃりと言えば、エリュテイアはうなだれた。入れ替わるようにして今度はハリーとロンがやってきた。

「エリュテイア、捨てられた子犬みたいだったよ」

「あとで誉めてあげなよ」

「……餓鬼じゃないんだから」

「いーや、彼女がいて助かったんだから僕ら」

 ロンが断言する。ハリーも頷いた。久々に会ってまともに話すのだけど、再会を喜ぶ機会を逃した。そもそも、ウィスタに喜びを爆発させるだけの余裕がない。まったくない。

「で、俺がぶっ倒れてる間にロケットを壊したって?」

 ごらんの通りだよ。ハリーがハンカチを差し出してきた。載っているのは金属の欠片だ。

「そもそも、俺が監禁されていた間のあれこれを聞かせてくれよ」

 断片的どころか、脱出時の状況くらいしか知らないのだ。情報の整理をつける間もなかった。

「魔法省が陥落したのは?」

「そうなんだろうな、とは」

 ハリーが緑の眼を中空に向ける。

「かなり端折ると、君の叔父さんのレギュラスが本物の『分霊箱』をヴォ……あの人から盗んで」

「なんだって?」

 まさかの叔父の名に、声が上擦る。行方不明のレギュラス・ブラック。死喰い人となったが、それは闇の陣営に潜り込むためで。おそらく死んでいるのだろうとは思っていたが……。

「毒薬で衰弱して……あとはわかるだろう?」

「そういうことか」

 つかの間、叔父に哀悼を捧げる。それからはハリーとロンが交互に話を進めた。破壊できなかったロケット。そうして再び盗まれ、たどり着いた先はアンブリッジのところで。

「クインは無事だったよ」

 ああ、と声がかすれる。ウィスタの心も知らず、魔法省でのマグル生まれ解放騒動に話がおよび、『分霊箱』の破壊法の解明とロンの離脱に進み……。

「おい末っ子」

「いや僕は末息子なだけだ」

 非難の眼を向ければ、ロンは耳を赤くした。

「悪かったと思って戻ろうとしたら、合流できなかったんだから仕方ないだろう!」

 ロンはロンで大冒険をしたそうだが、つまるところならず者に捕まってマルフォイ邸に連行された。そしたら――。

「お前ら強運だよな」

 俺と違って、と皮肉を言いかけてやめる。ほぼ同じ頃に捕まって連行され、そこでばったり再会とは。なんらかの加護があるんじゃないかと疑いたくなる。

「ほんとにねえ。僕たち、君の所在を掴んで突入作戦を練ろうとしたら捕まってさ……」

 あの人の名前を言ったら駄目なんだ。感知されるみたい、とハリーは告げる。

「無駄に小賢しいな」

 頭のネジが飛んでいるなら飛んでいるで阿呆になってくれればよいものを。

「あのハゲでいいだろうよ」

 呪詛のせいで、あいつのご面相は崩れているよと付け加える。あの怒りようと言動からして、スクリムジョールとマッド・アイが仕掛けたのだろう。激高したあれの八つ当たりがウィスタに及ぶなんて、さすがの二人も計算してなかったろうが。

 脳裏に影がちらついて、奥歯を噛みしめた。ここは安全だ……もう屈服させられない。屈辱も与えられない。とてもではないが、ハリーたちに詳しいことは話せない。

「……で、脱出して森をぶらぶらしていたら」

 グリフィンドールの剣を見つけたと。ハリーの片手――握られている剣を見やる。遙か古の祖先の剣。グリフィンドールの象徴。そうして今は『分霊箱』――分霊を破壊する得物だ。

「守護霊が出てきて、追っていたら」

「……湖に沈んでいたんだ」

「誰だおいグリフィンドールの剣を沈めたクソは」

 金銭なんぞで価値がはかれない代物なのだ。どこかの誰かの悪意を感じる。そもそも、ダンブルドアがさっさとウィスタかリアイスに預けておいてくれればよかったのだ。ロケット破壊に使うつもりで、校長室に置いていたのだろうが――。

――時間差をつけて、魔法で転移させたか?

 座標を指定して、ハリーの近くに転移するように仕掛けていたとか。かなりの博打であるが……ダンブルドアもすべてを読めていたわけではないだろう。ともかく剣をすり替えて、万が一のときのために本物は隠し、しかるべき時に使われるようにはしていた……と思いたい。だとすれば、ダンブルドアをクソミソに言うわけにはいかない。肝心な時にいないクソ爺だとは思うが。まだまだ訊きたいことがあったのに、それもできやしない。

「ロケットを破壊できたならいい」

 結局、それだけしか口にしなかった。

「君が持っていてよ」

 それは君の祖先のものだ。ハリーに勧められては頷くしかない。

「俺には冬の息吹があるからいいんだが……」

 指を鳴らす。銀色の剣は、たちまちのうちに姿をとかし、腕輪となってウィスタに寄り添った。真のグリフィンドール生のための剣として、ゴドリックが遺したもの。今のウィスタにふさわしいものなのだろうか。蛇の血を混ぜられてしまった紛いものだというのに。

「念には念を入れて、これにも本人様の血を入れたいとこだが……」

 さすがに無理か、と断念する。冬の息吹が本体破壊の武器として在るだけでも僥倖だ。あまり望みすぎるものではない。

 ◆

 森をそぞろ歩く。守りが敷かれた古い古い緑の領域。焼印をつけていなければ、迷ってしまうほどだ。

「かわいそうなことをしてしまったな」

 膝を突く。墓標の前に花をそなえた。刻まれているのは『自由な屋敷しもべ妖精 ドビー ここに眠る』。せっぱ詰まったハリーが呼んで、友達の妖精はそれに応えた。彼のお陰でディーンやルーナ、オリバンダーや小鬼は脱出できたのだという。だが、不幸なことにベラトリックスの一撃が妖精を貫いた……。ハリーをかばってのことだったという。

「俺はお前の死を美化なんてしないぞ。お前は本当は死ななくてよかったんだから」

 でも、ありがとう。墓標を撫でる。そうせずにはいられなかった。

 長く長く息を吐いて立ち上がったとき、炎が燃え上がった。紙片を掴み取る。一瞥し、踵を返した。あまりに急な動きに、肩の鴉が抗議の声をあげる。それすらも気にとめずウィスタは走った。けが人にできる精一杯でとにかく走った。

 樹々をすり抜ける。腐葉土を踏み、枝に頬を引っかかれる。手をどこかにぶつけても構っていられない。森の端にたどり着く。差し込む陽の下に、求めていた影があった。

「――」

 言葉が出ない。影が振り向く。双眸がウィスタを捉えた。見開かれたそれ。一歩、二歩、とよろめくように距離を詰めた。手を伸ばす。彼女の腕を掴んで引き寄せた。

「会いたかった」

 クイン

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