【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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六十三話

 これが夢だというのなら、醒めないでほしかった。今このときばかりは、魔法界の命運も、流される血と涙もどうだっていい。腕のなかのぬくもりを、きつく抱きしめる。

「……無茶ばかり」

「うん」

 柔らかな、けれど震える声。それすらもウィスタが秘めていた感情に及ばないだろう。

「ごめん」

 夢に違いない。夢でも現実でも、望むものは変わらない。これが最期にみる夢だというのなら、悪くはない……。心なしか音も遠い。

「ウィスタ……ウィスタ? あなた、ねえ」

 軽く背を叩かれる。けれどウィスタは動かない。いや――。

「待ってここで失神しないであなた重いのよけっこう! ウィスタ!」

 悲鳴が響く。ウィスタはもう動きたくなかった。世界が揺れている。じっくりと顔を見たいのに、肩口に頭を預けたまま、微動だにできない。

 ぐい、と後ろから腕をひっぱられ、ひきずられる。とたんに寒気がした。

――嗚呼

 まだあの室にいたのだ。いるのだ。腕をひっぱられ、いいようにされて、壁に押しつけられて。それで……。後ろから――いや、上から……どうだったか。覆い被さるような影。宙に浮かぶのは紅の時もあれば灰色の時もあって。

 振られる杖、高笑い。全身が燃える。粘るような声。耳にかかる吐息――。

『家族なのだから』

 だからこれは当然の――なあ我が後継、我が孫よ?

『アリアドネ』

 身をよじる。逃げなければ。ああでも、鎖が――。

『お前のせいだシリウス貴様が裏切るからふざけるななぜこちらを選ばなかった!』

 腕を振り払う。振り払おうとする。ここは厭だ。なにをされるかなんてわかりきって……。

「――」

 汗が噴き出す。震えが止まらない。影がある。いくつもいくつも。ああ、今夜もやってきた……。

 責め苦は永遠に終わらない。ここはずっと夜のまま。明けるはずのない無明。

 仕方ない、と誰かが言った。

 

「……気がついたか」

 覚えのある声がした。ウィスタは誰かの背にすがっている。いや、縛られているのか。馬上の人となっていた。

 ナイアードだ、と頭ではわかっているのに離れたくてたまらない。触れていたくない。たとえ衣越しでも。伝わる熱が厭だった。クインなら大丈夫だったのに。

 腰を引く。背をそらせる。ユスティヌの邸では遠ざかっていたのに、悪夢は手を伸ばしてきた。ウィスタを頭から食らおうとしている。

 下ろしてくれ、と言おうとしてままならない。歯の根が合わない。おかしい。ここはあの室ではないのに。脱出できたのに。ここは……どこかの道なのに。左右は切り立った崖で、ウィスタの知らない場所で。天馬に乗って……だから。

「ウィスタ」

 誰かが振り向く。空色の眼。ナイアード。彼のはずなのに。影が重なる。空が紅に染まっていく。

『ウィスタ』

 我が孫。我が証。お前のことを愛しているぞと。

 息が詰まる。酷い痛みに眼を瞑った。

「……また眠ってもらおう」

 憂いの深い声が、安らぎの歌を紡いだ。

 ◆

 覚醒したのは、どこかの室の、寝台の上だった。

 指先に艶やかな感触がある。ぼうっと視線を投げれば、黒真珠の眼とかち合った。

「……夢か?」

 ウィスタが触れていたのは、尾羽根である。紅と黄金色で、優美に流れて……。それはいるはずのない影であり、飛び去ったはずの過去であった。

「フォークス」

 呟けば、神の鳥、あるいは霊鳥は瞬いた。くちばしからあふれ出るのは祝福であり慰めであり、世界を言祝ぐ歌であった。不死鳥――ダンブルドアの友達……。

「俺は、呼んでないんだぞ。ダンブルドアはもう向こうに行ったんだぞ」

 わけもなく身のうちからなにかが溢れる。

「お前が歌ってくれるだけの、上等なもんじゃないんだぞ……」

 どこもかしこも酷く壊されて、汚泥に沈められた。孤高不恭の神鳥に言祝がれる資格などもはやない。闇夜の記憶を忘れたくとも、散り散りになった夜色の、欠片たちが痛みと屈辱を思い出させる。

――まだ

 母ではなくてよかったと思うしかないのだろうか。同じような目にあわなくてよかったのかもしれない。

 膝を抱える。孤児院の隅で縮こまる子のように、身を小さく小さくした。鞭を持つ院長に見つからないように。ウィスタをおそれ、時に石を投げてくる兄さん姉さんに見つからないように。

 外に出るべきではなかったのかもしれない。ずっと孤児院にいればよかった。あの村にいればよかった。そうしたら野たれ死ぬかなにかして、ただ死ぬだけでよかったのだ。

 髪がひっぱられる。不死鳥はウィスタの黒髪を優しくつくろって、頬に頭をすりよせてきた。

 ゆっくりとぬくもりが染みていく。

 翼がウィスタの肩を押した。されるがままに敷布に倒れる。とろとろと瞼が落ちていく。

 夜はだんだんと遠ざかり、忌みごとは福音によって遮られた。

「……ありがとう」

 かろうじてつぶやき、ウィスタは眠りに滑り落ち――再び眼を開ければ、なぜかクインが寝台にいて、しかもウィスタの両腕は彼女を抱きしめ、止まり木には幻でもなんでもなく不死鳥がいて、呆然と口を開けた。

「――な」

 理解が追いつかない。

 慎重にクインから距離をとり、彼女に服の乱れがないか確認し、ついでに自分も確認し、どうも何事もなかったようだと確信する。確信して途方に暮れているうちに、扉が開く。

「……清く正しいつきあいだとお兄さんは信じているんだが」

「俺もそう思いたい」

 ナイアード、と名を呼べば、第二分家の錬金術師は小さく笑んだ。

「正気に戻ったようでなによりだ」

 それだけで、なにも追求してこない。覚悟していた説教もなかった。ウィスタもあえて言わないし訊かなかった。

「ユスティヌの邸から……?」

 どこに、と問わずともナイアードはわかっている。扉口から動かずに――ウィスタと距離をとったまま、答えた。

「ここは黄昏の渓谷(クレプスキュル・ヴァレ)

 レイブンクローの故郷だ。

 

 『黄昏の渓谷』。レイブンクローが居を構えていた地であり、いまではその血筋を色濃く引き継ぐリアイス筆頭分家――パッサントの管轄である。表の歴史においては、かつての大戦――第一次紫薇戦争の、調停の舞台となったと記される。

――古いのも問題だ

 白亜の館、鷲が彫られた柱にもたれかかる。魔法のにおいというべきものが染みついていて、ウィスタは通り過ぎる影、いくつもの囁きに耳を傾ける。両の眼は常にほのかな熱を帯びているような有様だ。

「……狂っていないと誰が言える?」

 焦らずに休め、とナイアードに厳命され、ウィスタは館にとどまっている。ハリーたちは一足先にレイブンクローの館から『通路』を使ってゴドリックの谷に向かった。パッサントの連中がよくしてくれているはずだ。ついでにクインも送り出した。

『意地っぱり』

 ひっぱたかれるかと思えば、抱きしめられた。もはや生殺しだった。ウィスタは手を出さない自信がまったくない。なにせ寝台に無意識に引きずり込んでいたらしいし。ただし、その先に進むにはウィスタは疲れ果てていた。やはり、あんな反吐が出るような……鬼畜にも劣る……野郎の血筋を――。

 本当に反吐が出そうになって、片手で口を覆う。背筋が粟立った。はあ、と熱い吐息がかかったように思う。おそるおそる背後に眼をやる。柱と壁があるだけ……。震える手を握り込む。エリュテイアに爪を切られたので、食い込む心配はない。

「……お眠りになられては、と申し上げましたよね」

「鈍っちまう」

 いつの間にか、エリュテイアが腕を組んで立っていた。腹をぶち抜かれたくせして、もう動けるらしい。彼女が指を鳴らせば、ウィスタは上着を羽織っていた。

「『分霊箱』を見つけないといけないのに」

「天の運時の運地の運がそろえば、しかるべく動き出します」

 あなたはせっかちでいけない。エリュテイアは舌打ちせんばかりだ。

「俺は早くあいつを殺さないといけない」

 吐き捨てる。昔に祖母と同調したときのような憤怒が身を焦がした。灼熱の念。そうでなくては、祖母は――アリアドネは進めなかったのだ。影を振り払うために。己の存在を肯定するために。あんな外道には負けぬと。

 その娘――母は少し違ったろうが。父や一族を殺され、あれを心底憎んでいたはずだ。加えて、彼女は己に流れる呪いの血を憎んでいたろう。たしかなのは、祖母も母もリアイスの魔法騎士の志は確かに持っていたけれど、戦いの動機にはきわめて個人的な理由もあったのだ。世間は知る由もないけれど。

 なんにせよ、祖母も母もウィスタも、あれの存在を消したかったのだ。

「始末しないと」

 同情するものか。救いも与えるものか。ウィスタからあらゆるものを奪っておいて、のうのうと生きている。

『お前に安寧はないぞ』

『子を成せば、繋げてしまうぞ』

 ざまをみろアリアドネ。グリフィンドール。栄光の一族よ。俺様が少し手を出しただけで、お前は壊れた。

『なあウィスタ。魔法騎士よ……お前はなにもできぬ。俺様の手の内よ』

 せせら笑う声。速くなる呼吸を必死に抑える。あれはいない。ここはレイブンクローの館。あいつはいない……。

 きつく胸許を――不死鳥の首飾りを握りしめる。ぬくもりがウィスタから声を遠ざけた。

――ダンブルドアなら

 憎むなと言うだろうか。あの人は善や愛を信じたひとだった。いいや、信じたいと思っていた……というのが正しいだろうか。ただのおめでたい魔法使いではなかったろう。今となってはもう訊けない。ウィスタはダンブルドアのようにはなれない。ウィスタは父母の灼熱を継いでいる。善を為さんとし、けれど奥底には怒りを抱えている。

 双眸が熱をはらむ。ふ、と影が輪郭を濃くして立ち上がった。

「追いなさい」

 連れ戻しなさい!

 高い声が玄関ホールに木霊する。口笛の音。羽ばたきが卵形の天井に吸い込まれる。見上げれば、鳥影が舞っていた。鷹だ。一羽、二羽、三羽……す、と大扉から出て行った。

「愚かな。なんて……莫迦な……」

 黒髪の女だった。眼は鮮やかな紫色。腕にはおくるみを抱いている。外套は深い青色。星をちりばめたようにきらめき、挿されているのは鷲である。

「どうして」

 盗んだの。私はあなたが健やかに育ってくれれば、生きていてくれればそれでよいのに。

 ひたひたと押し寄せる波に、あふれるなにかに呑まれかける。愚かな子。なにも赤子を棄てていくことはないのに。この子は親なし子になってしまう。

「ロウェナ様」

 深い声にうつむけていた顔を上げる。青白い顔の男だ。腕のほどは確かだ。さきほど放った遣いと、私の『眼』で居場所を突き止めてみせる。そうして男ならば、素早く動くだろう……。一度あの子とは話し合わないと……。ほしいのならあれはくれてやる。もはや私には必要ない。本当にほしい叡智はもたらされなかった。単純で、けれど……とても難しい問い。いったいどうしたらよかったのかと。どうすれば彼は出て行かなかったのかと……今でも夢にみる。私たちが四人仲良く、互いにおいぼれて、けれど生き生きとしていて。かなわない夢だ。ゴドリックは段々とおかしくなっている。何事もなければよいが。どうにも厭な予感がする。私の眼よ、未来にかかる暗雲が杞憂だと言っておくれ。

「彼女は必ず連れ戻します」

「頼みましたよ」

 現在に意識を戻す。そうだ、今はあの子のことだ。壊れてしまった絆ではなくて。取り返しがつく『今』を大事にしなければ。

「戻ってきたらその時は――」

 魔法使いは真剣そのものの眼をしている。並々ならぬ気迫を感じた。ほかの男と結ばれたというのに、まだあの子に情があるとはおそれいる。彼の教え子なのだから、さもあらん……彼も執着が深かった。情が濃いとも言おうか。だからこそ探索を任せられるというものだ。

「子持ちの未亡人でよければ、許可しましょう」

 魔法使いの青白い顔に朱が差した。彼は恭しく礼をとった。

「では行って参ります」

「期待していますよ」

 靴音とともに、外套が翻る。大扉から飛ぶように出て行った。

「不憫な子」

 腕の中の孫をあやす。小さくてあたたかく。あの子にとっての宝物だったはずなのに。だというのに、あんなもののために棄てた。夫を亡くした苦しみで狂ってしまったのだろうか。

「お前を親なし子にはさせませんよ」

 マアト。

 

 はっと我に返る。涙が次から次へと溢れ出した。身のうちに海があるように、ひたすらにこぼれていく。

「我が君」

 やりきれない。私の手からなにもかもがすり抜けていく。とどめることはできなかった……。

 過去と現在が混ざり合う。ずるずると床にくずおれ、ひたすらに翻弄された。頭が痛むほど泣いて泣いて、そうしてようやく影が去っていく。

「なにを視ました」

 奇妙に木霊する声に、ウィスタは返した。

「ロウェナ・レイブンクロー……」

 希代の先視。叡智のレイブンクロー。千年もの昔を視た反動が、倦怠と熱となってウィスタをむしばむ。震える足で立ち上がろうとして果たせない。そうっと従者に腕を掴まれ、支えられる。胃がひっくり返りそうだ。眼が溶けそうに熱かった。過去視のせいか、彼女の念のせいか。

「彼女、ひどく怒って悲しんで……」

――いったい

 なにを盗まれたのだろうか。

 

 不死鳥の歌が、ウィスタを癒していった。少なくとも動けるようにはなった。血を吐くこともなくなった。ベラトリックスにぶち抜かれ、肩からちぎれかけていた腕も傷跡は残ったが元の通りだ。応急処置が早かったお陰もあるが、不具合なく動くのはフォークスのお陰だろう。

 萎えた身体をどうにかすべく、エリュテイアと模擬戦を繰り返し、なんとかかんとか復調した。

「……夢中になれることがあったほうがよかろうな」

 黄昏の渓谷からゴドリックの谷――パッサント城へ移動した。出迎えてくれたのはクロードで、着心地のいい服を用意して待っていた。薬湯に浸かり――呼び寄せられた第七分家の癒者に診察され、ようやっと曾祖父と再会できた。もっとも、机を挟んでの対面だ。ナイアードから様子を聞いているのだろう。慎重に距離をとってくれている。

「――よく生き延びた。早く助けてやれなんですまなかった」

「いいんですよ」

 曾祖父の声が濡れている。表情は寸も動いていないが、確かに湿っている。ため息を一つ。

「ハーマイオニーたちはどうですか。傷ついたと思いますが……」

 マルフォイ邸から脱出し、無事は確認しているし、エリュテイアやウィスタほどの傷は受けていないのも知っている。けれど、ウィスタは危惧していたのだ。あいつらはどんなに汚い手でも使う。拷問にも色々ある。ハーマイオニーとエリュテイアは別室に捕らえられ、交互に拷問を受けたとかなんとか……。爪剥がしやらではなく磔刑の呪文を受けたらしいけれど、本当にそれだけなのか。

「お前は、なんだ……その……大丈夫だったのはわかってるが」

 どうしても歯切れが悪くなる。ユスティヌ邸で面と向かって訊くわけにもいかず、ぶっ倒れたり移送されたりで忙しかった。ハリーとロンは無意識にか意識的かえげつない想像なんてしていないようだが、ウィスタは違う。最悪を想定する。

「私の場合はベラトリックスの独壇場でしてね。申し上げたとおり、我が君の危惧は杞憂でした。ハーマイオニーは……ナルシッサがどうしようもないクズどもを追い払ったようです」

 なんだかんだであれは令嬢ですから、耐えられなかったのでしょう。

「――ならいい」

 拷問も「穢れた血」と腕に刻まれたことも洒落にならない。わかってはいるが安堵する。ハーマイオニーは女で――普段はたいして意識しないのだけど――敵に捕まれば惨たらしいことになる確率が高いのだ。その懸念がなくなったのなら、最悪よりは少しマシだ。

「しかるべく治療を受けさせているから、安心しなさい」

 曾祖父の青ざめた顔から眼をそらした。よりにもよって娘を壊された父親の前で、相当に酷いことを言った。

「ウィスタ」

 はい、と返す。小さな小さな声になった。どうしてか萎縮してしまう。背の高い影がなぜだか恐ろしいと思ってしまう……。特に黒髪は駄目だ。くずれた顔と紅の眼がこびりついて離れない。同時に、黒髪と秀麗な顔立ちも重なる。曾祖父は老いて、髪は灰色なのだ。だから問題ない――はず。

「吐き出したくなったら吐き出しなさい。私はすべて受け入れる。生きていてくれるだけでいいのだ」

 ほかにはなにも望まぬよ。

 喉が熱いものでふさがった。うつむいて唇を噛む。罵倒されたほうがマシだ。同時に、労りが染みていく。

「俺には贅沢すぎる。勝手をして捕まっただけなのに。あなたの曾孫としてふさわしくは――」

「いいのだ。こうして大きくなってくれた。顔をみせてくれた。誰がなんと言おうと、お前は立派な子だ」

 返事ができない。歯を食いしばって熱を飲み込んだ。エリュテイアが気を利かせて出て行く。扉が開いて閉まった。

「時に」

 沈黙を破ったのは曾祖父だった。心なしか目許が赤い。ウィスタは気づかないふりをして先を促した。

「どうしました?」

「クロードが、宝の山を視たそうだ。そこにお前たちがいたとか」

「邪竜の巣にでも行くんですか俺たち?」

「黄金を好む竜もいるが、あれはマグルの妄想だ」

 曾祖父と曾孫はしばしの間見つめ合う。同時に呟いた。

「グリンゴッツ……?」

 ◆

「……正面からぶち破ろうとしたら、何人死ぬかわからねえよ」

 まだ休めと言われ、仕方なしに寝台に腰かけたウィスタは、めいめいに席についている悪友たちに告げた。

「私があの人なら、腹心の金庫に預けるわよ」

「あれがひっきりなしに金庫、カップ、杖……って考えてるみたいで」

「――小鬼と交渉したら?」

 怪我がすっかり癒え、やたらとウィスタを心配していた三人は、口々に言った。ちなみにハリーと距離を詰めても、緊張しないことはわかった。フォークスの癒しのお陰だろう。そのフォークスといえば、好き勝手に現れては消えている。今晩眠る時にでも、またぞろ出てくるのだろうか。最近は不死鳥の歌が子守歌なのだ。精神的な傷は時間をかけてどうにかするしかないだろう。

「金にものを言わせて、死喰い人どもの金庫目録なんて出せないか」

 エリュテイアに水を向ける。彼女は壁にもたれかかったまま、灰緑の一瞥をウィスタに投げた。

「小鬼は魔法族を信用していませんし……金庫番としての矜持があります。ガリオンだけでは無理です。ですが」

 つ、と今度はハリーに眼を向けた。

「貴方には恩がある。そこを衝けば陥ちるやも」

 己たちより小鬼と囚われ人を優先させましたからね。印象に残っているはず。

 ハリーは顔をしかめた。

「そういうのにつけ込むのは――」

「頼んでみるだけ頼んでみなさい。目録は無理でも、ちょっと手引きをするだけだとか」

――それはもはや盗人の片棒を担ぐのでは

 目録の流出とどちらが罪深いのだろうか。ウィスタはしばし悩んだが、エリュテイアの言に付け加えた。

「錬金術師を小鬼の領域に派遣するとかなんとか、リアイス当主が一筆書くだろうさ」

「それめちゃくちゃほしがるやつだよ。ビルが言ってた。小鬼は財宝と技術に眼がないって」

「……昔、グリフィンドールの剣を強奪しようとして、返り討ちにされてたくらいです」

「あん? ゴドリック・グリフィンドールが? 何人よ」

 エリュテイアの思わぬ発言に、眼を瞬かせる。小鬼とごたごたしたことがあったなんて聞いていないが。

「当時の小鬼の王の精鋭十人ほどでしたか……殺さない程度に加減して、追い払ったようで」

 俺のご先祖強すぎないか。

「魔法は使――」

「剣だけで」

 強すぎる。

 魔法騎士の名は酔狂でもなんでもないと再確認した。偉大な先祖を持つとウィスタは苦労するのだけど。

「あのねハリー、だめ押しにこう言えばいいのよ」

 ハーマイオニーが茶器を置く。茶色の眼は爛々と輝いていた。

「あなたたちを虐げたやつらに復讐する機会だぞってね」

 きっと乗ってくるわ。ハーマイオニーが腕をさする。そこに刻まれた文字を思っているのだろう。

――フォークスに

 涙を提供してくれないか訊いてみようか。もちろん戦いの証として残したいなら、ハーマイオニーの好きにすればいいが。服の上から腕を引っかこうとして、できないことに気づいた。仕事のできる従者によって、爪は綺麗に切られているのだ……。

「――卑しい子ねえ」

 誰にも聞こえないように呟く。あいつら一字一字交代でウィスタに刻みやがった。なんでもかんでも共同作業しやがって。ただじゃおかねえ。二人そろってあの世行きにしてやる。といっても、やつらがどうしているのか不明だ――。

「いっっ」

「ハリー?」

 己の思考に没頭していた。意識を引き戻し、ハリーに呼びかける。彼は額を押さえてうめいた。

「あいつ……殺したんだ……誰なんだろう」

 疑問の答えをその場の誰も持ち合わせていなかった。顔を見合わせた時、宙に炎が燃え上がった。

『ヌルメンガードに帝王侵入』

 グリンデルバルドを殺害す。

 

「……今更やつを始末する必要はない」

 アシュタルテは茶器を置いた。淡い群青の双眸をハリーに向ける。グリンデルバルド死亡の報を受け、ウィスタは曾祖父の許へ駆け込んだ。そうしたら急遽茶会となったのだ。

「グリンデルバルドはもはや過去だ。無論……野放しにすれば性質が悪い。我々も――ドイツ魔法省も監視はしていたが」

「首級を晒す真似もしていないようですし」

「……君たちの会話は怖いんだよ」

 ロンがぼそぼそ言った。リアイスたちは一般人の言を綺麗に無視した。

「ポッター、なにか思い出せないか」

 示威行為ではあるまい。だとすれば、あれの目的は別にある。問いかけにハリーは眼を細める。しきりと傷跡を撫でさすった。

「何かを探しているようで……グリンデルバルドがそれを持っていると――グレゴロビッチは持っていなかった……」

 赦せない、とハリーは呟く。ほのかな紅が緑を浸食し、ウィスタは呼吸を遅くした。間違えるな。ハリーはあいつではない。ここはリアイスの領域なのだ。

 エリュテイアが席を立つ。ぐるりと回り込み――卓は円卓なのだ――ハリーの傍らに膝を折った。

「――思い出して」

 あなたはなにを思っていたのです? 闇の帝王よ。

 一瞬、空気が揺らいだ。眼に見えぬ力が声に乗って行使される。軽く耳を押さえ、ウィスタは二人を見守る。暗示の一種だろう。ウィスタの従者はよくできた魔女なのだ。どこで習ったのだか。

「杖を」

 杖が必要なのだ。ひび割れた声が呟く。壁に向かって話しかけているような、抑揚のないそれ。

「……つくらせようとはしなかったのですか」

「おいぼれはしくじった」

 借りたものもろくな働きをせぬ。

「だから奪うことにした……グレゴロビッチは持っていなかった……グリンデルバルドめが盗んだと……」

 声が高くなる。そうして途切れ、ハリーが瞬いた。瞬いて、手のひらを見下ろす。握ったり開いたりして深く息を吐いた。

「――ニワトコの杖を欲しがっていたようです。でもグリンデルバルドはなにも吐かなかった。あいつをあざ笑って――お前は勝てぬよ、と」

 そうして怒ったあいつに殺されたんだ。

「……そういうことか」

 アシュタルテは嘆息する。一同を見回した。

「先日――ウィスタが監禁されている間のことだが――バチルダ・バクショットが殺された。拉致し拷問。後に始末したわけだが……彼女はグリンデルバルドの血縁だった。情報がほしかったのだろう」

「『ニワトコの杖』の? それをグリンデルバルドが持っていたと。でもそれはお伽噺ですよね」

 ダンブルドアからもらった本に書いてありました。

「左様。『三人兄弟の物語』だ」

「――そんな与太話を追いかけていると?」

 こらえきれずに口を挟んだ。

「実在するのだ」

 ペベレル家の三兄弟が持っていたとされる宝。ただのお伽噺にあらず。吟遊詩人が元にして歌った事実があるのだ。

「少なくともペベレル家は在ったのだ。絶えてはいるが。物語では三つの宝は『死』から下賜されたとあるが……誰かがつくったものだろう」

 皺の刻まれた手が、杖を振る。中空に金色の線が描かれた。

「ニワトコの杖」

 続いて、円が現れた。

「蘇りの石」

 最後に二つの象徴を囲むようにして、三角形が宙に浮いた。

「透明マント」

 これらを併せて『死の秘宝』と呼ぶ者もいる。

「どうかしてる」

 ロンが呟いた。

「そりゃあ確かに、物語では杖は最強の力を持っていて、蘇りの石は死んだ人を呼び戻すし……透明マントは死神から身を隠すけど。それが秘宝どうこうなんて聞いたことがない」

「永遠に枯れぬ泉や、ガリオンがわき出る壷を求める連中と同じだ。透明マントはポッター家が持っているだろう?」

「――父から継ぎました。生前に……?」

 訊いていたのですか。ハリーの問いにアシュタルテは首を振る。

「いや、ジェームズは透明マントを特別だとは思っていなかったろう。たとえ劣化しない代物だとしてもな。ウィスタの曾々祖母、つまり私の妻の母はポッター家から嫁いできた。ポッター家には透明マントがあると聞いたことがあるのだ。材質は不明。しかし……劣化しないものだと」

 アシュタルテが茶器を傾ける。一息吐いて、宙をにらんだ。ここにはいない誰かを、射抜くように。

「かつてグリンデルバルドは『谷』を訪れた。本家を訪ねたが門前払いだった。あれは選民思想に凝り固まっていた。お前たちの世代はまだマシだが――私が若い頃は信じられぬくらいひどかったものだ。グリンデルバルドはその中でも過激派だった」

 本人は「より大きな善のために」とのたまっていたが。鼻で笑い、再び言葉が流れ出す。

「あれはニワトコの杖――死の杖に執着していた。敵を打ち倒す強力な力を欲した」

「それで……まんまとグレゴロビッチから手に入れた?」

 ハリーが呟く。ウィスタは曾祖父に視線を投げた。

「現在の所有者に心当たりがあるのでは?」

 ただの勘だ。だが、曾祖父が死の秘宝とやらに言及し、ニワトコの杖もとい、死の杖に触れている以上、何かを知っているとみるべきだろう。

「ダンブルドアがグリンデルバルドを倒したのだ」

「伝説の決闘の時に?」

 ロンが眼を輝かせた。ウィスタは首を傾げて曾祖父をみやった。伝説と言われてもまったくぴんと来ない。親しくしていた爺さんが若い頃にあれこれしたらしいなあ、くらいの感覚である。純粋な魔法族育ちだとあこがれるものなのか。

「伝説といってもな……」

 最後は殴り合いだった。ぼそりとアシュタルテが呟き「ダンブルドアが?」とハーマイオニーが片手で口を覆った。

「意外とそちらに明るかったんですね」

「私が遊びがてら鍛えたからな。乗馬も。伝説なんぞそんなものだぞ。グリンデルバルドはある意味あれより厄介でな。人をたぶらかす天才だった。あっちこっちで火種を撒いて扇動し、不和を広げた。どうにか追いこんで、私が障壁で二人を閉じこめて決闘に持ち込んだ」

 実質、グリンデルバルドを倒したのはダンブルドアだったよ。

「決闘に負けて拘束されても暴れるから、叩きのめしたが――ともかく、杖の所有権はダンブルドアに移行している。あれが墓を暴いて奪ったとしても力を発揮できまい……杖が認めぬ」

 杖に関しては、オリバンダーに訊くといい。アシュタルテは指を鳴らす。たちまちのうちに妖精が現れて一礼した。

「会いたいのなら、こやつに言いなさい。連れて行ってくれるから……新しい杖に関しても相談するといい」

――杖か

 ウィスタはダンブルドアの死に顔を思い浮かべた。ただ眠っているだけのような顔。組んだ指の間に杖があって。ではあれが死の杖だったのか。ダンブルドアは杖を壊さなかったのだ。どういう理由かは知らないけれど。伝説の遺物に敬意を払ったのか。それとも、壊せなかったのか。それを果たす前に殺されたから……。

 背もたれに身を預ける。考えても仕方ない。なぞめいた形見の意味。火消しライターはロンを導き、本はハーマイオニーに知識を与えた。そしてスニッチがなにを意味しているのか、いま以て不明だ。

 死の秘宝へ誘導しようとしたのかどうか。だが、ダンブルドアは繰り返し言っていた。預言を現実にしたのはあいつだと。君たちは預言のためではなく、失われたもの、奪われたもの、愛しい者たちのために戦うのだと。

 いつかに言っていたのだ。夜の校長室で、燃えるようなまなざしをして……。

『預言は力を与えぬ』

 君たちに呪いと祝福を授けたのは、あやつ自身。

 敵をつくりだしたのもあやつ自身の行いじゃ。

『あれは愛する者を殺される悲嘆を知らぬ』

 奪うことしか知らぬ。壊すことでしか示せない。

 

 永遠にひとりじゃ。

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