【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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六十六話

「おいで」

 ヘレナが手を振る。彼女の背を追った。

「レディ……?」

「お前の部屋へ行きましょう」

 ああ、と頷いた。ウィスタは過去視に不慣れだ。少なくとも希代の先視には劣る。ユスティヌの『追憶の眼』があろうとも雑音は少ないほうがいい。

 ウィスタは金髪と灰色の眼のレイブンクロー生になる。そのとき、どこかで硝子の割れる音が響いた。遠くから「この卑怯者!」と怒声も聞こえる。まさかと思うがマクゴナガルだろうか。いいやありえない。女史があんな風に怒鳴るはずがないと首を振って数拍、守護霊がやってきた。ウィスタは沈黙した。銀色の猫だ。

「スネイプを取り逃がしました。これから防備を固めます」

「……惜しいですね。拘束してくださったら有利でしたのに」

 エリュテイアが言う。ウィスタは眼を泳がせた。こんな時になんだが、スネイプ対マクゴナガル戦は是非とも見たかった。

「窓ぶち破って逃げたかあいつ?」

 玄関ホールや温室、あるいは大広間で戦うのならば、外へ出るのは比較的たやすい。が、会敵したのが廊下だとすれば――壁か窓を破って飛び降りるしかない。そしてスネイプは死喰い人。箒なしでも飛べるだろう。

 歩きながら杖を振る。守護霊を飛ばした。校長権限で守りを固めてください。俺も追っつけ駆けつけます、と。

 スネイプがいなくなったことで、遠慮はいらないと判断したらしい。守護霊や炎、紙飛行機が行き交う。グリフィンがやってきて、凛とした声で告げた。

「みんな着いたわ」

 返事を飛ばす。ため息をこらえた。今すぐ会いに行きたいができない相談だ。次は炎がやってきて、煙突飛行ネットワークを掌握した旨がもたらされる。そうこうしているうちにネフティスの肖像画の前にたどり着いていた。先祖は「よくぞ帰ってきた」と笑み、ウィスタに路を開く。エリュテイアに「情報を捌いといてくれ」と言いおいて中に入った。

 ウィスタは座り込み、ポケットから鏡を取り出す。ヘレナが息を震わせた。

「私が視たのは、この光景でしたか」

 黒髪の魔法使いと、鏡と。傍らには私がいて。

「そんな未来は来なかったから、外れたのだと思っていたわ」

「あなたがいてよかったよ」

 小さく言えば、ヘレナが笑んだ。

「さあ私の子。手伝いましょう」

 ウィスタは指を噛み、鏡に垂らす。ヘレナの手が肩に触れた。冷気が染み入る。

「深く深く……底の底に……その向こうに『在る』の」

 柔らかな声。じんわりと眼が熱くなる。鏡の紅色が渦を巻き、弾けていく。闇の中に沈んでいった。唇を動かす。どうか、髪飾りの所在を、と。

 現れたのは廊下だ。飽きるほど見た場所。ホグワーツ。黒髪、白皙の美貌。燃えさかる禍つ星。寒気がする。しかし、唇を噛んで『過去』へ眼を向けた。どこからか声がする。落ち着くのよ私の子、と。

 男は廊下を往復する。扉が現れ、男は中に入った。そこで過去は終わった。

 ウィスタは額を押さえる。鏡を仕舞い、立ち上がった。

「ありがとうヘレナ」

「見つかりましたか」

 ああ。応え、しかし続きは口にしない。さてどうしたものか。必要の部屋は必要な者にしか開かれない。条件を満たすにはどうすればいいのか。最悪部屋を吹き飛ばし、突破して髪飾りを壊すしかない。力業だが四の五の言っていられない。

「戦いになるのでしょう」

 ヘレナはドレスの裾を優雅に翻す。ウィスタは彼女についていった。廊下に出て、青の姫君は扇を鳴らした。

「――男爵。我らはただの影だけれど、勇気ある者に助力をしましょう」

「御意に」

 どこからともなく男爵が現れ、ヘレナに恭しく礼をとった。

「影は影らしく、伝令を務めようとも。ああ、ピーブズに妨害もさせるか」

「ええ。ではそのように」

 ヘレナが応じる。男爵は素早く消えていった。ヘレナがウィスタに頬に手を当てる。

「永い因縁を終わらせるときよ。ゴドリック先生も、サラザール先生も、本当に仲がよかったの……こんな未来なんて望んでいなかったはず」

「分かったよ」

 魔法騎士の礼をとり、エリュテイアを引き連れてその場を後にする。

「髪飾りは?」

「必要の部屋だが――入り方が分からんから保留だ。さて、状況は」

 校庭に参りましょう。エリュテイアが歩調を早める。ウィスタはその背を追った。エリュテイアは窓を開ける。手を差し出されつかみ取った。

「時間がありませんからね」

 ぐっと引っ張られ、宙に身を躍らせる。と、と屋根を踏む。また踏む。壁を蹴り、装飾を踏み――気づけば校庭に下りていた。ウィスタは悲鳴をあげる暇もなかった。

「お前何者よ」

「貴方様の従者ですが?」

 もういいや。首を振る。眼を細めた。旗がいくつも翻っている。リアイスの『剣に蔓薔薇』、リエーフの『盾に白百合』、ロングボトムやなんとグリーングラスの旗もある。マグダラ家の旗もあった。ウィスタはブラック家とダンブルドア家の旗を出現させた。翻るそれらに頷き、居並ぶ魔法使いと魔女たちを見やる。彼らは深紅の外套に身を包み、現れたウィスタを見つめていた。素早くやってきたのはクロードとナイアードだった。

「マクゴナガルが基本的な防備は固めた」

 ナイアードが言って、衣を放る。戦装束だ。指を鳴らしてさっさと着替えた。闇色の衣。留め具は蔓薔薇と星。胸には灼熱の炎を秘めて。

 それ以上言葉はいらない。ウィスタは集結した一族を振り返り、杖を掲げる。盟主に従い、いくつもの杖が天を示した。

「創始者の末裔は命じる。敵を阻み、魔法の徒を守れ」

 詠唱がいくつも木霊する。リアイスたちの意志を受け、黄金の炎が駆けていき、花開く。障壁をまばゆく染め上げた。強靱な守りが織り上げられたのを肌で感じ、ウィスタは杖を下ろす。そうして告げた。

「やつを倒すぞ」

 黄金のグリフィン(グリフィンドール)の名の下に、あいつの首を獲る時がきたのだ。

 

 

――防衛線のさらなる補強と

 避難、そして布陣。これらを同時並行で行うのは骨が折れるだろう。今のところ順調だが。大広間から生徒たちが出て行くのを見守り、左手にはまる『冬の息吹』を撫でた。残っているのは騎士団の面子や、各地から駆けつけた勇気ある魔法使いと魔女たち、そうしてウィスタの一族……。

「……ホッグズヘッドの守りでもいいんだぞ」

 クイン、と囁く。一族とともにやってきた魔女はにこりともしなかった。

「ここで逃げたらマグダラの名が泣くわ」

 もっとほかの言葉が聞きたかったな……と、ぼやきかける。しかし紅眼がじりじりと熱を帯び、痛みが押し寄せる。どうやらお怒りのようだとぼんやり思う。成績優秀でなんでもそつなくこなしてきた優等生。予想外のことが起こると弱いのだろう。

「いつだって想ってるわよ――ウィスタ?」

 肩を叩かれる。一年生の時のようだ。ヴォルデモートが――クィレルにとりついていたのだが――近くにいて、クィディッチの試合の時にウィスタは調子を崩して、彼女が声をかけてくれた。

 唇だけ動かせば、クインは眼を見開いた。頬が少し赤くなる。

「もうすぐ戦いが始まるのにそんな――」

「言えるときに言っとくんだよ」

 あんたが好きだってな。軽口を叩く。痛みが遠ざかり、現実が戻ってきた。同時に、かすかな震えを感じた。

「先生」

 呼びかければ、マクゴナガルがやってくる。ウィスタは校庭に視線を投げる。それだけで察したようだった。

――障壁が攻撃を受けている

「各自、動いてくださ――」

 い、とマクゴナガルが言葉を結ぶことは叶わなかった。

『ハリー・ポッターとウィスタ・リアイスを差し出せ』

 無駄なあがきだ。血を流したくないのなら二人を差し出すのだ……。

 冷たく、傲慢な声だった。ふん、と誰かが鼻を鳴らす。ナイアードであった。

「行くぞ」

 己が配下に呼びかけて、ナイアードが紅の外套を翻す。クロードも同じくだった。あちらこちらに一族が散っていく。心ある者たちが為すべきことを為すために歩み去る。

「なにもしないとか言ってるが信用できるかバーカ」

 吐き捨て、クインを軽く抱きしめる。そうして名残を振り払うように離れ、大広間の人波に紛れた。どこからか悲鳴が聞こえる。私たちがまだいるのに! 帝王はなにを考えているの! 避難の最中のスリザリン生だろう。

 『炎』が現れる。舞い降りた報せをつかみ取り一読した。巨人が何体か。闇の陣営が続々と集結……。イルシオンめ、見かけないと思っていたら仕事をしていたか。

「ウィスタ」

 波をかき分けるようにして、リーマスがやってきた。思わず顔をしかめる。

「テディがいるのに――」

「ドーラに預けてき……」

「ママにお願いしてきたから」

 さらりと割り込んできた誰かに、養父子は口をあけた。

「おいリーマス?」

「私は……私は留守を頼むねって!」

「嫌よいつも一緒よリーマス」

 可愛い我が子のためでもあるもの。トンクスは軽やかに、けれど熱をこめて言う。ウィスタは肩を落とし、硬直している養父の背を叩いた。

「色々終わったら、祝いのパーティでもしようぜ」

 出産祝いは渡したがそれだけだ。テディの顔も見ていない。

「いいわね」

 に、とトンクスが笑う。リーマスがため息を吐いた。

「夜明けを迎えよう」

 皆でね。気づけば抱きしめられていて、ウィスタは再び養父の背を叩いた。

「無茶すんじゃねえぞ」

「ああ」

 寄り添って去っていく二人を、痛みとともに見送った。できるのならば、戦いには参加させたくなかった。せっかく子どもが生まれたのに。

「我が君」

 ハリーがいました。エリュテイアの視線を追い、たしかにハリーを認めた。彼は飛ぶようにやってくる。ハーマイオニーとロンも一緒だった。

「ウィスタ」

 ああ、と頷く。五人で大広間を出た。

「あいつが自信満々なのは、カップとナギニが残っているからだ」

「ナイアードにマーリン勲章やりたいな」

 カップが偽物だと見破られる前提で動いていたのだが、思わぬ幸運だ。『分霊箱』が破壊されているのを目の当たりにし、焦っていたのだろう。恐怖もしていたはずだ。ヴォルデモートも人間ということか。

「あと髪飾りも」

 ハーマイオニーが口を挟む。ウィスタは廊下を進む。

「必要の部屋にあるのはわかった。そこに隠しているみたいだが……入り方が分からない――」

 ともかくを部屋を目指そうと、石段に足をかけ、つんのめりかけた。

「僕、わかるかもしれない」

「お前にも勲章がいるな」

 階段を登り、隠し通路も使う。ホグワーツ中を人が行き交っている。押し合いへし合いに巻き込まれている場合ではない。一行はひそやかに動いた。

「去年教科書を隠したときに……」

 八階の廊下をハリーが往復する。扉が現れ、五人は中に飛び込んだ。物という物が積み上がった迷宮が現れていた。ウィスタの眼には、ぼうやりした影が見えた。過ぎ去った時、過去の亡霊が。多くの生徒にとっての秘密の場所なのだ。

「こっちだ」

 ハリーに言われるがまま、迷路を進む。何度か角を曲がり、奥へ奥へと進んでいく。やがて壊れた飾り棚と、甲冑が現れた。残りの距離を一気に縮めた。甲冑に――載せられた髪飾りに手を伸ばし、そっと持ち上げた。

「止まれ」

 わずかに震える声。ウィスタは嘆息をこらえ、振り返った。

「やあ坊ちゃん。紅茶をいれるのは巧くできるようになったか?」

 ひく、とマルフォイが目許をひきつらせる。腰巾着どもがうなった。

「お前はどうしていつも偉そうに――しぶとい……逃げたせいで」

 ウィスタは無視した。三人ぽっちでウィスタたちに勝てると思ったら大間違いだ。

「知るかよ」

 相手にする価値もない。向けられる杖に構わず踏み出す。紅が飛んできたが、ハリーが素早く迎撃した。

「僕たちは忙しいんだ」

「いいや、来てもらうぞ」

 お前たちを差し出せば褒美がもらえるんだ。マルフォイは青ざめている。さっさと逃げればいいものを、なにをこだわっているのだろう。マルフォイ家は失態を演じ続けた。挽回しようにも遅いだろう。たとえウィスタたちを捕まえても、だ。

「殺せばいいだろ?」

 腰巾着のどちらかが言い、杖を振ろうとする。マルフォイがその腕を押さえた。

「生け捕りだと言っただろう!」

「ごちゃごちゃうるさい」

 獣が吼える。目を血走らせた腰巾着の片割れが、乱暴に杖を振った。

「――走って!」

 エリュテイアが叫ぶ。切羽詰まった声に、一行は背を押された。マルフォイたちを放置してとにかく走った。熱が追いかけてくる。ウィスタはちらと振り返り、後悔した。堆積した時を飲み込み駆ける炎。

「んなとこで悪霊の火を出すなクソが!」

 出口は遠い。悪霊の火は速い。それでも走った。走って走って、横っ腹が痛んでも走った。がむしゃらに杖を後ろに向け「迸れ激流よ!」と唱える。炎の勢いが減じ、すれすれで出口に飛び込み――熱が弾け、熱風が一行を吹き飛ばす。誰かが盾の呪文を展開したが、それでもすさまじい威力であった。

 喘ぎ喘ぎ廊下に膝を突く。つんと焦げた臭いが――厭というほどかいだ臭いがする。マルフォイがすすり泣き、黒いなにかを抱えていた。

――死んだか

 腰巾着の一人だろう。もう一人はへたり込んでいる。すすにまみれ、やけども負っているようだ。悲嘆に暮れる二人に、ウィスタは杖を向けた。

「寝ておけ」

 失神させた二人を、エリュテイアが縛る。適当な室に放り込んだ。廊下に戻り、エリュテイアに剣を手渡す。床に髪飾りを置いた。

「やってくれ」

「御意に」

 銀色の切っ先が、髪飾りを破壊する。悲鳴が木霊し――やがて消えた。

 

 

 

 胸が――心臓が鈍く痛む。

「破られたか」

 銀色の残骸を拾い集め、袋に入れる。ホグワーツは広く、障壁もまた広大だ。ありったけの補強はしたけれど、一局集中で叩かれればどこかは破壊される。

 指を鳴らす。巡る血潮が熱くなる。黄金の炎が、急ぎ障壁を修復しているだろう。本当なら直接現場へ行って直したいが――余裕がない。

 『炎』がやってくる。敵が侵入。修復班が向かっている。余計な力は使わずに、やるべきことをしなさい。曾祖父からだ。『谷』で穏和しくしているわけがなかった。

 びりびりと空気が震える。ぱらぱらと土埃が降ってきた。戦闘が始まったのだ。

「あとは……あとは」

 ハーマイオニーが震えながら立ち上がる。

「蛇だけよ」

「あいつのことだ、高みの見物だろう」

 ウィスタは応じ、顔をしかめた。城を抜けて校庭へ出る。戦場を突っ切ってろくでなしの許へ行くのか?

「いまは、侵入者を倒すことを考えよう」

 どうせあいつは僕たちを狙っているんだから。ハリーがずれた眼鏡を直す。ロンはどこか畏怖のこもったハリーに向け、ややあって呟いた。

「僕たちも一緒だから」

「ホグワーツ特急で会ったときからね」

 酔狂なやつらだよ。片笑んで歩き出す。八階はまだ静かだ。天文台や北塔などの高所から呪文で迎え撃っているはず。それに天馬や箒で空に陣取ってもいる。破れた障壁から侵入してきているにしろ、思うようにはいかないだろう。主戦場は校庭、玄関ホール、大広間、一階から数階分といったところか。

 鉄錆の香がする。ふ、と眼を向ければ窓に影がはりついていた。いや、窓を破って入ってくるところだった。傷だらけの顔、歯は奇妙に尖り、眼は濁った黄色だ。

「おやあ?」

 にたりとその男は笑う。

「リアイスじゃあないか。うんうん、お前の血は美味だろうなあ。母親は喰い損ねたがな!」

 決して広くはない廊下をフェンリールは蹴る。ウィスタに向かって飛びかかってきた。体を捌きかわそうとしたが、いらない心配だった。銀の閃光がフェンリールの足を貫く。ど、と倒れた畜生を見下ろしながら、ハリーたちに告げた。

「先に下りてろ」

「てめえ、リエーフ……」

 二撃目がもう片方の足を射抜く。フェンリールが身をよじり、子どものように丸くなった。

「どうやって登ってきたのだか」

 人狼なのだから、それくらいできますか。エリュテイアは淡々としたものだ。ウィスタはフェンリールに全身金縛りをかけ、襟首をひっつかんだ。

「俺たちが人狼殺しの一門だってことを、わかっているべきだったな」

 森で囲まれて。あるいは待ち伏せされて。不意打ちで。侵入して幼い子を餌食に。フェンリールのやり方はいつも汚かった。戦の興奮にあてられて、姿を見せたのが間違いだ。

「祖父に、リーマスに……幼い子に、ほかにもたくさん」

 引きずって、杖を振る。フェンリールがふわりと浮かび、破られた窓から外へ出た。濁った双眸には恐怖が張り付いている。楽には殺してやらない。どれだけリーマスが苦しんだことか。そうして養父に手を汚させない。ウィスタの前に現れてくれてよかった。

「償いの時だ」

 ひょう、と風が吹く。指を鳴らせば、不可視の鎖は消失し、フェンリールはあっけなく落ちていく。弧を描き、紅が広がった。下にいた死喰い人も巻き添えにして。

「行くか」

 ええ。エリュテイアが応える。主従は人狼を始末した感慨にふける間もなく、歩を進めた。

 

 階段を数段飛ばしで降りていく。途中、甲冑や石像を引き連れたマクゴナガルや、悪魔の罠を抱えたネビルたちとすれ違った。

 じわじわと敵が入り込んでいる。戦いの音が満ちていた。ここは何階なのだろう……。

 赤毛を見つける。服従の呪文にかけられている、シックネスとパーシーたちが戦っていた。ハリーたちが加勢しようとしている。そうして、ウィスタはリーマスが誰かと戦っているのを認めた。

――行かなければ

 厭な予感がする。ただの気のせいだ。駆ける。光が乱舞する中を、飛び交う呪文をかわし、まっしぐらに彼の許へと。リーマスは弱くない。だが――相手のほうが身のこなしが素早い。あと数歩。杖を構え、死喰い人に向けようとした時、緑の閃光が飛んだ。盾の呪文を展開しようとする。けれども一拍の半分ほど遅かった。致命的なほどに。閃光がリーマスに突き刺さる。盾の呪文の向こうで倒れ伏す。

「■■■■!」

 己でもなにを叫んでいるかわからない。リーマスが倒れている。いいやあれは父……神秘部で……。ウィスタのせいで。リーマス。

 気づけば顔に生ぬるいものがかかっている。目の前には驚愕に見開かれた双眸。

「な……ん、」

 切り裂かれた死喰い人が仰向けに倒れる。杖腕が熱く、けれども胸の内は凍えていた。

 顔を拭うこともせず、リーマスの許へ向かう。息がないのは明らかだった。瞼を閉じようとして躊躇する。血塗れだ。汚してしまう。

「だからあんた、家にいてればよかったのに……」

 非難めいたことしか言えない。ウィスタの養父、あの夏の日に迎えにきてくれた人。育ててくれたひと。『ウィスタ』と名付けてくれたひと。風邪をひいたら看病してくれた。我が儘を言って困らせた。物心ついてからできた『父親』だった。

「親父も、あんたも……なんで」

「ウィスタ様!」

 エリュテイアが飛びついてくる。直後、衝撃がやってきた。壁が吹っ飛び、瓦礫とともにもみくちゃになる。かろうじてリーマスを抱きしめた。これ以上傷つけさせてなるものか。

 叫びと粉塵。エリュテイアに引っ張り起こされ、へたりこんだ。しっかとリーマスの手を握ったまま。

 壁から大きな顔がのぞく。ウィスタは何の反応もできなかった。だが、銀の矢が鮮やかに、巨人の片眼を貫く。吼えようと口をあけた彼――あるいは彼女はふらつき、倒れていく。ど、と地が震える。

「――無事か」

 冴え冴えとした淡い群青がウィスタを見やる。戦装束に身を包み、老騎士は杖をくるりと回す。輝きがあちこちに降り注ぎ、ウィスタの自覚していなかった痛みも癒していった。

「曾祖父様」

 と、とアシュタルテが壊れた壁の内に入る。この人はダンブルドアとともに戦ったひとなのだと今更思い出した。グリンデルバルドを倒した英雄の一人。リアイスの魔法騎士。戦場というものを知っているのだと。

 痩せた手がウィスタの頭をなでる。そうして、優しくウィスタからリーマスを引きはがした。瞼が閉じられるのを、ウィスタは見ていることしかできなかった。

 ふらふらと立ち上がる。曾祖父に従って、ウィスタはリーマスに聖骸布をかけてやる。あちらこちらですすり泣きが聞こえる。身を寄せ合っている赤毛を見つけ――誰かがフレッドと呼んでいるのを聞いて、凍り付いた。

「そんな」

 あってはならないことだ。兄貴分だった。かばってくれたこともある。喧嘩もした。兄貴分で友達だった……。

「――すべきことがあるのだろう」

 鋼の意志が宿った聲が、ウィスタを引き戻す。アシュタルテが、ウィスタの肩を掴んでいた。

「ええ」

 嘆くのは後だ。なんのために今日集ったのだ。すべてはあいつを倒すため。

――ナギニを倒さないと

 そうして終わらせないといけないのだ。

 ハリーが駆けてくる。ウィスタは悟った。彼が行き先を知っているのだと。

「行こう」

 ◆

 戦場を駆ける。抜け道を、階段を駆使して校庭へ出た。巨人が倒れている。両足を断ち切られ、虚ろな眼は空を見上げるばかり。吸魂鬼が現れる。しかし、次々とやってきた守護霊がウィスタたちを援護し、路を切り開いた。

 草地はえぐれ、紅に染まり、亡者をグリフィンが切り裂き、あるいは黄金の炎が乱舞する。暴れ柳の根元に到着する。すべてが夢幻のようだ。ただの悪夢であればどれほどよいだろうか。ウィスタが呆然としている間に、ロンが暴れ柳を停止させる。浮遊呪文もできなかったのに、今では軽々と使っている。

――遠くまで

 本当に遠くまで歩いてきた。虚実の入り交じった世界を進む。這うように抜け道を進み、眼が影を、耳が木霊を捉える。

『もし……もしよければ、一緒に住まないか。ウィスタと俺と、君とで』

『え、あなたたちと住むんですか!? もちろん――僕、とても』

 うれしい、とハリーの弾んだ声が聞こえる。ふっと時は過ぎ去り、ウィスタは唇を噛んだ。あのままワームテールが逃亡しなければもしかしたら。ハリーの守りのことなんて知らなかったけど、それでも。

 熱いなにかを押し込めているうちに、叫びの屋敷に到着した。ハーマイオニーがハリーに透明マントを着せて、自分たちは透明呪文をかける。ウィスタもエリュテイアもそれに倣った。

 そろりそろりと進む。体積した埃が舞い上がるが、誰かが綺麗に消失させた。うずくまる闇のなか、階段をそっと上る。じりじりと眼が熱くなった。

――いる

 ハリーが視たとおりだ。扉の隙間から、佇むヴォルデモートと輝く球体に封じられているナギニ、膝を突くスネイプが見えた。

「我が君。私にはポッターとリアイスを捕縛する任があったかと思うのですが?」

「そうだ」

「新たな任が?」

 そうだ、とヴォルデモートが笑う。切り裂かれ、元の容貌をとどめていない顔が、確かに笑みを刻んだ。何度も見た表情。誰かをいたぶるときの――あわてて口許を覆う。吐いている場合ではない。声も漏らしてはいけない。

「この杖を、我がものにするために」

 杖が振られる。ナギニを包んでいた球体が儚くとけていく。スネイプが立ち上がろうとし――白い牙が首筋に食い込んだ。ずるずるとスネイプが倒れる。つ、と流れる血が不気味なほど鮮やかだった。

「ニワトコの杖の主はダンブルドア。しかし、俺様が手にしても、十全に働かぬ。よくよく考えてみた……そうして思い出した」

 ダンブルドアを殺したのはセブルスだったのだ、と。傷だらけの手が、杖を撫でる。高笑いし、ナギニを連れて窓辺から外へ出る。

「セブルスよ。お前の死は無駄にはしない。感謝するぞ……」

 影が夜に呑まれていく。小さくなっていく……数秒経って、ウィスタは透明呪文を解いた。スネイプの許へ飛ぶように走り、オレガノのエキスを傷口にふりかける。

「癒せ」

 治癒の呪文を行使。だが、スネイプの顔は青白いまま。黒い眼がウィスタを見た。

「無駄だ」

「黙ってろ」

 生きてもらわなければならない。知らないことが多すぎる。情報を引き出さなければ――。

 焦燥に駆られるウィスタをよそに、スネイプが手を――杖を持ち上げる。頭に当てようとしている。だが、痙攣してまともに当たらない。手をのばし、スネイプの腕を支える。杖先から銀色が流れ出た。

「これを……見るんだ……ポッター、リアイス」

 ハーマイオニーが小瓶を出現させ、銀色を受け止めた。流れがはやくなる。スネイプの呼吸が弱くなる。死神の吐息が、衣擦れがすぐ近くまで迫っている。

 さまよう視線がウィスタを――群青を捉えた。骨ばった手が、震えるそれがウィスタの片手を掴んだ。氷のように冷たい。

「すまなかったリアイス……僕は……約束……守って、ユスティヌ……」

 途切れ途切れに言い、あれほど忌々しかった双眸から生気が抜けていく。だが、ハリーを捉えた瞬間、光が灯った。

「僕を、見てくれ――」

 ふっと、スネイプの手から力が抜け、ぱたりと落ちた。

 

 

 

 どうやって校長室にたどり着いたのかわからなかった。ウィスタは机に置かれた『憂いの篩』に小瓶の中身を投じた。くるり、と世界が反転する。

 赤毛に緑の眼の女の子がいた。スネイプの幼なじみ。リリーだとすぐにわかった。二人は語らう。魔法についてスネイプが教える。

 今度はキングズ・クロス駅。リリーが駆けていく。白い猫を追いかけるその背を、スネイプは見ている。黒髪の女の子が猫を抱き上げる。両眼は至高の青色。母だ、とすぐにわかった。

 コンパートメントを探す。ジェームズと父にちょっかいをかけられる。スネイプとリリーはコンパートメントを移って母と出会う……。

 次は大広間。

「ブラック・シリウス」

 呼ばれた父が帽子を被る。長い長い時間が経って、帽子はグリフィンドールと叫ぶ。大広間が静まりかえり……そうして母が呼ばれてスリザリンに組分けされる。前代未聞だと誰かが言う。

 スネイプはスリザリンになって、翌日に吼えメールで罵倒されている母をみる。強い哀れみがわき出て、けれどもなにもできない。

 魔法薬学で避けられ、二人は残りものどうしで組む。そうして友達になった。

 暗転する。紅藤の眼と黒髪。雪のように白い肌。誇り高き幻獣がスネイプに語りかける。

『憎いでしょう』

 父親が。甘い声。彼女は歌うように告げる。

『幻獣に忠誠を』

 リーンを守りなさい、と魔女は命じる。

 場面が変わる。リリーを穢れた血呼ばわりしたスネイプ。謝ろうとしたがもはや遅かった。なにもかもが。

 母が闇祓いを志す。スネイプは止めようとして、けれども駄目だった。

『今更助けを求めると?』

 ダンブルドアがスネイプを見下ろしている。ライトブルーの双眸にぬくもりはない。軽蔑も露わなまなざしが注がれる。

『保身のために』

 違います。スネイプは叫び、ダンブルドアの衣を掴もうとして振り払われる。

『預言が……リリーが狙われます……息子を穏和しく差し出すひとじゃない』

『リリーでなければお前は動かなかったろうに』

 知らなかったのだ、と呻く。そうして願う。リリーを助けてくれと。

『友人よりも愛したひとか。なるほどのお』

『リーンのことも――僕は何度も止めたんだ! 約束したんだユスティヌと』

 ほう、とダンブルドアが声をあげる。ようやっとスネイプを『視た』。

『お前はウラニアの一手だったか。さても、約束だけでなにもできておらぬ。リリーを危険にさらし、リーンとは敵対し』

 ふ、とため息が落ちる。ダンブルドアは顔をしかめ、髭をしごいた。

『そのまま内部にいろ。リリーを守ってやろう。ああ、リーンとは敵味方でおるのだぞ』

 足許がゆらぐ。どこかの日の校長室に切り替わっていた。

『守ると言ったくせに!』

 スネイプ身悶え、叫んでいる。この世の終わりを迎えたかのように。

『お前が言えた義理か。間諜のくせして、忠誠の呪文が破られていることにも気づかず……リーンを待ち伏せする動きも察知できず』

 ダンブルドアは椅子に腰かけ、呟くように言う。荒れ狂うスネイプに、悪魔の一言を囁いた。

『リリーの息子も、リーンの息子も生きておる』

 スネイプが停止する。白い顔にはなんの感情も浮かんでいない。

『リーンの子は、生きているはずが……』

『生きておる。リアイスがそう言っておる。償いたいのならば、息子たちを守れ』

 何度めか場面が切り替わる。

『どうせ呪いで死ぬ。アシュタルテの封じでもたいして保たぬよ』

 耄碌しましたね。スネイプは鼻を鳴らす。ダンブルドアは朗らかに笑った。

『なので、君が儂を殺すのだ。ヴォルデモートへの土産になろう。そしてハリーたちに使命を告げるのじゃ』

『私に負債を押しつけるのはやめていただきたい。そもそも、あれらは厄介ごとに巻き込まれるにもほどが――』

『なんと。愛着がわいたかの?』

 冗談じゃない。スネイプが眉間に皺を立てた。ダンブルドアは構わず囁く。

『君に託そう。よくお聞き、セブルス。あの子たちは法則外の『分霊箱』じゃ。あの晩、やつは跳ね返った呪文を受けた。魂の欠片は近くにいた魂に引き寄せられた。だからハリーはスリザリンの能力を扱える。そしてやつをのぞき込める。そしてウィスタは』

『あれの血筋、と』

 スネイプは今にも吐きそうな顔をしていた。

『血は水よりも濃い。欠片がついてもおかしくはない。挙げ句にあれはハリーとウィスタの血を取り込み、繋がりを強固にしおった。もはや『分霊箱』と変わらぬほどに』

 スネイプが瞬き、ややあって口を開く。

「まさか――?」

「『分霊箱』がある限り、あれは死なぬ。ハリーたちは術者の手によって死なねばならぬ」

 ダンブルドアの手が、黄金のスニッチに触れる。ゴーントの指輪をおさめた。そして、室の片隅にある、グリフィンドールの剣を見やった。

『剣をすり替え、時来たればあの子たちの許へ』

 記憶がとぎれる。ウィスタとハリーは顔を見合わせた。死なねばならない?

「どうする?」

「わかっているくせに」

 ウィスタの問いに、ハリーが苦笑する。二人はそれ以上なにも言わず、校長室を出た。外を見張っていたハーマイオニーたちがやってくる。

「手がかりは――」

「ナギニの居場所がわかった」

 僕たちだけで行くよ。ハリーは穏やかに言う。ウィスタは畳みかけた。

「大勢で行ってもやりにくい。俺が制御してハリーが叩く……皆を援護しといてくれ。すぐに戻るから」

 我が君、とエリュテイアが詰め寄る。ウィスタは首を振った。

「命令だ」

 不満げな仲間を置き去りに、城を下る。死喰い人は一時撤退していた。『分霊箱』はまだある。ニワトコの杖は完全に己のものになった。ならば、愚か者どもに、多少の慈悲はくれてやろうとでも考えたのだろう。

――ナギニを殺さなければ

 しかし、時間がない。ハリーとウィスタには命の期限が区切られてしまった。考え考えしながら、階段を下る。下って下る。そうして希望を見つけた。

「ハリー、ウィスタ!」

「ネビル」

 階段を数段とばしで下り、駆け寄った。ウィスタはネビルの両肩を掴んだ。

「いいか……頼む。蛇を殺してくれ。俺たちはやるべきことがあるんだ」

 グリフィンドールの剣を一度顕現させ、腕輪にしてネビルにつけてやる。

「君たちどこに……?」

「為すべきことを為しにいく」

「すぐに戻るよ、ネビル」

 バイバイ、とハリーが手を振る。ウィスタも片手をあげた。ネビルを置き去りに、マントと呪文を使って身を隠す。玄関ホールから校庭へ出る。

「君、一族の剣は――」

「無理矢理言うこと聞かせてるとこだ」

 ウィスタが死んだら、代わりに振るう者が必要だ。酷なことだがエリュテイアたちに任せるほかない。

 禁断の森に分け入る。血濡れの戦場とは切り離され、緑の匂いと闇に支配されていた。

 ハリーが立ち止まり、スニッチを手にした。ダンブルドアの字で『私はすべてが終わるときに開く』と書かれている。群青と緑が交錯する。言うべきことはわかっていた。

「俺たちは」

「僕たちは」

 死ぬ、と口にした瞬間、スニッチが開く。ゴーントの指輪が転がり出た。陽炎が立つ。誰が現れるのかわかっていた。指輪にはまっているのは蘇りの石。ならば――。

 真珠色の手が、ウィスタの肩を掴む。リーマス、と呼びかけた声は情けなくも震えていた。

「リーマス」

「悲しむことはない。すべきことをしただけなのだから――」

 ウィスタを支えるように、リーマスは歩く。近くにはポッター夫妻もいて、ハリーの頭を優しく撫でていた。ウィスタに気づくとにっこりして手を振る。リリーが柔らかく言った。

「大丈夫よ。一緒にいるから」

 視線を巡らせる。リーマスにポッター夫妻に。だけれど、足りない……。

「ああ」

 ウィスタ、問題はないよ。ちゃんと会えるからね。力強い言に励まされ、影たちに付き添われ、進んでいく。果てへと。終わりへと。

 やがて開けた場所へ出た。ヴォルデモートが残った紅眼を輝かせ、ナギニを――死喰い人たちを従えて待っていた。

「賢いな。そうだ降伏しろ。共に世界をつくるの――」

「やかましい。ただの犯罪者が」

 ぴしゃりと返した刹那、影が消え失せた。死喰い人が凍り付き、反対にヴォルデモートからは熱が――熱波が放出されている。

――俺に勇気をくれ

 胸許を握りしめる。ほんの少しの勇気でいいのだ。果てに踏み出すための一歩のために、必要なのだ。

「――躾がいるな?」

「預言に振り回されてかわいそうになあ」

 せせら笑う。闇の記憶を振り払う。こんなやつに屈してなるものか。恐ろしさなど切り離せ。

「あんたが気にしている預言」

 杖を揺らす。

「無効化したら――」

 どうなるかな。杖を向ける先は、ヴォルデモートはなくハリー。

「息絶え」

「やめろ!」

 ヴォルデモートの叫び。飛んでくる緑の閃光を受け止める。衝撃がはしり、意識が断絶した――はずだった。

 

「……どうなってんだ」

 どこかで間違えたか、とウィスタは首をひねった。黄金の光の中、薔薇の香がする草地になぜかいた。ヴォルデモートが実は転移魔法を使った? それはない。絶対にない。確かに死の呪文を受けたのだ。ウィスタを殺させるにはあれくらいしか方法がなかったのだ。

「無茶をするんだから」

 草を踏みしめ、誰かがやってくる。黒髪に群青の眼の魔女。なんの反応もできないうちに、強く抱きしめられた。

「よくやったわ」

「……お迎えですか」

 母さん、と間の抜けたことしか訊けない。迎えが母親なら悪くはない。

「あなた、まだ死んでないのよ」

 手を引かれるままに歩き出す。は、と口を開け閉めしているウィスタをよそに、母はつらつらと続けた。

「ここは狭間。黄昏の世界なのよ。あのろくでなしが壊したのは、あなたの魂――命ではなくて。あなたにひっついていた魂の欠片」

 端的な説明だった。なんだか既視感がある。曾祖父も祖母もこんなとこがあったな……と場違いなことを思った。そうでもなければ処理できなかった。

「先生はそこまで見越して?」

「慎重な人だもの。それに、あれはあなたとハリーの血を入れて復活したでしょう? 血は最高の魔法媒介。あれが生きている限り、あなたたちは生き残ると踏んだはず」

 細かいことはいいのよ。ともかくも、死んではいないのだからね。

 草を踏む。母の手を感じながら、幼い子のようについていく。不意に、母が立ち止まり、振り返った。二度目の抱擁。

「大きくなったわね……」

「ありがとう」

 細い背を抱きしめた。夢でもなんでもいい。母のぬくもりは本物だった。

「戻るのよ。あなたの場所に」

 抱擁が解かれる。そっと背を押され、ウィスタは再び歩き出した。やがてすらりとした影を見つけた。黒髪に灰色の眼。

「生きるんだ」

 父の手が、ウィスタの背を押した――。

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