背に伝わる体温。腰に回された腕と、固い痩身。
「……食べさせてるのに」
夫はいわゆる肉がつかない類なのだろう。脱いだら締まっているどころか、肋が薄っすら浮いている。
食べさせているのは私じゃなくて妖精なんだけども。クインはため息をこぼす。夫を起こさないように静かに。
ただでさえクインがいないと眠れないのだ。夜明け前に起こしてしまうこともない。
――そう
クインがいないと……夫は……寝付きが……とまで考え、ついでに痩せた裸身を思い浮かべ、薄青い闇のなか、顔が火照るのを感じた。
結婚して約半年。寝台での多少の触れ合いくらいはあるわけだ。その『多少』に行き着くのにも険しい道のりがあった。戦中に監禁され、拷問されたせいだろう、夫――ウィスタは触れ合いを忌む傾向にあった。濃い交わりは未だにしていない。つまり、初夜を迎えていないわけだ。いわゆる白い結婚である。
触れ合いも数えるほどで、クインが帰宅すれば夫は寝台で沈没していることが多々である。夫の隣にもぐりこめば、抱き枕にされていることがほぼ毎日だった。夫の安眠を守れるなら仕方がない。
――そのくせ
たまに触れあえば――たとえ接吻その他だけでも――クインは気をやる。やってしまう。無駄に学習能力が高いのが夫である。いまでさえこれなのだ。本気になったらどうなるのだろう。学年並立首位の男は器用だった。清廉潔白潔癖です、という顔をしながら床上手とはいかに。
『俺がそういう気になるのはあんたにだけ』
そんなことまで言うのだから、性質が悪い。
ああ、夫が遊び人だとか、借金まみれで歓楽街に沈められていたら、大変な女ったらしの女泣かせになっていただろう。女性関係にお堅い男でよかった。クインはいらない心配をしなくて済んだ。
本人は己の容姿の良さに無頓着だ。驕って、いい気になってどうこうもない。リアイスの教育のせいもあるだろうが――。
――根深く巣食っているもののせいもある
夫は孤児だった。捨てられたのではなく、事故のようなものだ。どうやら孤児院の環境は劣悪だったらしく、夫は虐げられていた。どんな風に十一歳まで生きてきたか、クインにすら話さない。
至高の青とも呼ばれる、リアイスの群青。お母様からの贈り物ねと言えば「場所が違えば捉え方も変わるもんだな」と返された。
『マグルにとっては』
気味が悪いらしいぞ、と。たぶん紅の眼なんて見たら卒倒するだろうさ。どこか皮肉気に言っていた。私は好きよ、と返すしかなかった。紛れもない本音だ。
――わかっている
青の眼はともかく、紅眼は夫にとって忌まわしいものなのだ。病んで片眼をえぐり出したりしないだろうか、と密かに危惧している。
ヴォルデモートに呪われた血筋。紅に染まった眼、刻まれた稲妻がその証……とひそかな噂になっている。
夫の予防線だろう。己の血筋を隠すための。明らかになれば夫の祖母――女傑アリアドネの不名誉にもつながる。母のリーンも貶められるかもしれない。彼女たちは被害者で、夫もまた被害者なのだけど……リアイスは甘くないだろう。
スリザリンの血筋、というだけならば慈悲はあるかもしれない。だが、よりにもよってヴォルデモートの孫なのだ。生涯幽閉か一思いに処刑か。
この世で最もヴォルデモートを憎んでいる一族があるとすれば、リアイスしかいないだろう。当代では特にナイアード――夫の又従兄弟、第二分家当主にそれが顕著だ。最近は多少丸くなったのか、グリーングラス本家の娘、リディアと付き合っているようだけど。
スリザリン系だが中立派で。しかもリディアはイルヴァモーニーの出。そしてグリーングラス本家はホグワーツの戦いに参じた。なにかと風当たりの強いスリザリン系の中で、今ではなかなかよい立ち位置を築いている。分家のダフネとアストリアの立場は微妙になったらしいが。そうそう悪いことにはならないだろう……。
さて、多少角がとれようが、リアイスはリアイスだ。気の良い「お兄さん」が、事が露見したときにどう出るか全く読めない。
備えはしておくべきよねえ。呟き、腰に回された腕を外そうとする。虚しい努力だった。がっちりと拘束されて密着している。
私がもう少し乙女思考の浮かれた女なら、喜んでいたのだろうか。毎晩のように抱き枕にされれば、もはやそれは日常だ。レイブンクローの館で寝台に引きずりこまれたときは動揺したものだ。あのときの私はまだ可愛らしい性格だった……。クインは自分から可愛げ成分が抜けていく現状に、遠い眼をした。
――子どもがほしいのかどうなのかもわからないし
省で働くかたわら、クインはお茶会に参加している。女の社交である。そしてクインは「あのウィスタ・リアイスの妻」として注目され、どうも子どもを期待されているのだと悟った。結婚したのだから次は出産よね、と。まぎれもない善意で、他意はない。それでもどう返せばいいかわからないことはある。
そっと割り込んでくれたのは、夫の友人、才媛の誉れ高いハーマイオニー・グレンジャー=ウィーズリーだった。
『騎士殿は忙しいのよ』
それに新婚なのだし、色々あったのだもの。あまり騒ぎ立てるものではないわよ。
グラスを傾け、さらりと言い放った才媛に、令嬢たちは黙った。クインは深く感謝した。
お礼に、帰りはリアイスの馬車でハーマイオニーを拾った。
『ウィスタはぐちゃぐちゃ悩んでるでしょうから』
いざとなれば押し倒すくらいするわよね、クイン。
飾らない言葉に噴き出した。回りくどくいわれるより気が楽だった。
「ほしいのかもわからないのよ」
素直に返せば、ハーマイオニーはため息を吐いた。
「……そういうのお構いなしに」
子どもはいいわよと言ってくるのよねえ。誰のことを言っているかは明白で、クインはハーマイオニーに同情した。ウィーズリー家は多産だ。モリーはよかれと思っているのだろう。
「いざとなれば」
バグノールド閣下を持ち出せばいいわよ。
「そういう先例があると助かるわ」
ハーマイオニーはしみじみと言い、クインは深く頷いた。女傑ミリセント・バグノールド。二代前の魔法大臣。引退していたが、混乱期の魔法省に乗り込んで、ファッジのお尻を蹴って動かしたり、死喰い人を倒したりと大活躍だった。
マグル生まれの大量脱出後、省内に残っていた闇祓いや心ある者たちをまとめあげ、闇の勢力と睨み合っていたのも彼女だ。
戦後、キングズリー・シャックルボルトの臨時魔法大臣就任を推したのも彼女だった。
そんな彼女は未婚らしい。事実婚どうこうの噂もあるが、公的には未婚。養子がいる。結婚どうこう言われる娘たちの建前になるのがバグノールドだった。
あの方が未婚なのだもの。別に結婚しなきゃいけない理由はないわよね? だ。
「……ほしいかわからないって、私はどこかおかしいかしら」
こぼせば、ハーマイオニーが眼を丸くした。やっぱりおかしいのか。
「大丈夫よ。私もそうだもの」
むしろ、あなたが自信なさげなのが意外だわ。
「過大評価よ」
英雄を射止めた女だとか、死喰い人を倒した女、バグノールドの薫陶を受けたどうこうと噂されているらしい。噂が独り歩きしているだけだ。
「……あなた、育児の手が足りないとか環境は問題ないんだから」
そのうちつくればいいんじゃないの。
「恵まれてはいるわよね」
ただね、と言いかけて唇を噛んだ。ハーマイオニーは何かを察したのか天を仰いだ。
「変に諦め癖があるものねえ」
クインはなぜ彼女がレイブンクローに入らなかったか、甚だ疑問だ。
過去から現在に意識を戻し、ついでに夫の体温を意識してしまう。なかなか眠れない英雄。なにかあったときは、盾になってクインだけ逃がそうと目論んでいるだろう男。
みくびらないでほしいものだ。クインだってこっそり所有してる館がある。伝手もある。いざとなれば夫を拐ってでも逃げるために、手は打ってある。
命を捨てさせるものか。
生まれを気に病むのは仕方がない。だが。
「……囚われて、諦めることはないのよ」
幸せになってもいいんだからね。
囁いて、眼を閉じた。