英国のとある州の町のひとつ、その郊外。整えられた芝を踏む。軽い音が響いた。ルキフェルは横目で従兄弟を見た。黒髪に空の眼。ゆるく括った髪は、戦意に跳ねていた。
――抑えないといけないか
いけないのだろうな、とルキフェルは思う。一つ違いの従兄弟は、気短で夏の陽のような激しさの主だ。特に、このところ手に余る。
無理もない。一族は先日災禍に襲われたばかり。気が立って当然だ。無謀にも『谷』を飛び出したのも納得であるし、ならばとルキフェルは同行した。ナイアードを――第二分家当主を失うわけにはいかず、第三分家次男末子ルキフェルの命は軽い。少なくとも替えはきく。
――身体を
張らなきゃいけないかな。ルキフェルはひとりごちる。
杖を握りしめた。目的の邸の門扉は固く閉ざされている。門扉だけではない。古い純血名門ロングボトム家、本家の邸は――殻で覆われていた。
「邪魔避け、侵入防止、検知……姿現し防止領域」
呟く。苦いものがこみ上げた。きっちりと組まれた殻――障壁は、邸の主たちの手によるものではないだろう。ルキフェルの眼は、破られた障壁の痕跡を読み取っていた。侵入者は新たな障壁をつくったのだ。誰にも邪魔されないように。
「複数人……ひとりは、」
唸り声が聞こえる。ルキフェルは眉間に皺を立て、隣に眼をやる。ナイアードは眼を光らせ、障壁を――ロングボトム邸を睨みつけていた。邸が燃え上がらないのが不思議なほど、煮えたぎった眼であった。
「シリウスに近い魔力だ」
その名が紡がれ、ルキフェルはつかの間眼を瞑った。シリウス。快活で、闇を疎んじ、己が生家を裏切った男。あらゆる鎖を引きちぎり、正道を選んだ男。誰が思うだろう。彼が暗渠に……監獄に入れられるなどと?
ありえないことだった。ありえてはならないことだった。なにかの間違いに違いなく、しかし世間はシリウスを憎んだ。闇の帝王ヴォルデモートの片腕として。
「ベラトリックスか」
一等星の名を持つ男を思惟から切り離す。狂信者の名を口にした。正道に背を向けた女。ブラック家の悪徳を煮詰めたかのような魔女の名を。
『三人の命が失われる』
青ざめた『先視』の言が蘇る。筆頭分家の当主――クロードは、優秀な魔女だ。祖ロウェナの血を濃く継いだ彼女の言を疑うわけがなかった。
ナイアードは即座に動いた。ルキフェルは彼に従った。割ける人員に限りがあり、ましてやそれが他家のことならばなおのこと、割けるはずもなかった。一族は探しものに血眼になっているのだ。いくら先視の言とはいえ、容易には動かない。それこそロングボトムの血縁であるナイアードが、自ら動くしかないほどには。
ナイアードの唇が動く。直後、小さな音とともに妖精が現れた。ナイアード付きの屋敷しもべだ。
「なにをすれば?」
彼の丸い眼が、一心にナイアードを見上げる。さながら忠実なる猟犬のようであった。
「中を探ってくれ。無理はするな」
ナイアードの応えは簡潔そのもの。懐から珠を――澄んだ色のそれを取り出し、己のしもべへ投げる。妖精は、慣れたように珠を掴み、景色に姿をとけこませた。
――さっさと突入したい
しかし、やみくもに突っ込んでどうにかなるほど死喰い人は甘くない。いくら焦っていても、心臓が早鐘を打っていても、落ち着いてことに当たらなければならないのだと、ナイアードもルキフェルも知っている。
「……少なくともベラトリックスとその夫、あと一人、二人……三人か」
五人、とナイアードは呟く。手には珠を持ち、空色の眼は邸を捉えたまま。異能の輝きが、彼の眼に宿っていた。
『識眼』。リアイスに流れる血のどこからか発現した力。魔力を視る眼である。公言はしていない。七変化や先視などと同じく狙われやすいのだ。例えば七変化の女は母体として拐われることもあったそうだし、眼にまつわる異能の主は、殺害して、あるいは生きながらにして眼をえぐりとられ……等の物騒な時代もあった。おおっぴらに触れ回ることではないのだ。
「不意を打てば」
ロングボトム邸の構造は把握している。ナイアードとともに何度か訪ねたものだし、貴族の邸はたいてい似たようなつくりだ。
忍び込み――妖精の助けを借りればなんとかなるだろう――三人を連れ出す。敵に勝つことを目的にしないのならば、やりようはある。
――高名な闇祓い夫妻
フランク・ロングボトムとアリス・ロングボトム。
彼らが災禍に見舞われるなど考えたくもない。ヴォルデモートが消えてたった数日。そして、闇祓いの星が……二つの星が墜ちて数日。フランクとアリスは必要なひとたちだ。
世間はヴォルデモートが消えた喜びに浸っているが、じきにわかるはずだ。旗頭がいなくなっただけで、闇の陣営はそこかしこに潜んでいるのだと。その不安を払拭すべく動くのは、フランクとアリスであるべきだ。激戦を生き残り、ヴォルデモートと対峙しながらも命を拾った英雄夫妻。
――なにごともなければよい
しかし、フランクとアリスにふくろうを送っても帰ってくる。ナイアードが『炎』を送っても駄目だった。少なく見積もって一時間から数時間、フランクとアリスは隔絶されている。事態に気づいたのはたった十数分前なのだ。数時間どころか半日経過している可能性すらある。
誰もフランクとアリスが襲撃される可能性など考えていなかった。まさか闇祓い夫妻を襲おうなんて狂った輩が出るとは。まともな頭をしていれば、ヴォルデモート捜索を優先するだろうに。
ナイアードとともに珠をのぞき込む。渦巻く霧が晴れ、像を結ぶ。妖精は障壁を抜け、ロングボトム邸――今となっては敵の根城になってしまったそこ――へ侵入を果たしたようだ。人族は妖精を知ろうともしないが、彼らには独自の魔法がある。縛り付け、隷属させ、使役せねばならない――と遠い遠い昔、魔法族の祖に思わせたほどに、妖精は強い。
関係の結び方は、隷属だけではないというのに。きちんと遇し、請えば彼等は力を貸してくれる。案じてもくれる。
『お嬢様』
私の可愛いお嬢様。高い声が蘇る。老いた妖精。墜ちた星――リーン・リアイスの母親代わりだった。柩の前にへたりこみ、頑として離れようとしなかった。生まれた時から世話をしてきた『お嬢様』を亡くした悲しみは、ルキフェルごときでははかれはしない。
想像はつく。ルキフェルとて妖精に慰めを与えられ、育てられたようなものだ。母は、ルキフェルたち兄弟を疎んじた。父に似ていると言って。
『私は』
望む人生があった。お前たちのことは好かない。特にルキフェル、お前は厭だ。あの人と同じ紫眼。ああ厭だ……。
儚げなひとだ。だというのに秘めているのは激しい炎。己をもむしばみ壊すそれ。
詮無い思考を振り払う。珠に意識を集中させ――眼を見開いた。
玄関ホールは破壊されている。転がっているのはロングボトム家の妖精たちか。息があるのかないのか、映像だけではわからない。
壁には亀裂。肖像画は焼け焦げ、窓は破れ……破壊の、戦いの後を妖精は追っていく。ふわり、と浮き上がり、崩れた階段を飛び越える。奥へ――奥へと廊下を行き、そして。
ひゅ、と妖精が息をのむ。ルキフェルたちも凍り付いた。
元の様相はみる影もない室。点々と散らばる白いものは爪か。まき散らされた血。砕けた花瓶。散った花。折れた杖。そして。ぺたりと座り込む影。
「ああ」
ざらついた声。珠が――ナイアードの手が震える。
「赦さない」
従兄弟の眼が燃え上がる。指を鳴らせば、現れたのは箒が二つ。空の色は深い青に染まり、渦巻くのは憤怒の雷だ。
ルキフェルは箒にまたがった。ナイアードの考えなど知れている。突き抜けるような怒りがあろうとも、理性までは吹っ飛んでいない。
――少年二人になにができる
大人たちはルキフェルたちをいさめるだろう。しかし。しかし……あれをみて動かずにいられない。
なぜ壊れなくてもよい人たちが壊れた。正道を選び、進み、希望の灯をともし、闇を祓っていたひとたちが。
たくさんだ。
浮遊する。邸よりも高く。邸を獄と成している障壁よりも高く。ナイアードが巧みに箒を操り、屋根の上――障壁すれすれまで近づける。
彼らはリアイスだ。ただの少年たちではない。ならばすべきことなど決まっている。
杖を構える。強い意志をこめ、呟いた。
「破砕せよ」
そうして箒から飛び降りる。
ナイアードが叫ぶ。障壁を、屋根を穿った穴から、室が――黒髪の女の、ぎらついた灰色が見える。
「見ちゃったかい! はははは!」
高笑いを裂くように、室に飛び込む。と、と着地した刹那、緑の光線が襲い来る。しかし、出現した鏡が、砕けつつも邪悪な輝きを跳ね返し、壁を破壊する。
背中あわせになり、居並ぶ下衆をにらみつけた。
ガキじゃないか、と誰かが言う。その首に何かがからみつき――両断。転、と転がる頭部に、下衆どもの中でも若い――ルキフェルたちと変わらない年頃の少年が悲鳴を上げ、へたりこんだ。
「……死んだほうがマシだろう」
そんな目にあわせたくせに。にぃ、と口端をつり上げたのは、『狼縛り』を操るナイアードだ。竜をも縛ると言われる魔法具を駆使し、人を始末しながらも笑みを浮かべる、その狂気。
「だって吐かないんだもん」
同じくにっと笑むのは、狂った獣。帝王に心酔する、正道を捨てた者。
「勢い余って壊しちゃったんだ」
軽やかに杖が振られる。一、二、三、と放たれた死を、ルキフェルたちは短距離姿くらましで回避。轟音とともにどこかが壊れる。ナイアードがベラトリックスと二人の死喰い人を相手どるその隙に、ベビーベッドの近くに出現する。大急ぎで保護呪文をかけ、妖精を呼ぶ。ナイアードの妖精はすぐさま現れ、赤子を受け取った。
「行け。ひとまず『谷』へ。そして報せを」
泣き濡れた妖精が、ぎゅっと赤子を抱きしめる。その姿が消えると同時に飛び退いた。ベビーベッドが斬撃に見舞われ、ルキフェルの衣を、肩を切り裂いた。血が飛沫く。視界の端をかすめる紅に、血にかまわずに、身をよじる。
「いけないね」
かわいい玩具を逃がしちゃってくれて。
立ち姿は優雅。すらりとした姿は美しく、しかし灰の眼は暗い輝きを帯びている。濃い鉄錆の香。ベラトリックスを挟むようにして立つ、ナイアードから漂っている。死喰い人を制圧してのけたその代償に、手傷を負ったようだ。そして……そして、ベラトリックスを圧倒するには至らない。
帝王の副官と、リアイスが二人。しかも成人になっていない二人。数では有利。駆けてきた、超えてきた死線の数では――不利。
逃げるべきだと理性は言う。だが。
「旗頭を失った負け犬が」
血を流しながらもナイアードは吼える。
「お前はここで終わるんだ、ベラトリックス!」
す、と帝王の副官の気配がとがる。じわりとにじみ出る、暗く激しい魔力。ルキフェルは唇を噛み、杖を構えた。
退くものか。今回ばかりは従兄弟の好きにさせてやる。ルキフェルも同じ気持ちなのだから。
「更正の機会など与えない。赦しも与えない。救いもあるものか」
呟く。
「お前は――お前たちは」
祓われるべき闇なのだから。
床を蹴る。獅子たちと帝王の副官が激突し――ロングボトム邸周辺一帯を、轟音が塗りつぶした。