あなた。
どうしてなの、あなた。
細い声。窓の外は闇に塗りつぶされ、時折光に切り裂かれる。うなるような雷鳴と、銀の雨。
浮かび上がる影は膝を突き、両の手でなにかを抱えている。
起きて。
ナイアードが来ましたよ。
語りかける声が室にたゆたい、消えるのみ。応える者は誰もいない。
「母上」
ふさがったような喉を押し開き、かろうじて声を絞り出す。
『炎』が顕現し、転がるように談話室に降りた。ほとんど同時にマクゴナガルが寮に飛び込んできて。
『ナイアード!』
お父君が。なんということ……。
ほんの一時間前までホグワーツにいたというのに。なぜ彼はここにいるのだろう。『谷』の、ステータント城……殯の間に。
なぜ母は。
父の首を持っているのだろう。出来のよすぎる玩具だ。生白い肌。閉じられた瞼。血の気の失せた唇。今にも瞼をあけて、ナイアードと同じ空色を覗かせそうなほど……。
「ここは冷えます」
声が震える。母をなんとかしてやらないと。殯の間は身重の母にはつらいはず。ナイアードがしっかりしないといけない。だって父は。父、は。
まっすぐに母が抱えた『それ』を見る。わかっている。わかっているのだ。それが玩具などではないのだと。かすかに香る鉄錆が、置かれた柩がその証。閃光と轟音。母の顔がくっきりと照らされる。いくつもいくつも筋がある。かきむしったのだろう……耐えられなくて。そうして首を抱いた。夫の首。ナイアードの父の首。まるで、どこかの伝説のように。聖者の首を抱く娘のように。
「あなた」
歌うように母は言う。
起きて、と。
ナイアードは眼を瞑った。
もう彼女は。
あちら側から戻ってこないのだと悟った。
◆
「……死喰い人の集団の中に突っ込むってバカかお前は」
親友の青い眼をぼんやり見やった。モリー小母と同じ眼の色だな、と。ついでにガミガミ説教するのも小母ゆずりだろうか。
「学校は」
「マクゴナガルに直談判した」
ウィリアムソンと一緒にな。親友――ビル・ウィーズリーはさらりと言った。
――じゃあ
ルキフェルはウィリアムソンに説教されてるのか。ウィリアムソンはナイアードより一つ上、つまり従兄弟のルキフェルと同学年だ。なんでもそつなくこなす男だ。
「普通魔法試験の年だろ。戻れよ」
進路に関わる大切な試験だ。授業を放り出して聖マンゴに来ている場合ではない。
「一日くらいなんとかなる」
堂々と言い切られた。ナイアードは苦労して半身を起こした――いや、起こそうとして、結局ビルに支えられた。母の看病は慣れているが、自分が世話を焼かれるのは妙な気分だった。
「さすが学年首位」
軽口を叩こうとして、痰がが絡む。すかさず洗面器が差し出された。ビルの野郎、学業だけでなく他も出来がよい。
「お前には負けるよ」
ベラトリックスと戦う学生がいるか。ビルは舌打ちせんばかりだ。
「死んでないのが不思議なくらいだ」
「……そんときはベラトリックスも道連れだ」
しとめ損ねた。いや、ナイアードは敗けたのだ。
『さすがはリアイス!』
リーンの血縁だけはある! きゃらきゃらと笑う女は、肩から血を噴こうが、顔が傷つこうが……どこを切り裂かれようが楽しげだった。シリウスと同じ眼に躍っていたのは狂気。シリウスと似て非なる者。杖を差し出すのは帝王にのみ。正道を踏みにじり、血と涙を生み出し、嘆きと苦しみをまき散らす。
「腕の一本か指の数本くらいは欲しかったな」
「包帯まみれガーゼまみれで言うな! 輸血までされたのに懲りてないのか」
ビルの顔は真っ青だ。そういえばこいつは「まとも」側の人間だったなと思い出す。いつもつるんでいるから忘れがちだが、旧家の生まれとはいえ、ビルは一般的な魔法族だ。ナイアードと違って。
――たぶん
ビルの反応が普通なのだろう。誰だって戦いは厭だ。怪我も避ける。危ないところには近寄らないだろう。好き好んで敵陣に斬りこむほうがおかしいのだ。
「あいつが呼吸している事実がいまわしい」
なぜのうのうと生きている。叔父夫婦を壊しておいて……。
唇を噛む。ぶつりと切れて生温かいものが流れていく。
――なぜ
叔父夫婦があんなことに。フランクもアリスも叔父叔母というより兄や姉のようなものだった。仲のよい夫婦だった……。
『ナイアード』
思い詰めなくていい。
肩を掴む厚い手のひら。一心にナイアードを見る双眸は、母と同じ色。
父を亡くした夜。母が壊れた夜。叔父夫婦は駆けつけてくれ、ナイアードのそばにいようとした。
『義兄上のことは残念だった。姉上のことも……』
ひく、と叔父は声を詰まらせた。ナイアードよりも、叔父のほうが泣き出しそうな顔をしていた。
『仇を討つなんて考えるなよ。お前はまだ学生だ』
戦いに身を投じようなんて思わないでくれ。
誰かに死なれるなんてもうたくさんだ。
『僕たちが』
この時代を終わらせるから。
強い決意を秘め、叔父は言い切った。叔母も力強く頷いた。彼らは黒衣を纏う者。闇を祓う者だった。
――それが
あんな無惨な有様になった。散らばる爪、汚物にまみれ、へたりこみ、口から泡を吐き……ぷつぷつと何かを呟く、壊れたなにかになってしまった。
「なんで」
あなた、起きて。壊れた女が言う。ナイアードが来てくれましたよ。
死んだ首に向かって呼びかける。きっと永遠に……なにもわからぬまま。
今日もそうしているのだろう。胎の子が流れたのもわかっていないのだろう。彼女は耐えきれなかったのだ。けして弱いひとではなかったのに。それでも、それでもだめだった。
夫が生きながらに手足を切断され、蛇に呑まれればそうもなるだろう。夫が残したのは首と、へし折った蛇の牙だけ。ほかはなにも残らなかった。柩は花で埋められ、そこに首が鎮座した。悲しいほどに軽かった。
「あの人たちが」
死んだ父。壊れた叔父夫婦。同じく壊れた母。ナイアードはなにもできていない。怒りのままに動き、なんとかネビルを助けただけ。
ああ、先視が見通した未来は回避した。だがそれがなんだろう。真に救えたのはひとつの命。残り二つは。
――生きていると、言えるのか
闇の帝王は消えた。どこかに失せただけだろう。失せたくせに、あれの影は善なる者たちを踏みにじったのだ。
決して赦すものか。
息を吸って吐いた。感情の波が、ナイアードの空色を熱く燃え上がらせる。弱った身体をむしばみかねないほど、激しく。
「ベラトリックスもヴォルデモートもその一味も」
俺が全員殺してやる。
そのために。
強くなる。