ねえあなた。
とある時代、とある日。彼は呼び止められた。
「なんだよ」
ホグワーツの庭――いくつもある中の一つで、彼は座り込んでいた。制服は泥だらけ。頬には切り傷。典型的ないじめられっ子であった。
姿勢良く立ち、腕を組んで彼を見下ろしているのは、緑と銀のネクタイを締めた女であった。彼をよってたかって「いじめていた」連中を追い払ったのが彼女である。親切心からではないだろう。
なにせ、彼女の寮と彼の寮は水と油である。なれ合うことはない。「こんなやつにかまっていては品位が落ちるわ」とどうしようもないいじめっ子を追い払ったのだから、やはり親切心ではない。
「僕に何の用だ。マルフォイ家のお姫様」
それとも君こそが、僕をいじめたいのか。
「半端なリアイスをなぶって喜ぶのか、マルフォイ」
唇を吊り上げる。はっきりとした嘲りを顔に貼りつけた。相手はマルフォイ家の姫君だ。怒って背を向けるはず。彼だっていつまでも彼女に見られたくはないのだ。
――あざ笑ってやりたいのは
彼自身だろうか。囲まれて、よってたかって手を出され、抵抗しない無様なリアイス。スリザリンの莫迦どもを伸そうと思えばできた。けれど下手に動けなかったのだ。なにせ彼は、将来リアイスの暗部を担う者。影働きをするのだから……実力を示すわけにはいかない。
リアイスの中でも弱い者であらねばならず、なめてかかってくる莫迦を適度に満足させねばならず。どれほど屈辱的であろうとも、のみこまなければならなかった。
「嘘吐きのリアイス」
抵抗できたでしょうに。
薄紅の唇が、はっきりと言を紡ぐ。
「買いかぶりすぎではお姫様」
「そのお姫様っていうのやめてくれないかしら、リアイス。馬鹿にしてるでしょうあなた」
「マルフォイの姫なのは事実だろう。それとも名でも呼べと?」
エストラージャ。
その名を紡げば、彼女の眼が険を帯びた。緑が深くなる。
――マルフォイというよりも
ブラックだな。怒った時なんてそっくりだ。エストラージャ・マルフォイは現当主夫妻の娘……で通っている。だが、実際は違うのだと、彼は知っている。やはりリアイスになんて生まれるものではない。どうでもいい話も耳に入ってくるのだから。
「言えるんじゃないの」
「そりゃ、覚えているけどね」
思惟を断ち切って、腰を上げる。制服は洗浄すればなんとかなる。遠慮なくやってくれたものだ。
「同学年なわけだし」
気安く呼ぶなとお怒りになるかと。仰々しく一礼してみせれば、最高に厭な顔をされた。
「道化ね」
「よくおわかりで」
僕は哀れで滑稽な役割なんだよ。
「わざと泥を被って、呪文も避けきらずに?」
その気になればどうとでもできたくせに。
彼女ことエストラージャは大変に刺々しい。グリフィンドールの彼――イルシオンに対するものだとしても、ここまで突っかかられるいわれはないのだが。
「出来損ないでね」
――と、いうことになっている
内心で舌を出す。誉れある魔法騎士の一族にしては不足がある。意欲が薄い、本当にグリフィンドールなのか。ハッフルパフこそがふさわしいのでは。それがイルシオンに下されている評価だ。学年の順位も真ん中くらい。とにかくなんでも「そこそこ」。それでよいのだ。
「できるのにしない人、嫌いなのよね」
「だから過大評価だマルフォイ。君は僕を見下して、踏みつけているほうが似合いだろう」
なにせ片方はブラックなのだものな?
にっこり笑って言い放てば、彼女は固まり――次の瞬間にはハンカチを投げつけられていた。
「汚い顔を拭いて、さっさと行きなさい」
初めて長々と話したのが、浪漫の欠片もない中身で。
だというのに――。
――人生なにが起こるかわからないな
嘆息を一つ。細い腕を掴み、イルシオンは視線であたりを薙ぎ払う。竜の館、玄関ホールは巨人の遊び場のような有様になっていた。絵画は吹っ飛び、壁の一部も吹っ飛び、お高いシャンデリアは破壊。ご立派な大階段も損壊。床には穴。そうして、杖を構えて震える愚民が一人、二人。
「リアイスのもとから女を奪うのが、どういった罪になるか」
これでおわかりいただけたかな。
口端を吊り上げる。ぶるり、と影たちが震えた。マルフォイ当主夫妻である。イルシオンの妻の両親。実際には養親だが。
「卑しい武門にくれてやるものか。これは――私たちの――娘をたぶらかし……」
「押し掛けてきたのはあなたがたの娘のほうだが。まあそれはいいか。今更だ」
ひょい、と杖を振る。馬鹿二人から杖がもぎとられ、空しい音を立てて転がった。もう一振りすれば、頭の弱い二人が硬直し倒れた。
「子どもができんからとブラックから娘をもらったくせに、冷遇していたのはどこのどなただったかな? 一応あなたの姪にあたるはずだがな」
よくある話といえばよくある話。実子が生まれたからいらなくなった。最低限の配慮はしたが――である。養女を家格は高いがどうしようもない輩に売ろうとして、養女は出奔したのである。
イルシオンが女でも厭だ。逃げ出したくもなるだろう。学生時代につき合ってはいたが、互いに水と油の家門である。期間限定のつきあいだと割り切っていたはずだった。
しかし、事情が変わるなんてことはいくらでもある。渋るイルシオンは口説き落とされ、秘密裏に結婚もし、ほんの少し気をゆるめたら、だ。
――妻が拉致され
今に至る。
「どうするラージャ? 裸にひんむいて放り出してもいいし、俺がどうとでもしてやるぞ」
つかんだ腕の先――妻の
「いいのよ」
うん、と頷いて手を離す。さらわれ監禁されていた割にはしっかりした足取りで進む。転がる養親たちを思い切り蹴り飛ばした。
「お世話になりましたわ。二度とお会いすることもないでしょう。ね?」
「……あの時潰しておけばよかったか」
喉から押し出されるのはしわがれ声だ。眼に入るのは灰色の髪。
背を丸め、ひとりごちる。
それなりにマルフォイ家には苦渋をなめてもらったな。養女を虐げていた男は、一物を切り落としてのたうちまわらせたし、女のほうはもう少し慈悲をかけてやった。
もちろん妻は知らない。イルシオンが勝手にしたことだ。そして公的には自殺で処理された。
そこで満足せずに、マルフォイそのものを消し飛ばしておいてもよかったのだ……。
「どう思う?」
続け、視線を投げた。応じる声はない。そうだった。イルシオンが姿を借りた魔女は、深い眠りに沈んでいる。魔女はなにがなにやらわからなかったろう。なにせ情緒不安定な『お嬢様』をなぐさめていたら、意識が飛んでいたのだから。
お嬢様ことナルシッサの元乳母、現世話役に成り代わってずいぶん経つ。露見はしていない。使用人など背景と同じなのだから。
あてがわれた小部屋は簡素なものだ。といっても、なにせナルシッサが生家からともなった世話役である。庶民の基準からすれば、十分に贅沢だろう。敷物も調度も古びているが上等なもの。ナルシッサがいかに世話役を頼りにしているか伺いしれる。
――だからこそ
都合がよかったわけだが。
下手にナルシッサやルシウスをのして潜り込むよりかは楽である。ある程度自由に動き回れるし、気にもとめられない。そして厭な役目――重要事項も押しつけられやすい立場だった。
『耐えられないわ』
あんな惨い……あまりにも……。
両手で顔を覆うナルシッサをなだめ「お任せください」と引き受けた仕事。
それはとある虜囚の世話である。ひっそりと運び込まれ、選ばれた少数が世話をしている。
イルシオンは椅子を蹴った。ああ、婆の身体はいちいち軋む。イルシオンだって爺なのだが、年を食わない体質で、老いの実感はあまりないのだ。
――息子にも先立たれたしな
孫は健在なのだったか。ぼうやり思いつつ、歩を進める。地下への階段を一歩一歩ゆっくりと降りていく。
覚えのある階段だ。その昔、妻を取り返しに行ったことが役に立つとは。竜の館の構造は把握済み。地下牢までそっくりそのまま残してあるものだから驚いたのなんの。撤去および改装の手間を惜しんだのだろう。
寒々とした廊下を進む。とある室に入れば、虜囚は寝台に転がっていた。どこもかしこも傷だらけ。敷布は血やら爪やら、口にするのもはばかるもので汚れきっている。
ナルシッサが嫌がるわけだし、息子を遠ざけるわけである。虜囚のほうとて同年代の青年にこんな有様を見られたくはないだろう。
獣どもめ。
ヴォルデモートもベラトリックスも虜囚に異常な執着をみせている。肉体的にも精神的にもあらゆる意味でなぶり、支配しようとしている。
よく耐えている。
嘆息し、イルシオンはいつものように虜囚を綺麗にし、傷を手当てした。
「……もうしばらくの辛抱だ」
聞こえぬとわかっていて囁く。とらわれのグリフィンは深く眠っている。そうでなくば耐えられないから。
耐えて耐えて、正気を保っているのは、ひとえに願いのため。
『会いたい』
こぼれた本音をイルシオンは聞いてしまった。ならば叶えてやるべきだろう。
「仕方ない」
マグダラの令嬢を思い浮かべる。美しい白金と、マグダラの藤色をもつ娘。
「曾孫のためだ。私もやる気になるさ」
なあラージャ。