【完結】虹彩の奥底   作:扇架

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とある十番地にて

 男にとってその年は、目まぐるしい、悪夢のようなものだった。次々と事件が起こり、息つく暇もなかった。

 ビルが倒壊した、橋が落ちた。トンネルが崩落した。経年劣化ではない。設計の不具合でもない……だというのにそれらは起こった。責任の擦り付け合い。不毛な話し合い。会議は踊る。

「基準値を見直したところで! どうにかなるか!」

 ダウニング街十番地――官邸の奥の間で、男はひとり呟いた。なにせ男は首相なのである偉いのである。叩き上げで成り上がりで癖が強くて性格が悪いと言われるが、まあ偉いのだ……が、そんな男にも手に負えないことはある。人智を超えたものだ。神ではない。神のほうがマシかもしれない。諦めもつく。一連の「不思議な」出来事には黒幕がいるのだ。陰謀論者みたいで嫌なのだが――いるのである。本当に。

 それは魔法族と名乗っている。

 どこの組織の信者だと思ったり、己は幻覚を見たのかと思ったりしたものだ。最初は。向こうの大臣は辛抱強く説明し、いくつか「魔法」を使い……観念した。いるのだと。おはなしが大好きな孫娘に「魔法使いは山高帽をかぶっていて、奇抜なんだぞ」とは絶対に言えないわけだが。

 山高帽の男が失脚し、今度は獅子のような男が「向こうの大臣」になった。いかにも切れ者いかにも有能で、たしかにゴタゴタをおさめるのには最適だろうと彼は思った。

――どうしたものか

 こちらから接触して、あの獅子の胸ぐらを掴んで説明を求めるべきか? あんたたちのせいだろう、と。

 だが言ったところでどうなるのか……。あんまり向こうと接触したくないのである。頭がおかしくなりそうであるし。

 彼はうろうろと室を歩き回る。謎の崩壊事件やら、花火が上がったやら、川で死体が見つかったやら。めちゃめちゃである。しかも川の死体はどこからか流されてきたのではなく、飛行機からでも墜落したのではないか……という損傷具合だったらしい。何体も浮かんでいたそうで、とにかく奇妙だったらしい。ほんの数日前の出来事だ。が、マスコミにも嗅ぎつけられず、謎の死体事件は消えてしまった。闇から闇へ葬られたのだ。魔法族とやらの手で。

 キングズリーはどこにいる。有能な彼の秘書。本当は魔法族。ここしばらく見ていない。別件で忙しいのだろうと放っておいた。彼にできることはなにもないのだ。

 あちらのゴタゴタが早く片付いてくれないものか。

 嘆息し、椅子に腰かける。権力とともに手に入れた官邸。政敵を蹴落として首相となり、波風立てずにまあまあの政治をしてさらりと引退する作戦だったのに。なんでもかんでも彼のせいにされる。そのうち旱魃やらの天候問題すら彼のせいにされそうだ。彼は神でもなんでもない俗物なのだが。

 陽はとっぷり暮れている。空は濁ったままで星も見えない。休暇がとれたら孫をキャンプに連れて行ってやりたいものだ……。彼だって星が見たい。

「権力の虚しいことよ」

「いやはやまったく」

 息を詰める。ぎゅっと瞼を閉じ――開く。ここは官邸奥の間、彼の執務室。誰もいないはずなのに、影がある。目の前で、椅子に腰かけている。

 女である。年はよくわからない。彼と同じくらいか……つまり、孫がいてもおかしくないくらいだろう。少なくとも、二十代三十代には見えない。

 黒髪は短く、肩にかかるくらい。眼は鋭い。あの獅子を思い出した。切れ者。纏う威厳は彼女のほうが上か。彼女が政敵でなくてよかったと心から思う。もしそうだったら、彼は首相の座から引きずり降ろされていたろう。己があくまで凡人でしかなく、多少の策謀の才に恵まれていると知っている彼にとって、謎の女は「苦手」の部類に入りそうだ。

「どうにかしてくれんかね」

 迷惑なんだが。婉曲な言葉は使わない。こういう相手にはズバリ言うほうがいいのだ。おそらく向こうの大臣の側近かなにかだろう。いかにもあの男と気が合いそうだ。

「それで? そちらの大臣は使いを寄越して知らぬふりか」

 できる男だと思っていたがな。執務机越しに嫌味を飛ばす。同時にらしからぬとも思った。向こうの大臣――あの男ならば直接出向くはず。筋を通したがると踏んでいた。たった一度話しただけでも、わかることはあるものだ。

「私は穴埋めだ」

 女は言う。昏い眼で彼を見た。

「ルーファス――魔法大臣は死んだ」

「……殺されたのだな?」

 するりと言葉が出た。悼むより先に、確かめねばならなかった。事故死や病死ならいい。だが暗殺ならば話は変わってくる。向こうの世界は戦争中だと言っていた。向こうの大臣――ルーファスと言ったのか――はこちらを守るつもりだった。彼が操られたら厄介だと言っていた。英国に混乱を引き起こしたい何者かにとって、英国首相を傀儡にすることは価値があるのだ。

「最後は自分で死に方を決めたし、敵方に痛手も与えたさ」

 ふ、と女は笑う。

「あれはこういった場合も織り込んでいて、時間を稼いだ……私はあれに頼まれて、あなたの護衛にきたのだよ。ダウニング殿」

「私の名――」

「わかっているとも。■■■■殿。しかし、我々は代々の首相をダウニングと呼ぶのだ」

 いつの頃からか始まった慣習でね。

――勝手に呼べ

 彼は考えることをやめた。ではなんだ、初代首相のウォルポールの時代から、魔法族は側に張り付いていたのか、とか。

「今は非常時なのでね。増員してるのだ――許せる限りだが」

 手が足りない。あるいはギリギリなのだと女が言わずとも察せられた。向こうの長がやられたのだ。混乱はいかばかりか。

「大臣だなんだと言っても、できることに限りがあるからな」

 女は彼の内心を読んだように言った。もしかして、本当に読んでいるのかもしれない。魔法族なのだから――人を豚に変えることだって、空を箒で飛ぶことだってできるのだろう。子どもの夢みる、少し怖くてきらきらしたお話だったらよかったのに。現実はどこまでも無情で泥臭い。

「経験があるような物言いだな?」

「元大臣なのでね。だからダウニング殿、あなたのお宅の構造は把握しているし、上に立つ者の苦労も多少は知ってるのさ」

――あの男

 あの獅子は、ほんとうに手段を選ばなかったのだ。まさかあちらの元大臣まで引きずり出し、こきつかっているとは。使える人間に限りがあったのだろう。所詮、地位があっても人間は人間だ。ひとりでは大したことはできない。魔法族だろうが、ただの人だろうが。

「事が済むまで、私と数人が官邸に入っている。こっそりひっそり動くから、そちらに支障はないだろう」

 室に、香気がくゆる。女はいつの間にか煙草を吸っていた。仮にも護衛とは思えないくつろぎっぷりである。今すぐ官邸が襲われたり、彼が拐われるどうこうはないということか。

「十年かかるとか言わんでくれよ」

「遅くて五年、早くて一年くらいかな。ただの勘だけれど。ダウニング殿に危難が降りかかることはあるまい」

 ただ、と女は言う。すっと立ち上がった。壁――かかる肖像画に歩み寄る。いつも彼に嫌な知らせばかり伝える肖像画だ。

「万が一襲撃され、護衛もないときは、これに向かって言いなさい」

 合言葉はジェイコブ・コワルスキー。

「君たちのところの偉人の名かね」

 思わず問う。ふっと女は笑った。

「いや。そちらの人間で……勇敢で親愛なる我々の友の名、らしい」

 愛を信じ魔女と結ばれた男なのだとさ。

 ◆

 結局、彼が肖像画に合言葉を言うことはなかった。あっちこっち壊され、事故があり、ハリケーンがあり、彼はのらくらとかわし続けた。ついでに建築基準の見直し等々を進めることにも成功した。定期的な見直しは必要なのだ。なんにだって。

 そうこうしているうちに空をふくろうの大群が飛び、流星群が現れ――あちらの戦は終わった。ひとついいことがあったとすれば、孫が流星群に眼を輝かせていたと聞けたことだ。迷惑な連中だが、たまにはいいことをする……と彼は思い出す。もう数年前になるのか、と現実逃避しようとする。が、現実のほうが声をかけてきた。

「お土産です」

 執務机に置かれたのは紙袋だ。さわるとあたたかい。

「ありがたくいただこう」

 毒など入れてはいないだろう。魔法族はそんなことをしなくとも、彼をどうにかできるはず。目の前の青年だってそう。シャツを着てジーンズを履いて、靴はブーツ。どこにでもいる若者……十人が十人振り返りそうな端正な顔と、真っ黒い外套がひどく目立つだけの若者。勝手にどこからか椅子を出してきて座っている。彼は魔法族なのだという。

「陛下もお喜びでした」

 さらりと言われ、頬がひきつる。陛下かあ。内心でつぶやき、袋を開ける。中に入っているのはパンである。猫に似たなにかとか、ひょっとしなくても一角獣とかの姿をしたパンであった。

「確かに、陛下は好きそうだが」

 それほどたくさん話すわけではない。陛下――英国女王との関わりは、ひょっとしなくとも青年のほうが深いだろう。なにせお茶の友らしいし。

「――で、そちらの大臣は、今度は何の用で君を寄越した?」

「引き取りに来たというかなんというか」

 青年は肩をすくめる。鮮やかな青――群青の眼に陰が刷かれた。

「閣下は浮浪者の保護や社会復帰に熱心だとか」

 むずかゆい呼称もあったものだ。閣下とか。普段は首相としか呼ばれないのに。もう二十一世紀だぞ。だが、古くあらたまった呼称も、青年が言えばしっくりきてしまう。なぜなら彼は貴族だから。こちらで男爵位――それも古くからあるもの――を継承しているのだ。

「犯罪の温床になってはかなわんからな……浮浪者の中に、君のお仲間がいると?」

「なんであなたの任期が切れるのか理解できませんね。こんなに察しがよろしくて、柔軟なのに」

「顔が悪いからな」

「人間、顔だけじゃないのに」

 顔がいい男は言う。じろりとにらめば黙った。

「……俺の場合は貴族の掛け合わせですよ。馬と一緒」

「やめんか」

 思わず叱りつけた。嫌な言い方である。

「親御さんが聞いたら泣くぞ」

「どうですかね――それで、保護されてらっしゃる中に、こちらから迫害された者がいまして。引き取りたいんです。適切な治療や生活の保障やらいりますから」

 そちらでも不思議な騒ぎが起こっているのでは?

「ポルターガイストどうこうで片付けているようだ。幽霊に住民票を出すくらいだからな、我が国は」

 官邸にもいますけどね幽霊。青年が言ったが無視した。いるのか幽霊。

「病院のリストを出させる。しばらく待ちたまえ……しかし、どれだけ君を働かせるのだね、シャックルボルトは」

「行方不明者探しから閣下への詫び状から、上流の方々に異常がないかまで」

 彼はふんふんとうなずきながら、電話をかけて用を伝える。不思議な浮浪者がいる病院のリストをファックスしてくれ。

 電話を切って、訊き直した。

「異常だと? また戦か」

「いえいえ。たとえば閣下とか、政府のお偉い方々に魔法の兆しがないかとか。だからこっちの大臣が閣下に挨拶に来たりしてつなぎをとるんですよ」

「ほう……ということは、君は――つまり……陛下の担当で」

「実は魔法使いとか魔女とか輩出してますよ」

「なんと」

「ついでにそちらの――マグルの貴族にこっちの貴族の血が混ざったりはしてますね。巡り巡って貴族じゃなくても混ざってるでしょうね」

 なんやかやで交流はあるんですよ。俺は陛下や、お貴族様たちがもし魔法の力を持っていたら事態を拾って説明する仕事もあるんですよ。

 めまいがしてきた。そんなことがあるのか? いや、ここまで言っていいのか青年。

「閣下は座を退かれる。だが、影響力もパイプも残すでしょう。誰か、多少の事情を心得る者がいたほうが、こちらも楽なので」

 ファクシミリが紙を吐き出す。青年が席を立つ。彼は紙――リストを差し出した。傷だらけの手がリストを受け取る。彼の年長の孫くらいの年頃だというのに、どれだけの苦難にあってきたのだろうか。

「私がおしゃべりになると思わんのかね」

「誰も信じないでしょう。魔法なんておとぎ話。ちょっと怖くて楽しいお話なんですからね。夢は夢のままでいい」

「よい夢を見せることもできるだろう」

 あの流星群のように。

「あれははしゃいだ魔法使いの仕業ですけども……まあ、綺麗な魔法でした」

 ため息とともに青年が言う。あっちこっちから怒られたらしいですけどね。

「二転三転七転八倒の末に勝ったんで、みんな箍が外れてしまって。何日か連続で虹が出たでしょう。あれも魔法です」

 魔法族は御しがたいのだろうと彼は思った。よかった、彼はただの人間で。首相やってて禿げそうになるのだ。魔法族の大臣なんてもっと大変だろう。それこそ、有事には命を張らねばならぬほどに。

「まだ仕事かね」

「鬼のように人使いの荒い上司がいるもので」

 青年はリストをどこかに仕舞いながら言う。

 彼は財布を取り出し、札を掴んだ。青年に握らせる。

「墓前に花を供えてくれないか。君が見繕ってくれ。釣りはいらん。駄賃だよ」

「承りました。閣下」

 青年がにこりと笑む。薄っすらと青年にまとわりついていた陰が、少しだけ晴れた。

「あなたが無事でいて、任期をまっとうできて」

 それだけでも彼は――ルーファスは報われるでしょう。

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