『ママ』
やっぱり私行くわ。
行かなきゃいけないの。灰色の眼、髪はいつもどおり派手で。まとうのは『鷹の翼持つ死神』の衣。闇を祓う者たちの装束。
待ちなさい。ねえだめよ。
手を掴む。小さな手、細い指にはまった結婚指輪がきらめく。簡素なつくりのそれを、娘は殊の外気に入っていた。宝石なんていらない。絆の証なのだからと言って。
『何度生まれ変わっても』
私はこの人と一緒になりたいのよ。
やめなさいと反対した。わかっている。彼が善い人間だということは。学生時代に見知っているのだ。それでも。
どうして、と呻いた。どうして。よりにもよって。病に罪はないとわかっているのに。彼が悪いのではないと頭では理解しているのに。心がこばんだ。誰が娘に荊の路を歩ませたいと思うだろうか。人狼なんかにくれてやらねばならないのか!
素直に祝ってやれなかった。だけれども、孫が生まれて――狼の形質を継いでいないとわかって、やっと祝えた。娘も静かに暮らすだろうと思っていた。
――戦いに赴くことなく
闇祓いになりたいと言ったときも反対した。どれほどの人間が殉職したかわかっているのニンファドーラ、と。
娘をロングボトム夫妻のようにしたくなかった。それにあの子のように死んでほしくもなかった。ドロメダと呼んで慕ってくれた。駆け落ちしてからも交流はあった。結婚式にも呼んでくれた。
――あれほど
幸せそうにしていたのに。
『ねえドロメダ』
笑って。そう言って、写真を撮ってくれた……。
なのに、なのに逝ってしまったのだ。裏切られ、殺されたのだ。
反対して反対して、結局折れた。娘は闇祓いになり――好いた人を見つけ……。
『行かせて』
ここで待っていたら、私きっと後悔する。大丈夫よ、帰ってくるから。
するり、と手が抜ける。指輪が煌めく。別れを惜しむように。
『愛してるわ、ママ』
ぱちり、と眼を開ける。とたんに冷たい雫が頬を流れ落ちた。あわててベビーベッドに眼をやる。
――いけない
ソファから立ち上がり、ベビーベッドに向かう。ああ、よく眠っている。今日の髪は緑色だ。ふっくりした頬。ちいさな手。娘が残した宝物。
ひく、と喉が鳴る。じわじわと涙がにじむ。大人は泣かないなんて誰が言ったのかしら。ドロメダは大人になって何年も経つのに、こんな有様だ。
すすり泣きが漏れる。手で口を覆う。ここには孫とドロメダ以外誰もいないのに。誰も彼もが、ドロメダを置いていってしまった……。
ぽたり、と落ちた雫に孫が眼を覚ます。澄んだ灰色がドロメダを捉えた。生家の色。けして好きではなかった色。だけれども、娘の灰色は愛しかった……。手を取り合ったひととの間に授かった、ドロメダの宝物だったから。健やかに生きてくれるだけでよかった。なのに……。
孫の眼が潤む。透明な膜がはって、抱き上げた。けれども遅かった。猫のような泣き声が響く。
「泣かないで」
泣かないのよ、テディ。あやしても泣き止まない。小さな手をどこかにのばす。
「お前のお母さんもお父さんもいないのよ」
遠くに行っちゃったのよ。呟くように言って、背を叩いてやる。またもや涙があふれる。ドロメダも孫も、空白を持て余している。あまりに大きな虚を。
「私がいるからね……」
囁いたとき、白い輝きが舞い降りてきた。孫が眼を見開く。室の薄闇を、祓っていくそれは、用件を告げると消え失せてしまう。
――まさか
孫を抱いたまま、玄関へ向かう。もう床払いをしたのか? けれどそんな状態ではないはず。だってあの子も傷ついたのだから。
ほと、と扉が叩かれる。ドロメダは杖を構えたまま扉を開けた。いまにも降り出しそうな空を、寂しげな庭を背に、ひとりの青年が立っている。
――ああ
まるで従兄弟が帰ってきたよう。あまりにもよく似ている。ただ、そのまなざし、憂いの深い双眸だけが違う。落ちかかる陰は――母親を思い出させる。
「こんにちは」
ドロメダ。囁くように青年は言い、片手に抱えた花束を――派手なそれに眼を落とした。
「トンクスなら、こんな色が好きかと思って」
粛々としたやつ、彼女嫌いでしょう。甘い香りが漂う。
「髪も服も派手だものね」
口許がゆるむ。お上がりなさいと身振りで示し、青年を招いた。居間に通し、お茶をいれようとする。だが、青年が先に動いた。
「やすんで」
お客様にそんな、なんて言う暇もない。青年はてきぱきと動く。そのたびに髪を括ったリボンが――藤色が揺れた。伏せっている間にのびたのね、とどうでもよいことが頭を過る。
流れるような指揮で、花瓶に花が生けられる。寒々しい室に、ぽっと灯りがついたかのよう。
「座っていて」
優しくソファに座らされる。気づけば孫はぬいぐるみ軍団に面倒をみてもらい――まだおすわりも不安定なのだ――ドロメダはスープを飲んでいた。柔らかいパンもある。
青年はといえば、ソファの端で紅茶を呑んでいた。
「痩せたわね」
「あなたも」
青年は淡々としている。感情がすり減ってしまったせいかもしれない。それだけの目にあったのだ……挙げ句に養父も亡くした。目の前で亡くしたのだと聞いている。青年にとっての養父は、ドロメダの娘の夫でもあった……。
「作り置きはたんまり用意しておきました」
とりあえずスープだけでも飲んでください。ぽそっと青年が呟く。
「いつの間に料理上手になったのかしら」
「リーマスがズボラするから」
あのひと俺のためじゃないと、家事しないし。
「たまに俺が世話焼いてやんなきゃ、だめで」
「大好きだったのねえ」
「父ですから」
ドロメダは青年から視線をはずした。声が湿っているのなんて気のせいだろう。気のせいということにしてやらないと。
「だから、あなたも食べないと……」
吐いてもなんでも、食べないと。
生きないと、と聞こえた。そうね、と答えたものの、それがどんな温度かドロメダにもわからない。残されたのは孫だけで。あとは虚ろながらんどう。娘を殺したのはよりにもよって姉で、仇は青年がとったのだという。
「無理矢理、帰していればよかった」
か細い声に顔をゆがめる。ドロメダも青年も傷だらけだ。ああすれば、こうすればと思ってばかり。世界の闇は祓われたのに、ちっとも前を向けないのだ。
「……あの子たちらしいじゃない?」
「わかっていますよ」
――この子も
夢を見ているのだろうか。引き留められない夢、掴んだ手が離れていく夢。遠ざかる背中を。夜毎に苛まれているのだろうか。
「勇敢で、誇るべきひとたちで」
自ら的になるようなひとで。
「わざと、派手にして……」
こらえきれずに視線を戻す。ソファの端で青年が縮こまっていた。
「ああいう格好が好きだったんでしょうけど、わざともいくらかあったでしょう?」
「私のかわいいドーラだもの」
当然だわ。少しだけドジだけど勇敢で、明るくて。でも務めには忠実で。殺されたのだって、ほかから姉を引き削がし、対決に持ち込んだからだという。戦場では眼をひく色だ。姉が飛びつかないわけがない。産後で回復しきっていない身で、無茶をしたのだ。誰も姉の――忌まわしい魔女の犠牲にならないように。
「ごめんなさい」
ぽつんと落とされたつぶやき。自分が早くしとめていれば、無理矢理帰していれば、それとも。ドロメダには与りしれない意図を含んだ吐露だった。
「あなたはよくやったわ」
いいのよ、とは言えなかった。青年のせいではないのだ。あの子の選択だ。やつれた魔法騎士を責めるべきではない。あまりにも……むごい。
青年の白皙を、黒の紗が隠す。小さな手に掴まれた藤色。
「抱いてやって」
いつの間にか、孫が青年の膝に手をかけていた。藤のリボンを振ってご機嫌だ。
「俺は、」
「こうするのよ」
そっと青年に近寄る。孫を抱き上げて青年に託した。ぴくり、と青年の手が震える。はらりと前髪がゆれ、深い色の――異なる色の双眸が覗いた。
おずおずと孫を抱く。そうっと、だけれども落とさないように抱きしめて、彼は小さく小さく呟いた。
「なんで、」
逝ってしまったんだよ。