そこは湿ったにおいのするどこかだった。柱には蛇、床は黒。磨かれたそれには白い石がはめこまれ、蛇の紋様が描かれている。
教会というか、宗教施設チックだな。マグルの教会なら、小さめのステンドグラスの窓なり、奥に像なりあるはずだ。
地下にこんな場所はなかった。ない……と思う。
「……夢、なのに」
ただの夢だ。なのにここから出たほうがいいと思うのはなぜなのか。出るってどうやって。目覚め方なんて知らない。
腰に吊り下げたホルスターから、杖を引き抜こうとする。しかし、手が止まり、だらりと垂れた。
「いい獲物が釣れた」
囁きとともに影が現れた。黒髪に、おそろしく整った顔立ち。眼は……紅。ローブの裏地は緑。紋はスリザリンのもの。
――こんな生徒が
いたか? そんなわけがない。だけど、そいつはウィスタの目の前にいる。
「ざけてんじゃねえぞてめえ」
上級生だろうが知ったことか。睨みつけても謎の少年は笑顔だった。ひどく不気味だ。たいていのやつならひるむのに。
「こんなとこまで」
連れてきてなんのつもりだ。そう言おうとする。しかし、視界が回る。思考も空転する。気づけば背に冷たい感触。倒れたのだ。受け身をとる暇もなかった。起き上がろうとして果たせない。
影がかがみ込む。
「おちびちゃんだけじゃあ足りなくってね」
耳元に吐息がかかる。ぞっと背筋が冷えた。
――こいつは
よくないなにかだ。逃れないと。けれど。
「君なら魔力もたっぷりあるだろう」
リアイスの子。
滴るような毒。首筋に生暖かい感触と――。
◆
「……リアイス」
医務室に行きますか。マクゴナガルの言に首を振る。
「罰則なんでしょ」
棚の整理、とウィスタは両手を広げ――変身術教室の壁を示す。棚がびっしり物品もみっちりだ。よりにもよってハロウィンの今日、罰則を振ってくるマクゴナガルはひどいと思う。
「顔色が」
「いつもこんなもんです」
眼を逸らす。善意でいっぱいの女史の眼差しは、ウィスタにとって毒だ。慣れてはいけないのだ。
マクゴナガルが仕事を放りだし――レポートの採点だろう――立ち上がる。棚の前、ウィスタの近くに寄ってこようとした。
「首をどうしました」
「セクタムセンプラの傷跡がかゆくって」
引っ掻いたんです。なんてことない、とばかりに首の付け根をさすってみせる。幸い、マクゴナガルは追求してこなかった。顔をしかめたまま「罰則が終わったら医務室へ行きなさい」と釘を刺される。「間に合うようなら宴に出て構いませんよ」とも。そうして杖を一振りして、卓の上に夕食を出して、マクゴナガルは慌ただしく去っていった。ハロウィンの宴があるのだ。
はーっと息を吐く。軟膏を塗ってガーゼで処置しているけれど、マクゴナガルがひっぺがして傷をみないとも限らなかった。そうしたら面倒なことになっていただろう。
「よからぬ気配を感じるな」
静かな声に瞬いた。真珠色の影がウィスタを凝視している。
「俺の欲望がダダ漏れなんだろうよ」
宴に行きたいってな。かわしたと思っても、男爵は鼻を鳴らすだけだった。
「呪詛……印だな」
誰につけられた。問われて、肩をすくめる。言えるわけがないだろう。わけのわからん野郎に首をがぶっとされたなんて。いや、がぶっとなんてかわいいもんじゃなかった。えぐられた。どっと血が出て。
胃がひっくり返りそうになり、手で口を押さえた。なんなのだ。ウィスタは、たぶん、血を吸われた。必死こいて暴れ、腕輪が――螺旋杖が熱くなって、霧に包まれたら目が覚めてたのだ。
悲鳴をあげて首を確認したら、どす黒い噛み跡があった。ただ、血は綺麗に消えていたし、傷口もふさがっていた。
――あのままだったら
血を吸うどうこうよりえげつない目にあっていたのでは。そんな気がする。野郎に噛みつかれてどうこうより悪い状況ってなんだよ、と自分でも思うが、あのねっとりした眼はいくらでも「悪いこと」をしそうな眼だった。
「せめて女の子がよかった」
同じがぶりなら女の子がいい。なにあいつ。キモすぎる。
「……なにがあった」
「ねえホグワーツに吸血鬼って通ってるの閣下」
「彼らと我々は別物だ。ギリギリ交配はまぁ……生徒になるにしても相当薄いものでないと無理だな」
「吸血鬼って女の子の血のほうが好みなはずだよね」
「正確には健康体で脂質糖分をとりすぎていない、さらさらした血かつ、魔力が潤沢なのがよいとか」
花の香りがするのだと。男爵が付け加え、ウィスタは青ざめた。条件に当てはまっているのでは。
厭な想像を振り払おうと、ウィスタは手を動かした。「ちなみに花の香りがする血に酔って、箍が外れる」「吸血鬼は酔うと淫乱奔放」「罰則が終わったら医務室だぞ」「なぜ私が子守を」等々は聞いちゃいなかった。
じわじわと涙が滲む。ふざけんななんでウィスタが吸血鬼に目をつけられなきゃいけないのか!
「つまり、菓子どか食いの肉どか食いすればいいわけ」
「やめんか莫迦者。第一お前はそんなに食べられないだろう。吐くだけだ」
男爵にぴしゃりと言われ、うなだれるしかなかった。
どうにか罰則を終え、たとえデザートしか残っていなかろうが、宴には出たいと男爵にごね、二人で廊下を歩いていた。
「やはり医務室だ」
「平気」
ケーキ食べたいから。
「ふらついている」
そんな莫迦な。笑い飛ばそうとして、視界がぶれる。じん、と眼が熱くなる。
暗い廊下に細い影がある。
さあはじまりだ
眠れるものは目覚める
秘密は解き放たれる
歌うように『誰か』は言う。男の声と、細い――女の――女の子の声が、混ざっている。
浄めたまえ
流したまえ
この穢れ
歌う。歌って、跳ねて、軽やかに。明るい緑が散る。水音が壁から響く。松明のあかりに浮かぶ影は、奇妙にゆがんで、霧に包まれている。
影が手を動かしている。緑の輝きが流れ、壁に線を描いて……。
畏れたまえ
継承者を
スリザリンを!
「血は魔法だ」
紅き命の水とも言ってね。
「力を与えてくれるのさ」
得意げに言い、青年の白い手が杯を――黄金のそれを傾ける。喉が上下した。
――なにを
人の血を飲んでやがるのか。言ってやりたくても言えない。沈黙呪文をかけられて、縛られ床に転がされている。
どこだかわからない『どこか』で気がついて、青年の姿を認めた瞬間、回し蹴りを食らわせ、よろめいたところに拳を叩き込んだ。もちろん顔面に。
白いものが飛んで、鼻から血ぃダラッダラでザマァ! と嘲笑えたのは一瞬だった。眼を光らせた青年に叩きのめされたのだ。
「……君の血は、負の感情がたっぷりだ」
最高だね。椅子に腰掛け、足を組み、青年は余裕の笑みを浮かべた。すでに血の跡も痣もない。歯も再生したらしい。
――お前へのムカつきだよ
じろりと睨んでも青年は笑みを崩さない。さっきまでブチギレていたくせに、切り替えが早い。いや、気味が悪い。なにを考えているかさっぱり読めない。
「穢れた血が憎いくせに」
青年が立ち上がる。すらりとした指が、ウィスタの背をなでた。身をよじろうにも動けない。
「煙草の痕」
「熱湯もかけられたようだね?」
ほかにもたくさん。酷いものだ。君は選ばれた者なのに。魔法の力を持つ優れた者なのに。
「その群青が忌まわしいものか。なあリアイスの子?」
きっと本家の筋だろう。それか分家でも近い筋かな。穢れた血にはわからないさ。彼らは愚鈍で醜悪さ。
「だから君を疎んじて虐待したんだ」
青年の紅がウィスタを見つめる。燃えるような紅。いらないものまでひきずり出されそうで、眼を逸らす。
――ぶちまけたくなる
どんな目にあってきたか、自分の口で訴えたくなる。きっと青年は聞いてくれるだろう。底なし沼にはまるように、青年に心を……開くわけには……。
――こいつは
俺から血をとって飲んでいる。怪しいやつだ。それに、紅の眼は好かない。信じてはいけないと、ウィスタの奥底が叫んでいる。
赦さない、と。
誰かが叫んでいる。
それがウィスタの傾きかけた天秤を押し戻す。
「スリザリンのリアイス」
僕と手を組まないか?
逸らしていた眼を、青年に合わせてしまう。
――なにを
なにを言い出すのか。人のことを噛んだ挙げ句に肉を食いちぎるわ、かなり適当にざくざく切って、血を杯に入れて飲むわ。野蛮かつ変態だ。顔がいいからってなんでも許されると思ってんじゃねえぞ。
「君とは気があうと思うんだけど」
どこがだよ。ふん、と鼻を鳴らした次の瞬間、手が伸びてきた。首を圧迫される。
「素直になりなよ」
スリザリンに組分けされたんだ。君はこちら側さ。
「それともリアイスの誇りだとか騎士の矜持ってわけか?」
お高く止まったものだ。
認めなよ。君はグリフィンドールじゃないんだ。
視界が紅く染まる。星が散る。ぐらぐらと揺れ、空気をもとめ、喘ぐ。
――ふざけんな
こんなところで死ねるか!
全身が熱くなる。黄金の炎が噴き出し、青年に食らいつく。驚きの声と、消えた圧力。
「これだから」
リアイスは!
青年が杖を一閃させようとし――霧があたりに満ちた。
◆
眼を開ければ、医務室だった。やたらとだるくて、熱があって、頭も痛くて……つまり最悪だった。
「君の噂でもちきりだ」
「俺も人気だね」
寝台の上で、乾いた笑いを漏らす。笑うしかないではないか。起きてみれば『犯人』扱いらしい。
「猫一匹、石にしなくてもどうとでもできるよ」
フィルチの猫を石にした犯人、らしい。ウィスタは。倒れた廊下は事件の現場で、そこには石になった猫がいて。しかも壁には犯行声明まであったとか。
「莫迦の戯言だ」
ナイアードはため息を吐く。空色の眼には陰がある。明るく快活なナイアード先生は、なにやら複雑そうだ。
「運が悪かったんだ」
「決めつけられるのは慣れてる」
どうしようもないじゃないか。ウィスタは秘密の部屋なんてもんを開いた覚えはないが、周りからみれば怪しさ満点だろう。みんな誰かのせいにするのが好きなのだ。
「スリザリンは悪役さ」
「……母君はそうでないことを証明した」
君もそうするしかないだろう。静かな声に、唇を噛む。優しくない。
「なんとかしてくれない、おにーさん」
「悪評払拭はともかく」
これをやろう。背中に手を添えられ、半身を起こされる。首飾りをつけられた。見てみれば、細鎖に、珠が下がっている。金色で編まれたそれの中に、美しい羽根が透けて見えた。
「くれぐれも外すなよ」
悪なるものを退け、善なるものに力を与える守りだからな。
「そんな無駄なことしないでしょう、あなた」
ズバッと言い切られ、ウィスタは眼を白黒させた。寝台の上に身を起こし、差し出されたリンゴを口にする。実に器用な手つきでナイフを使っているのはクインであった。
――なんなんだよ
この状況。女の子にお見舞いされているんだが。寮も違うのに。学年も違うのに。「先生に質問しに行ったついで」に来てくれたらしい。
ハロウィンの翌々日。つまり事件発生から二日目の昼だ。
「愉快犯だと思わないんだ?」
ふん、とクインは鼻を鳴らす。
「わざわざ自分の評判と、スリザリンの評判を落とさないでしょう」
苦労してるのにね。どこかひりつく声だった。
「……たいしたことじゃない」
それだけしか返せない。なにを言えばいいかわからなかった。そもそも、友達なんてものもいなかったし、親切な上級生なんてものもいなかったし。やりとりなんて罵詈雑言と暴力だった。他人の親切なんて気まぐれなもの。だから、わからないのだ。まともな環境で育った連中のふるまいなんて。
「あなたは悪くないわよ」
なのに、頭の悪い連中が好き勝手言って。端から見ているだけでも腹が立つってものよ。
「バカが嫌いと」
「そういうことね。特に下級生の噂をばらまく下品なやつらはね」
これは完全にウィスタ犯人説が唱えられているな。仕方がない。ナイアードもそんな風なことを言っていたし。
『認めなよ。君はグリフィンドールじゃないんだ』
スリザリンなのだと、あの青年は言った。それは当たっている。代々グリフィンドールの家系に生まれた、二人目の異端。しかも現場にいたわけだし、手口も謎だ。どうやらマンドラゴラを煎じた薬で治るようだが、だからといってみんなが安心できるわけではない。なぜって?
「俺が秘密の部屋を開けたのかもしれないぞ」
マグダラの令嬢。囁けば、軽く睨まれた。
「そこにいらっしゃるリアイスの令息は、秘密の部屋なんてご存じじゃないでしょうに」
秘密基地だろ? と知ったかぶっても無駄だろう。昨日、ナイアードは軽く状況を説明して、慌ただしく出ていったし。授業で忙しいようだ。ロックハートは小説執筆でこもりきり(ナイアードが室に封印した)で、ナイアードが実質的な教授だった。多少はウィスタに構えるけれど、余裕はないのだ。
「……知ってるの?」
「家にふくろうを飛ばしたのよ」
ホグワーツの歴史に書いてある以上のことを知らないかしらと思って。
クインはひょいひょいとリンゴをむく。まるで魔法のような手つきだ。一切れ自分で食べて、もう一切れをウィスタの口に突っ込んできた。なんだろうこの感じ。俺は仔馬かなんかなのか。餌付けされてるのだろうか。
しゃくしゃくと食べつつ、クインの話に耳を傾けた。
「簡単に言うと、サラザール・スリザリンがつくった部屋らしいのよ秘密の部屋って」
スリザリンは純血主義の過激派だったと言われているわ。魔法族以外はホグワーツに入れるべきではない、マグル生まれはお断り。どこまで本当かはわからないけれど、創設者の間で意見が割れたのは確かでしょう。
結局グリフィンドールとスリザリンは決闘して……。
「スリザリンが出ていった。秘密の部屋を、怪物を残してね。怪物はマグル生まれを追放するそうよ」
そして、とクインは続ける。
「五十年前に、秘密の部屋が開かれたみたい。マグル生まれが一人殺されたんですって」
つ、とクインは顔をしかめた。ウィスタも眉間に皺を刻む。
「……遺体になんか、いたずらとかは?」
「その場で放置されてたみたい」
「愉快犯だな。隠す気もなかったと」
今回と同じように。壁の犯行声明からして、愉快犯のにおいはしていた。お試しで猫を石にして、秘密の部屋がどうこうと言い、継承者を名乗り。
スリザリンと他の三寮を仲違いさせるのも狙いだろうか。どうしたってスリザリンが疑われる。純血主義者が多くて、穢れたなんとかなんて口にするド阿呆もいるのだ。こんなことをされれば、スリザリンはますます身内だけで固まるし、他三寮からはひややかに見られる。
「本気でマグル生まれを排除したいなら、静かにやってしまえばいいものね」
ウィスタの考えを読んだように言う。クインという女の子は、ふわふわしてるどころかかなり現実的な考え方をするようだ。さすがレイブンクロー。
「……猫の次は」
呟けば、クインはため息を吐いた。
「人間なんじゃないの?」
あなた、お友だちのハーマイオニー・グレンジャーに、気をつけるように言ってあげなさいよ。
こんな事件を起こす『継承者』なんて、マグル生まれを劣ったなにかとしか思ってないに決まってる。
「だろうな」
最低な気分のままうなずき、もう一切れリンゴを食べた。
そうだとも、あの青年はやるだろう。名前も知らないスリザリン生。
あれは、笑いながら人を手に掛ける男だ。
――あのひとは
銀の髪に紅の眼をしたあのひとは。サラザール・スリザリンだろう人は、こんなことを望んでいたのだろうか。
癒やしの杖をわざわざ学校に残したのに?
服の上から腕輪をなでた。
答えはわからない。だってサラザール・スリザリンはもうこの世にいないのだから。