ふと眼を開ける。低い唸り。尖った臭いが鼻を突いた。
どこだ、と頭を巡らせる。湿った石壁は苔だらけ。松明の火が弱々しく揺れている。鈍く光るのは鉄格子。刻まれているのは古代語。
だが、それはひっかき傷のように薄く細い。いまにも消えそうな名残でしかない。
彼女は眼を細める。ここがどこか、もう当たりがついている。
――英国が抱える『箱』
ただし開けたところで出てくるものは絶望と闇ばかり。希望などどこにもない。
けして開かれることのない獄。
格子の呪縛を消えるに任せているのは、必要ないからだ。手間をかけて整備なぞしても意味はない。
殊に最深部に放り込まれたら最後、生きて出ることはかなわない。
――そのはずなのだ
足音が響く。影が飛び交う。ローブをまとう穢れの徒が、ひょうひょうと息を漏らし、あるいは唸りを漏らし、闇色の装束を纏った男と、番人たちに従っていた。
靴音が楽を奏でる。閉じられた格子の前で止まった。
「――足取りは」
男――闇祓いの衣を纏った彼が、静かに問うた。金の髪が明かりを鋭く弾く。
「煙のように失せてございます」
番人が返す。きつい眼で格子の向こう――空の独房を見やる。
「やつらにもわからないと」
ふ、と空気が波打つ。
「そうか」
く、と喉を鳴らすのは金髪の彼。咎めるように番人が彼を睨む。
「ルキフェル様、おわかりでしょう! ありえない! ありえてはならない! 罪人ですぞ。本来ならば始末しておくべきだった!」
「こういう事態は燃えるじゃあないか」
「……なにをナイアード様のように馬鹿なことを」
「ファッジなんてひんひん泣くだろう? 僕はあいつ嫌いなんだ」
「だから――」
「省に戻る」
「なんでそんな平然としてるんですか!」
ぱちり、と眼を開ける。薄い薔薇の香が、鼻先をかすめた。夜は明けていて、カーテンの隙間から陽が射し込んでいる。
眼を瞬かせ、ここが谷であること、今が夏であることを思い出す。
半身を起こす。銀の髪がさらりと流れた。
「どうしたものかしら」
己が見たものは未来だ。さほど疲労を覚えていないので、遅くて一ヶ月、早くて数日後にことは起こるだろう。
報せを送り、厳重に警戒すれば――たとえば鎖で繋げば――防げるだろう。あそこには穢れ者がいる。ゆえに鎖でつないでもいない。囚われ人は精神を病んで、獄で壊れていくだけなのだ。
鎖で捕らえようがどうにかして脱出するのかもしれないけれど。こればかりはわからない。先視の魔女ことクロードが視たのは、最も可能性の高い未来だ。
手を出すか否か、曽祖父に報せるか否か迷い、クロードは眼を瞑った。
最適解などわかっていたではないか。彼を始末してしまえばよかったのだ。きっと彼も覚悟していた。それが楽で近道なのだ。とある少年の瑕疵になる前に片付ければよかった。証明などできないのだから。
『そんなはずがありません』
深い皺の刻まれた手を握り、曽祖父にすがりついた。悪夢のような日々。
一族の当主が殺され、その息子の消息が絶えた。どこかで生きているとわかっていた。それでも絶望は深かった。
『私は視たもの』
帝王が倒された未来を。
『視たのに』
ある時点まではあった道筋は消えていた。帝王の凋落。生き残った男の子の誕生。殺されたポッター夫妻。そして黄金のグリフィンが死に……。
『どうして……』
なにか致命的な間違いがあったのだろう。だが、クロードにはわからない。そもそも生きるということは選択の連続で、ポッター夫妻だって人間で。間違えないはずもない。そして何を間違えてしまったのかもう訊けない。彼らは死んでしまったから。
『内通者が守り人だった』
クロードの背を曽祖父が叩く。手つきは優しかったが、声は激しく揺れていた。室のすべてを焼かないのが不思議なくらいに熱かった。
『……でも』
守り人は彼だった……とされていた。しかし、彼が妻子を売ったとは考えられない。家を棄ててまで結ばれた妻。そして生まれた我が子。
激しい気性の男で、どこまでも燃える心を持ち、闇への嫌悪は憎悪といってもいい。それに、あれほどに愛情深い男を、クロードは知らない……。
くわえて、彼が親友夫妻を売るのもありえない。たとえ拷問されようが口を割らないだろうし、秘密は脅迫や拷問では明らかにされない。
彼ではない。憎悪を燃やす一族とは違って、クロードも曽祖父も、又従兄弟たちも、心ある者たちもわかっている。彼を知る者はわかっているのだ。
リーマスでもないだろう。彼は守り人を辞退した。人狼の完全な治療法をちらつかされれば、私はとびついてしまうかもしれない。不確実な要素は排除すべきだ、とポッター夫妻に言ったのだという。
誰もが彼を守り人だと思っていた。それが当然だと疑問にも思わなかった。あまりにも自然な流れで……。
『彼でもリーマスでもないとして……』
ないとして。でも。そうだとしたら。
『ピーター・ペティグリューが?』
『……はっきりとは言っていなかった』
証明できぬとあれは言った。
ああ、と呻きが漏れた。ないものは証明できない。ピーター・ペティグリューは裏切り、そして自ら死んだのだろう。
完璧に嵌めるために。
「……あなたの好きにするといいわ」
シリウス。陥れられたあなた。
私達が箱の底に閉じ込め、見捨てた一等星よ。
ぽつ、と雨滴の音がする。
――小説なら
雨の日の使者は不吉なんだったか。そういう暗喩というやつらしい。
じゃあ、彼も不吉な報せをもってきたのか。ウィスタは扉の隙間から室を覗き込む。ひっついているマルフォイも同じようにしていた。
「おわかりでしょう」
ご夫人。深く豊かな声が響く。マルフォイ邸の応接間――あまり格の高くない室――で、ゆったりと椅子に腰かけているのは魔法使いだ。
「手紙もなにも寄越さずやってくる無礼な輩の言うことなど」
知りませんわね。女主人として使者をもてなしているのはナルシッサだ。声はどこまでも優雅で美しい響きをしていたが、ウィスタにすらひしひしと伝わってくるのは、警戒だ。
「私には関係ないわ」
「可能性は極めて低い。ですが必要な訪問でした」
「あなた方はあれをさっさと捕らえて檻に戻しなさいな」
ええ、か弱いマグルが怯えるでしょうよ。
「大馬鹿者な従兄弟が脱獄したからってなんだと? あれが私を頼るはずもない。シャックルボルト家のキングズリー。貴方は賢い男だし、無駄なことはしないわ」
闇祓いは馬鹿には務まらない。ナルシッサが言えば、キングズリーは笑んだ。
茶器をすっと手に取り、ためらいなく紅茶を口にした。
飲まないかと思ったのに、とマルフォイがつぶやく。ウィスタも同感だ。闇祓いはマグルの警察――いいや軍――のようなもので、純血主義者とは相性が悪い。なにせ純血の過激派が闇の陣営に入ってやらかしたからだ。
ウィスタはちらりとマルフォイを見る。こいつの親父もたぶんきっと死喰い人ってやつなんだろうと踏んでいる。当のマルフォイ坊ちゃんは、そんなことまーったく思ってもないようだ。どうせ訊いても、父上は犯罪者じゃないと言うだろう。
――ウィーズリー家を陥れようとする男が
死喰い人じゃないわけがない。トム吸血変態ペ■ろくでなしクソリドルが現れたのは、ルシウスのせいだ。なんでも日記が鍵で、ダイアゴン横丁の騒動のときにジニーの大鍋に突っ込んだらしい。ダンブルドアから聞いたざっくりした説明によると、日記には闇の魔法がどうこうで、クソストーカーリドルはヴォルデモートが自分の記憶を封じたもの。
『君に干渉し、血をすすり……力をつけた』
ミス・ウィーズリーだけでは足りなかったのだろう。血は魔法であるし、最高の媒介だから。
ダンブルドアの憂い顔を思い出す。怒り狂ったルシウスをハリーが追いかけていって、ウィスタとダンブルドア二人きりだった。澄んだ輝きを放つ一口の剣、切り裂かれた日記。フォークスが静かに歌い……。
ウィスタは剣を見つめた。紅の宝玉がはまった剣。ゴドリック・グリフィンドールの剣。それはハリーの前に現れた。
リドルから繰り返し磔刑の呪文を受けていたウィスタではなく。末裔であるはずのウィスタではなく、ハリーに手を貸した。
俺かスリザリン生だからか。狂ってしまったサラザールの考えに共感しているとでも思っているのか。
『ともに行こう』
僕たちはうまくやっていける。君だって穢れた血は嫌いだろう。
君の血は暗くにごっていて、憎悪がたっぷりだ。
リドルの囁きが蘇る。厄介なやつだ。ついうっかり手をとりそうになる。だがあいつはろくでなしで人でなしだ。近づいてはいけない男の筆頭だろう。
『触れてみなさい。ゴドリックがホグワーツに遺したもの。グリフィンドール生のためのもの……だが、君には資格がある』
血筋ですか。落ち着いて訊こうとして、吐き捨てるような響きを隠せなかった。
『そうではない』
ぽん、と組分け帽子をかぶせられ、視界が闇に覆われた。
『闇に屈しなかった。ならば君も真のグリフィンドール生といえる。いいかね、血筋ではない。本当は……一族が引き継いで来たのは、選んできたのは』
志だ。
厳かな声に、舌打ちを漏らす。帽子をむしりとり、フォークスに向かってぶん投げた。
「俺、グリフィンドールもスリザリンも嫌いなんだよな。つかどの寮もヤダね」
クソすぎる。クソじゃないのもいるけど。
イラッとした回想から意識を戻す。キングズリーが敵の陣営(ほぼ確定)に乗り込んで、毒やらも気にせずに紅茶を飲んじまう男なのはわかった。
「脱獄犯の狙いは、あるいは頼る者は貴女ではないでしょう。狙うのなら――」
キングズリーの視線が飛んできて、ウィスタとマルフォイはうっと息をつまらせた。バレてる。
「あなたたちに任せろと?」
「とある方の意向です」
「あらやだ、局はいつから使い走りになったのかしらね」
「悲しいことに、私もしがない勤め人で」
「笑顔で言わないで」
「ここより安全ですよ」
「――お客様のおかえりよ!」
なぜか知らないが話がまとまったらしい。ナルシッサとキングズリーは同時に立ち上がり、同時に扉を開けた。
約三十分後、ウィスタはキングズリーに連れられて、マルフォイ邸を去った。
◆
英国はロンドン、広大な敷地の一角。
「なので陛下、身辺がいささか騒がしくなりましょうが」
しばらく我慢していただけますか。
丁寧に問いかければ『陛下』は頷いた。
「わざわざこんなおばあちゃんを狙わないでしょうけど」
「なにがあるかわかりませんので」
「首相なんてどうしようの大騒ぎよ。かわいそうなこと。あちらの護衛はどうなってるのかしら、アシュタルテ殿」
「こちらの大臣が手配しておりますので」
あなたがたの大臣、うちの首相をもうすこし落ち着かせてくださらないかしら。ぱたぱたと扇子を揺らし、英国マグルの女王は軽く言った。
「凶悪犯が脱獄しというのに、たいしたものですな」
「こちらに影響はないのでしょう?」
「さて」
「あなた、まったく焦ってらっしゃらないもの」
「護衛は置いておきますよ」
「大変ねえ」
なかなか隠居できないのは、私と一緒ねえ。アシュタルテは笑みをこぼす。だが、どこか歪んだものだったようだ。女王の眼に、いたわりの色が浮かんだ。
「早く逝ってしまったものね」
「……若すぎました」
娘は四十代で、孫は二十代で逝った。本来、アシュタルテが出張ることはなかったのだ。本家当主が空位な今、女王に謁見できるのはアシュタルテくらいしかいなかった。本家当主の夫を務め、影に日向に支え――亡くした彼しか。
「今でも残念だわ」
女王は首を振る。アシュタルテは息を吐いた。
「近いうちに、新しい者を紹介いたします」
言いながら、アシュタルテの意識はよそへ飛ぶ。
今頃、曾孫は闇祓いに守られて到着しているだろうか、と。
薔薇の香かぐわしき、魔法騎士の砦――ゴドリックの谷に。
「俺には関係ねえじゃん」
キングズリー。呼びかけても男は無視だ。もっとも、運転中なので返事をしないのかもしれないが。
いったいどこを走ってるやらさっぱりだ。ナルシッサに「残念だけれど」と言われ、マルフォイ邸を出ることになった。ナルシッサは機嫌が悪かったとだけ言おう。灰色の眼でキングズリーを睨み「この子になにかすれば黙ってないわよ」と冷たく言い放っていた。あれよあれよという間に車に放り込まれ、野郎とドライブだ。
「シリウス・ブラックとか知るかよ!」
ウィスタがキングズリーに拉致されたのは、保護のためだそうだ。凶悪犯が脱獄したから。そいつはウィスタを狙ってるらしい。
「なにがあるかわからない。君はリアイスの子息だから」
「ああそうかい。ろくに接触もねえけどな!」
キングズリーの穏やかな声も、ウィスタを落ち着かせることはできない。夏休みが台無しじゃないか。
「だったらリーマスんとこに帰りたい」
「君の滞在先は決まっている。先方がお望みだから」
どっかの金持ちに売られる奴隷の気分だ。先方ってなんだよ。
車はすいすいと走っていく。山の連なりが見え、ウィスタは首を傾げた。見覚えがあるような……?
「谷じゃん」
◆
保護者もといキングズリーに連れられて、谷に入った。礼儀として馬で訪問すべき、らしく、用意されていた天馬に乗った。ちなみに逃げ出そうとしても速攻で捕まった。
「護送される犯人かな」
「護衛だよ」
シリウス・ブラックが狙っているとか冗談だろう。並んで馬を歩かせながら、ウィスタはキングズリーをうかがった。凶悪犯どうこう言っているが、殺気やら緊迫感を感じない。キングズリーは平静そのものだ。ただ、子どもを家に送るだけのような落ち着きぶりだ。
「マルフォイんとこ訪ねたのは?」
「夫人がブラックの従姉でね」
ふうんとだけ返す。そういえば「大馬鹿者の従兄弟」とナルシッサも言っていたな。ブラックの居場所を潰していくついでに、ウィスタのことを迎えにきたと。それにしても乱暴だな。
大人の都合に振り回されるって厭なもんだ。
薔薇の香芳しき『谷』、佇む城の前でキングズリーは馬をとめた。ウィスタも彼に倣う。城――蔓薔薇が巻き付く門、そこにひとつの影がある。濃紺のローブを身にまとい、繊細な細工の髪飾りをつけている。すらりとした魔女。髪は銀、眼は薄い青。巫女か占い師か神官みたいな雰囲気だった。ウィスタはそのどれもに会ったことがなくて、完全なイメージでしかないのだけど。
「わざわざ出迎えか?」
クロード、とキングズリーが魔女に呼びかける。ええ、と魔女は応えた。
「ありがとう。迎えに行ってくれて」
「捜査のついでだ……招いてくれるのだろう」
「公がお待ちよ」
魔女が手を振る。音もなく門が開いた。馬の腹を軽く蹴り、進める。門から玄関までどれだけあるやら。そっと息を吐いたとき、鷲が舞い降りてきた。
◆
「足を運んでもらってありがたい」
静かに言われ、キングズリーは背筋を伸ばした。大領地、ゴドリックの谷を本拠とする、魔法騎士一族。リアイスの中でも殊に有名なのが目の前の魔法使いだ。
アシュタルテ・リアイス。通称を獅子公という。グリンデルバルドを倒した英雄のひとり。アルバス・ダンブルドアに意見できる男……。
応接間に通され、茶を出され、菓子も出され、キングズリーは素直に口にした。キングズリーもとい、局とリアイスの利害は一致しているのだから。
「仕事ですから」
ゴドリックの谷には足を運ぶ予定があった。局長自ら動くつもりだったのだろうが、リアイス――アシュタルテに先手を打たれたのだ。
『キングズリー』
スクリムジョールはさりげなく言った。
『夫人からアレキサンドライトを引き取ってこい』
老獅子が谷で待っている。
宝石がなにか、と訊きかけた。脱獄犯捕縛の件で動くはずで、アレキサンドライトなどなんの関係も……と。
しかし、一秒の半分で察した。ナルシッサのアレキサンドライト。マルフォイ邸にある宝石。陽の下では緑、杖明かりにかざせば、鮮やかな紅。スリザリンとグリフィンドール、二つの色……。該当するのはただひとり。マルフォイ――ナルシッサの手許にいる少年。
キングズリーはすぐさま動き、少年を確保して獅子公に届けたのだ。
「貴公でよかったよ」
リアイスとあまり関わりがなく、あの子を色眼鏡で見ない者が必要だった。
「闇祓いは――」
「秩序の守り手。娘はそう喧伝したし、間違ってはいない」
娘、とアシュタルテは口にした。彼の娘――アリアドネ・リアイスは闇祓い局の創設者だった。闇と戦い、そして散ったのだ。
ふ、と息を吐き、アシュタルテは続けた。憂いの深い眼をして。
「だからこそ、秩序を愛する者は私の曾孫を嫌おう」
悪徳の血が流れていると言って。
「それはあの子の罪ではありますまい」
「どうかな。ほかの有象無象より闇祓いが志あると理解している。それでも」
眼の前にあの子がいて、嫌悪を抑えられるだろうか。
「蛙の子は蛙よの、と蔑みはしないか」
危惧したのだ。キングズリーは紅茶を一口飲んだ。丁寧にいれられたはずのものだ。とても苦く感じたのは、疲れているのかほかの理由か。
「残酷な言葉です。情のない言葉です。口にすべきとも思いませんね……あの子は、マグルを殺さないし過激派にも与しないでしょう」
見ていればわかります。口にしながらも、気分は最悪だった。たった十三の子どもを叩いて潰しかねない世の中は、なんと厭なものか。
――真実はわからないのに
死んでしまった後輩の眼が曇っていたとは思わない。スリザリンに組分けされたばかりに蔑まれ、踏みつけられた彼女。だけれども闇祓いを志した彼女。
『ねえ抱っこしてあげてキングズリー』
私と彼の子よ。手渡された小さな小さな赤ん坊は、母親と同じ眼をしていた。綺麗な群青。夜明け前の青……。
愛しげに息子の名を口にし、宝物のように大事にしていた彼女。幸せになれるはずだった。
――彼女が間違えたなどと
思いたくなかった。状況は限りなく黒。それでも。この十二年、なにもわからないままだった。多くの者が死んで、とある夫妻は壊されて。
平和などはかないものなのに、危ういものなのに、闇が去ったかのような顔をして行き交う人々……。
「ブラックは谷に逃げ込んで――」
「探したいのなら探せばいい。あれがのこのこ現れると思ったら大間違いだ」
匿うと思うかね。菓子をつまみながら、近所の噂話をするような気軽さで返された。
「貴公も職務ゆえ、ぐるり一巡りするがよいさ」
「上がカリカリしてまして」
「ファッジの莫迦か」
大臣を莫迦呼ばわりし、アシュタルテは鼻で嗤う。曾孫そっくりだ。孫にもそっくりだ。
「好きにしろ。万が一、あれを見つけても生け捕りに」
無論、と頷いた。スクリムジョールからも言われている。可能な限り生かして捕らえること、と。
アシュタルテの顔をじっくり見つめる。開心術は無駄だろう。読める気もしない。そして顔にはなんの手がかりも現れていない。
――キングズリーと似たような疑念を持っていても
わからないのだ。
「第一、あれを匿うくらいなら、十二年前に干渉していたはずだろう?」
「確かに……」
ひとつ頷く。
「あなたがたは」
シリウス・ブラックを救うことも殺すこともしなかった。