走る、走る、走る走る走る走る走る走る走る。
背後、正面、上、下、右に左…無数の箇所から次から次へと氷の世界が牙を剥くようにして襲いかかってくる。
止まれば死ぬ、止まらなくても死ぬ。
そんな空間に置かれ、そして今なお死が間近に迫り続けるこの状況下で、それでも俺は拳を突き出していた。
轟音、気合の一声、拳を握りしめて真っ直ぐ女へと突き出す。
最早女だからどうこうの感覚は消えていた、ただ眼前の存在をどうにかしなければ死ぬと俺の中の何かがひたすら叫び続けていた。
突き出された拳が、突如として虚空から湧き出た氷の結晶に阻まれる、拳から伝わる硬く冷たい感触がこの場に実在するという事実を伝えてくる。
氷の壁にはヒビ一つとして入っていない、全力で殴ったにも関わらず何一つとして痕跡を刻み込めていない。
そんな事実にだからどうしたともう一発拳を叩き込もうとして、咄嗟にその場から飛び退いた。
瞬間、ついさっきまで居た場所から勢いよく生えてくる氷柱みたいな氷の刃、あのままで居たら確実に死んでいたと思わせられるようなソレに、俺は知らず知らずの内に冷や汗を流していた。
そんな俺の横を東堂が真っ直ぐと横切り、そのまま女へ向かって駆けていく、そこには躊躇いも恐怖も微塵も見受けられない。
横軸に回転してからの回し蹴りが女へと迫り、女はそれを俺の時と同じように氷の結晶で防いだ。
違いは蹴りが結晶に当たってすぐに聞こえたピシリという僅かな音、見てみれば氷の結晶に僅かながらヒビが入っているのが見えた。
行動は咄嗟だった、足を大きく強く踏み込ませて、更に満身の力を込めて拳を前方へと突き出そうとする。
次いで聞こえてくるパシンという拍手の音、その音は何を意味するのかを、俺は知っていた。
景色が切り替わる、空気が変わる、視界が移り変わる。
拳を構えて放つ…その予備動作を、俺は音が聞こえた時点で既に終えており、その先にあるのはヒビの入った氷の結晶とその先に存在する女の姿。
突き出された拳がヒビの入った結晶に直撃し、それがそのまま貫通して女の腹部へと拳が突き刺さる。
そしてその瞬間…呪力が黒く灯った。
───黒閃
女を中心として、俺が放った拳から黒い呪力が巻き上がる。
自分でも何が起きたのか分からない、何がどうなっているのかなんてまるで分からない。
身体を全能感が駆け巡る、視界に映る光景が遅く感じ、身体が何時もよりも身軽に思う、今なら何でも出来そうと自分でも驚くくらい自信に満ちあふれていく。
俺は突き刺さった拳をそのまま女の奥深く深くへと突き入れ、そのまま引きずり出すようにして女を全力で殴り飛ばす。
衝撃で地面と氷が砕け、それに呼応するようにして遅れて女が吹き飛んでいく、樹木一本を貫通し後方に設置された結晶すら砕きながら大きく大きく後方へと弾かれる。
そんな光景を前に、自分の手を見てふと思う、何だ今のは? と。
今までとは段違いとも言える威力、身体に満ち満ちる全能感、そして何より自分の呪力が別物のように思えるこの感覚。
分からない…分からないが、ひょっとしてこれが東堂の言っていた───
「これが…黒閃?」
「そうだ、それが黒閃だ
呆然としたように呟く俺の傍から答えるように東堂の声が届く…いや、何か呼び方が変なことになってる気がするけど。
「この状況下だ、あまり期待はしていなかったんだが…やはりお前は俺の親友だ
───お前はまだまだ強くなれる。
そんな東堂の言葉に、不思議と胸の中が滾ってくる気がした。
「…傷を、つけたな…」
瞬間、背筋が凍ったような気がした。
「私に、この私に…傷をつけたな……?」
声の発生源は女、そこから漏れ出る殺意と悪意と憎悪の色に染まった大量の呪力。
「下賤な貴様等が…下等な貴様等が、この私に…仰ぎ見るべき私に傷をつけたのだな…?」
木々が凍る…いや、凍るどころじゃない、砕け散る。
花も草も木々も、ましてや近場に居たカエルや鳥さえも、凍りついた先から砕け散っていく。
カチャリカチャリと音を鳴らして女が歩いてくる、その仮面に隠された顔は隠されてなお見ただけで分かる程の怒りに歪んでいて、その肉体は所々が凍りついていた。
「良いだろう…あぁ良いだろう…………ならば死ねっ…!!!」
怒りの発露、それが俺の視界全てを凍てつかさせていく。
死ねという女の発言と同時に、何もかもを凍てつかせていた空間が一斉に俺達を飲み込まんと恐ろしい速度で迫ってくる。
避けるどうこうの話じゃない、触れたらまず死ぬとかそんなものじゃ済まないと本能が悟った。
脱兎…俺と東堂は全く同じタイミングで女へ背を向けて逃げの態勢に入っていた、というか全力ダッシュで逃げていた…いやだってあれは流石に無理があるって。
「……逃げるな無礼者ぉぉっ!!! 逃げるなぁぁぁッ!!!!」
背後から怨嗟の叫び声が聞こえてくる、圧力を増した殺意と憎悪が背筋を削ぐようにビリビリと感じ取れる。
チラリと後ろを見てみれば、背後からそれこそ鬼のような気配を纏わせた女が凍てつく空間を維持したまま俺達を追いかけてきていた。
足を一歩踏み出す度に周囲が凍てつき砕け、また一歩踏み出す度にまた世界が凍る、ただそれの繰り返し、それは何より恐ろしいと思う。
けど、それと同じように分かったこともある、何てことない簡単で分かりやすいことだ。
パシンと手を叩く音が森の中に響き、それと同時に視界が景色が切り替わった。
視界に映り込むのは女の背中で、女はキレて冷静さを失っている影響なのか俺の存在に気づく様子はない。
いや、そもそもこんな触れたら死ぬような空間を展開しているんだ、端からここまで近づかれることを想定していないのかもしれない…どっちにしろ意味はない、そもそも俺はバカだからそういうのは最初から分からない。
けど…それでも馬鹿なりに考えたことがある。
「お前、そういや身体一部凍ってたよな」
声を吐き出す、吐き出された声に釣られて白い吐息が口から漏れる、それだけ周囲の温度が下がっている証拠だろう…しかし逆に言えば
さっき偶然視界に入った女の身体の一部が凍っている光景がフラッシュバックする。
それを見た時は特に疑問に思わなかったけど、後になってふとした折に疑問になって帰ってきたその答え合わせを、俺は今している。
原理も不明、術式内容も不明、不明な点はとにかく多いしもしかしたら色々ミスって死ぬかもしれない。
でも、それでも試してみる価値はあると、そう感じた。
「近くでやり過ぎるとお前も凍るんだろ? だからこの距離でも俺は凍らずこうしてここにいる」
正直言って単なる当てずっぽうの勘頼りだ、本当は何も分かってないしこうしてペチャクチャ喋ってのは死域に立っている恐怖を誤魔化す為で、ただの痩せ我慢と同じだ。
でも、それでも…それでも、結局はここに俺が立っているという事実が全てだ、他はどうでもいい。
自分でもらしくないと心で思いつつも、俺は拳を引き絞って女へと向けて放った。
俺の方へと振り向く…その動作を行う女の脇腹へと俺の拳が突き刺さり…再び呪力が黒く染まる。
───黒閃
命を凍てつかせる空間が弾けて消し飛ぶ、ガハッと女が血反吐を吐いている姿が目に焼き付き、骨の砕ける感触が拳から伝わってくる。
パシンと東堂の手を叩く音、それと同時に唐突に東堂が女の眼の前に現れ、女の顔面へと拳を叩き込む。
頭が後方へと仰け反り、女の足がぶらつく…そこに俺は飛び蹴りを叩き込んだ。
───黒閃
黒く灯る呪力が女の身体を吹き飛ばし、その後方で結晶が女の身体を受け止めるように展開され、そこに東堂が突っ込んでいく。
「舐めるなぁ!!」
しかし女の方もやられてばかりじゃない、手を東堂へと向けて結晶の大群を東堂へと差し向ける…けど───
───パシン
また拍手の音が響き、今度は女と東堂の位置が入れ替わる。
女の気配に驚愕の感情が入り混じり、咄嗟とも言うべき反射速度で女は背後を振り向き、その視界から外れた後方から俺の拳をモロに食らった。
───黒閃
呪力が黒く光る。
止まらない、身体に力が満ちる、何もかもが出来るような気がする。
確信がある、今の俺達は───
───誰にも負ける気がしない。
少なくとも俺は心の底から、そう思った。
因みに、菫さんは女がボコボコにされてる光景を笑いながら見ていたものとする。
因みにこの氷女は死にません(ネタバレ)