蒼き鋼のアルペジオ -Ars Nova- Eingang 作:廣瀬 眞
「失礼します」
軽やかな声であっけらかんと食堂の入口に立つその少女はそこで待ち構える全員の注目にも何食わぬ顔でペコリとお辞儀をしてにっこりと笑った。「内閣情報調査室からの依頼で参りました
一言も発せずにただ刺すような視線を向ける彼らをキョトンと見回してから戸惑ったように尋ねた。「 ―― えと、もしかしてなんですけど …… およびでない? 」
身形こそきっちりと濃紺のスーツを着こなしているが黒髪お下げの髪型と赤いアンダーリムの眼鏡、黒のパンプスという出で立ちは確かに監視カメラに捉えられたコンパニオンとほぼ一致する。だが実際にその姿を見るとこれはもうリクルートスーツに身を固めたただの学生で、しかも今彼女が足を踏み込んでいるのはロシア海軍最新鋭潜水艦ヤーセン型の艦内だ。軍事機密を目にした一般人など無事に帰れるかどうかも怪しいというのに本人はいたって呑気に食堂内のあちらこちらを物珍しそうに眺めている。
彼女の様子に警戒を続けるタカオ、少しでも変な動きを見せれば掌に隠されたナノマテリアル製のくないが急所を貫く。人垣に隠れてそっと演算領域を拡大させながら密かに体組織成分を分析していたヒュウガはダブルチェックしていたイオナと顔を見合わせ頷いた。「浦上、どうやらその子はメンタルモデルじゃないみたい。成分スキャンの数値はどこをどういじくってもただの人間よ」
「え、なに? 」自分の預かり知らぬ所で行われていた身体検査の結果に我に返って驚く少女だが自分を取り巻く状況が険悪なものである事は肌で理解できる、戸惑う少女の様子を窺いながら手の中のくないを握り潰したタカオが彼女の前へと進み出た。「わざわざ日本から来てくれたのに変な空気でごめんなさいね、でももしあなたの時間が構わないようなら少し私の質問に答えてもらってもいいかしら? 」
「や、時間は構いませんがなんでしょう? …… え、あたしの格好そんなに変ですか? 」
二度三度と少女のいで立ちを頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺めまわしたタカオが小さなため息を吐いた。「あなた …… いくつ? 」
子供に尋ねるような口調で問いただす彼女に気圧されながらも少女は呟くように答えた。「十七歳です」「 …… 政府の機密書簡を運ぶのに未成年を使わなきゃならないほど日本の官公庁は切迫してるのね、まあいいわ。じゃあ次はあなたの身分証明、パスポートとビザと国家公務員身分証見せて」
「あの、まさかなんですけどもしかして学生証 …… とか」「今持ってンならね、さあさっさと出して」
傍から見れば職質のような会話のやり取りに観念した彼女が手にした小ぶりの黒のクラッチバックから言われた三冊を取り出して手渡すとタカオはすぐに裏表紙を開いて目当てのページをスキャンにかけた。贋作防止のためにあちこちに張られたプロテクトの一つ一つを丹念に調べる彼女だがパスポートもビザも日本政府が発行したものに間違いない、しかし公務員身分証を手に取った彼女はそこに記載された文言を見て思わず尋ねた。「総務省? あなた内調の職員じゃ? 」
「内閣調査室からの依頼を受けた総務省認可の民間会社から派遣されました、ちなみにあたしそこのアルバイトなんですけど」「アルバイトぉ? …… 郵便配達じゃあるまいしそんな事ってあるの? 」
身分証を受け取った駒城が写メを撮ってすぐに総務省のデータベースへとアクセスすると果たして返信には彼女の身分を保障する旨の公示記載が詳細とともに送られてきた。「驚いた、本物だ …… それに臨時職員の登録もずいぶん前からされている。三年前って君、まだ中学生のころからここで? 」「ええ、まあ。父親が働いてる関係で人手不足で仕方なく」
「父親の頼みで会社を支えている所は見上げた心がけだが学生ならばやはり学業というものを大事にせねばいかん。わがロシアでもそういう子はつとに増えてはいるがこういう風潮は正すべきものだと俺は思うのだがな」
「いや、そうとも限らんぞ? 」良識ある大人の態度で持論を振るまうルスランに対して手に取った学生証を見ながら浦上は言った。「考え方に寄っちゃあすでにある程度のレベルを突破した人材はその見聞を深めるためにもっと海外での経験を積んだ方がいい事もある …… 君の親父さんもそういう考え方の人なんじゃないか? 」
その学生証が示すものは都内一の偏差値を誇る高校に彼女が在籍している事を示している。「虎ノ門高校とはな、ずいぶん色々出来がいいと見える。葛籠 ……
簡素な椅子から立ち上がった浦上がヒュウガの止める暇もなく撫子へと近付いて右手を差し出す、自分に益のある相手に対して何の蟠りも分け隔てもなく接しようと努めるその態度は彼の持つ美徳ではあるのだが自分の立場を忘れた大きな欠点とも言える。彼女の心配をよそに差し出された手を少女は嬉しそうに握りしめた。「こちらこそ初めまして、葛籠撫子です。早速ですがこちらの書簡を ―― 」
「すぐに受け取りたいところだが実はこの所ハワイ周辺は思いの外立てこんでいてな、特に治安関係に関して各国が非常にナーバスになっている所での君の来訪だ。それに君に関して身元の確認は済ませたがまだいくつか疑問な点もある、お互いの不安を取り除くためにここは是非協力をお願いしたいのだが、いいかね? 」
「中将閣下の申し出とあれば私なんかに断る理由がありません、気が済むまでどうぞ」握った手を離しながらにっこりと笑う撫子の無邪気さは恐ろしい事に警戒心を根こそぎぶった切る威力がある、いけないいけないと首を振りながらタカオとヒュウガは二人の一挙手一投足に全神経を集中する。
「まずはここに来た経路だ、私が上陰にこの件をお願いしてから一晩しか経っていない。一体どうやって? 」「数Ⅱの授業の最中に統合軍の人たちに拉致られてそのまま飛行機に詰め込まれてここには朝一で」
「あいつらのやりそうなことだ、手荒で申し訳ない …… で、もう一つの疑問なんだが」そう言うと浦上はヒュウガへと目くばせした、察した彼女はすぐにラップトップを取り上げて二つ目の疑問となった例の画像を表示した。
「これは宴会場の監視カメラの映像なんだけど、この壁際に映っているのはあなたで間違いない? 」
「はい」
躊躇も逡巡もない、一応イオナがポリグラフ機能全開で彼女の音紋を分析しているのだが波形は見事に真っすぐだ。ヒュウガに向かって目で合図したイオナは思わずこの闖入者の姿をマジマジと見上げる。「 …… ずいぶんあっさりと。あなたはあそこでどんな会議が行われてたか知ってるの? 」
「いえ全然。中将の書簡を届けるために埠頭に行ったのですが上席の方々が一人もいなかったのでイギリス海軍の方に尋ねたところ全員がこのホテルに集まってるという事だったので。ベルボーイとコンシェルジュにもお伺いしたのですがここにはだれも来てないの一点張りで、ちょうどその時喉が渇いてなんか飲みたいなーと思ってうろうろしてたらドアが開いて黒服の人が出てきたから扉が閉まる隙に部屋に入り込みました。あのパイナップルジュース、美味しかったなぁ」
宙を見上げながら頬を緩ませる彼女の姿を唖然として見つめる全員。最大限の注意を払って極秘の会合を開いたつもりがよりによってこんな無邪気で間抜けな理由で破られてしまうとは。だが主催側ではない立場のルスランとヴァルマにとってその出来事は実に痛快だったのだろう、苦虫をかみつぶしているヒュウガの向かいでヴァルマが笑いながら言った。
「 “ そりゃいい、邪な努力は無邪気な第三者には通用しないといういい見本だ。あなたは実にすばらしい才能をお持ちだ ” 」
その言葉が理解できた者は誰もいない、というのもヴァルマはそのセリフをインドの公用語としてよく使われるヒンディー語ではなく地方言語で喋ったからだ。主催者と同席しながらこき下ろすためには誰にもわからない言語で話すのが一番だとばかりに茶目っけ混じりの出来心で仕掛けた悪戯、だが返事など返ってくる訳がないとタカをくくっていた彼は果たして撫子の声に全身が固まった。
「 “ 褒めて頂いてありがとうございます。ですがそういう偶然って往々にしてありますので才能という一言で片づけるのはどうかと ” 」
「 …… まさかこの言葉が君の第二選択外国語って事はないよね? 」真顔で尋ねる彼に向かって笑いながら手を振って否定する彼女を見比べながらルスランが尋ねる。「少将、今の言葉は? 」
「今の言葉は私が生まれた地方で使われる言葉でマガヒー語といいます。不可侵民の中でも最下層の扱いを受ける私達『ムサハ-ル』しか分からない言葉なのですが」
「ほう …… で、少将は今彼女になんて言ったんだ? 」「あー、それは …… ちょっと、言えないかな」
「子供のころから父親の仕事の関係で海外を長く転々としていましたんで、一応世界中のどこに行っても困らないだけの言葉は話せます。書くのはちょっと難しいですが」
「 “ という事はロシア語も? ” 」「
女子高生どころか語学だけで言うならば外務省の通訳担当官を遥かに超えるその堪能ぶりに全員が呆気にとられるが当の本人は至って自然体だ、
重箱の隅の隅までつつくような検索分析をとことんまで推し進めてみても出てくる結果はいたってごく普通のありきたりな答えしかない、これ以上はどうしようもないとイオナとヒュウガは顔を見合わせ頷くしかなかった。「彼女にかけられた嫌疑の全ては現時点では完全にクリアしました、少なくとも身元に関しては至って健全なものです」
ヒュウガの言葉の意味が分からず小首をかしげて作り笑いを浮かべる撫子に浦上が小さく頭を下げた。「書簡を受け取るだけでずいぶんな手間をかけてしまった、もし君が不愉快な思いをしたというのならこの通り謝罪する。本当にすまない」
「あ、いえそんな。中将さんがこんな小娘に謝るなんてダメですよぉ。それより疑い? が解けて? こっちも何よりですから」慌てた彼女はそう言うと忙しない手つきでバックの中から三通の手紙を取り出した。「それよりこちらがお三方からの書簡になります、もし急ぐようならすぐにご覧になっても構わないとの許可は得てますので ―― どうぞ」
殺風景な定形外の封筒に書かれた文字は宛名と差し出し人の名前のみ、だが南管区の四天桃花より出された封筒の宛名は群像になっている。裏返して封緘の刻印がそれぞれの組織を表す紋章であることを確認した浦上は一通を群像に手渡してから二通の中身を取り出して目を通す。
「北幹事長からは蒼き艦隊並びに技術開発局への援助を約束する代わりに速やかな敵性勢力の排除を検討するようにとの私信だ、珍しいな ―― 陸軍支持派の奴がこうも海軍に肩入れしてくるとは一体どういう風の吹き回しだ? 次官補の方は内調を通じて諜報活動専門の人員を当該地区へと向かわせると書かれている …… 二人の言い分がいつもと逆だな」
与党幹事長北良寛は元々海軍の出身ではあるが今は立場上戦闘経験の薄い陸軍の幕僚を抑えるために重しの役目を担っている、そして上陰は言うまでもなく統制海軍次官補だ。諜報戦というなら主に陸軍が担うはずの任務を上陰が言及し、その逆を北が言う。いつもと反対を送ってきた二人の微妙な立場の変化に一体国内で何があったのかと浦上は首をかしげる。
「日本の諜報部隊と言えば陸軍習志野空挺か海軍のSBU(特別警備隊)くらいのもんだ、しかも海外で活動となると日本式の縦組織じゃ動きが鈍くなる …… どっちを派遣したとしてもとても各国から参加する彼らと肩を並べられるとは思えん、考えられるのはあくまで本国との連絡などの後方支援ぐらいしかなさそうだな」
「いや、むしろありがたい。これだけ多国籍が参加する作戦ともなるとどこが主導権を取るかが問題になる、戦術的にはモサドが探ってCIA実行部隊が主体となって他の国が南米他国の介入を阻止する事になるだろう。そうなった時に補給兵站を独立国家が責任を持って担ってくれるのなら後ろを気にしなくていい分進入への圧力はかけやすくなる ―― なんだね? 」
二人の会話をぼんやりと見ている撫子の視線に気づいたルスランが振り向くと彼女はぽけっとしたまま呟いた。「 …… なんか難しい話してるなぁって。 ―― あっと忘れてた」そう言うとバックの中から携帯端末を取り出して浦上へと差し出した。「一応こちらの方に受け取りのサインをお願いします、中将が終わりましたら千早群像さん、でしたっけ? そちらの方もお願いします。貰わない事にはあたし帰れなくなっちゃいますので」
* * *
一通りの話し合いを終えた所でウラジオストクから退出した一同はルスランやノンナ達極東艦隊の幹部連中の見送りを受けながら狭い埠頭を後にした。弾むような足取りで先頭を歩く撫子の背中とホノルルの景色を見比べながらイオナはふとある種の不安に襲われる。少女と海 ―― これほど穏やかでのどかな光景は今ある世界を象徴するものだ、平和と生を謳歌するその景色はたとえメンタルモデルが少女と差し替えられたとしても色褪せるものではない。
あたしはそれを知っている。
南部ドレスに身を包んだアリゾナが立つハワイの海は闘いに身を投じる事を決意した彼女とは決して相容れないものだと分かっていながらそれはどこか似合っていた、思わず微笑んでしまうような世界と漂う空気はいつもイオナの心を豊かに満たしていく安らぎそのもの。
だが今目の前を歩く彼女とこの平和にはどこか隔たりがある、とイオナはその華奢な背中を瞬きもせずに見つめている。かけられる声にもすぐに応じて朗らかな声で受け答えする少女、それは群像を探して潜入した海洋学校で出会った学生たちと何ら変わりのない身の丈通りの少女だ。
なのになぜ。
彼女にとってこの平和な世界は交わることが絶対にない場違いな物に見えてしまうのだろうか?
群像達が第一埠頭へと辿り着いた時401のクルー達は出港準備を終えて埠頭での日光浴を満喫している最中だった、歩み寄ってくる彼らの姿を見て椅子から立ち上がった杏平は真っ先にその変化に気がついた。「やれやれ、ずいぶん長かった ―― おりょ? なんか一人増えてねえか? 」
「ほーんとだ、なんか可愛らしいのが一人増えてンだけど」手にした私物のマンゴーラッシーをテーブルに置いたいおりが杏平の後から歩み寄ると先頭を歩く撫子は早足で二人の前へと進み出た。「こんにちわ、401のクルーの方々とお見受けします。今回の件で日本から書簡を届けに参りました葛籠撫子といいます、どうぞお見知りおきを」
「へえ、撫子ちゃんかぁ。見た目通りずいぶん可愛らしい名前だね? あたしは四月朔日いおり、こっちが橿原杏平で後ろでマスク被ってンのが織部 僧副長。それで隣にいるのが八月一日静、よろしくね葛籠さん」
見た目にすぐに年下だと分かるのは同族同士の感性によるものなのだろう、打ち解けた雰囲気で一人一人に挨拶して回る彼女の姿はまるでクルーの妹分の地位を一瞬で獲得したかのように自然な成り行きだ。
「こんにちは、葛籠撫子さん。あたしは八月一日静って言います、もし言いにくかったら静さんでも構いませんから」にっこり笑って右手を差し出す静に笑いかける撫子は嬉しそうに言った。「じゃああたしも撫子とか …… 友達には『なーちゃん』って呼ばれてるんでそっちでも構いません」
「『なーちゃん』かぁ、いいねその呼び方 ―― んじゃさぁ、あたしもいおりさんでいいよ? あたしたち三人名字が変わってるもんね」
「すごくいい子ですね」
三人で笑いあうその光景を眺めながらすでに挨拶を済ませた僧は近寄ってきた群像へと感想を告げる。「元々俺と違って社交性は彼女たちの方が高いけどこれほど早く馴染むなんてびっくりだ、ずっと前からの顔見知りだと言われても全然不自然じゃない」
「おまけにあの子、すっげえ女子力高くね? 若いってンのもあンだけどさあ、なんかキラッキラしてて見てるこっちが ―― なんつうの」
「はいそこまでです杏平、私が思うにあなたの歳と彼女とでは多分3・4才しか違いませんよ? おじさんみたいな発言はほんとに老けこみますからやめた方がいいです」
「じゃあ静さん、よろしくお願いします」
思い出したように満面の笑顔をうかべた撫子が差し出された右手を握る、瞬間に静の心のどこかで非常ベルが鳴り響いた。軍の訓練で得た危機感知能力は今まで決して彼女を裏切らなかった、そんなバカなと引き金となった目の前の少女へと向ける視線には微かな恐怖が宿る。
「またどこかでお会いできたら ―― 一緒に遊べたらいいなぁ」
気づいても喋るなと。
握った手の温もりと黒い瞳の奥で怪しく灯る彼女からの圧力が縛りとなって静の心に刻みつけられる、早鐘のように打つ鼓動と噴出するアドレナリンで酸っぱくなった唾をやっとの思いで呑みこんでにっこりと笑えたのは彼女に叩き込まれた特殊部隊としての後天的な訓練の賜物だった。「そうですね、その機会があったらぜひ一緒に遊びましょう」
* * *
いつしか夕暮れが迫るホノルルの海が少しだけオレンジに染まり始め、くすみ始めた景色に気づいて腕時計へと目を落した撫子は慌てた。「いっけないもうこんな時間っ、友達にお土産も買ってかなきゃなのに」
「時間ないんだったらこの先のパールリッジセンターがお勧めだ、後は月並みだけど空港の免税店かな? ここからならタクシーでも捕まえて急いで行けばまだ1730のJALには間にあうんじゃないか? 」
「ありがとうございます駒城ニ佐っ! じゃあ慌ただしくて申し訳ないんですが今日はこれで失礼します、日本でもし見かけるような事がありましたら是非声かけてくださいね? 」
両肩のお下げが空中で踊るほど大きく振りかぶってお辞儀をした撫子が顔を上げざまに踵を返して慌ただしく埠頭の出口へと足早に駆け出すと、遠ざかっていくその背中に向かって温かい笑みを浮かべながら手を振って見送る蒼き艦隊の面々と重鎮二人。
「いやー最初に見かけた時は本当に何者なのかと思っていたがまさかあんな良い子だったとは。一人旅でも言葉には困らないし、ちょっと天然ぽい所もあるけど見かけによらずずいぶんしっかりしてそうだ」
「なーに駒城二佐、ずいぶんとお気に入りじゃないの? 最初に言っとくけど彼女はまだ十七歳の高校生ですからね、ちょっかい出そうモンならあっという間に階級はく奪されて法務省送りになるわよ? …… ところで浦上」悪戯っぽい笑みを浮かべながら駒城をからかうヒュウガが鋭い視線を傍らに立つ好々爺然とした大男に向ける。
「あんたさあ、ちゃんとルスラン中将に今日の事、お礼言った? 」
追撃が約束されたヒュウガからの怒声から逃れるように元来た道を一心不乱に駆け出す浦上の姿にここ何日かの悪戦苦闘を忘れてしまう群像達が思わず笑って二人の背中を見送る、夕凪間際の温かい海風に髪をそよがせながらやっと日常を取り戻せそうな予感に思わず顔をほころばせるイオナは心の底からこんな穏やかな日がいつまでも続いてくれればと願わずにはいられない。
「イオナちゃん」
後ろで同じように笑う静の両手がそっと彼女の両肩に添えられる、だが呼びかけたその声の優しさとは裏腹に彼女の両手が震えている事にイオナは気付いて驚いた。「そのままで聞いてもらってもいいですか? 絶対他の人に気づかれないよう」
気取られないように必死で平静を保とうとする努力もメンタルモデルの持つ分析力は即座に看破する、その事を理解している静はできるだけイオナにしか聞こえないように小さな声で耳元に囁いた。「 …… あの子、ただ者じゃないです」
「どういう事? 」
イオナの肩に当たる掌が熱を帯びたように熱い、表情とは程遠い緊張がイオナだけには伝わってくる。「今気づいたんですけど、彼女と初めて会ってからの音声データを解析してみてください ―― 彼女なに履いてました? 」
「多分黒のパンプス、ジェリービーンズのローヒール」高校生にしては渋いチョイスだがそれだけにどんな状況にも適応できる汎用性が売りのメーカーだ、イオナが答えると静が決定的な一言を告げた。
「足音、残ってます? 」
音響探知に特化した世界でも有数のソナー手が告げたその事実にはさすがのイオナも真顔になった。
ウラジオストクの艦内で彼女に初めて出会ってから埠頭から姿を消すまでの全ての環境データの中から靴の音だけを拾い上げて解析する、重量感のある浦上やルスランの物と力強い駒城と群像の足音や自分達の物 ―― 様々な音を聞き分けては調べてみるがどういうわけか彼女の靴音だけがまるでデータが消去されたかのように見つからない。「 …… どうして」
「イオナちゃんはあんまり地上軍との馴染みがないから知らないとは思うけど …… あれは特殊部隊の中でも稀に見る特別なスキルです、私も兄も …… もしかしたら父もできないかもしれない。しかも作戦行動中じゃない普段使いができるなんてとても普通の兵士じゃ考えられません」
「じゃあすぐに後を追ってあの子を ―― 」
「大丈夫だと思います、多分ですけど」表情が険しくなりそうなイオナの肩をポンポンと優しく叩いた静が何食わぬ顔で話しかける。「身元は本物だと思います、国籍も。ただ役割と中身が違うだけ。あたしが彼女から感じたのは ―― 」
そう言うと静は撫子が消えたゲートへと遠い目を向けた。
「少なくとも敵じゃないってこと、くらいですか? 」
* * *
そのタクシー運転手は後部座席に座る東洋人の少女をバックミラー越しに怪訝な目つきで眺めていた。
パールハーバーの傍で拾った彼女が告げた行き先は新ダニエル・K・イノウエ国際空港とは間逆のノースショア方面、しかも有料道路を使わずに州道であるカメハメハ・ハイウェイを使ってくれという。ノースショアに務めて用事があるのは腕に覚えがあるサーファー連中だけでとても彼女のような身なりの子が訪れるような場所じゃない。
お互いに無言のままひた走る中央分離帯で区切られた一直線の道は両サイドをうっそうとした原生林で取り囲まれて人通りも少ない、この分じゃ到着は夜になるだろうと料金以外の三割増しで彼女の身の安全へと危惧を始めた運転手の視界の隅がいきなり姿を見せる広大な敷地を確認する。夕焼けに染まるその場所はかつて真珠湾攻撃の際に奇襲を受けた米軍が唯一決死の反撃を試みた由緒ある史跡の慣れ果てだった。
ウィーラー陸軍飛行場。
地元の人間には見飽きた場所、殺風景な敷地に点在する寂れた小屋や車両などに目新しいものなど何もない。ただあまりに広大なためにいくら進んでもなかなか景色が変わらない二車線道路を道なりに流す彼は不意にかけられた少女の声に耳を疑って聞き返した。「え、ここ? 」
錆だらけのまま信号機につり下げられた「サントスデュモンアベニュー」の看板、付近で速度を落した運転手は何かの間違いかと思って周囲をきょろきょろと見まわしたがもちろん客として乗せた少女が何かの形で繋がりそうな建物など何もない。まさか自殺志願の片棒でも担がされたのかと彼女の動きに目を配りながら右側の車線に停車した男は、無駄だと分かってはいながらもしそうなら考え直せとばかりにもう一度少女に尋ねた。「お嬢ちゃん、ほんとに間違いないのかい? こんな所寂れた基地以外にはなんもない所だぜ、いくらなんでもお嬢ちゃん一人でおっぽりだすなんて ―― 」
「あ ―― いえいえそんな事じゃないです、お気づかいありがとうございます。でもここで大丈夫ですから。ここの基地に用事がありますので」そう言いながらメーターの表示された料金よりもかなり多めの金額が手渡された事に驚いた彼は慌てて運転席を飛び出るとすぐに後部座席のドアを開いて降りるのを手伝った。
車通りの少ないハイウェイをUターンして中心街の方面へと戻るタクシーのバックランプを見届けた撫子の表情が少し引き締まり、踵を返して向かう先には寂れている割にはしっかりとしたゲートがある。彼女の姿を見た迷彩服姿のゲートキーパーが腰のホルスターケースを押さえながらすかさず小屋から飛び出して来た。
だがその屈強な兵士はその小柄な影が撫子だと分かった瞬間に立ち止まって見事な立ち姿で右手を掲げた。自分よりもはるかに上背の高い兵士とすれ違いざまに敬礼を交わす二人に笑顔はなく、コツコツと靴音を響かせてセンターアイスルを歩く彼女は道路で待ちうけていたフルオープンの小型運搬車に乗り込むと運転席に座る兵士に向かって無線通話を要求した。
「基地司令に繋いでください」
数分後、通りの左側にあるC-26ハンガーへと近付いたトラックは撫子を降ろして速やかに通りの向こうへと姿を消す。夕闇迫る景色の中に屹立する巨大な建物には煌々と明かりが灯って年相応の外観をうかびあがらせ、陸軍州兵が使用する格納庫を見上げた彼女は慣れた足取りでそこに近寄ると通用口として置かれた簡素なドアノブへと手をかけて中へと入った。
少し薄暗い照明に照らされた広めの廊下を足早に歩いて中ほどの左側にあるパイロット専用のロッカールームのドアを開くと、そこには一日の勤務を終えて思い思いの時間を過ごしてくつろぐ大勢の兵士がたむろしている。任務や業務から解放されてシャワーを浴びる快感はこの後に控えるビールの一杯に勝るとも劣らない、笑いながら大声で談笑する素っ裸の兵士たちは突然その憩いの場所へと乱入してきたスーツ姿がうら若き少女だと分かった瞬間に向けた視線もろとも硬直した。
居並ぶよりどりみどりの裸体の林を何食わぬ顔であっという間にすり抜けた撫子は一番奥に置かれたゲスト用のロッカーまで辿り着くと鍵を開いて扉を開く、錆かけの蝶番が軋む音ではっと自分達が今見ている景色の不自然さに気づいた一人が手にしたタオルで慌てて股間を隠しながらおずおずとした口調で声をかけた。
「あー、へ、Hey Girl. ちょっと言いにくいんだがここに女子ロッカーがないのは君にとって大変不便だという事はわかってる。だが、その ―― とりあえずすぐに済ませるから君は外で待っててくれると非常に助かるんだが」
「あ、任務ごくろうさまです。でもそのままで大丈夫ですよ? 私も全然構いませんから」
「いや、君は構わなくてもこっちが構うというかその ―― お、おいおいっ君何をっ? 」男の忠告にも全く耳をかさずに撫子は脱いだ上着を畳んでフライトバックに押しこむとブラウスのボタンへと手をかけた。止める暇もく潔く脱ぎ捨てるその様を呆気に取られて見守る兵士たち、そのままズボンのホックを外しにかかった所でこれ以上はハラスメントやら何やらとにかく厄介な事態になりかねないと一人の兵士が言った。「わ、分かったっ! じゃあちょっとその手を止めて待っててくれっ俺達が今外に出る ―― 」
「いえいえ、どうぞお気になさらず」
瞬く間に繰り広げられる東洋人の少女によるストリップショーに声も歓声もあげられずにただ見守る兵士達だが、そこは男のしがない性という物で胸の高鳴りは抑えきれない。許可が出たんだからいいじゃないかと嬉しそうに眺める大多数とこんな事を上官に知られたら明日の訓練がいきなり懲罰メニューへと様変わりする事に脅えて腰が引けるごく少数、だが撫子がキャミソールをたくしあげてその肢体が露わになった時に男達はその体に刻まれた文様に思わず息を呑んだ。
女性らしさを象る薄らとした脂肪の下に息づく筋肉、それは決して誰かに見せびらかすために作られたものではなく極限にまで追い込まれて削られた命と引き換えに得る事ができる鋼の証明である事を戦争を生業に選んだ彼らはよく知っている。しかもその体を覆う無数の赤黒い傷は ―― 。
「 ……
たとえ鞭で毎日いたぶられたとしてもこんな風にはならないだろう、ブラとショーツの間から覗くその白い肌に刻まれた様々な種類の傷跡は少女の生い立ちをして尋常ではない事を暗に物語る。珍しい事じゃない、霧が暴れた世界のどこかにはきっとそんな風に命からがら生き延びて今に至った人々も何人かは ―― 五体満足かは別として ―― いるだろう。だが少なくともここで彼女の着替えを見守る彼らの体のどこにもそれを上回る傷跡を残した者はいない。
お通夜のように静まり返るロッカーの空気をしり目に素早く手足を動かしてオリーブドラブのフライトスーツを着込んだ撫子は前身頃のチャックを勢いよく喉元まで引っ張り上げて傷だらけの中身を覆い隠す、着衣を詰め込んだフライトバックを肩に担いでモデルが姿を見せつけるように彼らの方へと向き直ると両手を掲げてにっこりと笑った。
「見ぃたぁなぁぁっ? 」
ガオーッと可愛らしく声を上げながら彼らを威嚇してなんとか和ませようと努力はしてみたが与えたギャップの大きさを覆すまでには程遠い。やれやれと諦め笑いを浮かべた彼女は伊達眼鏡を掛けると来た時と同じように、体が冷えるのもお構いなしに素っ裸で立ちすくむ兵士の林をすり抜けて気づかうようにロッカールームの扉を閉めた。