蒼き鋼のアルペジオ -Ars Nova- Eingang   作:廣瀬 眞

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戦う理由

 追い風をジブセール一杯に孕んだ白いヨットが軽やかに太平洋を南下する、那覇と台北で二度目の補給を終えたその船は黒潮の流れを迂回して一路マニラに向けて順調に航走を続けている。舵輪を握る精悍な男が臨検を終えたフィリピン海軍に巡視艇をさわやかな笑顔で見送るとデッキに腰かけた撫子はやはり屈託のない笑顔で両手を大きく振りながらこっちへと手を振る水兵に日本語で大声で叫んだ。

「ばっかやろうこの泥棒猫どもっ! いちいち小金ばっかりむしり取ってくんじゃねえっ! 」

 どうせ解るかとばかりに罵詈雑言を捲し立てる撫子に向かい側に座った百合が苦笑いで諫める。「やめなさいって、彼らにだって生活があるのだから。それにどうせ私たちのお金じゃないんだし」

「わかってんだけどさぁ」視線を戻してどっかとデッキに座り込む撫子はあからさまに不機嫌だ。「いつまでもそう節操のないこっちゃ全然自立できないってわっかんないかなあ? いくら世界大戦が終わったってこんなんじゃあ ―― 」

「しょうがないよ、確かになーちゃんの言う通りだけどまだ全員がまともに生きていくには時間がかかる。資源も土地も生き残った人には有り余るほど残っちゃいるがそれを生かす技術者も指導者もほとんどいない、そういう秩序が元に戻るのはみんながそれに気づかないと」

「 ―― 気づかなければ? 」

 鏡二の正論に未来予測を続けた撫子が舷側に後頭部を預けながら目を閉じた。照り付ける日差しが瞼の隙間をこじ開けて網膜まで差し込む、その明るみの中に浮かぶ一人の男の姿。「 …… 声を上げたもん勝ち。迷い惑った子羊は一頭の狼に率いられてそいつの秩序を信じる ―― ああヤダヤダ、何のモガディシオよそれ」

 あの小さな町でその男一人を仕留めるためにどれだけの民兵を殺さなければならなかったのか、ソマリアといいパプアニューギニアといい多くの仲間と犠牲と引き換えに得る勝ちを彼女は決して心の底から喜べない。むしろ自分についた二つ名をいっそ死神とか悪魔の名前に変えてほしいと願ってしまうくらい。

「ところでさ、なーちゃんなんでマカオ? 」彼女の素顔が生真面目すぎてすぐにネガりそうになる性格をよく知っている鏡二はすぐに話題を変えた、撫子はパッと瞼を開くともたげた頭を持ち上げて遠く水平線へと目を向ける。「カジノに用事があるの」

「カジノ? 」黒のスリングショットにオレンジの救命胴衣を羽織った百合が二の腕から肘にかけて日焼け止めを伸ばしながら尋ねると撫子はため息をついた。「そ。ほんとはあんまり会いたくないんだけどどうにも相手の情報が少なすぎてね、だから今回だけはお願いしようかなって」

「あなたが会いたくないって珍しいのね、どちらかというと物怖じしないタイプなのに。それに今回だけって ―― 」首を傾げた百合がつかの間考えその答えにすぐたどり着くが流石の彼女もその答えに驚きを隠せない。「撫子あなたまさか ―― 」

 咎める視線を撫子に向けた後すぐに舵輪を握る鏡二に鋭い視線を向けた。「辰巳 …… あなた知ってたわね? 」

「さて何のことやら …… たださんざん殺り合った相手だけど今なら協力してくれると俺は思うよ」ニヤッと笑った彼はレバーを引いてジブをストンと降ろすと隣のハンドルを回してメインセールを立ち上げた。

「あいつらだって仲間の無念くらいは晴らしたいだろ? 」

 

            *            *            *

 

 アポリーナリオ・マピーニ通りに面したエグゼキューティブホテルから出た撫子たちは向かい側にあるカジノフィリピーノ・マラテの正面入り口に立っていた。他のIR地区にある豪奢なカジノとは違ってここは地元のパチンコ屋のように一般人のための娯楽施設だ、当然入り口はフリーパスでドレスコードも存在しない。地元民と同じようないで立ちで館内へと足を踏み入れた三人は人気の少ないスロットコーナーを一瞥した後にその奥にあるメインホールへと歩を進めた。

「カジノなのに随分人気が少ないのね」油断なくあたりを見回した百合が呟くと撫子は少し楽しげに笑った。「これでもだいぶ人が戻った方よ、それにほかの大手とは違ってここは地元民相手だからディーラーもフェアだし ―― お、やってるやってる」

 大きなスペースにいくつも並べられたテーブルはかなり埋まっていてあちらこちらで悲喜交々の嬌声が上がっている、撫子はニヤリと笑うと中級者用のテーブルへと目を付けた。「じゃ、あたし早速やってくるから。百合姉も鏡二も適当に遊んでて、二時間経ったらさっきのスロットの所で落ち合いましょ」

「はいはい ―― じゃあ私はあっちのテーブルで」「じゃあ俺は大小でも ―― 」

「あ、ちょっと言い忘れたけど」それぞれに分かれようとするタイミングでくるりと撫子が振り返った。「二人ともあんまり勝ちすぎないでね? あたしの取引材料がなくなっちゃうから」

 

 大勢の人だかりが数ある中の一つのテーブルを囲んで固唾を飲む。カジノでのカードゲームといえば最近ではカード7枚の組み合わせで参加者同士が勝負するテキサスホールデムポーカーが主流だが金のない地元民同士がやり合っても後々遺恨が残ってトラブルの種になる、地元民の娯楽のために営業するここフィリピーノ・マラテでは店側が胴元となって賭場を成立させるブラックジャックが主流となっていた。店側のディーラーと客でどちらが『21』に近い数を引くか、単純かつ明快で時間がかからずしかも運頼み ―― と思っているのは子である参加者だけだが ―― とあって常にテーブルは満杯だ。

 緊張を隠せないディーラーの向かい側でにこりと笑いながら山のように積み上げられたチップのいくつかを目の前に積み上げていく少女と興奮する観客、先に絵札二枚を晒した彼女に勝つために次々カードを引いては晒す彼の手は汗ばんで震えが止まらない。だが願いを込めてテーブルへと置いたカードは果たして彼の期待には応えなかった。

「! クラブの6っ、ディーラーバーストしたぞっ! 」「すげえっ、この子いったい何連勝したんだ⁉ 」手元に置いた数え22のカードを失意の目で見降ろした男が動揺する指でカードを集めて傍らに置いたシュートへと投げ捨てる、高額になればなるほどディーラーはその公正性を客に示すために毎回カードを新品に取り換える。歓声の上がる観客に向かって手を上げて笑いながら嵩を上げるチップの中から何十枚かを振舞い、そのことが話題を呼んでいつの間にかホール中の客がこのテーブルを目指して集まっていた。

「 …… ご確認、ください」ディーラーが差し出したカードの箱に貼られた封緘をじっくりと見つめた撫子がにこりと笑って直にその手へとカードを戻す、躊躇いながら蓋のシールを切って中身を取り出した彼が意を決してそれを切ろうとした瞬間に背後から肩を叩く男が言った。

「交代だホルヘ、あとは俺が相手をしよう」

 髪をオールバックにまとめて黒縁眼鏡をかけた背の高い男が彼の手からカードを受け取ると撫子の視線に立ち塞がる。「ここからは私がお客様のお相手をさせていただきたいと思いますがよろしいでしょうか? 」

「いよいよマスターディーラーのお出ましね、あたしは全然かまわないけど? 」望むところと笑った撫子がすぐそばに控える係員に合図をして手元のチップを全部桁上げさせて新規の物へと変えさせる、それでも積み上げられたチップの額は単純に見積もってもビル一棟買収できる。周囲が驚きの声を上げる中でも全く表情を変えないディーラーは撫子の真意を悟って提案した。

「それだけ高額のチップを周囲の皆様に振舞うともなれば振舞われた側にも今後国税からなにかしらの不都合があるやもしれません、もしお客様の都合がよろしければ別室にてご対応をお願いしたいと当店からはご提案させていただきたいのですが」

「もしあたしがその提案を断れば? 」

「お客様の儲けは一度全額換金いただいてゲームは再開と言う事になります、ただしその前に入り口のそばで待ち構えている税務局員に一度身柄をお預けすることにはなりますが」

 カジノでの儲けにその国での税制が適用されることはなく、それは撫子たちが日本へ帰った時に『一時所得』という形で日本の国税庁に申告しなければならない。だが彼がそれを告げることで周囲の観客はたちまち三三五五に散らばって新たな賭けを物色し始めた。彼は暗に今までの事は店側として大目に見るがこれ以上は容赦しないという言外の脅しをかけたのだ、そのまま持って出れば店の外で不正所得として拉致するぞと。

 人垣が失せたテーブルでお互いに手じまいを始める二人、だがその時撫子の視界の端に小柄な笑顔の男が現れた。「 …… まさか君がこの店で遊ぶとは思わなかったよ、『紅娘』」

 

「 ―― お久しぶりです林大人」神妙な面持ちで両手を合わせてペコリと頭を下げると林も同じように敬意を払って頭を下げた。「壮健そうで何よりだ、お互いまだこの世に生きているというのは喜ぶべきか悲しむべきか」「ええまあ、あたしもそう思います」

「随分と勝っているみたいじゃないか」挨拶を解いた初老の男は係の男がボックスに納めているチップを一瞥して眉尻を上げた。「 ―― まるでこの建物一棟買えそうなくらい」

「次で勝ったら本当に買っちゃおうかなって」「なるほど、それで彼らが私を呼んだわけだ。彼らの生活が脅かされているわけだからな …… それとも何か他に用事でもあるのかな? 」突然林の笑顔の影に隠れた本性が瞳の奥に潜めていた澱みと共に撫子の前へと溢れ出す。

 中国統制軍中央軍統一戦線工作部長林相如大校。中国が手掛ける各種情報戦の最前線で常に他国の侵略から自国を保護するため時には軍事行動を起こすことも辞さない、『東洋のモサド』とも言われるその軍団は霧との戦争から中国を護るために様々な場所で諜報・陰謀・教唆などありとあらゆる手で被害を最小限に抑えて戦後復興のための戦力も維持することに成功した陰の立役者である。

 世界中に散らばる彼らの拠点数はユダヤ教会を起点として広げるモサドよりも多くその種類も多種多彩だ、大使館や公司関係は言うに及ばず街の電気屋から裏で牛耳るマフィアまで ―― 華僑のネットワークを通じて広がる彼らの諜報網は西側諸国が把握しきれないほど広範囲かつ緻密に各国の奥深くにまで食い込んでいる。故に国家に対して重大かつ危急のテロ活動を未然に防ぐために至る所で殺り合う撫子たちはまさに彼らにとっての怨敵だった。

「まあ積もる話は場所を変えて。林大人もご一緒するんでしょ? 」ニコリと笑った撫子が手を差し出すと林は苦笑いを浮かべてその手を取った。「こうして見るとうちの娘たちとほとんど変わらないのだが、やはり私は君と君の御父上の重蔵氏の在り方は間違っているように思うぞ」

 二人の周りをボディーガードと呼ぶにはあまりに無機質な男が取り囲んで一行はゆっくりと奥の部屋に通ずる大きな扉へと足を向けた。

 

 窓一つない10畳ほどの部屋の真ん中に置かれたテーブルとそこだけを照らすピンスポット、壁の四方に設置されたいくつものカメラが油断なく彼らの姿を追いかける。席に着いた撫子が係から恭しく差し出されたチップを受け取って目の前へと積み上げると少し離れた隣に座った林はそれと同額のチップをボディーガードに積み上げさせた。二人を代わる代わる見下ろしたディーラーの男が今まで使っていた紙箱のカードをごみ箱へと捨てて新たなプラスティックの箱を手に取った。

「ご確認をお願いします」短くそういうと撫子の前にそれを差し出す、どこにも封緘がされていないその箱は特殊な加工がされていて一旦開ければ本体が全部破損してもとには戻せない作りになっている。どこにもひび割れがない事を光にかざして確認した彼女はそれを林へと手渡そうとしたが彼はその勧めを断った。「私は見なくてもいい ―― この意味が分かるかな? 」

 反故にされたカードを笑いながらディーラーへと戻す撫子。「もっちろん。あたしは今や袋のネズミってわけね? で、二対一であたしが勝った時の見返りは? 」

「この建物を君に放棄してもらう代わりに君からの依頼をなんでも受けよう。今手元にある情報ない物含めて君が望む全ての情報を ―― ただし私たちが勝ったら」

「この先しばらくあなたたちの活動に関してこちらは一切手を出さない。親父にもそう言っとくわ …… どう? 」

 この先しばらくがどれくらいの期間を指すのか定かではないがそれでもこの連中がしばらく手を出さないと言うのであればそれは一国の利益に値する、彼らの働きのおかげでどれだけの資産と国益を失ってしまったか ―― ディーラーと視線を交わした林が小さく頷くと撫子に向かって微笑んだ。「いいだろう、取引としては悪くない。むしろこちらにとっては非常にお得な条件に思うのだが『紅娘』らしくもないともいえる」

「あら、そんなことないわよ」撫子はあっけらかんと林の追及を躱すとニヤリと意味深な笑いを浮かべた。「むしろあたしが勝った時どんなお願いをしてくるか、今のうちによっく想像力を働かせといてね。林大人」

 

 澱みなく動く指が矢継ぎ早に動いてカードを配る、それは撫子と林の目の前にあるファーストベットのために置かれたチップの下へと滑り込む。瞬き一つの間に二人の元へと送られたカードを見て静かに息を整えたディーラーは二人の目にもよくわかる緩やかな仕草で自分の手元に二枚のカードを伏せて告げた。「 ―― ではご覧ください」

 ディーラーの札は必ず一枚は開示される、アップカードはダイヤのクイーン。撫子は自分のカードをテーブルから少し持ち上げて数字を確認するとコツコツとテーブルを叩く、次のカードを要求されたディーラーは素早く次のカードを送ってから再び彼女の指示を待つ。だが撫子は浮かない顔で再度カードを要求した。

「 …… おい、四枚目 ―― 」「私語は慎め、大事な勝負だ」

 呟いたボディーガードを 責した林が撫子の表情へと目を向ける、時々カードを覗いては宙へと視線を遊ばせて眉根を寄せるのはまだ自分が勝負できる数字に届いていないからだと思う。もちろんブラフの可能性もあるがこのゲームでそんなことをしてもあまり意味がない、自分が下りたとしてもディーラーは絶対勝負するからハッタリは効果がないのだ。

 自分のカードは絵札が二枚、足して20でステイが確定している。勝つには絶対に21が必要なのだがコートカードは12枚のうち3枚がこちらの手の内、それに枚数を引いているときのそれらは一撃でバーストをもたらす危険なカードへと変化する。Aを複数枚引いているならまだ助かる可能性もあるがその確率は異常に小さい。

 撫子が腕組みして困り顔でうーんと悩んでいるその姿に林はいよいよ勝負かと心を決める、しかし彼女は再びコツコツとテーブルを叩いて次のカードを要求した。予想外の出来事についにテーブルの周りを固めていたほかのボディーガードまで口々に呟き始め、静粛を求める事も忘れて林は思わずディーラーへと視線を向ける。

「 …… よろしいのですかお客様、五枚目になりますが」「 …… いいわよ、頂戴」

 促されて送られたカードをちらっと覗いた彼女がため息をついて元に戻す、続いてテーブルを叩いた時に周囲のざわめきは狭い部屋の中へと駆け巡った。要求した時点で彼女の手札が21に届いていないことは確かだ、しかし最後の一枚が絵札だとしても今手元にある5枚で11になっている可能性はかなり低い。4以下の数字で考えられる組み合わせ ―― ポーカーで言う4カードやフルハウスが成立する確率はコンマ1パーセント以下、それをこの大勝負の場で引き当てることが本当にできたというのか?

 ありえない、絶対彼女はバーストしたと息を呑むボディーガードたちが息を呑んで撫子の手元に焦点を合わせる。だがその手はカードを開かずにカードの上を二度彷徨ってターンの終わりを告げる。

「! バースト、じゃないのかっ⁉ 」

 

 六枚目でのステイが何を意味するのか ―― 相対するディーラーの男の脳がものすごい勢いで回転する、そのままの姿勢で林の方へと目を向けると彼は手持ち二枚でステイの意思を表した ―― それを見ても動じない彼女の手札は間違いなく20以上であることが分かる。勝つためには最低でも20以上の数を引かなければならない。

 誰もが注目する中でディーラーは無造作に返されたカードはスペードの2、ディーラーは自分のカードの数が17を超えるまで引き続けなければならない。ただこの場合20以上を狙うのならば17を跨いで一気に20以上に到達することが要件となる、素早く次のカードが山札から引かれるとその数字に場内は騒めいた。「! お、おい …… ダイヤの2って 」

 足して14。これでディーラーはかなり追い込まれた ―― 次のドローで彼が望みを繋げられる数はAと2と6と7のみ、それ以外では勝ちの目が薄いかゲームオーバーだ。息を呑む全員の前で再びカードを引いた彼はほんの少し息を継いでクラブの2を隣に並べた。

 首の皮一枚で繋がったその数にボディーガードたちは目を見張る、ここで2を立て続けに引くディーラーの強運もさることながらもしかしたらという期待に興奮が高まる。残り枚数39枚に対して5の数は最大でも四枚、しかも六枚引いた撫子が持っていればその確率は一気に下がる。だがこのディーラーならばと思わせる絶対的な予感が場を支配しようとしたとき、唐突に林が言った。

「やめておけ、朱上尉」

 その声にディーラーの指がピクリと動いて視線だけがその初老の男に注がれる、ニコニコと笑う笑顔をそのままにどこからそれだけの眼力が出せるのかと思うほど鋭い目が彼をねめあげた。「『蛟竜』のエースともあろう者がそういう事で自分の格を下げるな、貴様にできる事はただその一番上のカードを場に開くだけ。戦場とは時に大局の行く末に身を委ねなければならん事もある」

「 …… 申し訳ありません林大校、ですが ―― 」

「彼女の右手をよく見てみろ」促されて視線を移す撫子の右中指の先にほんのわずかに飛び出す鋭い先端、いつの間にか筆記用のボールペンを暗器のように忍ばせていた彼女の目が研ぎ澄まされた切っ先のように朱の手元へと注がれている。「手の中にあるボールペン一本でも彼女はここにいる全員を血祭りにあげるぞ? 本気になった『竜紅娘』を甘く見るな」

 中国情報局で使われる撫子のコードネームを聞いた朱の顔色が一瞬変わり、左手が手の中にあるカードを静かにテーブルへと安置した。全員の目に触れるところに置かれたカードの山が天井から降り注ぐスポットの中央に置かれ、朱は今までとは違うゆっくりとした動作で一番上のカードを抜き取ってその図柄を見てニヤリと笑った。

 安堵のため息とともに2のスリーカードの隣へと置かれたそれはスペードの5。「 …… さすが隊長さん、凄い引きね。最弱のセットから一気に最強にのしあがるなんて恐れ入ったわ」

 満面に驚きを湛えて右手に仕込んだボールペンをそっと脇のテーブルへと置く撫子が言った。「でもね」

 

 パタパタとカードを開く指に魅入られる室内の空気が凍り付く、Aから始まるその並びはポーカーでいうストレート。最後に朱から配られた一枚をテーブルに晒すと撫子はにっこりと笑った。「あたしの手も満更でもなくない? 」

 彼女の手札は朱と同じ21のブラックジャック ―― だがその手を見た朱と林は苦笑いを浮かべて手元のチップを全部撫子の手元へと滑らせた、それは彼らが明らかに負けたことを意味する作業だ。「お、おい。同じブラックジャック同士でなんで朱上尉は負けたんだ? 俺にはさっぱり ―― 」

 ざわつく野次馬に鋭い視線で一瞥をくれた朱は小さくため息をついた。「 …… 噂通りの強運恐れ入りました、まさかここで稀役を引きあがるとは。私たち蛟竜があなたたちに一度も敵わない理由が分かったような気がします」

「A to 6。ブラックジャックの手役の中で最強、だがその手が仕上がることは奇跡に近い。故に払い戻しの倍率も一番高い ―― 君には本当に脱帽だ、紅娘」

 林の言葉に会心の笑みを浮かべた撫子が手元のチップをザザッと林の手元へ押し付けた。「じゃあこれで取引は成立と言う事で。チップは全部戻すからあたしからのお願いを聞いてもらうってことで、いい? 」

「もちろんだ。華僑の信用に賭けて」林の表情から笑顔が消えて本来の顔が浮かび上がる、彼の決断はそれすなわち統一戦線工作部全体の総意と言う事。「じゃあ単刀直入に。アルゼンチン共和国の実質的指導者アルフレッド・デ・ラ・ゲバラの情報を。彼が一体どういう目的で何をしようとしているのかをあなたたちが掴んだ範囲で包み隠さず」

「 …… すでに我々が動いていることを知っているとは。やはり君たちは侮れんな ―― しかしそういう事なら私たちよりも君の御父上の方がずっと詳しく調べているように思うが? 」探りを入れた林だったがそれを聞いた撫子の顔は浮かない。「残念だけど今回キングとあたしの行動は別系統、だけど多分あいつも対アルゼンチン包囲網に一役買ってるはず。今頃アフリカの西海岸あたりで何やってる事やら」

「 …… もうキングがそこまで動いているとはな。だが大西洋側の通商ルートを遮断したところで奴の動きは止まらん、そのゲバラという若造はご先祖の一つも二つも上をいく恐ろしい戦略家だ。移民の子として最下層から政治の中枢に立つまで自らの才覚を周囲に見せつけ、しかも祖先の評価をとことんまで利用して人心を掌握した」

「それで『蛟竜』は今回の共同作戦に名乗りすら挙げなかったのね? 体面とメンツを重んじるあんたたちが同胞を殺られて声を上げないなんてどうもおかしいと思った」

 それは撫子が考えていたまさに最悪のケースだった、もしその中心人物が自分や父と同じ考えを持っていたとしたら。投げかける鋭い目線に朱は苦渋を滲ませて頷いた。「彼の目的は今作られようとしている世界に対する反攻、霧の侵攻に対して辛うじて生き残り霧の戦力を懐柔して利用しようとする西側諸国が作ろうとする主体秩序の破壊にあります。もう一度世界を混沌のるつぼへと叩き落として決して一部の政治家の権益に惑わされない人民中心の新世界 ―― それが彼の掲げた理想です」

「理想という名の毒はいつの時代も人を迷わせ狂わせる。かつてのわが祖国がそうであったように」林の表情から笑顔が消え、瞳の奥に眠る悲しみが宙を向く。「『紅娘』、君がどういう命令を受けたかは知らんが今回だけは見送った方がいい。今までとは敵の規模が違う、もしかしたら国ではなく南米大陸全てを敵にするかもしれん」

「あら、心配してくれてンの? 」「もちろんだ。我らにとって不倶戴天の間柄とは言え好敵手が我ら以外の手にかかるのを黙って見過ごすわけにはいかない」林の言葉にテーブルの向こうで佇む朱も小さく頷いて同意し、撫子はそんな二人の心からの忠告に優しい笑顔を浮かべた。「ありがとう林大人、朱上尉。あなたたちの心遣いに心から感謝するわ。でもあたしたちはそれを止めなきゃいけない理由がある ―― でもやっぱりもうパナマは」

「もうパナマだけじゃない」傍らでうず高く積もったチップの何枚かを撫子が摘み取る様子を横目で見ながら林は言った。「背後のコスタリカ、そしてコロンビアやエクアドル。今回の作戦で侵攻ルートに選んだ国家の軍やカルテルに至るまで ―― 全てが敵だ」

 

           *            *            *

 

「 ‟ リードアルファからダンデライオン ” 」

 不夜城の運河を照らす光を逃れた林から少し離れた場所にいる黒迷彩の男が耳を押さえると声を潜めて言った。「ダンデライオン。様子はどうだ? 」

「 ‟ ―― おかしい。パナマには軍がいなかったはずだな? ” 」「プレブリーフィングではそのように聞いている」

「 ‟ T-72B1V(ウラル)がいる、視認できるだけで4両一個小隊 ” 」思わぬ報告に平静を装いながらも心臓が喉までせり上がって口の中が酸っぱくなる。「インシグニア。確認できるか? 」

「 ‟ …… マークを消してある、判別不能。戦車兵らしきものも何人かいるがいずれも袖章を剥ぎ取っている ” 」

 報告を受けて一瞬の沈黙の間にフル回転する思考、選ぶべきは最悪の状況に対する即応。懐にある無線のチャンネルを切り替えた彼はこの後に運河を封鎖している奴らが採るであろう行動を先読みして指示を出した。「ダンデライオンから全員傾聴。速やかに支給されたカモフラージュシートで全身を覆え、もうすぐ敵のドローンが来る」

 言いながら威力偵察用の巨大な背嚢のサイドポケットから折りたたまれた真っ黒なシートを引っ張り出すと静かに開いて頭からすっぽりと被る、黒の単一色迷彩にデジタルパターンで僅かに濃さの変化をつけた一枚布だが光学・赤外線探知のどちらにも対応できる上に7.76mm程度のライフル弾くらいならば貫通することはない。1990年湾岸戦争において本格的に使われてから数多くの実践と検証を繰り返して投入される最新式だが部隊への配給は今回が初となる。星明かりすら遮断する真っ暗闇の中でじっとイヤホンへと集中する男の耳に微かな羽音が忍び込み、周囲と隔絶される状態で唯一の情報源となるそれは嫌というほど男の想像力を掻き立てた。パナマ運河を越えるためには各地に点在する三本の橋のどれかを使わなければ南米側には渡れない、その中でも分水嶺に位置してハイウェイとして道幅も広いセンテニアル橋を確保することは今後の兵站を確保する意味でも最重要の橋頭保だった。しかしこちらの作戦を見通しただけでなくあらかじめ侵攻ルートと時期まで予測して備えているとはただ事じゃない。

 収音マイクからの音が遠ざかり再び森の静けさを取り戻した暗闇の中で男はほっと息を継ぎ、右腕に抱えたM4のセフティを動かしながら言った。「ツーナイナー、お客さんたちは無事か? 」

「 ‟ ツーナイナー。お客さんたちは無事だ、左側に展開中 ―― どうする? ” 」

「プランはこの場で破棄して一時コスタリカの原隊に合流する、前世代とは言え機甲相手にこの装備じゃどうしようもない。ウェストゲートは後退先導ルート確保、リードアルファはそのまま観察を続けて情報を収集 ―― 」「 ‟ ウェストゲート、緊急 ―― ナンバーテン ” 」

 最悪の状況を示すその符牒に全員が緊張して思わずM4のボルトが引かれた、初弾がチャンバーに送り込まれてセフティーが外される。

「 ‟ 9時の方向距離400。民兵100以上こちらに接近中 ―― どこの連中だ? ” 」 

 

            *            *            *

 

「あなたたちの忠告心に留めておくわ」二人に向かってにっこりと笑った撫子はチップの山から5枚を抜き出して傍らに立つ係員へと渡した。「ご厚意に甘えて悪いけど軍資金でこの5枚だけ頂いていくわ、族長の手土産も買ってかなきゃだし」

「 ―― どうしても行くのか? 」

 冷酷無比で畏れられる林相如が尋ねるその顔には今まで誰も見たことがない複雑な感情が入り交じっていた、自分の娘のような幼い少女が抱える業に対する悲哀とそれを刷り込んだ葛籠重蔵という男への怒りと。テーブルの上で握りしめられた拳の震えを見た彼女は頭の後ろへと手をやり、髪留めを解いてそっと林の手元へと押しやった。トレードマークの三つ編みがパッと解けて顔の両側へと垂れ下がる。

「林大人、もう一つお願い聞いてもらってもいい? 」撫子の手が髪留めを裏返すとその裏に貼られたマイクロチップが目に入った。「 …… これは? 」

「中国軍諜報部対外工作員の全データ。氏名階級所属住所任務内容まで全部が記載されてる」

 その言葉に全員の顔色が変わる、世界に散らばる対外工作員の素性は全て北京にある国家安全部の最奥にあるデータサーバーによって一元管理されその全てを閲覧することは大校である林にも許可されない。それが彼女の手の中にあると言う事はすなわち中国諜報部の全貌を握られていること同義であり、長い年月をかけて構築してきた石組みの存亡がかかっている。もしその内容が外部へと漏れれば今までの努力がすべて瓦解し、彼らは再び多くの同胞の命と長い時間をかけてやり直さなければならなくなる。殺気立つボディーガードの動きを冷や汗を浮かべた朱が眼光一つで止め、林は目を細めてその髪留めを見つめた。

「どこでこれを、などと野暮なことは聞くまい。君の組織とあの国ならばそれくらいの事はやってのけそうな気がするからな …… で、頼みとは? 」

「多分今から二三か月後、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスには多国籍軍が侵攻する。あたしたちもそのどさくさに紛れて大統領官邸に侵入するんだけど」「 …… よろしいのですか紅娘、そんな作戦をここで話して? 」思わず朱が話に割って入るが撫子はあっけらかんと笑った。「なんで? こんなのただの力押しじゃん。とどのつまりがそれ以外にどこにも打つ手がないっていうのが本音よ ―― あたしが建屋に突入する際に大統領府一帯全区画のセキュリティーを完全に無効化してほしいの」

「 …… 我らにも一枚咬め、と? 」

 売り手からの無茶な申し出に思わず林の体から悋気が漏れる、地球の真反対に位置するアルゼンチン ―― それも最も警戒の厳しい政府中枢の警備システムに介入するなどと無茶にも程がある。だが撫子は彼のいら立ちを妖しく笑ってぽつりと呟いた。「 ―― 61398部隊第四総研」

 

 中国軍サイバー部隊の歴史は推定ではあるが恐らく2000年代初頭に発足、そして撫子が口にした61398部隊は2014年にその存在が確認され数多の対敵サイバー攻撃に従事していた記録がある。全盛時には5万人のハッカーと250人の特戦部隊員を擁し電脳戦における確固たる地位を確立した世界の先駆けとも呼べる部隊だ。

 第三旅団までが軍関係者に認知されて国際警察からの指名手配者も出ている組織ではあるが、その全貌は未だ情報封鎖の厚いベールに覆われ詳細を知る者は西側諸国には一人もいない ―― はずだった。だが撫子はその中でも一握りの天才たちで構成される次世代組織の存在をあっさりと暴露した。「彼らと林大人、そして海南島のホスピタリティ・トランスミッター。それだけあれば十分あたしのリクエストにこたえられるんじゃない? 」

「わかった」ほうとため息をついた林が一つ頷くと撫子はその髪留めをチップの山へと押し込んだ。「 …… 君からのリクエストは確かに聞き届けた、そのように配慮しよう。回線はいつでも開けておくからそちらの都合のいい時にバーストで送ってくれ、周波数は秘匿帯域403だ ―― ところで俺からも君に聞きたいことがある」

「ん、なに? 」貰ったチップを意気揚々と掌へと納めて席を立とうとした彼女を林が止めた。「紅娘が今回の騒動をどうしても止めたい理由 ―― いや君が戦う理由とは一体何だ? 」

「聞いてどうするの? 」「どうもしない、ただ単に私の個人的な興味だ。君の力は凄い ―― 恐ろしくすらある、国家権力も軍隊も大勢の力という力が君や重蔵氏の前に屈して描いた未来を著しく書き換えられた。だがその行いは本当に正しいと …… 君が心の底から信じているとは私には思えない、どうしても」

「それは私の見た目、それとも歳からそう思ってるの? だとしたらなんてセンチメンタルな事を ―― 元傭兵に向かって」不敵に笑う彼女に向かって林はさらに尋ねる。「元傭兵なればこそだ、君は選べる立場にある。なのにどうして命を危険に晒す? 正義など信じてもいないくせに」

「あたしね」林に向き合う彼女がキラキラと輝く目を向けた。「あたしも含めて軍人なんてみんな死んじゃえばいいって思ってる」 

 いくつかの戦場で彼女たちと向き合ってその度に苦渋を飲まされた朱は初めて聞く撫子の言葉を真剣な顔で聞き入っている。「でも軍人って卑怯だよね、紛争や戦場が拡大するたびに彼らは必ず何の罪もない人々を巻き込んで自分たちの勝利の糧にしようとする。尊き犠牲、勝利の礎 ―― そんなくだらないおためごかしで死ぬべき運命にない人たちがまるで虫けらのように戦いに巻き込まれて踏みにじられる ―― あたしはそれが我慢できないだけ」

「ソマリア・中央アフリカ・パプアニューギニア。そしてカシミールやワシントン・カンボジア。君たちが転戦し続ける理由は人々を救うためか? 」「そんなに自分を買いかぶってないわ、あたしの手には限りがある。だけど取りこぼしちゃったその命の事もあたしは忘れないつもり ―― 林大人や朱上尉、そしてあたしたちにも死は等しく与えられる。でもそれが覚悟したものじゃなく理不尽に降りかかろうとするのならあたしはそれをどうにかして止めたいと思う、誰にでも納得のいく死に方ってあるはずだもの」

 

「じゃ、これは預かっていくわ」踵を返した撫子が係員の手にあるゲバラに関するファイルを受け取ると軽やかな足取りで出口へと向かう、誰一人身動ぎできずにその後姿を見送る彼らの目に不意に振り返る少女の笑い顔が映った。年相応に清楚で可憐としか表現できないその表情のどこにそんな重苦しい覚悟を抱えるのか、唖然とする空気の中彼女は確かに林の目を見て言った。

「おこずかいありがと、おとーさん」

 

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