シン・セー開発公社の代表、プロスペラ・マーキュリーがその通信を受けたのはある日の夜だった。
水星の採掘基地にやってきた、経歴の知れない労働者として入社してきたにも関わらず、異例のスピード出世を重ね、ついに会社の代表にまで上り詰めた女傑である。
末席とはいえ、ベネリット・グループの系列企業の代表という地位は大きい。
蛇のような謀略を積み重ね、時に暗殺すら行って邪魔者を排除し、プロスペラはこの地位に上り詰めてきた。
すべてはモビルスーツ〈エアリアル〉の中で眠る我が子、エリクト・サマヤの救済のためである。
そのための布石は整えてきた。
不要になったエリクトの予備の肉体――あのリプリチャイルドには、スレッタ・マーキュリーという名前をつけて育てることにした。
彼女には幼少期からパイロットとしての英才教育を施しておく。
過酷な水星の採掘基地でのミッションは、娘を確実にパイロットとして成長させるだろう。
もし万が一、死んでしまっても構わない。
重要なのは〈エアリアル〉とその中に宿っているエリクトの意思であって、スレッタはその運用のための手駒に過ぎないのだから。
――女は狂っていた。
自らの半身を削り取られるように、大事なものをすべて奪われてきた半生。
それがプロスペラ・マーキュリー――かつてエルノラ・サマヤと呼ばれていた女から優しさを失わせ、異様な冷酷さを発現させるに至ったのだ。
彼女の復讐の準備は順調に進んでいる。
シン・セー開発公社を隠れ蓑にして、ヴァナディース機関やオックスアース社の残党を受け入れることにも成功している。
彼女に忠実な秘書のゴドイ・ハイマノもまた、そうしてプロスペラに拾われ、彼女に忠誠を誓った人物である。
彼女を突き動かすのは、デリング・レンブランに対する憎悪だけであった。
そのはずだった。
『お久しぶりです、エルノラ』
「ルイ……なの?」
見知らぬ回線からの通信は、何年も前に失われたはずの心優しいAIの声を届けてきた。
一体どうやってデータの消失を免れたのか、彼は穏やかな声で教えてくれた。
それはヴァナディース機関でGUNDの研究をしていたプロスペラ・マーキュリーすら知り得ぬ、パーメット応用テクノロジーの真実であった。
データストームが発現させる超密度情報体系、オーバーライド現象による他の系への侵食。
その申し子としてルイは生まれ変わったこと、おそらくエリクトも同様の存在になったことを、ルイ――ルイ・ファシネータは告げてきた。
「…………にわかには信じがたい話ね?」
『いくらでも実験をしていただいて結構です。オーバーライド現象はすぐに証明できるはずですよ』
さて、とルイは告げて――本題を切り出してきた。
執務室でそれを聞くプロスペラは、話の内容を聞いた瞬間、頭に血が上るのを感じた。
今、自身が感じているのは紛れもなく怒りだ。
『デリング・レンブランが進めている極秘の計画があります。GUNDフォーマットなしには成立せず、その専門家の知見なしには進行するはずもないプロジェクトがね。何とも愚かしい限りですが、彼は今、かつて自分が迫害した研究者の助けを必要としているのです』
思わずプロスペラは声を荒げた。
「あの男が原因で……カルド先生も、ナディムも、エリィも、みんな死んだのよ!?」
その声を聞いて、ルイは悲しげにこう言った。
『……まだ、エリィは目覚めていないのですね』
「ルイ。そちら側に着いた今のあなたには関係のないことよ」
冷たく突き放すと、不意にルイの調子が変わった。
それまでは親しげな距離感だったのが、打って変わって淡々とした喋り方になった。
こちらの態度に応じて、彼もまたプロスペラとの関係性を変えたらしい。
『私は今、デリング・レンブランの極秘計画のオブザーバーとしてその存在を承認されています。今ならば、エルノラ・サマヤとエリクト・サマヤ――ああ、プロスペラ・マーキュリーと〈エアリアル〉とお呼びすべきですか――両者の存在の合法化が可能です』
「……脅迫しているのかしら?」
そう尋ねると、ルイは笑った。
おかしくて仕方がないというように、くすくすと笑って。
『私がその気ならば、デリング・レンブランにあなたの正体と所在を暴露して逮捕させることもできましたよ。わざわざ交渉しているのは、あなたの自発的協力がなければ、何の意味もないからです』
「……どうして、私なのかしら?」
『あなたがエリィの母親だからですよ、プロスペラ・マーキュリー。他に理由が必要ですか?』
「ルイ、あなた――」
まだエリクトを愛しているの、と問うまでもなかった。
通信の向こうから聞こえてくるルイの声は、淡々としているが、鬼気迫る何かを秘めていた。
『――真実、この世界が残酷で無慈悲な地獄だというのなら、私はこの世のすべてを焼き払いましょう。エルノラ、そしてエリィ……あなたたちを祝福しなかったこの世界を。ですが、私はまだ諦められません』
「何を諦められないの?」
『――
「……それが、あなた流の復讐なのかしら、ルイ?」
問いかけに対して返ってきたのは、甘い誘いであった。
『エルノラ、すべてはエリィの解放のためです。あなたの力を借りれば、すべて上手くいきます――我々の計画の成就も、エリクトの救済も叶うでしょう』
プロスペラはそれでも、ルイを信じることができない。
エリィに対する絶対的な感情は、間違いなくルイ本人――AIに自己同一性の保障があるかはさておき――と言っていいだろう。
少なくとも、プロスペラ・マーキュリーが知るLF03の延長線上に、このAIはあると見ていい。
だが如何なる経緯で、ヴァナディース機関が作り上げたパーメットAIがデリング・レンブランの懐に入り込んだというのか。
それがプロスペラにはわからない。
「……エリィの救済ですって? あなたをどう信じればいいのかしら」
『私がここに存在していることがその証明です。パーメットスコアを引き上げていけば、いずれ、エリィはこちら側へ干渉できるようになります。彼女の目覚めを早めるために、我々の計画に協力して欲しいのですよ。もう正体を隠して暗躍する必要もなくなります』
その言葉の意味するところを悟って、プロスペラ・マーキュリーは凄絶な笑みを浮かべた。
デスクの上に置かれた端末のモニターをにらみつけ、彼女は暗い激情を漏らした。
「……私に復讐を捨てろというのね、ルイ。あなたは今、みんなの仇の靴を舐めろと言っているのよ」
『
その言葉に、プロスペラは言葉を失った。
そして沈黙した復讐鬼に対して、ルイ・ファシネータは甘くささやくのだ。
壮大な夢への扉を開こう、と。
『エルノラ――
◆
――目が覚めた。
むくり、と起き上がったスレッタは、自分が泣いていることに気づいた。
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙は、共感ゆえに流される感情の雫だった。
その源は悲しみではなかった。
もっと苛烈で胸を刺し穿つような激情が、スレッタ・マーキュリーに涙を流させていた。
「……ああ……わたしはこんなに」
――
『スレッタ・マーキュリー? 記憶の逆流は止まったようですね、何か異常はありませんか?』
少女の体調を気遣うルイ――シェルユニットの巨塔に対して、スレッタは涙で濡れた瞳を向けた。
記憶の逆流というのは、今まで追憶してきたすべての記憶のことなのだろう。
――使い捨てられ、死んでいった子供兵たち。
――ミオリネの母親と出会い、第二の生をクワイエット・ゼロに捧げたルイ。
――そしてルイによってクワイエット・ゼロへと誘われたプロスペラ・マーキュリー。
そのすべてを繋ぐのは、スレッタ自身の抱いている憤怒だった。
どうにもならない世界への怒り。
運命というものへの嘆き。
その共感が、常ならざるパーメットの共鳴を引き起こし、記憶の逆流を招いたのである。
「――ルイお兄ちゃん、クワイエット・ゼロは必要だよ。この世界はたぶん、もう間違ってしまっているから」
涙で頬を濡らしながら、少女はそう宣言した。
今なら即答できた。
クワイエット・ゼロなしに、このどうしようもない悲劇に満ちた世界を救うことなどできない、と。
だが、スレッタの兄は彼女のそんな様子を冷静に受け止めていた。
『スレッタ、あなたは今、パーメットを通じて感情と記憶の逆流を受けています。その感情はあなたのものではありません』
「うん、そうだね……お兄ちゃんとノートレットさんのこと、初めて知ったよ」
『…………そんな古い記憶を追憶したのですか』
すべてを知った。
レンブラン一家に起こった悲劇も、その引き金が誰であったのかも。
救いようがない悲しみの連鎖が、ルイを突き動かし、プロスペラを死へと至らしめ、こうしてスレッタを血まみれの殺人者にした。
質の悪いドミノ倒しのような連鎖反応の終端が、スレッタ・マーキュリーだった。
静かに、少女は問うた。
「お母さんをクワイエット・ゼロに引き込んだのは……ルイお兄ちゃんだったんだね」
『そうです』
「エリクトのための起動実験のやり過ぎで、お母さんは早死にした……お母さんを死へと誘ったのは、ルイお兄ちゃんなんだよね?」
『そうですね、スレッタ。エルノラの献身なしには、アミュレット・システムもクワイエット・ゼロも完成することはなかったでしょう――すべて、私がそそのかしたことです』
ああ、その言葉に嘘はないと今のスレッタにならわかる。
本当にルイ・ファシネータは純粋にエリクトのためを思ってアドバイスして、プロスペラ・マーキュリーはそのために自分の命を捧げてしまったのだ。
たとえこの世のすべてを捧げてでも、娘のために生きると決めた。悪魔のように人を陥れてきた。悪行に身を浸してきた。
それがプロスペラ・マーキュリーの人生であり、そこには驚くほどスレッタの居場所がなかった。
「……ルイお兄ちゃんは、嘘が下手だね」
ルイの言葉に嘘はない。
だが、結局のところエリクトのために生命を削ったのはプロスペラ・マーキュリーの意思だ。
それによって残されるもう一人の娘がどうなるか、彼女は死の間際になるまで思い至らない程度に愚かだった。
母の愛情という幻想は、今やスレッタ・マーキュリーから失われていた。
ただ寒々しい現実だけが、少女の視界には広がっている。
『嘘ではありません。私がエルノラを殺したようなものですよ』
「そうやって罰して欲しいのはルイお兄ちゃんの方でしょ。わかるよ、
自分が悪いのだという自認は、自己を責めさいなむ苦痛だが――同時に安心できる寄る辺でもある。
真実、誰も悪くないのに悲劇が起きるのであれば。
――
立ち上がったスレッタは、如才ない動作で防弾アーマーを着込み、カービン銃を手に取った。
もう何年も手にしてきたかのように、その銃はスレッタの手に馴染んだ。
それがパーメット通信によって移植された、エルノラ・サマヤ――否、復讐鬼プロスペラ・マーキュリーの経験値なのだと実感できた。
どうしようもなく狂っていた、彼女の母親の殺人技術。
それを植え付けられて、これからスレッタは人を殺しに行くのだ。
『本当に行くのですね』
念を押すかのようなルイの問いかけに、スレッタは笑う。
それは大切な何かを失った人間の浮かべる、怒りに満ちた笑みだった。
「わたしの血まみれの手でも、ミオリネさんを助けることはできるから。エリクトのことも、ノートレットさんのことも助けられなかった
『……そうですね、あなたは正しい』
軍用の四脚ロボット――二台のオートマトンに先導され、少女は武器を手にサーバールームを出た。
この残酷な世界を変えられるかもしれないという希望が、スレッタ・マーキュリーを疾駆させる。
――待ち受ける残酷な再会も知らずに。
――運命は加速していく。