地球。
この青い星は有史以来、戦争というものが絶えなかった大地である。それは人類が愚劣であるからではなく、争い競い奪い合うことが生命の本能に刻まれた宿痾であり、過酷な自然環境が知的生命体に課した試練ゆえの必然なのかもしれない。
今、ドローン戦争の後遺症によって踏みにじられ、戦争シェアリングという悪しき仕組みによって生き血を搾り取られている世界は、当然のごとく、宇宙議会連合とベネリット・グループの紛争状態を他人事のように見ていた。
否、むしろ一部のものにとっては、スペーシアン同士の殺し合いを面白おかしく思う気持ちすらあったかもしれない。
いずれにせよラグランジュポイント4の遠い宇宙の彼方で行われている宇宙戦争など、今日この日を生きるアーシアンには関係ないのである。
一握りの権力者や資産家を除いて、誰もがそのように考えていたが、その前提はこの日、覆ることになる。
――最初、それは空を覆う格子状の光だった。
それは唐突に、そして瞬く間に地平線の果てまでを覆い尽くし、そのまま天へ焼き付けられたかのように消えない。
誰もが自身の目の異常を疑い、何度、眼を擦っても消えない空の模様に愕然とした――教育や教養の有無にかかわらず、それが異常であることは誰にとっても明らかだった。
その日、彼方で星が煌めくように、奇跡は地球全土に降り注いだ。
青白いデータストームの光は地球の周回軌道を埋め尽くし、そのまま光速で拡大を続けて――最終的に地球を中心とした半径六〇〇〇万キロメートルの範囲が、データストームの空間化に飲み込まれることとなる。
それによって起きたのは劇的な変化であった。
まず、あらゆる戦場で動く兵器が消えた。
――戦場を駆け抜けるMS〈ディランザ〉のホバーシステムが機能停止し、戦場で
――三〇ミリ機関砲を携えたモビルクラフトが足を止めて、そのまま動かなくなった。
――それらの動きを止めた兵器に主砲を放とうとした戦車の装輪にブレーキが掛かり、そのまま物言わぬ置物になった。
――上空を飛行して戦地に数十トンの爆薬の雨を降らせる航空機〈ティックバラン〉のシステムが突如としてオートクルーズに切り替わり、基地への帰投を余儀なくされた。
――今まさに後方のインフラに向けて超音速巡航していた誘導ミサイルが制御を失い、地面へ墜落していった。
――戦場を這い回る対人型自動人形の群れが動きを止めて、マネキンのように地面へ転がるのを、今まさに殺戮されようとしていた人々が呆然と見つめていた。
――自爆型ドローンの群れが擱座したMSに襲いかかろうとしたものの、すぐに地面へ落下してその機能を停止していった。
――今まさに敵兵をなぎ払うはずだった
モビルスーツ、モビルクラフト、戦闘車両、航空機、精密誘導兵器、ドローン兵器、携行火器の電子ロック――およそあらゆる電子機器を使用している兵器が、使用不能となっていった。
それが戦闘機や対地攻撃機であれば、搭載火器の使用が不能となり、近隣の滑走路への不時着を余儀なくされたのである。
もちろんそれによって戦闘行為が止むことはなかった。だが今日の戦争においては、歩兵も砲兵もデジタル化されていないことなどあり得ない。
この混乱状態は結果として、地球全土で一時的な停戦をもたらすことになる。
奇しくも
『私はデリング・レンブラン――ベネリット・グループ総裁であり、今、地球全土の兵器システムを掌握しているものです。現在、我々はあらゆる兵器システムに介入し、これを停止させています。地球上で稼働していたすべてのドローン自動工場は停止処置を施しました。間もなくネットワーク上にはびこるAI兵器に対する処置も完了するでしょう――今、停止コマンドの送信が終了しました。地球の皆さん、今まさに世界から病巣の一つが永久に切除されたのです。我々ベネリット・グループはここにクワイエット・ゼロ計画の遂行を宣言致します』
普通ならば笑い話か誇大妄想の類だった。
だが、地球に住まう人間は誰もが、それを事実と認めざるを得なかった。すっかりネットワーク空間にはびこってしまい、フィルターを使用しなければあっという間に情報汚染を仕掛けてくる汚染AIが、ネットに接続しても見当たらない。そんな冗談のような現実を前にして、誰もが口を開けて驚くしかなかった。
紛争地帯やドローン汚染エリアに住まう人々は、自分たちを脅かしてきた存在がすっかりでくの坊になってしまったのを上手く理解できず、おっかなびっくり遠巻きに見つめることしかできなかった。
誰もが困惑し、混乱し、それゆえに争いを一時的に停止せざるを得なかった。現場レベルでは依然として殺し合いが続いていたものの、砲兵の火力支援すら消え失せた戦場で起きるのは、散発的な歩兵同士の遭遇戦に過ぎなかった。
それは本来、地球で流される血の総量に比べれば驚くほど少ない、誤差のような流血だった。
争いが止んだのは宇宙も同様だった。宇宙議会連合のケラウノス級戦闘母艦の群れは、完全にシステムをオーバーライドされ、戦闘行動を停止。これは艦艇からMS、作業艇の一隻に至るまで満足に動かせなくなった。
結局、彼らは白旗を揚げて全面降伏することになった。
それ以外、できることがなかったからだ。
地球から半径六〇〇〇万キロメートルの範囲を覆い尽くすデータストーム空間――超密度情報体系による侵食現象は、当然のごとく宇宙議会連合本部のあるフロントも飲み込んでいた。
『ダメです、すべての管制システムが掌握されました!』
『オーバーライド解除できません! 生命維持システムならび隔壁の管理システム、制御を離れました!』
『惑星間レーザー送電システムILTS、全システムをオーバーライドされました……もう我々の管理権限が及びません!』
悲鳴のようなオペレーターたちからの通信を聞きながら、ヴィクトル議長は呆然とモニターを見つめていた。今や彼らは籠の中の鳥であり、いつ生命維持システムをOFFにされ、窒息死させられてもおかしくない状況にある。
確かにオーバーライドのことを脅威だとは思った。しかしここまで圧倒的で破壊的な結果をもたらすと、誰に予想できただろう。
不意に、モニターに新たなウィンドウが開き、年かさの男の姿が映った。
デリング・レンブランである。
「デリング……貴様ぁ!」
思わず声を荒げたヴィクトル議長に対して、デリングはあくまで紳士的であった。
生殺与奪を握っているとは思えぬほど紳士的に、淡々と彼は言葉を紡ぐ。
『我々ベネリット・グループの企業統治の正当性は
選択の余地はないと告げられて、とうとうヴィクトル議長は床に崩れ落ちた。これまで積み上げてきた自分の政治家としての人生が無に還り、これから先の人生に待っているのは長い長い敗戦処理だけだと気づいてしまったのだ。
魂が抜けたようにうつろな表情の議長を横目に、黒服の男が吠えた。
「……これで勝ったと思うなよ、デリング・レンブラン」
かつて同胞を虐殺され、その復讐のために人生を捧げてきた男の怨念のこもった言葉だ。しかしそんなものを一顧だにするデリング・レンブランではなかった。
英雄はじろりと黒服に視線を向けた。一瞬、彼が覗かせたのは強い怒りの感情だ。しかしそれはすぐに消えて、強い自制心から発せられた言葉だけが、スピーカーから響き渡った。
『リョウ・クニキダ。お前が私の妻の暗殺に関わっていようと、それは私が裁くべき事柄ではない。真実、宇宙議会連合にスペーシアンの正義があるのならば、お前の罪もまた裁かれるからだ』
「なっ――」
自分の本名とデリングの妻暗殺への関与まで掴まれていた事実に、オックスアースの黒服――リョウ・クニキダは総毛立った。
そこまで尻尾を掴まれている状態で、今さら彼にできる復讐などあろうはずがない。
『お前を裁くのは、お前が後ろ盾としてきた組織だ――地獄で子供たちに詫びるがいい』
「デリングゥウウウ!!!」
次の瞬間、管制室に踏み込んできた特殊警察部隊によって、リョウ・クニキダとヴィクトル・カーマフ議長は拘束された。
様々な黒い罪状がその根拠だったが、それが事実上のクーデターであることは誰の目にも明らかだった。
デリング・レンブランによる圧力に屈した理事会が、彼らを生け贄に選んだのである。
かくして世界は平和になった。
――あくまで一時的に。
地球圏の誰もがデリング・レンブランの動向に注目せざるを得なくなった今、この瞬間。
よりにもよってなタイミングで、ミオリネ・レンブランは〈クワイエット・ゼロ〉の管制室に入室することになる。
◆
「――
通信が切れた瞬間、ミオリネ・レンブランはふてぶてしい笑顔で父に挨拶した。ここは〈クワイエット・ゼロ〉の管制室で、部屋の中には幾人ものオペレーターたちが常駐している。
デリングは心なしか憮然とした表情で、いきなり現れた愛娘を見やっている。
本気で困惑しているのだ。
「ミオリネ。何故、お前がここにいる」
「あんたのご機嫌なパートナーに訊けばいいんじゃない? 忠告しておくけどそのAI、あんたの忠臣じゃないわよ」
ちなみにここまでミオリネを連れてきたエラン・フィフスは「僕を巻き込んでくれるなよ」という顔をして、部屋の隅っこに立っている。
地蔵になってやり過ごす気らしい。なんとなく事情を察したデリングは、軽くため息をついた。
「ルイ・ファシネータ。お前の造反か?」
しかしもちろん、胡散臭いAIが正直に答えるわけがないのだった。
ルイ・ファシネータの化身であるフロートドローンが、デリングの顔の高さにぷかぷかと浮かんで、軽妙に語り始めた。
『いいえ、いいえ。デリング・レンブラン閣下――私があなたとミオリネ・レンブランに危害を加えることはありません。それがノートレットと私の約束であるがゆえに。すなわちこれは一種の道化芝居、ミオリネ様は役者のようなものとお考えください』
「でも
『おやおやAI差別ですか、人間らしいですね』
へらへらと笑うルイ・ファシネータを無視する。こういう腹が立つところがエリクト・サマヤにちょっと似ている気がする。正直なところ、スレッタの兄弟ってろくなやつがいないわよねと思うミオリネだった。
面の皮が厚すぎる思考であった。
しばらくデリングは沈黙したあと、つかつかと歩み寄ってきた娘を見やる。彼の警護に就いている兵士たちの動きを、側近のラジャン・ザヒが抑えた。
ラジャンがミオリネに声をかけたのは、沈黙している主に代わってその意思を問いただすためだった。
「ミオリネ様、あなたがここにいらしたのは何のためですか?」
「私はもうクワイエット・ゼロ計画について知っているわ。その最終的な目標がデリング・レンブラン総裁による地球圏の支配にあることもね」
「……すでにフェーズ2は実行に移されました。今さら、あなたにできることは何もありません。どうかお引き取りを」
地球上での兵器運用の停止と、暴走ドローンの一掃、ネットワーク空間を汚染する汚染型AI兵器の除去。
この三つの柱からなるクワイエット・ゼロ第一計画ピースキーパーのフェーズ2はすでに実行に移されたのだ――今や太陽系文明に住まう市民ならば誰もが、デリング・レンブラン総裁の偉業を知っている。
火星圏や木星圏にはデータストーム空間の支配領域はまだ届いていないが、それもこのままでは時間の問題だろう。
もうミオリネ・レンブランにできることなど何もない。
そう諭すように告げたラジャン・ザヒに対して、ミオリネは獰猛な笑みを浮かべた。猫科の肉食獣を思わせる攻撃的な笑顔だった。
「それは嘘ね。まだ本当に
そう、このまま問題をソフトランディングさせるなら、兵器システムへの介入はいずれ解かねばならない。あくまでデモンストレーションのための一時的な措置と言い逃れできる余地はまだある。ベネリット・グループによる戦争介入への批判も、今なら最小限に抑えられる。
だが父の真意がそのような世俗の事情をおもんばかったものでないことぐらい、ミオリネにもわかる。
彼が目指しているのは、この流血と呪詛に満ちた世界を永遠に平定する絶対の王の座なのだから。
「私はクワイエット・ゼロ計画のフェーズ3を止めに来たのよ。そのためにデリング・レンブラン総裁とお話をしに来ました――新型GUNDフォーマットの運用とPRを司る株式会社ガンダムの社長として、デリング・レンブラン総裁に進言があります」
ミオリネの意思は明らかであった。母の死の真相を知らされ、絶望し震えていた少女はもうどこにもいない。
ここにいるのは、絶対の独裁者たらんとする男に言葉を届けに来た、一人の企業代表なのである。くだらないと切り捨てることをしなかったのは、おそらくデリング・レンブランに残された人間性の為せる業であった。
「答えろミオリネ。お前はこの差別と搾取に満ちた世界をどう解決するつもりだ? 私の統治するフェーズ3の世界では、大小の紛争も、現在のスペーシアンによる富の収奪も停止させる。絶対的な権力による支配だけが、腐りきった旧時代を葬る術だ」
問いかけに対してミオリネ・レンブランは動じなかった。
そういう問いかけが来る可能性などを、とっくの昔に想定済みだったのだろう。
銀髪の美少女はすぅっと息を吸い込んで。
その灰色の瞳に苛烈な意思を乗せて、ミオリネは口を開いた。
「株式会社ガンダムは新型GUNDフォーマット〈アミュレット・システム〉を格安で全世界に提供し、これを地球圏を含めた
ミオリネが願うのは、〈クワイエット・ゼロ〉の平和利用だ。
ベネリット・グループが時代の勝者になることが確約されているからこそ、その潤沢な資本を投入して新時代へのレールを引いていくことが、
少なくともデリング・レンブラン総裁が絶対的な権力を握る間ならば、それは十分に機能するはずだった。
父親の理性を信じるからこそ、ミオリネはこの提案をできるのだ。
「デリング・レンブラン総裁。私はテクノロジーによる破壊と革新こそが、新たな時代を作ると信じます。許可をいただければこの場にデータを提示できますが、〈アミュレット・システム〉の技術公開を行えば、今後一〇年間で地球上の餓死者は二六%減少します。現在の宇宙開発事業のコスト増大とスペーシアンの富の収奪の激化は比例関係にありますが、〈アミュレット・システム〉はこの宇宙開発のコストを大きく引き下げます――最大で八七%ほどのコスト低減が起きるでしょう。産業構造が大きく切り替わる変革の時代がやって来ます。独裁的な権力で制御せずとも、旧時代の仕組みは自動的に淘汰圧に曝されることになります」
ミオリネは人の善だけを信じない。この世によき想いだけがあるのなら、彼女の母親が暗殺者の凶弾に倒れることはなかった。
けれど同じぐらい、人は新たな時代の潮流に敏感だと信じられる。
本来、これは既得権益を大きく侵す破滅的な革命だ――株式会社ガンダムのような経済的弱者のベンチャー企業が提唱しようと、巨大な企業体によって踏み潰されて終わる夢物語だ。
だが今ならば、絶大な権力を握ったデリング・レンブランその人を説得して、〈クワイエット・ゼロ〉という無敵のサーバーユニットを中心に、世界を変えられるチャンスなのだ。
平和の強制という停滞した世界の夢に対して、ミオリネが訴えたのは、旧時代すべてを焼き尽くす苛烈な炎だ。
少女は熱のこもった言葉で、デリングに対して語りかけた。
「――GUND革命。これはそう名付けられることでしょう」