箱庭世界《キャンバス》に描く十五ノ夜の流血姫 作:ヨシオ、あん摩師から令嬢へ
『描かれたものを実体化させる』という力を持った、名の通り不可思議な絵画の総称である。
一見するとごく普通の帆布を用いた、ただの油絵に過ぎない。だがこの絵画には、名の通り不可思議な力があった。
それは、『描かれたものを実体化させる』という力。
多くの場合において、実体化した事物は人間社会に貢献している。
例えば黄金が沸き上がる泉であるとか、例えば酒池肉林のジャングルであるとか、空気を吸って発電する巨大な牛であるとか。
1999年に初めてその存在が確認されて以降、
だが、多くの人間は知らない。
全ての
一部の
例えば、影より人に襲い掛かる黒鉄の怪物。
例えば、大陸を焼き尽くす漆黒の巨人。
例えば、人に化け血肉を貪る人狼。
特殊な組織の影ながらの努力によって、これらの恐るべき絵画と、実体化した怪物たちは、蒐集され、封印され、隠匿されてきた。
しかし、彼らの活躍は、どこまで行っても対処療法的な処置に過ぎない。
怪物や天変地異の出現は止められず、
求められるのは根本治療だが、今のところそれは実現不可能だ。
なぜなら、
男なのか、女なのか、老人なのか、若者なのか、金持ちなのか、貧乏なのか、家族はいるのか、独り身なのか。
何も、何一つ、分かっていることはない。
世に出回っている
ある日唐突に市場に現れ、誰に疑われることもなく買われていく。だから売買の記録から、画家を探し出すこともできない。
分からないことだらけのこの画家について、分かっているのはただ一つ。
男とも女とも、老人とも子供ともわからぬその画家の力によって、人々の暮らしは豊かになった。
しかしその陰で、この邪悪な絵画は、静かに、着実に、かりそめの平和を脅かしていた。
そして。
今日もまた、新たな
人物デッサンの授業は、至福の時間だ。
断言しよう。私は、
理由は簡単。
私立
そして、デッサンに必要なのは観察。
もうお分かりであろう?
そう、この学園では、合法的に美少女観察ができる!!!!
この真実に思い至った時、中学三年当時の私の脳内に迸った衝撃は、饒舌に尽くしがたいものだった。
当時の私はわき目もふらず鉛筆をとり、第一志望校に『葉湖庭学園』の名前を記入した。
…………志望校判定の『E』の一文字に打ちひしがれたとか、受験日まで寝て食べる以外勉強漬けの日々を送ったとか、いろいろと苦労はあったが。
懸命な努力の末、今私はここにいる。
美少女だらけの学園で! 美少女を描きながら! 美少女を観察している!
「…………し、しあわせだぁ」
「メルテっち? どったん急に?」
おっといけない。どうやら私の美少女愛が言語化されてしまったらしい。
なんでもないよとお茶を濁す。この下劣な欲望で美少女様のお耳を汚してはならない。
しかし、とあくまでデッサンのていを繕いつつ、目の前の美少女を観察する。
美少女ギャルな黒衣さんは同時に陽キャでもあり、その接近速度と会話術
それだけでも、美少女オタクを拗らせた陰キャな私には雲の上の存在だが、彼女は何と恐るべきことに、この私とさえもためらうことなく交流しようとしてくる、いわゆる『オタクに優しいギャル』だった。
まさに現代の天使。今回も向こうからペアにお招き下さり、それどころかデッサンのモデルを買って出てくださったのだ。
こんな幸福があっていいのだろうか?
今日、私は死ぬのではないか?
いや、こんな幸福が得られるなら、今死んだとて悔いはない。
喜びで涙があふれそうだ。だが泣かない。泣いてはならない。泣くのは心の中だけだ。
目の前でいきなり泣き出す奴は端的に言ってキモくて怖い。美少女に恐怖など与えてはならない。絶対に。
「やっば。メルテっち目が
心の涙と美少女への感謝を、筆に込めて描き殴る。
目の前の
「やっぱ美術部だけあって気合いがダンチってコト?」
美術部は良い。授業以外でも美少女が描ける。
なんて言葉は当然飲み込む。代わりにそんな感じと誤魔化した。
そうしているうちに、絵が描き上がる。
スケッチブックの黒衣宗は、明るく朗らかな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
(…………ダメだ)
心中に失望が広がる。
描かれた黒衣さんは、確かに美少女だ。写実的なタッチは、彼女の外見的特徴を捉えている。
だが、これは彼女ではない。彼女の本質を捉えていない。
タレ目がちな目元で、泣きぼくろのように輝く星のシール。可愛らしい彼女の印象を引き締めるインナーカラー。薄く染められた唇から覗く、整った白い歯。
鉛筆だけのモノクロ絵でありながら、それら外見的特徴は正確に描かれているといえるだろう。だが、それだけだ。
彼女の、人をひきつけてやまない輝くような人間性を、この絵はかけらも描けていない。
筆が軋む。
あくまでデッサン、大雑把に描ければいい。そんなものは言い訳だ。
私の画力が不甲斐ない。それが全て。
目の前の黒衣さんを見ろ。
これほどの美少女をモデルにして、この程度の絵しか描けないなんて、なんと情けない!
オタクが廃るぞ
時計を見やる。授業終了まであと40分。
時間はまだある。もう一度、今度こそ彼女の美しさを描き出すのだ!
「もしかして終わったかんじ? すごいねメルテっち」
スケッチブックをめくろうとした手が止まる。
終わってはいない。むしろまだこれからだと言ってもいい。
だが、一枚描いたというのは事実だ。
授業内容はペアを組んでの人体デッサン。交代でモデルとなってお互いを描くことが目的だ。
このまま、私の低俗なこだわりを優先して、果たしていいのだろうか?
当然NOだ。美少女の都合はすべてに優先される。最優先すべきは黒衣さんが授業目的を達成すること。私のゴミのような絵を完成させることではない。
「…………はい、終わりました。お次どうぞ」
「おっけー。いやー美術部すごいね。あたしこういうの苦手でさー」
スケッチブックを手に、彼女はそう言った。そして鉛筆を握りこんだ拳をこちらに向ける。
絵描きと言えばで多くの人が連想する、比率を測るためのアレだろう。
しかしなるほど確かに、素人の所作だ。
まず鉛筆が垂直に立てられていない。正面から見ても明らかなほど前に傾いている。角度がついては正確な比率は測れない。加えて、見ている場所も悪い。アレは鉛筆の先から親指の先までをメーターのように使うのが基本だが、彼女の視線は明らかに親指のど真ん中を見ている。あれでは長さも比率も測れまい。
動作の目的を理解せず、形だけを準える。一見すれば不格好だが、美少女が行えば芸術だ。
実際美しい。なれない行為に戸惑う可愛らしさと、それでも真剣に取り組もうとする真面目さの同居。私が描くべきだった本質の一端が、今そこにある。
ざり、ざりと鉛筆が動く。スケッチブックから時折覗く手の形は、字を書く時のソレだ。緊張からか指に力も入っている。描かれた線は、相応に太く濃くなってしまっているだろう。
私は、この時間が好きではない。
むろん美少女に描いていただいているというありがたさはあるのだが、しかしその対象が自分であるということは大きなマイナスだ。
私はうそつきだ。自分の欲望をさらけ出したことは一度もない。言い訳して、ごまかして、自己満足を正当化する。
そんな小汚い人間が、美少女の視線を独占する。ひどく気分が悪い。罪悪感と、嫌悪感とで、腹の中がぐちゃぐちゃになる。
だけど、だからこそ、暗くなった心を表には出さない。
暗い顔を見たら、見た人の心も暗くなる。美少女の心にそれをするのは、冒涜だ。
だから表面上は楽しそうに。少しぎこちないかもしれないが、全霊をとして取り繕う。
「…………」
「…………」
しばらく、沈黙が続いた。
聴覚を刺激するのは、鉛筆が紙の表面をなぞる音だけ。
ざりざり、ざりざり。絵は見えないが、おそらくとても黒くなっていることだろう。
時折、シュシュッと消しゴムが走る。こぼれ落ちる消しカスの量は、彼女の悔しさの表れか。
「…………」
「…………」
「…………ねえ、メルテっち」
30分ほどたったころだろうか。
ふと、黒衣さんは手を止めた。
こちらの目を見つめる瞳は、いつもと同じで、少し違う。
「メルテっちの絵、見せて?」
真剣さがあった。
いつもが不真面目なわけではない。ただ、特別強い意思を感じた。
スケッチブックを開いて差し出す。
「うっわ。描きこみえっぐ。これ10分で描いたの? マジヤバくない?」
「ありがとう」
確かに、私の絵は時間を考慮すれば十分正確で、緻密だった。
だがそもそも。
正確さが欲しいなら、写真で事足りる。
あえて『絵』というジャンルを選ぶ以上、写実性は重要ではない。
内面性。抽象性。そういった写真では表現しきれない曖昧なものをこそ、私は描くべきなのだ。
ただ、一番美少女観察の時間が長いというだけの理由で、絵というジャンルを選んだ。
だからこそ、私はより真剣にこの芸術に向き合わなければならない。
そうでなければ、裏切りだ。
なによりも、モデルとなってくれた美少女たちへの。
「メルテっち」
と、黒衣さんがスケッチブックを返してくれた。
それを受け取ると、彼女は続ける。
「もう一度、メルテっちが描いてよ」
「…………え?」
もう一度。それは私が、再び黒衣さんを、デッサンするということか?
「でも、授業が」
「いーのいーの。どうせまともに描けないんだからさ」
ほら、と彼女が見せてくれたスケッチブックには、なるほどと思わずうなずきたくなるような、人とも模様とも落書きともつかない、なんか黒くて丸っぽいものが描かれていた。
「これ以上やったってこんなのしか描けそうにないし、だったらメルテっちが描いたほうが、ユーイギな時間ってやつになるっしょ?」
「えっと」
美少女の意見は絶対である。
美少女の都合は絶対である。
優先すべきは彼女の言葉。だがその対価は彼女の時間だ。
従うのが道理だ。だが従えば、彼女は授業を放棄することになってしまう。
言葉に詰まる。どう返答するのが正解か、どれを選択するのが正解か、判断が付かない。
「ほらほら! どーんとやっちゃって!」
悩んでいるうちに、黒衣さんはポーズを取り始めた。美術室にある石膏像を真似たらしい。
肩のあげ方も首の向きも全然違うその姿を見て、私は覚悟を決める。
美少女の望みは絶対だ。彼女がそれを望むというなら、私はそれを叶えよう。
その対価となる時間に関しては、もはやどうしようもない。あとで腹を切って詫びるだけだ。
再び、鉛筆を握る。
10分後。
四苦八苦の末に描かれた二枚目の黒衣さんを見て、本物の黒衣さんはすごいすごいと喜んでいた。
不満はまだある。
だけど、それ以上の達成感があった。
モノクロの黒衣さんが「満足できた?」と語りかけてきた気がしたから。
「────さて」
そこは、美術館だった。
壁も床も天井も、白く滑らかな大理石で作られた、神殿のような美術館だった。
飾られた油絵は、どれも黄金の額縁に囲われている。
例えば、無数の銀河煌めく宇宙の絵。
例えば、青き地球の絵。
例えば、見目美しい少女たちの通う女学院の絵。
それは
宇宙を、星を、学び舎を生み出す、神の力を宿す
右を見ても、左を見ても、美術館のあらゆる場所に、
人間が知る
人間に役立った
全ての
そう、この美術館は、
それも、世に出回っている複製ではなく、オリジナルそのものを。
この美術館を知る人間はいない。
ここに人間はいない。
羽を生やした球体関節の管理人たちも、角を生やした黒髪の女観客も、人間ではない。
そして、当然。
美術館の中央で、後光に黒く塗りつぶされ、いまも新たな
「さて、私はここに、あえて問おう」
人間のいない美術館に、無音の館内に、女の声が響き渡る。
それは角を生やした観客の声。ただ一人の、この美術館に存在する唯一の、観測者の声。
「死を請われた者は、自死すべきなのか。すべての人間に死んでくれと望まれた人間は、死なねばならないのか」
答えはない。
球体関節の管理人たちは、ただ黙々と己が作業に没頭している。
後光で塗りつぶされた人型の影は、ただ黙々と
「答えは【是】だ。他者の迷惑になるなら、たとえ自らの命であろうと打ち捨てる。それが、優しさというものだ。正しき行いを志すのなら、その者は自らの意思で命を絶つべきなのだ」
答えはない。
そも、女観客の問いは、この場のものに向けられたものではない。
球体関節の管理人たちにも、後光で塗りつぶされた人型の影にも、問いかけられてはいない。
「では、死を請われた者が全ての人類で、請うた者がその造物主であったとしたら、どうするべきか」
女観客の視線が動く。
不可侵の館内で、今もなお
自ら生み出した被造物に見切りをつけ、その滅びを描き続ける、神に向けて。
「やはり、【是】である。世界を生み出し、世界を管理する者には、世界に住むあらゆるものの命運を定める権利と義務がある。そして世界に住むあらゆるものは、その者の決定に従う義務がある。故に、人類は滅ぶべきなのだ」
答えはない。
答えるまでもないのだから。
「だが、それが正しからと、自ら死を選ぶ者に、生命を名乗る資格はない」
無音の美術館の中で、この場にいない誰かたちに向けて、女観客は声を響かせる。
「命の使命は、生きながらえる事。たとえ世界の害になるとしても、命ある限り、生き続けなければならない」
叫ぶ女観客の手には、一枚の絵画が握られていた。
偽金の額縁に収められ、裏面に『S・T・N』と書かれた、それは
見る者が見ればわかる、それは贋作だ。
人型の影が描いたものではない。今まさにそれを握るものが描いた、紛い物。
「たとえ世界が燃え尽きたとしても」
女観客は、その贋作を壁に飾る。
偽りの
月も空も、星も大地も、建物も人間も、全てのものが血を流しているなか、ただ一人血を流すことなく微笑む、一人の少女。
肩口に切られた栗の髪と、校則通りに着こなされた葉湖庭学園の制服。その表情は陰になって見えず、唯一口だけが、赤く浮かび上がっている。
流血の夜の中、欠けた月のような笑みを浮かべる
「抗うがいい。お前たちの、全てをかけて」
飾られた紛い物の
付けられたタイトルは、【流血姫】。
「ねえメルテっち、一緒にランチしよ?」
昼休み。
なんとも恐れ多いことに、黒衣さんから昼食のお誘いをいただいた。
さて、どうする?
受けるべきか、断るべきか。
考えるまでもなく後者だ。美少女と美少女が絡む貴重な時間を、私という不純物で汚すなど言語道断。
当たり障りのない言葉で、不快にさせないように注意しつつ、黒衣さんのお誘いはお断りさせていただこう。
どうか私のような畜生など無視して、見目美しい少女たちとの楽しいひと時を過ごしてほしい。
「黒衣さん、私は────」
「メルテっち、お昼っていつもパンだけっしょ? あたしのベントー分けたげるからさ、もっと栄養とろうよ」
「────ぜひご一緒させてください!」
は?
美少女のお弁当とか釣られるに決まってるが?
むしろ釣られないアホおる?
「やった。じゃあ食べよ食べよ。ほら、好きなのどーぞ。今日のは自信作なんだ」
可愛らしい模様のプリントされた弁当箱が開かれる。
中から出てきたのは手作り弁当だった。
手作り弁当。
黒衣さんの、手作り弁当。
美少女の! 手作り! 弁当!
「じゃ、とりま卵焼きいってみる?」
「ありがたき幸せ。家宝にします」
「いや食べてよ」
おぉ、なんと美しいだし巻き卵か。
太陽の光で輝くその姿、まさに黄金のごとし。
そうか、黄金郷とは、美少女のだし巻き卵だったのか。
美しき黄金が、これまた美しき御箸にてつままれる。
そして私の口元へ運ばれ────まて。
「はいあーん」
「????」
は?
なに? なに起こってるの?
美少女の? あーん?
は?
「我が人生に一片の悔いなし…………」
「どしたん急に?」
「いえ何でもありませんお気になさらず」
「そ? じゃほら、あーん」
「えっと、あ、あーん?」
控えめに開いた口の中に、えいっと卵焼きが押し込まれる。
口いっぱいに、焼かれた卵の味が広がる。
だしの奥深さと、砂糖の甘さ。卵のまろやかさのもと融合した二つの味が、舌の上でハーモニーを奏でる。
それは、芸術だった。
天上の至高。現代の奇跡がここにある。
あぁ、なんという幸せか。
私は今日、死ぬのだ。
そうでなければ、この幸福に釣り合わない。
それでいい。魂の安らぎがここにある。
「どう? 美味しい?」
「大変美味でございます」
「やった」
全身で喜びを示す彼女の姿。幸福のおかわりを受け、私の脳は焼き切れていた。
そしてショートした思考は、大事なことを見落とした。
私は箸を持っていない。
お昼はいつもパンだけなのだから当然だ。
黒衣さんの手元には箸がある。
お弁当なのだから当然だ。
さて、ここでクエスチョン。
先ほど私の口にお卵焼きを下賜して下さったお箸は、一体だれのものか。
答えは今すぐ。
「んー、ちょっと甘すぎたかな?」
「…………」
アンサー。先ほどのあーんは黒衣さんのお箸で行われた。
それでは第二問。
今、黒衣さんが自らのお弁当の卵焼きを食べるために使用したお箸は、一体だれのものか。
アンサー。それも黒衣さんのお箸である。
では、第三問。
先の二問が指し示す真実は?
「…………か」
「ん? か?」
「か、かか、かかかかかかっ!?」
間 接 キ ス !
なんということだ! 美少女の口に、私の唾液が侵入してしまった!
聖域を! 将来彼女を愛し幸せにする誰かのための聖域を! 私の唾液が! 凌辱している!
「うぅ。腹を切ってお詫びします…………」
「待って待って待って何の話!?」
やべーよレ○プだ!
下手人は誰だ! ブチ○せ!
私だ! ○ね!
「顔色悪いよメルテっち。具合悪いん?」
「いえあのその」
この度は私の不手際によってあなた様の口内を汚染してしまい、誠に申し訳ございませんでした。
せめてもの償いとしてこの命捧げさせていただきます。
「この度は────」
心中に書き出した謝罪文を読み上げるべく、伏せた顔を見上げて。
彼女の焼けた首筋に、だくだくと流れ落ちる鮮血を幻視した。
「────」
「め、メルテっち?」
「────黒衣さん、首に」
「首? ありゃもしかして蚊がいた?」
そう言って、彼女の平手が流血の噴出源を叩く。
「なんもいないや。逃げられちった?」
「…………そう、みたいですね」
彼女は血を流していない。
私の脳が、おかしいだけだ。
「…………すいません。ちょっと気分が悪くて。保健室行ってきます」
「えっだいじょーぶ!? 付き添いしよっか?」
「…………大丈夫です。一人で、行けますから」
「そお? その、無理しないでね?」
「…………はい。ありがとう、ございます」
食べかけのパンを置いて、立ち上がる。
周りを見る。
赤い。
血の色だ。
みんなみんな、血を流している。
クラスメイトも、そうでないものも。
人も、壁も、床も、扉も。
今にも死にそうな勢いで、命の赤を零していた。
「…………あははっ」
小さく、笑う。
バカバカしい。
血なんてどこにも無いっていうのに。
バカな私の脳みそは、みんなの死を夢見ていた。
中学三年の終わりごろから、私の頭はおかしくなっていた。
元から相当にイカレていたが、このあたりから致命的になった。
ありもしない幻覚を見る。
モノが血を流す幻覚を。
親に相談して、病院に連れていかれた。
そして原因不明と診断された。
どの科のどの医者を訪ねても、ヤブを訪ねても名医を訪ねても、処方されたどんな薬を飲んでも、流血の幻覚が収まらない。
結局、さじを投げられた。
当時はそれでよかった。ただ視界がちょっと赤くなるだけだったから。
本物の出血と見分けがつきにくいという問題もあったが、幻覚自体が一時的なものなので、そう苦にはならなかった。
よくなくなったのは、つい最近になってからだ。
幻覚が、幻覚でなくなってきた。
水の流れる音がする。
校舎裏の、人気のない場所に設置された手洗い場。
そこに私はいた。
蛇口の水を目いっぱいに流して、手元にはその辺で拾った石ころを握って。
石は、出血していた。
だが、問題なのはそこではない。
ぐにゅりと、まるで生きた肉を握っているかのような感触。ドクンと、血管を血が流れる感触。
見た目は変わらない。石は石のまま。強く握っても変形することはない。
ここ最近の悩みの一つだ。幻覚が視覚だけでなくなってきた。
触覚がおかしい。触ったものすべてが、脈動する肉に感じられる。
いや、いや。
それでもまだ、マシなのだ。
石を水流に晒したまま、その表面にカッターナイフを走らせる。
刃の先が石にめり込む。刃を動かせば、硬い石が簡単に裂けていった。
カッターナイフを握る手に、硬い石を割っているという感触はない。
あるのはただ、刃が肉を、斬り裂く感触だけ。
直後、切り口から勢いよく、まるで噴水のように血があふれ出した。
人間と同じ、赤い血。
冷たい石の中から出てきたとは思えない、命を思わせる生暖かさ。
石を観察する。
石は、割れていた。
カッターナイフで切られた切断面から、ヒビが広がって、そのまま真っ二つに割れていた。
血の流出が収まっていく。
視界のあちこちで蠢いていた赤も、薄れて消えていく。
手の中の肉の感触も、消えていく。
残されたのは、冷たい石の感触だけ。
現実の感触だけ。
だけど、それは。
それはなんだか、冷たい死体のように思えて────
「────うぷっ」
胃袋が吐き気を催す。
慌てて口を手でふさいだ。
吐いてはいけない。私の胃の中には、あの小金の卵焼きが詰まっているのだから。
黒衣さんの、美少女の優しさを、無碍にしてはいけない。
その想いで、必死にこらえる。
こらえて、こらえて、何とか、収まる。
こらえるために止めていた呼吸を、再開する。
荒い息をしながら、ふと、視界の端の赤に気づいた。
手洗い場の縁に、赤い血がついていた。
来た時にはなかったものだ。
心当たりは、一つしかない。
ティッシュでふき取る。
ティッシュに、鮮やかな赤がしみ込んだ。
これは、現実。
これこそが、私の目下の悩み。
幻覚中に物を切ると、
気が付いたのは、一週間ほど前のこと。
料理をしている真っ最中に、幻覚が来た。
ニンジンから肉の感触がして、私は閉口しながらもそのまま包丁で切った。
調理中なのだから当然だ。
そして血が勢いよく噴き出して、これが現実だったら片付が面倒だと、頭の隅でぼやいて。
すぐ後ろから悲鳴が聞こえた。
振り返ると、母が真っ青な顔でこちらを見つめている。
そして慌てて近づいてくると、どこを切ったかと問い詰めてきた。
なにがなんだか分からなかった。
今思えば、それは母も同じ気持ちだっただろう。
娘が料理をしていたかと思えば、明らかに致死量の血が噴き出したのだから。
私はケガなんてしていないと説明して、母は私がケガなんかしていないことを確認して、そして二人して首を傾げた。
じゃあこの血はなんなんだと。
私は知っていた。それが切られたニンジンから噴き出したものだと。
だからそれをちらりと見た。
まるで砂漠から掘り起こされたミイラのように、ニンジンは萎びていた。
その後、病院に駆け込んだが、やはり原因は不明。
分かったことは、一つだけ。
幻覚中に物を切ると、
石も野菜も、木も紙も、試したことはないがおそらく動物も。
体液の有無、体液の色にかかわらず、赤い血を流す。
そして死ぬ。
石ならば砕けて、生き物なら枯れて、本来有していた主要な機能を喪失する。
そしてそれ以来、長くとも五分程度で消えた幻覚が、消えなくなった。
何かを殺さなければ、何時間も流血の幻覚が続くのだ。
だから、幻覚の度に、私は手ごろな何かを殺す。
放置すれば、誰かを傷つけ殺してしまうかもしれないから。
「…………これは、罰なのかな」
私は、死ぬべきなのだろうか。
生きるために何かを殺す存在なんて、生きているべきではないのだろうか。
今すぐにでも、この首に刃を突き刺して、命を絶つべきなのだろうか。
だから、だから神様は、私にこんなものを見せるのだろうか。
いいからさっさと死んでしまえと、そういうことなのだろうか。
「…………はははっ」
乾いた笑いがこぼれ出る。
────あぁ、クソッ。
死にたく、ない。
予鈴が鳴る。
昼休みも、もう終わりだ。
結局あのまま、憂鬱な心を鎮める以外何もできなかった。
ため息を一つ付いて、立ち上がる。
早く、教室に戻ろう。
次の授業には、幸いにして移動はない。
さっさと戻れば、ギリギリ間に合うはず。
そう考えて、歩き出して。
「…………?」
目の前に、赤いものが広がっていた。
校舎裏に植えられた木々に、赤いものがぶちまけられていた。
もう幻覚が再開したのかと頭を押さえる。
「こんにちは」
そうこうしていると、声を掛けられた。
反射で振り返る。
見知らぬ美少女がいた。
私はこの学園の生徒の顔は全て記憶している。だから断言できるが、彼女はこの学園の生徒ではない。
いや、『生徒でない』ことだけなら、顔を覚えてなくても断言できたか。
「ここの生徒さん?」
彼女は、バニーガールの格好をしていた。
白いハイレグに赤いコート、白のタイツに白いうさ耳。
ホワイトカラーなバニーガールは、その手に白く大きなチェーンソーを握っていた。
「えっと」
「生徒さんかって聞いてるの。質問には答えてよね。これだから人間は」
バニーガールが、チェーンソーのエンジンをかける。
まるで獣の咆哮のようなエンジン音が、無人の校舎裏に響いた。
────無人?
いやな予感がした。
周りを見る。
周りは赤い。あちこち赤い。まるで血の色だ。
だけど、それらは流れていない。
私の幻覚では、血は流れ出るものだった。
留まるものではなく、ペンキのようにへばり付くものでもなく。
とめどなく溢れ、流れ続けるものだったはずだ。
つまり、これは。
「────幻覚じゃ、無い?」
「…………あのさー! だから、質問に答えてよ!」
バニーガールの苛立ち声が聞こえる。
これが厳格でないというなら、つまりこれは本物の血だ。明らかに致死量の、それも複数人の血液だ。
よくよく見れば、肉の塊らしきものが、あちこちに転がっている。
暖かさを感じられない、命の消えた、冷たい肉が。
「…………私は、この学園の生徒です。この、状況は、あなたがやったんですか?」
「そーだよ。見ればわかることを聞かないでよ」
「どうして?」
「はあ? どうして? 本当に変なこと聞くね。人間を殺し尽くすことは、私たち
「…………
「…………ほんとーに何も知らないんだ。人間ってもしかしておバカさんなんなの?
やっと、知っている単語が出てきた。
例えば黄金が沸き上がる泉であるとか、例えば酒池肉林のジャングルであるとか、空気を吸って発電する巨大な牛であるとか。
1999年にそれらが現れて以降、社会は爆発的な発展を遂げた。
電気代に頭を悩ませる人間は現代には存在しない。
食べ物を買えずに飢えに苦しむ人間は現代には存在しない。
さっき血を流すために使った水道水だって、水を生み出す
現代社会で、
だけど、
それが人間に牙をむいたとか、そういう話は聞いたことが無い。
「…………つまり、そのチェーンソーがそういう
「やっぱバカなんだね人間。人の話聞いてないの? 私は”私たち”って言ったんだよ?」
私たち。
自分たちが、なんだというのか。
話の流れから推察するに、
それが、彼女を指し示す名称だとするなら、それは、つまり。
「…………まさ、か。あなた自身が、
「やっとわかったんだねこのド低脳。まさかとは思ってたけど、本当にぶっ殺される以外何の役にも立たない案山子だったとかさ。ちょっとがっかり」
「なんで…………いえ」
何でこの人たちを殺したのか、なんて問いに、意味はないだろう。
彼女はどうやら、人殺しを何とも思っていないようだし。
そもそもの話、私自身が、彼女の動機に関心を持っていない。
視界の端に、赤色が映る。
赤く染まった、葉湖庭学園の制服の切れ端が。
────私立葉湖庭学園は女子校である。
右を見れば美少女、左を見れば美少女、前を見れば美少女なこの学園で、『誰かを殺す』ことは美少女を殺すことに直結する。
つまり、こいつは。
「…………
世界の宝を、人類の魂を、私の大好きなものを。
「よくも、美少女たちを殺したな!」
「び? あぁ確かに、君たち面はいいよね」
彼女の声は、聞こえなかった。
聞くよりも早く、私の身体は駆け出した。
片手には、さっき使ったカッターナイフ。
狙うのは、バニーガールの喉元。
躊躇は、無かった。
「ぶっ殺す!」
「こっちのセリフだ、人間!」
攻撃をかわしたバニーガールが、酷薄に笑う。
私は再び、刃を振るった。
鐘が鳴る。
鐘が鳴る。
滅びの時だと、鳴り響く。
死すべき者らに、絶対の死を。
無価値な者らに、正しき罰を。
「喝采を! さあ喝采を! 我らが主!」
人のいない美術館に、女観客の声が響く。
「あなたの望む時が来た! 第一の
踊る。踊る。
女観客は一人踊る。
歓喜と祝福と、侮蔑と呪詛をまき散らし、ただ一人、激しく踊る。
「『解体されれば死に至る』! 神をも殺す概念特権、電動鋸刃の回転殺法をご照覧あれ!」
主と呼ばれた者、後光で塗りつぶされた人型の影は応えない。
ただ黙々と、死を描くばかり。
「さあ、敵は強いぞ