箱庭世界《キャンバス》に描く十五ノ夜の流血姫   作:ヨシオ、あん摩師から令嬢へ

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05 美しき蒼

 

 木曜日の時間割が好きだった。

 

 午前中の厄介な理科と体育さえ乗り切ってしまえば、お昼休みを挟んで午後からの二時間は図工の時間だから。

 給食を早めに食べることが出来たら、お昼休みの時間を大好きな絵を描く時間にあてられて、お昼休みが終わっても図工の時間に絵を描いたり工作をしたり、ご褒美のような時間が待っていた。

 

 でも、自由帳を出すのはまだ早い。

 満たされたお腹をさすりながら、男子達がドッジボールをする為にグラウンドに出ていくのを待つ。

 

 私は絵が上手いと思う。何人かいる友達の中では、一番上手いと思う。けど、それを見せびらかしたくない。特に体育が好きな男子達には。

 

 一度だけ絵を描いているところを見られて、「オタクだ」と冷やかされたことがあった。私が描いていた可愛い女の子のキャラクター達は、気持ち悪いオタクが見るようなキャラクターだと笑われた。折角楽しく絵を描いているのに、嫌な気持ちになんてなりたくないから。だから、彼等が職員室まで走って行って、遊ぶ為のボールを借りに行くまで待った。

 

 

 

 

 ──そんな昔の私を、今の私が眺めていた。

 

 

 

 

 懐かしい教室。高校が分かれてしまい、もう会わなくなってしまったかつての友達。ちょっとだけ気になっていた男子。あんまり好きじゃなかった担任の先生。皆で回し読みをしていた、学級文庫の児童文学。

 

 こんなに机も椅子も小さかったんだな、なんて思いながら、私はまるで授業参観に来た母親のように、教室の後ろからかつての景色を見ていた。

 

 ああ、そういえば私のランドセルは水色だったな。女の子は皆赤色ばっかりで、一年生や二年生の頃は特別な気がして嬉しくて楽しかったけど、五年生にもなったらなんだか恥ずかしくなっていったんだっけ。ねえお母さん、赤いランドセル買ってよ、皆と一緒が良かった、なんて無茶を言ったこともあったかもしれない。

 

 

 

 楽しかったな、小学校。

 

 何も考えずに、この頃に戻れたらな。

 

 

 

 

 

 

 

「本当にそう思ってる?」

 

 

 

 

 

 突如、視界が赤く歪んだ。

 突然の目眩に思わずふらつき、もう一度顔を上げた時には辺り一帯が赤く彩られる。水色だったはずの私のランドセルは皆と同じ赤色に。理科の時間に使う磁石は、パッと見ただけではどちらがN極かわからなくなってしまったし、社会の暗記メモは下敷きを通さなくても何が書かれているのか全くわからなくなってしまった。

 

 記憶の中の教室は歪み、小学生の私が真っ赤な世界の中で一人黙々と絵を描いている。それを後ろから眺めている私と、真夜中の月のように存在感を放つ、もう一人の綺麗な「私」。瞳は宝石のように紅く輝き、口元は三日月のような笑顔を作っていた。

 

「同調率が上がったからかな、記憶の中で会うことが出来たね。初めまして、聖メルテ」

 

 録音した自分の声を聴いているような感覚。ああ、普段他の人たちは私の声ってこう聞こえているんだ。そんな感覚。

 目の前にいる「私」が一体なんなのか。ぼんやりとした頭の中でもそれは直感的に理解することが出来た。

 

 流血姫。このままならあと十四日で私の身体を媒介に完成する怪画だ。猫裏先生が言っていたことが段々と脳裏に蘇っていく。自分が自分じゃなくなる。人間ですらなくなる。どうなるのか想像もつかなくて、とても恐ろしいこと。

 

 だというのに、私は何故か胸が多少冷たくなるくらいで、今すぐどうにかしたい、逃げ出したい、叫び出したいなんて気持ちは湧いてこなかった。

 

 

 

「少し散歩をしながら話をしない?」

 

 

 

 流血姫は教室の扉を開け、廊下へと消えていく。私は言われるがままにその後を追いかけ、真っ赤に塗られたリノリウムを踏みしめながら、懐かしきかつての校舎を歩き始めた。

 時間は確か昼休みだったはずなのに、廊下で談笑する女子も、男子達につかまってドッジボールの参加をせがまれる若い男の先生も、ロッカーから隠していたトランプを出そうとする男子も誰もいなかった。この真っ赤な世界には、きっと私と、流血姫と、幼い私しか存在していないんだと思う。

 

 ふと、窓の外を眺める。緋い緋いグラウンドに、コロコロと転がったボール。やっぱり誰もいない。あんなにいつも騒がしかったグラウンドがしんと静まり返っているのは、どこか特別な気がした。

 

「ドッジボール。体育の余り時間にやるの、嫌いだったよね。私、投げるのも避けるのも苦手だったし、クラスの中心男子がはしゃぐのも苦手だったもんね」

 

 流血姫もグラウンドに転がっていたボールを眺めていたらしく、まるで昔を懐かしむかのように「私」の昔の話を始めた。

 

 

「今思うとホント、子どもって残酷だよね。鬼ごっこをする時も、ドッジボールをする時も、人のこと菌扱いしてさ、私が当たったあとのボールを必要以上に避け始めるんだ。誰もキャッチして反撃に出ようとしなくなるんだよね」

 

 

 ──そう、だっけ。

 

 

「そうだよ。私がもう忘れちゃっただけ」

 

 

 私より綺麗な顔をした「私」は、無垢な笑顔を私に向けた。

 

 声も同じ、背丈も同じ、顔のパーツもそこまで変わらない気がするのに、流血姫の方が、私よりも綺麗に見えた。どうしてなんだろう。

 

 ──そもそも私は、所謂綺麗な顔だったっけ? 

 

 

 

「時間はたっぷりあるよ、聖メルテ。一緒に「私」の封印した記憶を見に行こうか」

 

 

 

 それは()()()()()()()()からの誘い。私よりも綺麗な──つまり美少女からの誘い。ああ、断るわけにはいかないな。

 

 

「何を見に行くの?」

聖メルテ(流血姫)が「幸福」に改変する前の、本当の私の小学五年生の記憶だよ」

 

 

 幸福に、改変する前の。

 

 

「そう。正確には、流血姫と同調し始めて、過去を描き換える前の記憶」

 

 

 校舎に、色が戻り始める。

 真っ赤だったリノリウムは紺色になり、壁はコンクリートの白色へ。外は青空が広がり、グラウンドには緑色のボールを投げ合う男子達の声が響き始めた。

 

 

「覚えてる? 木曜日の時間割が好きだったよね」

「……うん。体育が無ければ最高だったけど、午後からの時間が図工なのがすごく好きだった」

「給食さえ早く食べたら、昼休みからずっと絵を描いたり工作をしていられたよね。でも自由帳を出すのは、男子達がドッジボールをしに行くのを待ってからだった。どうして?」

「どうしてって──一度だけ、絵を描いているところを見られて、オタクだってはやし立てられて」

 

 

 

「違うよ」

 

 

 

 流血姫(聖メルテ)は、笑顔でそれを否定した。

 ……そんなハズはない、だってこれは「私」の記憶なんだから。私が間違えているはずはないんだ。

 そのことが嫌で、隠れて私は楽しい絵の時間を作っていたはず──

 

 

 

 

「私が自由帳を出せなかったのは確かに男子にはやし立てられたせい。でもその矛先は絵じゃなくて「聖メルテ」自身だったよ」

 

 

 

 

 視界が暗転し、真っ赤な教室に戻される。

 そこにいたのは、顔も見えないクラスの男子達。真っ赤に塗りつぶされてどんな表情をしているかは解らないが、それでも笑い声だけは耳に届く。

 

 その中心にいるのは小学五年生の私──だと思う。泣きじゃくり、男子の持っている真っ赤なノートに手を伸ばしていた。

 

 

 

 

 ──あれっ。

 

 小学五年生の時の私って、こんなに醜女(ブス)だっけ。

 

 

 

 

聖メルテ(わたし)が本当に怖がっていたのは、貴女(流血姫)が本当に傷ついたのは、アニメの可愛いキャラクターを描いていたらはやし立てられたことじゃない。「やっぱりオタクみたいな顔してるから、オタクみたいな絵を描くんだ」って。聖メルテ自身をはやし立てられたことが怖かったんだよ」

 

 

 

 

 頭が痛い。

 耳に聞こえ続ける男子達の笑い声が、脳を酷く刺激する。

 見ていられない。聞いていられない。

 

 

 

「そこから私はいじめのターゲットにされた──どうだろう、皆からしたらいじめじゃなくてイジりだったのかもしれないけどね。喋ったらオタク菌が伝染る、ドッジボールで当てたらボールにオタク菌が付く、本を読んでても、絵を描いてても、なんなら授業で発言するだけでもオタクだと笑われ、そして何故かそのついでのように容姿を揶揄される」

 

 

 

 オタクみたいな顔してるからこんなアニメの顔に憧れるんじゃねえの? 

 

 やっぱキモい奴がオタクになるんだな! 

 

 憧れ強すぎてめちゃくちゃ目デカイじゃんこのキャラ! 

 

 アニメのキャラや絵ならどんなイケメンでもお前見ても何も言わないもんな! 俺らと違って! 

 

 いやそんなこと思ってるのお前だけだって、俺は聖のことブスとかキモいとか一言も言ってねえよ? 

 

 お前それ笑いながら言うことじゃねえって! 

 

 

 

 

「子どもって残酷だよね」

 

 頭が痛い。

 心臓が冷えていく感覚がする。

 

 こんな映像、身に覚えが無いはずなのに、何故かとてもリアルな体験として脳に焼き付けられている。

 

 

 

「もう一度聞くよ。どうして、私は──聖メルテは、男子達がドッジボールをしに行くまで自由帳を出さなかったの?」

 

 

 

 

「────あの日から私は、あいつらを殺す妄想の絵を自由帳に描き始めたから」

 

 

 

「正解! よく思い出せたね」

 

 

 

 

 ああ、本当に。

 本当に子どもは残酷だな。

 

 そうだ、私は()()()()()()()をデザインして、私をいじめていた男子達をどうか殺してくださいってお願いしていたんだ。

 

 どうして忘れていたんだろう、あの地獄みたいだった小学五年生の時間を。

 どうして忘れていたんだろう、あの壊れかけた心で反逆心のままに描き殴っていた怨嗟のキャラクター達を。

 どうして忘れていたんだろう、そこからずっと続き、エスカレートしていった私に対する虐めの事実を。

 

 どうして私は、その時間が「楽しかった」と思っていたんだろう。

 

 さっき流血姫が言っていたことを思い出す。

 

 

 

「貴女が──私の記憶を、過去を描き換えたんですか?」

 

 

 

「ちょっと違うかな。描き換えたのは聖メルテ自身。貴女が汚いものに蓋をするように、美しく描き換えたんだよ」

 

 

 

 世界が赤く染まる。静謐な時間が帰ってくる。滴り落ちる血のパレードが廊下を闊歩する中、その世界にいるのは私と流血姫の二人だけに戻る。

 

 私よりも綺麗な私の顔が、屈託のない笑顔で微笑みかける。

 

 

 

「──もっと言うなら、聖メルテは私と同調し始めてから、その容姿も美しくなるように描き換えた。いや、違うな。性格には、私と同調率が上がれば上がるほど、美しく成り続ける。さっき見て違和感を感じなかった? 幼い頃の私は、あんな顔だったっけ? 面影はある気がするけど、今の私と似てるようには見えないな、記憶の中の私とイメージがズレるな、そう思わなかった?」

 

 

 

 

 目の前に現れる小学五年生の私。

 お世辞にも可愛いとは言えない顔の彼女は、間違いなく「聖メルテ」という名札を付け、冷たい瞳で私を見ていた。

 

 そういえば、写真に映るのが嫌いだった。

 自分の醜さを突きつけられるような気分になるから。

 描くことは好きだったけど、私を描かれるのは嫌いだった。

 どう足掻いても醜さを強調されてしまうから。

 

 

 

 

「虐められた私は──その「オタクみたい」と言われる容姿に嫌気がさして、貴女と同調率が上がり、虐められた過去とその原因に蓋をするように、記憶と容姿を描き換えた……ってこと? でも、どうやって」

 

「眠る前に天使から聞いたでしょ? 私達──流血姫が切ったものから産まれる血は、世界を構築することが出来る。それは過去も、現在の事象も描けばその通りに描き換わっていくものだよ」

 

 

 

 

 そう言いながら流血姫は指を振り、一瞬後に目の前にいた幼い私が鮮血となって消えていく。噴き出た血は流血姫の人差し指に集まり、やがて吸収されるように飲み込まれていった。

 

 知らない間に、私は自分のトラウマを消す為に血を使っていた。それはもしかしたらとても恐ろしいことなのかもしれない。けれど、何故か私の中に罪悪感はそれほど無かった。いや、そこに対する感情が、何も無い気すらした。

 

 

 でも。

 

 

「でも、どうして私だったんですか? どうして、私が流血姫に選ばれたんですか?」

 

 

 私は、眠る前に猫裏先生に言われた時からずっと思っていたことを聞くことにした。あの口ぶりから察するに、きっと選んだのは天使──先生じゃないと思う。神様か、或いは流血姫自身なんじゃないだろうか。

 

 

 

「どうして? とっても簡単な理由だよ。私は聖メルテという人間をとても気に入ったのと……君が流血姫になるのが相応しいんじゃないかって思ったからだよ」

 

 

 

 流血姫の笑顔が、一層輝いたように見えた。

 ああ、なんというか本質的に感じ取ってしまった。

 きっとその顔は、私が美少女を見る時の顔とよく似ている。

 

 

 

 

「聖メルテ。君は──私は、容姿を辱められた経験から醜いものをひどく嫌い、同時に美しいものへの執着が激しくなった。恐ろしいまでの外見至上主義──ルッキズムの化身と言わんばかりに。その醜いものへの憎しみは自らにも及び、そして自らを取り巻く環境すら「美しい女性」で固めたいが為に箱庭となった学園の常識を描き換えた……いや、それだけじゃないな。君は学校という名の箱庭を世界の縮図と定義し、「言葉や力、マジョリティとして強くなった者が弱き者を虐げる」という無邪気な子どもの「遊び」を世界のシステムと感じ、学校への憎しみを世界の醜さと同定義した」

 

 

 

 流血姫は人差し指からタラリと血を流し、虚空をキャンバスに血で絵を描き始める。

 繊細な模様、紅く煌めく宝石、美しい緋のチェーン。やがて完成したのは真っ赤で、今まで見たことの無いほどに輝く首飾りだ。

 

 それは神の血と呼ばれる力で具現化したのだろうか、流血姫はその首飾りを両手で優しく包み、そしてゆっくりと私の首にかけようとし始めた。

 

 

 

「今の世界を醜いと感じ、外見至上主義に囚われて見目麗しい女性ばかりを周りに置き、更には自らの外見も美しく描き換える。次の世界を構築するのは、聖メルテが適任なんじゃないかと──私が思ったんだよ」

 

 

 

 

 かけられた首飾りはしっかりと重みがあり、確かに今この場に存在していることを感じさせる。

 まるで女王が着けるような宝石は、私には眩すぎるような気すらして。

 

 

 

 

「考えてごらんよ。次の世界には醜いものなんて何も持っていかなくたっていいんだ。私を笑ったあの男子達も、私を笑うように造られたあの世界のシステムも、いつか産まれるかもしれなかった、私のように虐められて歪んでしまうような子どもも、醜くて密かに世界の崩壊を、皆の死滅を幼稚に望んだあの日の私自身も! 全てこの世界に置いて、新しく美しい私と、美しく定義したものだけを連れて産まれ直すことが出来るんだよ。それって、私が一番求めていたものじゃない?」

 

 

 

 

 跪くような素振りをしながら、それでも笑顔は絶やさない流血姫。紅い宝石が、私の頬を照らす。

 

 

 

 

 

 ああ、そうか。

 

 

 私がずっと求めていたのは、そうだったのかもしれない。

 

 

 

 ずっとイカレていると思っていた。でも、それが現実になると思えば、それはなんて魅力的に見えてしまうのだろう。

 

 美少女──美しいものだけが存在し、汚れたもの、醜いものは全て消えた世界。

 

 本当に作れるなら、それはきっと素敵なことだ。

 

 

 宝石に写る私の顔は、いつしか流血姫の美しさを手に入れていた。

 跪いた姿から立ち上がり直し、私に微笑みかけた流血姫の顔は、今まで鏡でよく見ていた私の顔となっている。

 

 

 

「ついておいでよ」

 

 

 

 真っ赤なリノリウムを踏みしめて進む。ああ、この世界の赤は居心地が良いな。これもきっと、すごく美しい。

 

 流血姫──或いは「私」に連れられてやってきたのは美術室。ガラガラと扉を開けると、そこは真っ白でだだっ広い、美術館の展示室のような空間が広がっていた。掛けられている額縁の中には、どれも絵が描かれていない。

 

 そうか、これから私がきっと描くんだ。ここに、次の世界に持っていく綺麗なものを。

 

 

 

「まだ10日もあるんだ、一緒にゆっくり考えようよ。次の世界に持っていくものを、この世界に捨てていく醜いものを」

 

 

 うん、そうだね。それはきっと、とても幸福で楽しいことだ。

 

 満たされたお腹をさする。もうすぐ昼休みが終わり、楽しい楽しい図工の時間になるんだろう。

 

 

「お腹いっぱいだからって、居眠りしちゃダメだよ? 今日は何を食べたの?」

 

 

「えっと──だし巻き玉子」

 

 

「そう。ご馳走だね」

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

「なに、これ……!?」

 

 黒衣宗が葉湖庭学園に入ってみたものは、夥しい量の鮮血と、至る所で息を引き取っている知らない女性の屍だった。

 

 その非現実さ、おぞましさに胃液すら込み上げてきそうだったが、その光景を見た宗の心に芽生えていたのは「友達を早く見つけて安心させてあげないと」という使命感だった。或いは、もう後戻り出来ないような気がする中、誰かに会ってこの非現実の中でも安心したかったのかもしれない。

 

 竦む足、震える手、思わず叫びたくなる喉に必死に我慢の指令を出し、小走りで校舎を進む黒衣宗。まず目指すべきは保健室だった。もしメルテがまだ安静に眠っているなら、保健室以上に適任な場所は無い。無論この明らかに異常が発生している後者の中で、呑気にグースカピーと眠っているだけとは思えないが、一周回って眠っていてくれた方がいい。何より宗は、今目の前の鮮血や死体を前に冷静でいられるわけがなく、とにかく保健室! という気持ちで向かっていた。

 

 次の角を右に曲がれば、間もなく保健室の扉が見えてくるはず。一先ず目的地まで辿り着きさえすれば、きっと何か安心出来る──そう思った矢先、宗の目が人影を捉えた。

 

 

 

「キャっ……誰っ!? ホントっ……まじ、何!? 誰なん!?!?」

 

 

 

「お前……黒衣か? ちょっと待て、なんでここにいる!?」

 

 

 

「あれっ……刹センセー!?」

 

 

 

 宗が出会ったその人物、それは──彼女の担任の教師であり、美術の担当教員でもある猫裏刹だった。両腕で何やら女性を大事そうに抱えており、その女性はどうやらスヤスヤと寝息を立てて眠っているようで──

 

 

 

「あっメルテっち! 良かった、普通に無事だったんじゃん! 刹センセーが今保健室に連れてきてくれたん!?」

「あ? ん、まあ……そんなところだ。黒衣こそどうした、下校命令は出ているはずだし、そもそも今ここは危険だが」

「そ、一旦帰ったんだけどね? メルテっちが心配だったからもっかい来ちゃったというか……えへへ……」

 

 

 下校命令が出ていたのに勝手に帰ってきてしまったことを咎められるかと思い、笑って誤魔化そうとする宗。先程まで非現実の中にいたからだろうか、担任の教師といういつも見ている存在がいるだけで気が抜けたのかもしれない。

 

 

「ってか、センセー何これ!? なんかっそのっ……血とか、死体とかっ、バラバラ殺人超えてるよねもうっ……有り得んくない!? こんなん、警察呼ばないとじゃん!?」

 

「あー……どうしたもんか……」

 

 

 宗の動転したような問いに、刹は言葉に詰まってしまう。確かに、普通こんな凄惨な現場が発生した場合、頼るべきは警察であり、そして身を隠せる場所でじっと待つべきだろう。だがこの現状は「普通」の凄惨な殺人現場ではないし、警察が来たところで御使いの贋作(ヴァニタス・コピー)に殺されて終わりだ。何より、この状況──十五ノ夜を維持したいと考えているのは刹自身なのだ。しかしそれらを宗に説明しようとすれば、十五ノ夜のこと、流血姫のこと、聖メルテのこと、世界が終わること、自らが天使であること、それら全てを説明しなければならない。あまりにも突拍子過ぎる上に、その先どうなるかの展望が見えない。

 

 

 ──黒衣には悪いが、殺すか? 

 

 

 そんな囁きが刹の脳内に走る。現時点での刹の最重要事項はメルテであり、今宗を眠らせたりして無事に帰そうとしたら、その間メルテを放置することとなる。そのタイミングで御使いやルネサンスと接触されると面倒だし、かといってこのまま宗を放置するとそれこそ彼女が御使いの餌食となり、それもまた十五ノ夜の中では何か面倒なことが起きてもおかしくない。それなら今、殺してしまった方が楽かもしれない。

 

 ──いや、あくまでそれは最終手段か。

 

 刹は天使という名の人間の上位存在ではあるが、御使い(ヴァニタス)のように人間を好き好んで殺すわけではない。寧ろ人を守護する側にある。無論最優先である十五ノ夜に害がある場合はその限りではないが、殺人は最終手段だ。

 

 となると、取れる選択肢は嘘ではぐらかすか、真実を全て話すかの二択に絞られる。刹は逡巡の後、真実を話すことを選択した。

 

 

「…………既に大量の贋作を寄越されてイレギュラーだらけになっている以上、人間一人が増えたところで変わらないか。黒衣、落ち着いて私の話を聞いてくれるか?」

 

 

 ゆっくりとメルテを降ろした刹は、努めて優しい声色で語りかけた。

 

 

 天使のお告げというものは、往々にして人間からすれば度し難くなるものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

「……は? つまり、刹センセーはそもそも人間じゃなくて、天使ってこと?」

「そうだ。信じられんかもしれんが」

 

 刹の頭上に、天輪が浮かぶ。

 

「……それで、今ある世界を壊して、メルテっちに新しい世界を描いてもらうってこと?」

「そうなるな。信じられんかもしれんが……まあ、お前は連れて行ってもらえるだろ。良かったな」

 

 

 

 

 

「は? 意味わかんないんだけど」

 

 

 

 

 宗は今まで怯えてきた非日常にも、目の前にいる人智を超えた上位存在である天使という存在にも、日常の中でも教師という上の立場である刹にも、一切の恐れが消えていた。

 ただ、あるのは明確な怒りと苛立ち。鮮血飛び散る校舎の中で、青い髪がゆらゆらと揺れる。

 

「意味がわからないのは仕方がない。ただこれは事実で──」

 

 

 

「そーゆーこと言ってんじゃないんだよ、刹センセー」

 

 

 

 ──ニュースで初めてAIイラストのことを知った時、黒衣宗が最初に抱いた感想は「もっと頑張れよ、人類」という無責任極まりないものだった。

 

 だがそれは、黒衣宗という人間がそれほどまでに「人間は頑張れば出来る」と信じていることの裏返しでもある。

 

 

 

「あたしが次の世界に行ける? じゃああたしのお母さんは? お父さんは? 友達は? 初恋の人は? 中学で離れ離れになった親友は? 小学校の時の大好きだった先生は? あたしが大好きな俳優は? あたし一人次の世界に行ったってどうしようもないの」

 

 

「さっきも説明したろ、次の世界に行けるのは流血姫が神の血で描いたものだけだ。綺麗なものを選んで流血姫がこの学園に絵を描き、それらが次の世界を構成する要素になる」

 

 

 

 

「それだよ。それが意味わかんないって言ってんの」

 

 

 

 

 宗の声は、驚くほど冷たく、同時に校舎全てに聞こえるんじゃないかというくらいによく通った。

 ネイルで可愛く彩られた爪が、手のひらに食い込むほど拳を握り締める。

 

 

 

 

「綺麗なものって何? んなもん人の感性で変わるもんじゃん。じゃああたしは綺麗で、選ばれなかったものは全部綺麗じゃなかったってなるの? 意味わかんないでしょ、そんなの。そりゃあたしだって、戦争とか、いじめとか、そういうものは綺麗じゃないと思うし、無い方がいいと思うけど……でも、一人の感性だけで綺麗か綺麗じゃないかなんてわかんないじゃん! 本当に綺麗なものだけの世界なんて、ぶっちゃけそんなのある訳ないじゃん! あたしだって可愛くネイルしたり、髪染めたり、メイクしたりするけど……化粧落としたら顔面やばいし、外見だけ綺麗に取り繕っても、中身が違うことだってあるじゃん! そんなの全部をまとめて、苦しむこともあるかもだけど、頑張って、それでも世界良くしていこーよっていうのか人間なんじゃないの!?」

 

 

 

「……人間の、子どもの幼稚な意見だな。先生として今の黒衣の話にはハナマルをあげたいところだが──」

 

 

 

 

「センセーヅラするならあたしにハナマルあげる前にやることあるでしょ!? メルテっちをなんとかしてあげる方が先じゃん!?」

 

 

 

 一歩。大きく、その足が天使という上位存在を前にしても躊躇い無く踏み込まれた。

 

 

 

 

「聖メルテが流血姫として覚醒しない限り、次の世界も作られない。そしたら本当にこの世界はゼロになって全てが死ぬことになるんだ──」

 

 

 

 ──その言葉を聞くや否や、完全に黒衣宗の躊躇いは消えた。

 その足は誰よりも力強く、そしてこの瞬間だけは、彼女こそが誰よりも強く在った。

 

 

 誰もその行為に及ぼうとは考えもつかないだろう。考えたとて、信仰心の厚い人間なら、或いはそうでなくても、それを罰当たりと感じ躊躇う行為。

 

 それでも、黒衣宗は躊躇わない。

 

 

 

 

 

 

 

「うっさいっ!!!! 人間ナメんなっ!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 血が滲むほど握り込まれた拳が、刹の頬を綺麗に撃ち抜いた。

 

 刹は何が起きたのか一瞬分からず、勢いのままに吹き飛びリノリウムの上をゴロゴロと転がる。

 

 

 

 

「センセーが天使だろうが関係ない、少なくとも今の世界を守る気がない天使サマなんて、友達が怪画になるとこを見てるだけのセンセーなんてあたしはいらないもん! どれだけ無理って言われたってこの世界が滅びないで済む未来をあたしが探してやる、ダメならメルテっちと二人で意地でも次の世界に今の世界全部持って行ってやるっ!!」

 

 

 

 その叫びは、間違いなく校舎中に──或いは世界中に響き渡った。

 

 もう今の彼女に震えも恐れも、怒りすらも存在していない。

 ただ友達の為に、世界の為に自分がなんとかしたいという意思のみが彼女を、黒衣宗を動かしていた。

 

 

 

 

 

「……やっぱり殺すべきか、悪く思うなよ黒衣」

 

 

 

 

 

 

 じんじんと痛む頬を拭いながら、立ち上がった刹は両手の親指と人差し指でフレームを作り、怪画の力を解放する。使う怪画(アーツ)は常に携帯しているアルコールランプ。

 

 

額縁用意(クランクイン)!」

 

 

 携帯していたアルコールランプから火柱が立ち昇り、それは大蛇の姿を象って宗に向かって凄まじい勢いで突撃する。間も無く炎の大蛇は宗を飲み込み、鼓膜を割る程の爆音と共に爆発四散し──

 

 

 

 

 

 ──宗はその獄炎を受けて、火傷の一つも負わずにそこに立っていた。爆風に煽られ、スカートが、黒と青の髪が大きく揺れるが、宗は一切のダメージを受けた様子が無い。

 

 

 

 

「なっ……!? まさかお前」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──天使とは神が遣わした御使いであり、人間の上位存在として人に信仰される。

 しかしその存在は絵画に描かれたもの等でしか確認することが出来ず、天使が現実世界に顕現する為には自分より下等にあたる人間の信仰が無ければ許されない。

 

 そしてそれは──()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()ということを表している。

 

 宗が叫んだ、「今の世界を守る気がない天使サマなんていらない」という言葉は本心から産まれたものであり、それは即ち天使という存在の否定と同義である。この言葉を引き出した時点で、刹は宗に対して何も手出しが出来なくなってしまっているのだ。

 

 

 

 

「綺麗だとか醜いだとかどーだっていい! そんなもの人間じゃないアンタに決められたくもない、勿論神サマにだって決めさせない! あと十四日しかないなら、その期間であたしが何とかしてみせる、神サマの凝り固まった感性ぶっ壊してやるっ!!」

 

 

 

 

 宗の青い髪がたなびき、そして輝きを放ち始める。それはまるで、世界を構築する神の血と対を成すような、地球という星を象徴するような、美しい蒼色。

 

 

 

 ──十五ノ夜が与えるイレギュラーは、必ずしも神や天使に微笑むものとは限らない。

 

 

 

「馬鹿な……! 十五ノ夜のイレギュラーがここで黒衣に起きるっていうのか……!?」

 

 

 

 

 そのイレギュラーは、「人間に与えられる神すら想像出来ない超能力」。黒衣宗はその蒼い輝きと共に、これから神によって滅ぼされるであろう、現存する世界の切り札として、地球の蒼を与えられた。

 

 或いは、それは人間代表として地球から与えられた最後の希望。

 

 

 

 そしてそれは刹にとって最大の誤算だった。そもそも天使の力で彼女を殺すことが不可能になってしまったのに、更に予想すらつかない超能力まで身に付けられたのであれば、もう刹の手では彼女を止めることは不可能である。

 

 

 ──可能性があるとするなら、ルネサンスと宗を上手く鉢合わせさせることだろうか。

 

 

 宗は間違いなくメルテを守ろうとするだろうが、ルネサンスはほぼ間違いなく流血姫を復活させない為にメルテを殺そうとするだろう。

 

 つまり宗とルネサンスはほぼ確実に対立する。天使であるはずの自分が、人間に頼らなければいけないことは複雑だが、どうしようもないのだから仕方がない。

 

 

「全く……ここまでのイレギュラーは初めてだよ」

 

 

 

 それでも天使は、神から戴いた使命を投げ出すことは赦されない。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

「『パラシュート』『救命胴衣』『クッション/巨大』」

 

 

 葉湖庭学園の屋上に突如、巨大なクッションが顕現し、バフっという音と共にそのクッションの上に人間が一人着陸した。間も無くそのクッションは塵となって消えていき、その場には赤髪の男だけが残される。

 

『はーい、こちらルネサンス日本支部通信担当、有沢です。草薙さん、今いる場所って葉湖庭学園ですよね?』

「ああ、今屋上に到着した。明らかにおかしなことになってるな……視認できる限りで色んなとこに血がぶち撒けられてる」

『でしょうね……こちらで観測出来る限りでもあらゆる反応が異常を示してます。ほぼ間違いなく、「十五ノ夜」が始まっています。しかも御使いとは違う脅威的な反応が二つあります。恐らくですが──天使かと』

「笑えねえな……了解した。取り敢えず無理はしねえが、状況の確認と──いけそうなら流血姫の討伐もやってみるわ」

『ホントに無理しないでくださいね、草薙さん。十五ノ夜が始まっているなら、他のメンバーも続々と葉湖庭学園に向かうはずです、とにかく連絡だけは絶やさないようにお願いします』

「承知。安心しろよ、死にはしねえから」

 

 

 

 混沌を極める学園に、ルネサンスが介入する。

 赤髪の男──草薙壮は連絡を一旦切り、手袋をしっかりとはめ直す。

 

 

 

 

「さて……動くか」

 

 

 

 

 

 

 有史以来最も長い十四日間が、幕を開けた。

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