幼い頃から、病気と怪我ばかりしてきた。
まともな学校生活を送っていた時間よりも、病院のベッドから窓の外を眺める時間の方がずっと長かった。おかげで病院の近くの風景の変化には、やたらと詳しくなった。両親の意向でずっと一人用の病室だったおかげで、静かな時間を過ごすことはできたけれど、その代わりに他の患者さんとのコミュニケーションはあまりできなかった。
「どうなるんだろう……僕は、この先」
それでも人並みに体が大きくなったのは、奇跡に近かった。長い入院生活の中で、うっかり死にかねない病気をしたことだってあった。幼いながら、ああこれは今度こそ死ぬやつなんだな、と思ったこともあった。それでも今生きて、こうして初夏のじんわりとした暑さのなか外を出歩けているのは、周りの人たちが僕の無事をこれでもかと願ってくれたから。僕自身の生きたいという願いは、実はそれほど強くなかった。
「……っ」
「……?」
僕だって、仲のいい友達の一人や二人、作ってみたかった。たくさんは要らない。いつまでも一緒にご飯が食べられて、どうでもいいことで笑い合えるような友達を作ってみたい。でも僕の体調では、それは叶わない。だったら別にこれ以上生きる必要なんてない。小学校高学年とか中学生の年齢になって、変に深く考える癖がついてしまった頃の僕は、そんなことを考えていた。そんな時だった。とてもウマ娘とは思えないほど痩せこけて、とぼとぼと不安定な歩き方をする子に出会ったのは。
「(……僕と、一緒だ)」
僕がトイレに立って帰ってくる途中の廊下ですれ違っただけで、一言も話さなかったのに。なぜか彼女は自分と同じ境遇なんだ、と思ってしまった。死の淵をさまよって、げっそりして、視界も暗くて。目に光なんてものはなかった。
「(ウマ娘でも、こんな子がいるんだな)」
ウマ娘という存在は、昔から知っていた。別の世界から想いを受け継いでいると言われていて、レースにその青春を捧げる子が多い。もちろんレースとは無縁に、ごく普通の女の子として生きる子もいるけれど。テレビや街中で見るウマ娘は、みんなそれぞれに強い想いを抱えていて、画面越しにもそれが伝わってくる。僕がすれ違ったその子は、きっとそんな輝いた世界とは縁がなく、普通の人間と同じように生きているのだと思っていた。いかに生まれつきアスリートのように速く走れるウマ娘といえど、やはり人間のようにアスリートになる人とならない人で分かれるということは、理解していたから。
「マーベラス☆」
だから驚いた。それから何か月か経って、やっぱり体調のあまりよくない僕がMRI撮影をすると決まっていた日。一階の廊下を通ると、間違いなく前に見たのと同じ子がいた。どうやら退院するらしく、ご両親とおばあさんらしき人に囲まれて、お医者さんや看護師さんにあいさつをしていた。
その子に前に会ったことがなかったら、特に何も感じない光景だっただろう。でも前にすれ違っていたから、以前とは別人のようだと気づいた。顔がつやつやしていて、スリムではあったが痩せこけていない体型。何より足取りがしっかりしていて、今すぐあのとんでもないスピードで走り出しても違和感のない姿だった。黒くツヤツヤな髪が顔と同じくらいのサイズのツインテールにまとめられていて、一度見れば忘れない鮮やかな赤いリボンがくっついていた。目はきらきらと輝いて、情熱が宿っている、という言葉がぴったりだった。
「(何があったんだろう。何が、あの子をそんなに変えたんだろう)」
見違えた彼女の姿を見て、生きる希望を持てるほど僕は単純ではなかった。確かに彼女は元気になったかもしれないが、僕の病気まで治してくれたわけではない。相変わらずベッドの上で外を眺めている時間が大半だったし、前に工事が始まったショッピングモールはいつの間にか完成して、お客さんが来ていた。ウマ娘の回復力はすごいんだと分かったが、僕はウマ娘ではない、人間だ。
「ついにやった! マーベラスサンデー! ついにやった! 夢にまで見たG1制覇!」
いつしか彼女のことも忘れていた。それなのに、僕にもう一度思い出させる機会がやってきた。年中一定の気温で季節感のまるでない病院の中で、唯一と言っていい時間の流れを感じられるもの、それがテレビだ。ニュースや特集で蝉が鳴く映像が差し込まれるようになれば、それは夏が来る印。車椅子のおじいちゃんおばあちゃんが集うテレビコーナーを横切った時、偶然流れていたのが宝塚記念というレースだった。
「あ……」
優勝ウマ娘として大々的に映り込んでいたのは、あの時の彼女だった。マーベラスサンデー、と大きなテロップが出て、息を切らし喜びを全身で表現する彼女。あの時と変わらない髪型やリボンとともに、色鮮やかでエキゾチックな勝負服が目に焼きついた。
「マーベラス☆ みんなにも、届けられたかな★☆」
レース場の観客たちが沸き、全員が彼女の勝利を祝福していた。それがマーベラスなのだろうか?分からない、彼女が何をもってマーベラスと言っているのか。
「あんなに、元気がなかったのに」
現地で、そして画面の前でこのレースを見届けた人のうち、いったいどれだけが以前の彼女を知っているのだろうか?目に光がなかった頃の彼女を知っているだけに、僕は映像に釘付けになっていた。
「僕に……何ができるんだろう」
考えて、考えて、考えた。まるで彼女に影響されたかのように、僕の病気は少しずつ快方に向かっていった。どうやらウマ娘を一番そばで支える、一人目のファンと言えるトレーナーという職業があるらしい。応募の仕方を知った頃には、退院して普通の子たちと同じ学校生活が送れるくらいに体調がよくなっていた。別の世界から強い想いを受け継いでいるなら、彼女のように辛い境遇にあるウマ娘が他にいても何らおかしくない。そして、論理的には分からなくとも、感覚的に、物事を前向きに捉えられるようになった。それははっきりと、彼女のおかげだと言えた。
あれから五年の月日が流れた。
「……懐かしいな」
僕は歩く。初夏の風が吹く、緑生い茂る街路樹に急かされるように。集合時間の朝9時まで、あと10分少々といったところ。すでに目の前には、僕がかつて入院していた病院が見えていた。
僕はトレーナーにはなれなかった。ネガティブな理由ではない。トレーナーよりももっと、僕がやりたい、やるべきだと思えることが見つかったから。ウマ娘の診察もできる、医者という道を選んだ。トレーナーになるための勉強とどちらがより大変かは分からないが、何とか国家試験を受けられるところまで来た。その前に、病院での実習が待っている。
「……ん」
道幅は広いが、それほど車通りはなく、静かな時間が流れていた。職員用の出入口から入るため、正面入口とは反対の方から敷地内に足を踏み入れようとした、その時だった。こつ、こつ、とヒールの音が響いて、僕は思わず振り返った。いつもなら気に留めないその音が、なぜだかすごく気になったのだ。
「……!」
「ま……」
間違いなかった。マーベラスサンデー。すごく大人びて、こちらをどきりとさせる独特な雰囲気を持っているのに、勝負服を着ていないこと以外は僕の脳裏に焼きついた姿とそっくりそのままだった。
「アナタも、元気になったんだね☆」
「え、……え?」
「マーベラス、アナタも感じられた?★」
先手を取られた。あのインタビューと同じ声で、ぐいぐい迫ってくる。僕の認識が正しければ、彼女は少し年上のはずだ。もうレースは走っていないのだろうか?いや、その前に。彼女は僕のことを覚えているというのか?
「アタシのマーベラスはまだまだ続くよ☆ 見届けてね★」
僕にそれほど時間がないことを察したか、さっと僕に名刺を渡して、彼女はその場でくるりと一回転したのち、華麗に去っていった。名刺には、レース解説者と記されていた。
「マーベラス、サンデー……」
その名前をそっと口にすると、不思議と心臓のあたりがぽかぽかと暖かくなった気がした。