静香姉の研究室のドアを開けたのは見慣れた茶髪の少年、いやもう青年と言った方がいいか。俺の幼馴染であるルディだ。しかし、その表情は俺が今まで見たことのないものだった。
「…また会ったわね」
白い仮面をつけた静香姉にルディはしばし絶句したのち、
「ギャアアァァァァァ!」
叫び声を上げて逃げ出したのだ。
「お、おい、ルディ…」
俺が声をかけるも、まったく聞こえていないようだ。
「静香姉。もしかして、俺が見てないとき、ルディに何かした?」
「何もしてないわよ」
逃げるルディの足取りは酔っ払いのようにふらふらだ。シルフィ姉のところに行こうとしているのだろうか。
俺は彼を追いかけながら呟く。
「あ、分かった。トラウマだ」
「オルステッドのときのこと? あなたは全然平気じゃない」
「俺はまあ、静香姉の声だなって内心思ってたからね」
ルディからしてみれば、オルステッドが出てきて再び殺しにきたとか思えたのだろう。
彼が転がるように走っていたその先にいたのはシルフィ姉だ。それを見て落ち着くだろうと、安心して俺は足を緩めた。
「ふぅ、人の顔をみていきなり悲鳴を上げて逃げるなんて、失礼じゃない?」
静香姉がルディの肩を軽く叩いて言う。いや、その前につけてるその白い仮面外せよ。たぶん、ルディはそれにビビってんだよ。
そう言おうと思った瞬間、ルディが足を滑らせて転げ落ちた。
「ル、ルーデウス君!?」
シルフィ姉の叫び声が人気のない廊下で響く。見たところ目立った怪我はないみたいだが、念のため医務室にでも連れて行った方がいいだろう。
「…第一印象は最悪みたいだな。まあ、ある程度は予想してたけど、ここまでとは」
「レード…?」
「細かいことはルディが目を覚ましてから話す。とりあえず場所を変えようか」
俺の登場に不審がるシルフィ姉もルディをこのまま放置するわけにはいかないと思ったらしく、彼を担いだ。魔力付与品の効果もあるだろうが、華奢な見た目と裏腹に意外とうちの姉は力持ちらしい。
「…久しぶりね」
静香姉の挨拶にシルフィ姉は答えない。無視してるというわけではない。無言のフィッツだから、話せないというわけだ。
「あ、そうか。去年の夏に会ったことがあったっけ」
「ええ」
この2人、転移事件のこと抜きにしても相性があんまり良くなさそうだな。ルディを担いでいるシルフィ姉の表情は硬い。
(…これは、説明が難儀になりそうだな)
医務室に向かいながら俺は心の中で呟いた。
ルディが目を覚ましたのは、医務室に担ぎ込まれてから数分後だった。一応、シルフィ姉が治癒魔法をかけておいたが、別に目立った怪我もないようだ。
「あ、ルーデウス君、起きた? 心配したよ、いきなり上から転がり落ちてくるから」
「おはよう、ルディ」
「2人とも…。白い仮面の女に殺されるかと…」
こんなことになるから、仮面は外しておくべきだったのに…。とはいえ、それを言い忘れたのは俺のミスでもあるか。俺は静香姉が仮面をつけていてもいなくても違和感をそんなに感じない。
「うおぉっ…!」
ルディが静香姉を見て、呻き声をあげる。
「失礼ね…。なんでそんなに怯えているのよ。前に助けてあげたでしょ? ああ、あなた死んでたから覚えてないのね」
その理論で言うなら俺も死んでたんだけどな。やはり、あれはオルステッドが治癒したのだろう。しかし、あそこまでダメージを受けていた状態から回復できるとなると、神級かそれ以上の治癒魔法だ。
「お、オルス、オルステッドは!?」
「ここにはいないわ。彼は忙しいもの」
「落ち着けよ、ルディ。この先輩は見かけほど悪い人じゃない」
「見かけほどってどういうことよ、レード」
「2人は、知り合いなのか…?」
ルディが恐る恐る聞く。
「それに関しても後々説明するよ」
「そうね。まずは一つ目。これはわかる?」
静香姉が取り出したのは俺が1年前に見たものと同じものである。そこには『篠原秋人 黒木誠司』と書かれている。
『二つ目。この言葉はわかる?』
久しぶりに聞く日本語だ。もっとも2人きりで過ごすときは俺も静香姉と日本語で話したりもしていたが。あんまり喋っていないと、俺の方も上手く話せなくなるしな。
『三つ目。あなたはどっち?』
主語が抜け落ちすぎてて、なんのことなのかさっぱりだぞ、静香姉。
『どっちでもない。俺はこの名前を知らない』
『でも、ルディ。君はやっぱり日本人であることは確かってわけか』
『そうか。そういや、レードも俺と同じで…』
『そういうこと。まあ、ルディが異世界人であることはそんなに疑う必要もないけどな』
ここで、シルフィ姉が口を挟む。
「ねぇ、3人とも何語で話してるの?」
「私たち3人は偶然にも同郷ってだけよ」
「レードも…?」
「ああ。隠しててすまない」
一応謝るけど、そもそも言う必要もないし、普通なら聞いてくることもないだろうしな。
『それじゃ話を戻すけど。私は気づいたらいきなりこの世界に放り出されたのよ。つまり、トリップ。あなたやレードが転生なのだとしたら、私は転移してきたと言った方がいいわね』
『…なんで、俺が転生だと知ってるんだ』
その疑問に答えるのは俺だ。
『ルディのことは、俺が話したんだ。なぜ話したのかというとな。彼女には協力者が必要なんだ。できれば俺がそれになりたいところだが、ある人が言うにはルディじゃなきゃダメだそうだ』
『ある人って…』
『それは言えない』
まあ、オルステッドなのだが。無駄な火種を避けるためにもここは隠させてもらう。
『協力って言っても何をすればいいのか…』
戸惑うルディに静香姉が答える。
『私の名前はナナホシ・シズカ。あなたはルーデウス・グレイラットでいいわよね?』
『誰からってレードから聞いたのか…』
『ええ。元の世界に戻るために協力し合いましょう』
しかし、ルディは首を横に振って答える。
『嫌だ。俺は元の世界には帰りたくない』
『…そう』
静香姉は思ったよりがっかりはしていないが、ショックはそれなりにあったようだ。
『言ったろ? ルディはこの世界を愛してるから、元の世界には戻ろうと思わないだろうって』
『ええ。でも、面と向かって言われたらね…』
『…ちょっとまだ飲み込めてないんだが』
確かにルディはクエスチョンマークが溢れているような表情だ。そんな彼を前に静香姉はこの世界に来てから、今に至ることまでを話し始めた。俺が知っていることがほとんどのため省略するが、ちょくちょく補足を入れたりはした。
予定通り、ルディが静香姉の手伝いをする流れになりそうだ。ルディとしても転移事件に関しては分からないことだらけだし、渡りに船だろう。静香姉は指輪を取り出す。あれは確か魔道具だったはずだ。
「ところで、レードはナナホシさんとどんな関係が? やけに仲が良いように見えるが」
「なんていうかな…。いわゆる恋人というやつだ。ここからはフィッツ先輩にも聞こえるようにこっちの言葉で話すとしようか」
「そうね。例の事件の仕組みについてはわからないわ。けど、五年前、ちょうど私がこの世界に来た時と合致するわね」
「つまり?」
「私がこの世界に来たことで起こったもの。言い換えるなら、私が原因とも言えるわね」
ルディは半ば予想しているようだったため、特に取り乱すようなことはなかった。しかし、シルフィ姉は怒りの声を上げた。
「おまえがあぁぁぁ!」
シルフィ姉がこんな声を上げるのは見たことも聞いたこともない。怒りに任せて魔術を放とうとするのを防いだのは俺だ。
(魔剣流 水流堅守)
医務室で技を放つのはどうかと思うが、静香姉に怪我を負わせるわけにはいかない。
「なんで、レードが止めるんだ! お父さんもお母さんも、こいつがぁっ!」
魔術が効かないと見るや、俺と静香姉に殴りかかろうとする。それなりに鍛えてる俺はともかく、静香姉が喰らったら危ない。振り上げた腕を掴んだのはルディだ。
「落ち着いてください、フィッツ先輩!」
「これが、落ち着いていられるか! こいつが原因だって、今自分で言ったんだよ! どうしてそんな冷静でいられるんだよ! 君だって、君だって大変だったじゃないか!」
シルフィ姉の怒りはごもっともだ。俺だって相手が静香姉じゃなきゃ、同じように怒ったかもしれない。
「フィッツ先輩、彼女も来たくて来たわけではないんだ。つまり、被害者ってわけだ」
「被害者…。そうなの?」
肩で息をしながら聞き返す。
「ごめんなさい。ちょっと配慮に欠ける言い方だったわね。謝罪するわ」
「いや、いいよ、ボクの方こそ、いきなりごめん」
ここら辺でそろそろ話してもいいだろう。このままだと、何も言えないままお開きになりそうだ。
「さっきルディには恋人のようなものと言ったが、厳密にはそれだけじゃないんだ」
「というと?」
「俺は彼女の弟なんだよ」
ルディは不審そうに聞き返す。
「お前の姉はシルフィだろ? それとももしかして…」
「ああ。ルディが予想している通りだ。向こうの世界における、つまり死ぬ前の姉ってわけだ」
さあ、これを聞いたシルフィ姉がどうするか。俺は固唾を飲んで様子を見守った。
次はもっと早く書き終えられるようになりたいな…