足りない、そう自分の中でざわめく何かが訴える。餓え、或いは渇きのような衝動は留まるどころか日に日に強くなり、理性で抑えつけることも不快感を増す原因になっている。
識の律者はなんとなくこの衝動の原因に目星を付けていた。
自分の体を構成する崩壊エネルギーが不足している。
何が原因かは分からないが、自分の体から崩壊エネルギーが消失、或いは奪われている。それにより律者コアが肉体を維持するために他の場所から崩壊エネルギーを得ようとしているのだろう。
普段ならそこら辺にいる崩壊獣を倒して奪えばいい。だが今回は何かに妨害されているのか、崩壊獣を倒しても奪うことができなかった。それどころか、自分の権能も少しずつ弱っている自覚があり、事態はやや深刻になっている。
今のところ、この不調を誰かに知られたり聞かれたりはしていない。だが一人だけ、気づかれるのは時間の問題だった。
「はぁ…この識の律者様を弄んでいるのは一体誰なんですかね。必ず見つけ出して、死ぬのが救いに思えるような仕返しをしないと気が済まないじゃないですか」
誰かに言うわけでもなく、自分に言い聞かせて内側から溢れそうになる獣のような衝動を抑えつける。理性ではなく本能で暴れるのはそこら辺にいる崩壊獣と同じレベルにまで落ちると同義、そう考えている識の律者は不快感を露わにしながらその手で自分の黒い羽を握り潰す。
今居る場所は誰も知らない、一人になるには絶好の隠れ場の一つ。高いところから見える景色は太虚山には劣るが、それなりに気に入っている。
だがそこに、聞き慣れた歩調の足音と気配を感じ、識の律者は心の中で舌打ちをした。ある意味、今一番顔を合わせたくない人物が自分の隠れ場所に来たのだから。
「識、ここ最近何か隠していますね?」
「そうですね、例えば今居る此所とか」
やってきた人物、フカは何かを確信している口調で識の律者に問いかける。寄りにもよって、今このタイミングで。獣のような衝動が理性という檻を壊そうと暴れている。喉が激しく渇いているような、満たされない餓えが識の律者の中で荒れ狂う。
それを隠すように、いつものように見えるように虚勢を張る。実に自分らしくないことだとは思うが、今までに無い醜い不貞を見せるよりはマシだと言い聞かせる。
だがそんな虚勢も嘘も分かっているのか、フカは黙って識の律者へと歩み寄る。それに対し、識の律者は吼えるように叫んだ。
「っ、何の用で!朴念仁!」
「随分と貴女らしくない。──言い直しましょう、今の貴女に何が起きているのですか?」
逃がさない、そう言外に提示される。そしてフカが言葉を発する度に自分の中の獣が激しく暴れる。目の前の獲物を逃がすな、と識の律者の理性を揺さぶる。
ぐる、と無意識に唸り声が出る。その姿が、声が、匂いが、今の識の律者にとって毒であり、そして自分が抱える問題を解決する唯一だと理解した。
そのことに尚更、不快感が募る。目の前で分かったように澄まし顔をしていることも、心の底から識の律者を心配していることも伝わってくる。
「識」
「ぐ、ゥ…」
一瞬、権能が自分の制御を外れてフカを捕らえようとした。名前を呼ばれ、出たのは呻き声だけ。荒れ狂う獣を抑えつけようにも、どんどんその勢いは、餓えは、渇きは目の前の獲物を食らおうとする。
だめだ、今すぐ離れなければ。
ギリギリで留まっている今しか離れるチャンスはない。識の律者は今居る場所から跳んで逃げようとして、しかしその手をフカに掴まれそのまま地面へと叩きつけられた。
「ぐっ、何をっ…!」
「識、言いなさい!今の貴女は普通じゃない!」
地面に組み伏せられ、抵抗してもいつもより弱っている今の状態では抜け出すことはできず、問い詰められる。
握られた手首から伝わる温度が更に獣を暴れさせる。最早限界に近い理性が早く逃げ出せと言う。だがそんな残った理性すら纏めて薙ぐように、身を焦がすような欲望が識の律者の体を奪う。
権能が一瞬フカの意識を奪い、押さえつける力を弱めさせる。その隙に暴走した識の律者は拘束を振り払い、逆にフカを地面に叩きつける。
それでも、意地で体の主導権を奪い返した識の律者はフカを押さえつけ、その顔を見下ろしながら荒く呼吸を繰り返していた。
「っ、識──」
「黙って!っ、はッ…はっ…」
「…まさか、崩壊に?」
「っはは、それこそあり得ない。今の、これ、は又、別です…」
食らいつけと、奪えと獣が荒れ狂う。油断すればこのままフカに対して何をするのか分かったものではない。
識の律者はギリギリで耐えている状態だった。あわよくば、ここからフカが自分を気絶させるなりしてくれれば楽だが、きっと押し倒され組み伏せられてるこのお人好しはそんなことはしないだろう。
ひらり、と目の前に橙色の羽が舞う。フカが渡世の羽を使ったのだ。まずい、と思ったが手遅れだった。恐らく、今の自分が崩壊エネルギー不足に陥り、そして律者コアがそれを何とかしようと暴走一歩手前まで迫られているのに気づかれた。
何より、渡世の羽が識の律者に触れたことで崩壊エネルギーを得ようとその羽すら食らおうとしている。
ここまでバレれば、最早隠す意味は無い。ギリギリ留まっていた識の律者は自虐的に笑いながら、下に居るフカに話しかける。
「…先に言っておきますけど、私自身こんなのは初めてです。何が起こるかなんて知りませんよ」
「はぁ…ここまで悪化する前に相談をして欲しかったのですが」
それこそ無理な話だ、なんて言い返す前に識の律者は飢えた獣のようにフカの首筋へと噛みついた。
加減無しで噛みついたのか、フカは痛みに一瞬声を漏らす。識の律者は付けた傷口からフカの体の中にある崩壊エネルギーを容赦なく奪っていく。飢えた獣が待ち望んだソレに歓喜する。体の中に入ってくる心地よい感覚と、もっと寄越せと我慢できずに強欲に食らいつく。口の中に鉄の味が広がるが、普段なら不快な味ですら今は甘美な美酒のように感じ、酔いしれる。
噛みつかれた痛みと崩壊エネルギーを奪われる虚脱感を抱えながら、フカは識の律者をしっかりと見る。渡世の羽の侵入を防ぐこともできないほどに弱っていた識の律者に対してかなり心配していたが、フカから崩壊エネルギーを奪い食らっていることで少しずつ戻っている。
それを証明するように、識の律者の黒い羽が舞い始める。だが、まだ足りないのか識の律者は一度噛みついた場所から離れたと思えば、今度は少し下がって肩に噛みつく。
フーッ、フーッ、と荒く息をして逃がさないと言わんばかりに強い力で押さえつけてくる。先ほどとは違う場所の痛みに再度フカは呻く。だが、最初と違い多少理性が戻ったのか、フカが呻くとビクリと識の律者が一瞬押さえつける力を弱めた。それでもやはり崩壊エネルギーが足りていないのか、奪うことは止めない。
「逃げたりしませんから、気が済むまで持って行っていいですよ」
『──このバカ』
直接意識に語りかける余裕もできたらしい。どこかいつもより情けないような感情も混ざっているが、概ねいつものようにつっけんどんな言い草に戻ってきている。
先ほどよりも多く舞っている黒い羽と橙色に染まってきた空を見て、なんとなく綺麗だなとフカは思った。
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手を握ったり開いたりして、一通り元に戻ったことを確認した識の律者は後ろで壁にもたれて目を閉じているフカを見る。物理的に傷を与えた事による痛みと崩壊エネルギーを短時間でかなりの量を持って行かれたことで、一時的にフカは眠っていた。融合戦士であるためか、傷自体は既に塞がっているが、衣服には流れた血が付いている。
識の律者は自分が噛みついたであろう場所を、そっと指でなぞり、一人小さく呟く。
「・・・本当に馬鹿なお人好し」
一時的に理性が無くなり、容赦なく噛みついて崩壊エネルギーを奪ったのに、フカが怒ったのは結局今回の事を隠して黙っていたことだけだった。
識の律者は時々この朴念仁のことが本当に分からないと思う。元を辿ればフカから分かれて生まれた身だというのに、こうも変わり理解できない。しかしそれも悪くないと最近は思えるようになってきた。
眠ってるフカを背負い、識の律者は帰るべき場所へと帰った。