彼方に継ぐ道化師   作:転生したらアメリカザリガニだった

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外伝 第一章
一頁 少年と灰の魔女


 英雄譚――――後の世に伝わる物語の始まりは、その大抵が突拍子もないところから始まる。お姫様が悪者に攫われたとか、怪物に襲われて崖っぷちの最中、力に目覚めたとか、実は隠し子で王家の血筋を引いていたとか、なんとか。

 

 どれも荒唐無稽にみえてしまう筋書き。それであっても登場する英雄は苦難に抗い、助けを求める声に応えた。だからこそ手に取った者たちは英雄たちの偉業に感動し、惹かれるのだろう。

 

 絵本の物語に登場する主役。その存在に憧れて夢想する。

 

 なら自分の物語の始まりは一体、どんな出発なのだろうか?

 

 そんなことを考えながら、外はすっかり真夜中。ソファーに身を沈めて、傍らに祖父が英雄譚を読み聞かせてくれている。

 

「――アクロの丘、始まりの火。祈り続けていた男は炎剣を抜き、英雄を始めた」

 

 語り部である祖父の声。何度、聞いても胸を躍らせては夢想する光景。その場にいるかのように想像しては次の(ページ)を捲ってと祖父の手をさすり、催促をするのだが――――。

 

 残念なことに続きの台詞を祖父が口にすることはなかった。

 

「ベル、外に出るぞ」

「……えっ」

 

 突然だった。

 

 有無も言わせない口調で、孫と祖父の読書会を強制終了させたアルフィア。外は既に真っ暗闇の夜。月明り一つが注ぐばかりで真っ当な神経をしている者ならば、大人しく家で過ごすのが普通なのだが、彼女には通じない。

 

 我が道を歩く、我らの灰の魔女は非常識を具現化したような存在であり、静寂を愛する『女王』なのだ。

 

 反論はもとより、他者の常識や価値観などを汲み取るといった面倒はしない。現にベルの隣に座っていた祖父が「ぶっちゃけ明日でよくない?」と、口走るより早く神速の福音手刀(ゴスペル・チョップ)により祖父は床をぶち抜いて地面にめり込んでいる。

 

 幼いベルの知覚を置き去りにして放たれたソレ。物言わぬ祖父がイマジナリーと化して「信じられるかベル? 超短文詠唱より速いんだゾ!」などといった幻聴が聞こえたがスルーした。

 

 だって怖いから。

 

 その光景をやや離れた場所から、何とも言えない表情をして見守る人物が一人、大男のザルドである。

 

「……晩飯までには戻って来い、アルフィア」

「ベル次第だ」

 

 軽々とベルの首根っこを持ち上げ、連想するのは哀れな子兎。そのもう片方には奪い取ったとある英雄譚が一冊。訳もわからぬ状況に混乱するベルを無視して、アルフィアとザルドが何やら会話をしている。

 

 いつものようにアルフィアが一方的に言い放ち、言い終えて会話と云えぬやり取りが終了。

 

 そのまま玄関口に立ち、アルフィアの後ろ姿を一瞥するザルド。その背中からはありありと「文句は無いな」の文字がハッキリと見えた。

 

 無言で肯定するかのように視線を逸らすザルド。目の端に映る好々爺の無惨な姿と、多分こんな姿で帰って来るのだろう少年に心底、胃痛を堪えるかのような顔して沈黙。

 

 しかし、今日の今日で引っ張り出すのはあまりにも酷なのでは? だが、時すでに遅し。二人の姿はなく、残されたザルドと物言わぬ祖父。仕方ないとばかりに、ため息を吐いて地面にめり込んだ好々爺を引き抜くことにした。

 

 

 

 

 夜の森の中、風が吹くたび木々を鳴らす音が聞こえる。迷うことなく森を縫うように歩くアルフィア。もう随分と見慣れたように瞼を閉じたまま自然体で歩を進めていく。

 

「…………アルフィアお義母さん、どこにいくの?」

 

 そう話しかけたのはベル。何も聞かされぬまま連れ出された子兎はざわつく茂み一つ一つに怪物の影を幻視して恐怖。既にぐったりとした哀れなベルは目的地も分からぬまま、大人しく引きずられて運ばれている。

 

 ベルの問いにアルフィアは歩みを止めず、瞼を閉じたまま、しばらく時間を置いた。それから、ゆっくりと唇を開いた。

 

「モンスターの巣穴だ。最初の限界を超えるのに丁度いい連中を見つけた」

「今から!?」

「当然だろ、私の前であんな生意気なことをほざいたのだからな。それとも、舌の根も乾かぬ内から逃げるのか。やはり、その赤い目を……」

「ひえっ、や、やりますっ!」

「よろしい」

 

 アルフィアの閉じられた瞼が薄っすらと開かれる。同時に怖気を感じる寒さが突き抜けたベルは即答してなんとか難を逃れた。危うく本当に、くりぬかれるのではないかと怯えた。

 

 どういうわけか逃げるという単語はアルフィアの中でベルの父親と結び付いているらしい。もうこうなっては一生、自分の父親のことを尋ねることはできないだろうなと思いつつアルフィアを見上げる。

 

 あの黄金色に染まる麦畑。黄昏色の世界で交わした『約束』の初日。明日の朝日を拝むより早く訪れた最初の試練である。小さい体を奮い立たせて勇気を呼び起こす。

 

 そして。

 

 「最初の試練は怪物の巣穴に放り込むか、それとも川底の岩に体をくくりつけるか。どっちが良いかとザルドと相談したのだがな」という呟きが思わず頭に落ちてきて、ベルの脳内に警告を灯しながら訂正。

 

(おじいちゃん、ザルドおじさん、僕にげたいっ!!)

 

 物言わぬ祖父と見てみぬフリをするしかないザルドの姿が鮮明に浮かび上がる。ぶるぶると震えながら人生の終着点に到着した。

 

「ここで待っていろ。すぐに戻る」

 

 言い終わると地面にポンと置かれたベル。そのまま振り返ることなくアルフィアは単身、目の前の洞窟に進んでいった。あっと言う間に闇の中に吸い込まれる彼女に心配の言葉を言う間もなく、仕方なく待つしかないベル。

 

 ややあって当然というべきか。五体満足無傷で戻ってきたアルフィアが暗闇が広がる洞窟に細い指を向けて一言(ワン・ワード)

 

「行ってこい」

「えっ」

「あまり失望させるなデコピンをするぞ」

「それはいやだ!」

「読み聞かせていた……あの糞爺が書いた絵本。あれはベルのお気に入りだったな」

「う、うん……あれ? アルフィアお義母さん、何処に――――」

 

 祖父から奪い取った本が気づけば消えている。確か、持ったまま一緒に洞窟に……つまり。

 

「あの洞窟の最奥に置いてきた。モンスターの玩具にされたくなければ取り返してこい」

「……ひぇ」

 

 ベル・クラネル七歳。初めてのトラウマが生まれる瞬間、つまり絶句。

 

 最初の一歩に数分、すっぽりと暗闇に覆われるまでに気を失いそうになり後ろ足。振り返ればラスボスが静かに佇んでいる。しかし、瞼は薄っすらと若干、いや確かに怒りの色が開かれている。

 

 生きた心地がしないまま、ベルは自分の手が震え出さないようにするのが精一杯だった。

 

 それでも、胸に誓った『約束』を裏切るわけにはいかないと決起して、遂に突入。

 

 恐ろしいモンスターの巣穴に突撃して五分ピッタリ。

 

 悲鳴が響いた。

 

「ほぁああああああああっ!?」

 

 幼きベル、迫真の絶叫。勿論で手ぶらでの帰還。

 

「やり直してこい」

 

 無慈悲無常。静寂の『女王』が告げるのはやはり、一言のみ。

 

「ゴブリンがいましたっ!!」

「当然だろう、モンスターの巣穴と言ったはずだ」

 

 生命を脅かす存在との遭遇。口から心臓が飛び出る勢いで、逃げ帰ったベルにあまりにもあんまりな言葉で一刀両断。

 

 項垂れても、どうしようもなく再チャレンジ。

 

 またしてもピッタリ五分後。

 

「なぐられました!!」

 

 出会い頭、互いに暗闇の中でごっつんこしたベルとゴブリン。当然ながら、洞窟内で両者の叫び声がこだましたのは言うまでもなく。「ぎゃああああああ!?」と『グェエエエエエエ!?』が奇跡のコラボレーション。そして、お前マジでふざけるなよとばかりにゴブリン、怒りのグーパン。子兎は鼻血を垂らして逃走、今に至る。

 

「当たり前だろう、相手はモンスターだ。やり返しこい」

「むりです!」

 

 少年のむせぶ声。だが、にべもない。

 

「もう一度だ」

「ひぇ……」

 

 

 

 

「――――今頃、あの父親(バカ)のように逃げ回っている頃か」

 

 そんじょ其処らとは次元がひと味違う幼児虐待。その『洗礼』の場にいないが、というより居合わせたくないのだが、きっとそういう目に遭っているだろうと悟ってしまうザルドは遠い目をしながら思いにふける。

 

 全くもって、モンスターのことなど配慮する余地はない。それでも幾らかの同情の念は抱くだろうか。辺鄙な田舎の農村部。その外れにある捨てられた坑道――――かつては鉱物を求めて、鉱床に沿って掘り進められた残骸。そこに住まうモンスター達、村人の話では巣くっているのはゴブリンだったか。

 

 ある種の平穏があった場所に突然やって来た才禍の怪物(ラスボス)。奥歯をガタガタ震わせて身震いしながらも声だけは出さず、じっと身をひそめるしかないゴブリン共の姿が目に浮かぶ。

 

 それこそ駆け出しの冒険者がダンジョンの上層で猛牛(ミノタウロス)と遭遇してしまう位のふざけた遭遇(エンカウント)

 

 埒外の異常事態(イレギュラー)

 

 その後、やって来るのは打って変わり、か弱き侵入者。

 

 本来であれば本能の赴くままに襲いかかるのは明白だ。だが、それも無理だろうなとザルドは酷く痛感している。過去、何度も味わったからこそ、ゴブリンなんかよりも、わかってしまうのだ。

 

 アルフィア本人は口にはしないだろうし、当然ベルも気づかないだろうが、きっと間違いなくアルフィアは神経を研ぎ澄まして、ベルの一挙手一投足を捉えている。

 

 外からの――――アルフィアの重圧(プレッシャー)にゴブリンが壊れて、仮に一線を越えようものならば行動に出る前に灰に帰るだけだ。

 

 そんな馬鹿げた非常識な光景を過らせながら、それが結局のところ一番安全が確保されているという事実。

 

 ある意味で、モンスターの調教(テイム)

 

 『静寂』を誰よりも愛し、『才能の権化』にして『才禍の怪物』と恐れられた彼女だからこその芸当。その背に刻まれた神血(イコル)女神(ヘラ)の系譜を思えばこそ、色々と苦い思い出が蘇る。

 

 主に、主神であるゼウスが面倒を持ち帰って……。なんにせよ、己の派閥、その眷族が『問題』を起こし、ヘラの眷族達が瞳のハイライトを闇に沈め『狩り』をしていた。

 

 正直、今になって振り返ってもヘラの眷族は怖い。あの女共の言葉は咀嚼出来ても言っている意味が理解出来なかったし、たまに鮮明に夢に出てきて襲ってくる。

 

 つまりだ、その恐ろしい出来事。それを今、体験している。

 

 例えそれが数倍に希釈して薄めたとしてもベルにとっては紛れもなく、地獄のような何かということ。

 

 ――――だがそれでもと。

 

「吠えたその口で理不尽を喰らってみせろ」

 

 落とした独白に返事はない。

 

 アルフィアから聞かせられたベルの『約束』はザルドの胸を確かに貫いた。さながら稲光のように落ちた、幼い子の英雄宣言。よりにもよって自分達にその言葉を浴びせたというのならば仕方がないのだ。

 

 どれだけ非難されようと、理解されずとも、誰に何と言われようとも、血と想いの『継承』を託さねばならない。受け継いでくれることを信じて託すしかない。

 

 あの小さい背になんてものを背負わせようとしているのかと理性が批難する。

 

 だが、それでもと……そう思わずにはいられない。

 

 『終末の時計』を押し留めるための『門番』を放棄し、遅らせるための『悪』すら拒んだ己の選択。今更、後悔はない。『超毒』という名の泥沼に沈んでいくのを自覚しながら、穏やかな日常に憂いはなく。ただ墓標のような罪悪感が底にあった。

 

 それは醜い我儘(エゴ)

 

 自嘲染み笑みを浮かべ、格好を崩す。

 

 己の分をわきまえず、不相応にも宣言した少年の『約束』はどうしようもなく『未来』を感じさせたのだ。

 

 その横顔は疲れ果てた男の表情ではない。武人は夢見る。

 

 幼い未完の背に担う、次なる『英雄の時代』の到来を。

 

 父親譲りの逃げ足で窮地を乗り越え、まだ見えぬ次に繋げてくれるかもしれない。

 

 余人では計り知れない『愛』で、この血と想いの継承を受け継いでくれることを信じて。

 

「……なら、今日はより一層、腕を奮ってみるか」

 

 最初の『洗礼』など序の口。これから先、見舞うだろう多くの苦難と挫折を祝福して、より強くなってくれることを願いながら、ザルドは激励を送った。

 

 

 

 

 

 

『――――ギシャアッ!!』

「でえっ!?」

 

 そんな激励など露知らず、ベル・クラネル、ゴブリンとの何度目になるかの遭遇とグーパン。

 

 挑む回数が両手を越えた辺りで、すっかりと夜目が利くようになってしまった。その代償に無事なところなど皆無とばかりにズタボロ。それでも手探り状態のままだった最初に比べて状況は少しずつ前進。

 

 怪物の巣穴は、かつては坑道。その名残か道は分かりやすい直通路。所々に窪みや縦穴などがあるがそれも何か所あるか、何処に身を忍ばせれば無事にやり過ごせるかなど、どつかれにどつかれて覚えてしまった。

 

 どういうわけか出口に向かって走るとゴブリンはそれ以上、襲ってくることはなかった。

 

 ……なんで、食べられないのだろう? 

 

 そんな疑問を抱く余裕すらなく、言われた通りに最奥を目指して進む。コソコソと隠れながら。

 

 今回はいい所までいった。実際、最長記録更新である。

 

 硬い岩盤に閉ざされた行き止まり、つまりゴール。そこには宝物の絵本――――大好きな英雄譚が確かにあった。

 

 ホッとした瞬間も束の間、そこに居て欲しくないのにゴブリンが一匹。

 

 此処までの道のりは大変だった。殴る蹴るに襲われ、泣きべそを垂らして戻れば、無慈悲にやり直しと言われる。やり返す自信もなく、考えに考えてベルがしたのは隠れ潜むこと。

 

 気配、視線を感じれば貨車(トロッコ)や窪みに身を忍ばせてやり過ごす。それでも駄目な時は転がっている鉱石の残骸、あるいは壊れた工具を拾って逆方向に投げる。そうやってなんとか、凌いできた。

 

 苦難を乗り越えた先にあったのは又しても苦難。

 

 物影に隠れながらゴブリンが他所に行くの待ち数分。遂には焦れて、小石などを放っても反応はなく行き止まりに置かれた絵本に注目し続ける謎のゴブリン。

 

 終いには絵本に手を伸ばして何やら弄り回すゴブリン。これにはちょっとカチンときたベル。頭に過るのは『やり返せ』の言葉。

 

 少年、決起。

 

 果敢に真っ直ぐ走る。無防備に背後を晒したままのゴブリンめがけて跳躍。

 

「――――せいや!」

『ゲェエエエエ!?』

 

 かけ声と共に繰り出される飛び蹴り。見事、土手っ腹にクリティカルヒット。

 

 体をくの字に折って転げまわるゴブリンに勝利の二文字が高らかに浮かぶ。落ちた大事な絵本を拾い上げて痛んでないかも確認。遂に成しえた達成感に浸ってしまうベル。

 

 肩をグッと引っ張られるまで存在を忘れる程に浮かれに浮かれていた。

 

 子兎が絶叫するまで三秒。

 

 結果、ベルは何度目になるかの全力逃走。

 

 具体的にはブチギレたゴブリンに頬をグーパン。ついでに絵本を奪われそうになり涙目。ぬかるんだ足場に引っ張られて姿勢を崩し、奇跡の頭突きをゴブリンに食らわす。

 

『プギィ!?』

 

 そんな怪物の悲痛を無視して、転げ落ちた絵本をキャッチ。

 

 少年の栄光は実に短かった。回想終了。

 

『ギィヤアアアア!!』

「どうしてまだ、追いかけてくるのー!!」

 

 ゴブリンが小太りした緑色の体を揺らして、叫び声が背中に突き刺さる。敵意がビンビンにこもった視線が怖い。見た目の区別など出来ようもないが他の――――今までのゴブリンは逃げたら追いかけなかったのに、何故かしつこく追い回してくる。

 

 崩れた足場にもつれて転倒、岩肌にぶつかり擦り傷、衝撃による落石に襲われ、頭を叩かれること何度も何度も……。

 

 だが、それも外の明かりが飛び込む頃には後ろの気配も失せていた。暗闇から抜け出す瞬間、ゴブリンの舌打ちがこだまして届いたような気がした。

 

 息も絶え絶えに、ボロボロになって帰還。

 

「よくやった」

 

 ズタボロに仕上がったベルを両の腕で受け止めて、短い称賛。

 

 ベルの深紅(ルベライト)の双眸に星々と月明りが降りそそぐ。夜空だというのに、その輝きが世界に称賛されているようで眩しかった。

 

 大事な物を取り戻すまで,ずっと暗い場所にいたせいで目の焦点がかみ合わない。ぼやける視界の向こうで、自身を抱く彼女の顔がよく見えなかった。

 

 それでも見えた気がした。

 

 口に出すのは少し怖かったから言えなかったが。開かれた瞼、異なる色を宿す美しい双眸ととも浮かぶ微笑。ほんの僅かでも『希望』を示すことができたのだろうかと思え、誇らしかった。

 

「【魂の平静(アタラクシア)】……さて、頃合いか。ベル、よく見ておけ」

 

 抱かれたまま、どれだけそうしていただろう。全身の傷が痛みを知らせるに充分な時間が過ぎた頃、アルフィアは変わらず自然な口調でベルを抱き寄せた。

 

 僅かな羞恥と傷の痛みに身をよじらせながら、言われるがまま声を飛ばした先に目を向ける。あるのは先程まで悪戦苦闘した恐ろしい、怪物の巣穴。

 

「アルフィアお義母さん……?」

 

 暗闇ばかりが広がる穴の先。一体、何を見ればいいのかと少しだけ顔を上に向けようとした瞬間。途方もなく巨大な『何か』に呑み込まれるような錯覚を覚えた。

 

 少年の記憶の扉が叩かれる。

 

 昔に一度だけ、感じたことがある経験が泡沫のように浮かび上がってくる。

 

 前触れのように捲られた記憶の頁。まだ、二人と出会って間もない頃の思い出。

 

 ある日の夜。

 

 前触れもなく天変地異が田舎の農村を襲った。猛烈な雷雨を伴う嵐の中、家に閉じこもっていたベルが目撃したのは恐ろしい『長過ぎる何か』。灰色の雲の切れ間から姿を現したソレは高熱に冒された時に見る悪夢のような存在としか言いようがなく、とても不気味な怪物だった。

 

 不用心にも窓の向こう側から覗き見ていたベルは不気味な怪物の眼に捉えられ――――襲われた。甲高い音とピカっと何かが光ったのを感じて気づいたら家が丸々、吹き飛んでいた。

 

 気づいたら、今のようにアルフィアに抱かれていたのを何故か、今になって思い出す。

 

「!? え、浮いてる!!」

 

 ぐっと身を寄せる腕の力に気を戻して、はっとした時にはどういうわけかベルはアルフィアと一緒に宙に浮いていた。星の輝きのような光の粒をまき散らしながら、もう何が起きているのか、起きようとしているのか、理解できないまま事の成り行きに身を委ねるしかない。

 

 それが、ただただ発露して漏れた『魔力』だけで浮いている。という、ちょっと何を言っているのか分からない不可思議現象だというのをベルはまだ、理解できないまま――――。

 

 装填されるは超ド級の魔力。

 

 今まで散々、聞くに堪えない雑音を聞かせ我が身に我慢を強いらせた復讐。大事な妹の残した子を――――ベルを傷つけた報復。

 

 超絶理不尽な『女王』の如く、下される判決は当然ながら決まりきっている。

 

「【福音(ゴスペル)】――――【サタナス・ヴェーリオン】」

 

 氷点下の声音で彼女が破壊の真名を解き放った瞬間。ベルの瞳に映る景色は破壊の渦に呑まれた。

 

 眼前で何かが轟き、途轍もなく重く、濃縮された塊がドン、と大きく衝撃を刻む。

 

 ベルには何が目の前で起きたのか全く分からなかった。ただ、感じた。

 

 空から落ちた雨粒、水滴の一粒が大海に落ちた瞬間、その広大さを感じ取るかのように、容易く『ベル・クラネル』という個人を取り込んでしまうような衝撃。打ち鳴らした破壊の音色は荘厳な鐘の音の響き。

 

 巨大で不可視の鉄槌をこれでもかと振り落とした光景。怪物の巣穴は勿論、その周りにあった木々、更には向こう側にあった山まで吹き飛ばしてしまった。

 

 ゴブリンの――――『魔石』や灰。死骸の欠片、その一粒に至るまで存在を許さないとばかりに極音の洪水で押し流し消滅。

 

 空間そのものが軋みを上げて悲鳴。ゴオンッ、と津波のような衝撃を突き抜けていき、静かになった。あらゆる音を消し去ったような静謐な時。

 

雑音(モンスター)とは、このように倒す。わかったな、ベル」

 

 瞼を閉じて、一家言ありと自信ありげに。そう言うアルフィアの言葉をどう受け止めるべきか、幼心に苦心しつつ、ぶんぶんと顔を振るしかなく、許容限界(キャパオーバー)のベルは軽い眩暈と微妙な吐き気に襲われながら徐々に視界が真っ暗に染まっていくのを感じた。

 

「ふむ……【静寂の園(シレンティウム・エデン)】を纏わせたが、流石に此処までか」

 

 『静寂』の本領発揮、ベルの前で披露するのはこれで二度目。想像絶する力の炸裂、それを間近に見て気を失ってしまったと一瞥して頷くアルフィア。雑音を滅するのに解除した付与魔法(エンチャント)をベルに施し、自身の放つ一撃から保護しようとしたが、先に心の方が根を上げてしまった。

 

 やはり、どうにも修行――――限界の見極めを定めるのは難しい。

 

 瞼は閉じたまま、気絶したベルの髪に手を置いては困ったような表情をする。ザルドから聞いた怪物の巣穴を小手調べついでに『洗礼』の場として利用したが、如何せん……不得手だ。

 

 昔からそうだった。心身を鍛える類の修行に身を投じたことなど皆無だったからか、匙加減がわからない。

 

 アルフィアの背中では、まだ幼いベルが疲れ切って寝息を立てている。

 

 『英雄』という言葉の意味、その重く圧し掛かる重圧に耐えられるようベルを鍛える。生と死を繰り返して、超克した先に――――充分にベルが成長した先で、折れないようにしなければならない。

 

 だが、英雄の階段を上がる前に折れてしまっては意味がない。

 

「……っ」

 

 ふらり、と帰路の途中でアルフィアはよろめいた。

 

 らしくない感情に足をすくわれて、歩みが止まる。こみ上げる物を堪えて、鉄の味が広がる。身を蝕む宿痾(しゅくあ)に息が苦しくなり、頭は鈍くなる。それでも最後に脳裏に過るのは、黄昏色に染まる麦畑の一幕。

 

 あのとき伝わった想い。誇らしげな笑みを浮かべて、少年は宣言した。

 

 あのいけ好かない好々爺(ゼウス)とザルドには口が裂けても言わないが、自失して立ち尽くした。

 

「感傷なんて、らしくもないな……メーテリア」

 

 やれやれ、とアルフィアは首をすくめて後悔の面影を消し去った。浮かぶのは優しい苦笑。

 

 夜空に輝く星々と月の下、寝息を立てる子兎を抱えたまま『静寂』の女性は静かに笑っていた。

 

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