ベル・クラネルの朝は早い。小さな田舎村で育ち、農民の子であるベルにとって、朝日が昇るよりも早く目が覚めるのは常識である。祖父と一緒に農作をして、村の人に頼まれた仕事をやったりするのが日常であった。
唯一の肉親であった祖父との生活。三年前に出会ったアルフィアとザルドが家族に加わって、恐ろしくも賑やかで楽しい日々を送っていた。けして寂しさを抱くことのない、ベルにとって穏やかな日常の日々。
それが一変した。他でもないベル自身が発した宣言によって。
あの日、黄金色の麦畑で、黄昏色に染まる世界の真ん中で、ベルはアルフィアに約束してしまった。『最後の英雄』になると。その宣言から半月ほどの時が過ぎている。最初の『洗礼』であった怪物の巣穴を乗り越えて、今日もベル・クラネルは『英雄』となるべく一日を始めた。
「はぁっ……はっ……!」
「どうしたベル! 昨日より遅れているぞッ!」
「────っ!!」
薄っすらと空が青みを帯び始めた頃。ベルとザルドは村の外れにある丘陵にて、基礎作りの
なだらかな高原、小さな丘が連なっている丘陵地帯。草木が生い茂っている自然の景色にのほほんとした感想を抱く余裕なんてある筈もなく、ベルはぶっ倒れそうになる寸前まで追い込まれている。
なだらかとは聞こえがいいが、その実。小さな丘が断続的に続いていることから絶えることなく、
今、行っているメニューは単純な走り込み。
付け加えるならば、監督役であるザルドが許すまで延々と続く、終わりの見えない猛特訓。その上で、ベルの腰には紐が括りつけられており、その先には少年の体重を優に超えている岩の塊が縛られている。
ゴロゴロと引きずりながら地面に線を引いていく往復作業。岩の重さに負ければベルは転がり、岩より遅ければ襲いかかって来る。そんな異次元の児童虐待的なナニカ。
ある村人がたまたま、この惨事を見てしまったときは普通にドン引きしていた。
そんな地獄の猛特訓が終わったのは昼前。
精も根も尽き果てたとばかりにぶっ倒れたベルに声をかけるザルド。体を起こされ、差し出されたものを手に取る。透明な容器に詰まった液体────濃い青色に染まる飲み物をゴクゴクと飲み干して復活。
ほのかに広がる薬草の匂いと後に残る甘さ。最初こそ苦手意識があったベルもすっかりと慣れてしまう程度には常飲している
「もう一本、飲むか?」
「ううん、もう大丈夫!」
「なら、少し早いが昼飯にしよう。今日はお前の好物ばかりだ、好きなだけ食え」
持参した
作ってくれたザルドにお礼を言って、簡素な食卓が広がる。「いただきます」と、感謝してサンドイッチを掴み取り、かぶりつく。
塩味と香辛料の香りとともに、口の中で肉汁が広がる。
どれも一つとして、同じ味はなく、どれも旨かった。ザルドの手料理を食べるたび、なにかもっと上手い感想を口にしたいベルだったが、幼いベルにまだ難しく、ただただ旨いことだけを伝えるのが限界。それでもその感想をザルドは満足気に笑みで返した。
「今日は一度も怪我をしなかったな」
二人して丘の向こう側にある風景を眺めていたときだ。
ふと、ザルドが何気なく言葉を発した。確かに特訓を開始してから生傷が絶えることなんてなかったと思い返すベル。初日は歩幅程にしか進まず、苦笑いだったザルドとベル。それから数日、動かすなんておこがましい位に惨めに引きずりながら走り込みをして大怪我を連発。
坂道では岩に押しつぶされそうになったり、登り道では岩の重さに耐えきれず、ずり落ちたりなど散々だった。
あの、飲めば一瞬で傷が治る飲み物────座学で習った
「まぁ、実を言うとなベル。一度、お前が根を上げて逃げ出すまで追い詰めてやろうと思っていた」
「……えっ」
「水練だと言って水底に沈めたときも、コボルトをけしかけたときもそうだ。だというのにお前という奴は、中々どうして諦めない」
────だから、今日は限界まで追い詰めた。
ザルドと出会って初めて、ベルがみた大男の表情。その瞼をかけて走る傷跡が残る相貌に重なるように深く刻まれた傷跡を幻視したような気がした。
丘に風が吹いた。
「……おじいちゃんが言っていたんだ」
風に吹かれながらベルは沈黙を破った。続いて言葉にするのは祖父の言葉。
『諦めるな最初はそれだけでいい』
その言葉を祖父から聞かされたのは、怪物の巣穴に放り込まれた後のこと。
意識を戻し、食事を終え、取り返した英雄譚の続きを頼んだときだ。ふと、気になって朗読の最中に訊ねた。『英雄』となるにはどうすればいいのかと。絵本の中で、登場する英雄みたいな存在になるには何が必要不可欠なのか、思わずベルは祖父に聞いた。
『誰もが英雄になる資格を持っておる。だが、誰もが諦めないことを諦めるようになる』
英雄の資格。祖父は己の想いをベルに言い聞かせた。
英雄の第一歩とは『諦めない』こと。最初はそれだけでいいと。だからこそ、諦めずにこの絵本を取り返したお前は、間違いなく最初の一歩を踏みしめたんだと祖父は断言してくれた。
『英雄とは
そう締めくくって教えてくれた。自分は間違っていないと道標を指示して。
「ほう、たまにはらしいことをいう」
実に、あの好々爺らしい言い草だとザルドは思わずにはいられなかった。そして、まだ幼い身でありながらも既に答えを持っているのが嬉しかった。
それでも性分なのだろう、ザルドは問わずにはいられなかった。
「……それで、投げ出さなかったと」
「僕は『約束』を諦めたくない。諦めなかった、その先で絶対なるんだ!」
「それは?」
「僕が『最後の英雄』になる! だから……ザルドお父さんっ」
「────ふっ」
気づけばベルはザルドの前に立っていた。真っ直ぐに
我慢の限界だった。
幼い少年が吠えた夢は途方もなく険しい道の先にあるものだ。それをこうも堂々と言宣された上、追撃とばかりに初めて言われる台詞がトドメとなった。ザルドという大男の口端を持ち上げて笑みを吹き出す。
「く、ははは、ふははははっ!!」
轟音を思わせるほどの
「……生意気な小僧め」
ザルドも認めるしかなった。面と向かって言われるとなるほど、アルフィアの気持ちを理解してしまう自分がいる。些か、不本意ではあるがあの馬鹿の代わりに父親なんて言葉で呼ばれるのも、存外に悪くはない。
口が裂けてもアルフィア本人がいる前では呼んで欲しくないが。
「いいだろう、もう手加減はなしだベル。これからは容赦なく、お前に泥の味を教えてやる」
「今より地獄っ!?」
「当然だ、朝から晩まで泣こうが喚こうが地獄の猛特訓だ。そうだな……そろそろ、アルフィアも用意が出来ている頃だろう、実戦形式なのが一番、身につく」
「……うわぁ」
「そんな顔をするなベル。これでも俺やアルフィア達の仲間が健在だった頃よりは何倍もマシだ」
そんな言葉に引きつった表情のベル。しかし、間違いなく偽りのない事実だ。もし、仮にベルが自分たちの【ファミリア】が健在だった頃に生まれ、尚且つ彼
絶対、団長であるマキシムは新たな雛の誕生を喜びつつも咆哮ひとつでベルを押し潰そうとするし、他の連中も悪ノリしてちょっかいをかけるに決まっている。更に酷いのは向こうのヤバい【ファミリア】の連中だ。
【女帝】なんかは歳の差を無視して将来の旦那候補(強制)宣言するだろうし、他の女連中も似たような感じで襲って来そうだ。ダンジョンでも地上も関係なしで。
そもそも、ベルの所属先を巡って爆発して勃発。絶対、
愉快神も便乗して野次を飛ばしてくるだろうし、散々に戦り合った【ファミリア】連中もここぞとばかりに嫌がらせをしてくるに違いない。
うむ、普通にベルが原因でオラリオが大混乱するのが火を見るよりも明らかだ。
あの
「まぁ、なんだ。良かったなベル」
「……?」
過去を懐かしみながら、ザルドが重々しく言葉を吐く。これ以上ない苛烈な特訓に、なにを感謝すべきなのか理解できるわけもなくベルは困惑するばかり。そんな小さな背を叩いて勇気づける。
「ともかく明日に向けて、準備もある。今日の特訓は終わりだが……そうだな」
ザルドはベルから視線を移して、畑のある方に顔を向けた。細めた視線の先で何かを捉えたのか、呆れたとばかりに茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「そろそろ、畑仕事に行かないと夜の座学が遅れる。どうやらサボっているらしい、手伝いに行ってやれベル」
「うん、分かった。おじいちゃんの手伝いに行って来る」
重りとなっている岩の塊を外して、そのままベルは一直線に向かって畑の方に消えていった。
「────上層に出現するモンスターの対処としては、まぁ及第点か」
夕食も済ませた、夜遅く。
小さなが我が家の一室。ザルドとベル、机を挟んで積み上がっている本や羊皮紙の束は全て、モンスターに関する資料。モンスターと一口に言っても、その種族の多種性はあまりに幅が広い。よって、最果てにあるといわれる迷宮都市を倣うことにした。
ダンジョン。その領域を階層ごとに区分して、そこに出現するモンスターを勉強の範囲内にし、ザルドが徹底指導。朝は体を鍛え、夜は脳を鍛える。
モンスターの名称に特徴的な外見。その能力から、特定条件下を想定した戦闘における対処法等々と。入手できるドロップアイテムも含めて、幼いベルの頭の中にこれでもかとぶち込んでいく猛烈
その結果はまずまずであるとザルドは称えた。
アルフィアが、どこぞの優男をパシりに使い倒して手に入れさせてきた教科書類。そのどれもが、オラリオ産────ダンジョンの管理運営をする
冒険者さながらの問題に挑み、学んで日も浅いというのにここまで食い下がるのだから、大したものだと感心する。
座学の教導など向いていないと、早々にアルフィアから投げられたときはどうしたものかと思ったものだが、存外に悪くない。慣れないながらにも過去の経験を振り返り、作成した模擬
「明日も早い、そろそろ体を休めておけ。ああ、それと明日の朝練はアルフィアとだから寝坊なんてするなよ」
「え、お義母さんが!?」
驚くベルに短く頷くザルド。
最初の『洗礼』────試練を乗り越えて以降、用事があるといってここ暫く、顔をみせることはなかったのがアルフィアだ。朝の話と合わさってベルの頭の中では既に二度目の『洗礼』が過っているのが、手に取るように分かる。
ざわつきながら、不安混じりの視線を投げつけるベルを軽く、からかっては部屋をあとにした。
翌日。
「遅い」
「ごめんなさい、アルフィアお義母さん────ッ!?」
緊張のあまり寝れず、そのまま朝を迎えたベル。それでも時間通りに向かった鍛錬の場である丘の上には既にアルフィアが待っていた。
開口一番、頭に一発重いのを見舞って眩暈。
布にくるまれたナニカに叩かれて、そのままベルの胸元まで押し付けられる。訳もわからず受け止めてアルフィアの方を見上げる。
「前から強請っていた練習用の剣だ。今日から剣の作法を教えてやろう」
「!!」
アルフィアの一言で眠気と痛みが吹き飛ぶ。基礎作りの鍛錬とはいえ、やはりベルも年相応に男の子。武器──とりわけ、剣に憧れを抱いていた。
体が出来上がるまでは、まだ早いと言われてしょげていたが、渡された贈り物にベルが笑みをこぼして布をほどく。
「……」
中身を見た途端、ベルの顔色が変わる。いってしまえば落胆した。
「なんだ、不服か?」
その一言が緊張を生んだ。しまったと、顔に脂汗を滲ませてベルがあたふたしながら一歩、後退。張り詰めた空気が、雑音を許さないとばかりに静寂が訪れる。
「や、やったーうれしいー!」
「……」
無言。
「あ、ありがとう……ございます」
「……」
沈黙。
「……」
「……」
長かった。思った以上に沈黙が長かった。判決を待つ罪人が如く、長い緊張感を覚えたベル。ややあって、張り詰めていた空気が緩和した。
「アルフィアお義母さん……?」
ちらっと上目遣いをするように視線を飛ばす。この世で絶対に怒らせたらいけない人物に殿堂入りしている彼女の表情は変わらず、静か。先ほど、やや持ち上がっていた瞼は閉じられている。
「よろしい」
その言葉を聞いてほっと胸をなでおろす。
それでも、内心ちょっぴと残念だとベルは思った。練習用とはいえ、初めて手にする武器がただの木剣なのだから。もっとキラキラと輝くカッコいい剣を期待していた。
「もしや、真剣を持たせてくれると思っていたのか?」
「ぎくっ!?」
「図星か。たわけ、農具くらいしか握ったことのないお前が、そんな物を振るえば怪我をするに決まっている」
「そ、そんなことは……」
「ほう、もう生意気にも口答えをするようになったか」
やれやれと、そんな言葉でも漏らしそうなアルフィアが、困った奴だとこめかみを押さえている。
「ザルドの奴に実戦形式で教えろと言われたが、趣向を変えるか」
肩をすくめて、ある物を指し示す。それはベルが基礎作りのお供である巨大な岩。
「欲しければ勝ち取ってみろ。幼子であろうと『岩』程度は割ってみせる気概を私に示せ」
アルフィアの言葉の意味を理解して、口をつぐんだ。
ただの木の剣がどうして、あんな重く硬い塊を割れるというのか。そんな理不尽な要求に疑問を持ってしまった。もしかして、からかわれているのかとすら思えるほどだ。
「……折れたりしない?」
至極当然な質問。
「素材を厳選して、手ずから作成した物だ。全力で振るったところで、折れも曲がりもしない。わかったのなら早くしろ」
今、握っている木剣がアルフィア自らが拵えた代物だと知り、衝撃を受ける。もしかしたらと、そんな淡い気持ちを抱きつつ、岩に向かって木剣を構えた。
「───ふんっ!!」
畑の土を耕すときに使うクワを思い出して、振り上げる。そのまま力任せに、思い切って振り落とした。
「ぎゃあ!?」
甲高い音が一つ、そして少年の悲鳴が一つ。最後にほらみろと、ため息が一つ落ちた。
洗練された技とは程遠い、ただの振り落としが岩に命中。そのまま衝撃が跳ね返ってはベルの額に木剣が帰ってきた。ずっこけて、尻餅。コロコロと転がる木剣が音を鳴らしている。
「もし、今のが真剣だったら今頃、頭から血を流している頃だろう」
痛みに悶えるベルの真上から端的に言葉を落として、突きつける。返す言葉も出ないまま地面に項垂れてしまうベル。
「……そろそろ手本をみせてやるとしよう。顔を上げろベル」
頭をさするベルを余所にアルフィアが木剣を拾い上げる。ほんの僅かな微笑を浮かべて、自信ありげにと風切り音を鳴らしてみせるアルフィアの後ろ姿。
どこか楽し気な口振りで。
「いいか、剣とはこのように振るう」
「!?」
瞬間。雷鳴を思わせる轟音が丘に響いた。
少年の紅い瞳を通して見た、その光景は凄まじかった。拾い上げた木の枝を振るかのように、事もなげに。ただ、横に振るっただけとしかいえない動作で『丘』を断ち斬ってしまったからだ。
腰を抜かしたままベルが見たのは真っ平らになった地平線。
ただの木剣と細腕を一振りして、成しえた光景に言葉が出てこなかった。不意に脳裏に浮かぶ既視感を覚えて戸惑い、じっとアルフィアの背中を見るだけだった。
「『英雄』になるからには、この程度は越えてもらうぞ?」
その手に握られた木剣から閃光を走らせて、真っ直ぐに伸びた光りの軌跡。一刀のもとに両断され、斬り飛ばされた丘の光景を越えろと言い放った。実に彼女らしい言葉だった。
「──────なるほど、そういうことか」
数日後、戻って来たザルドが苦い顔をしながら辛うじて、そんな言葉を絞り出した。
アルフィアが山の一つを半壊させて、怯え暴れるようになったモンスター共を屠り。戻ってきたらこうなっていた。
丘陵地帯の面影は既に消え失せて、真っ平。汗を流して一心不乱に木剣を振るっているベルに問うては納得するザルド。いつものことながら、つい嘆息が出てしまう。
オラリオでも外でも変わることのない彼女の態度に呆れつつ、そんな破天荒ぶりに引くどころか感動を覚えているベルになんと声を投げかけるべきか悩む。
「びかーと光って、びゅーと吹き飛んだ!」
装具を纏うザルドの隣で、はしゃぐベル。熱意ある口調で再現するように練習用の剣を振るう様はなんとも微笑ましいものである。
「それで、アルフィアの修行はどうだ。どこまで教えてもらっている?」
「岩を割ったら合格だって!」
「そうか……うん? 待て、ベル。剣術の基本も知らないままなのか」
きょとんとするベルに見上げられるザルド。武人の顔がますます曇っていく。留守の間、畑仕事を除いて朝から晩まで岩に向かって剣を振るう修行内容にしかめてしまう。せめて、基本となる動きを教えてもいいだろうにと思うが、振り返ればアルフィアという女性は修行という言葉から縁遠い存在だったことを失念していた。
ベルの小さな手のひらを見れば分かる。
おおよそ、同年代の子供に似つかわしくない痣と血豆だらけのソレは苦労と理不尽の結晶。
幸か不幸か、ベルはその境遇に疑問を持っていない。祖父である、あの好々爺を含めて誰も口出しをする者はおらず、比較する一般的な家庭も知らないまま育っている。無理難題ともいえる要求に疑問を持つという発想すらないまま、直向きに言われたとおりにやっている。
無論、ザルドを含めて手を抜くことはなかった。
ベルの教育は知る者からすれば冒険者育成の英才教育そのもの。在りし日の英雄達が培った経験を余さず、徹底的に施している。その厳しさは苛烈でひと味違う虐待。
それでもベルは投げ出すことなく従って、黙って耐えている。ベルの本当の父親なら間違いなく逃げ出しているだろう指導に、必ずしも優秀とはいえないものの、着実に学び、受け継いでいる。
「素直すぎるというのも困りものだな」
「ザルドお義父さん?」
ぼやくザルドに首をかしげるベル。
「……ベル。試しに一度、打ち合ってみるか」
「うん、わかった!」
互いに向き合い、正眼の構え。実力差はいうまでもなく隔絶としている。二本の足で屹立したまま根を張った大木のようにどっしりと待ち構える武人。それにえいやーと向かう少年。走り、勢いに任せての上段斬りが見舞われる。
「……温い」
「っ!?」
ベルの振るった木剣の切っ先が武人の大剣に触れた瞬間、そのまま勢いごと返された。天地が逆転したような衝撃を喰らって地面を転がるベルが何が起きたのかと瞳を大きくしている。
「もう一度だ」
動揺するベルを無視して短く、次を促す。そして、同じことの繰り返し。
兜の隙間から覗かせる武人の眼差しが、無言の催促。擦り傷まみれ、泥がついたままの体を揺り起こして少年が再度の突撃をする。結果は変わらず『触れた』と、同時に吹っ飛ばされる。
それでもやめない。一合、一合、少年の放つ、一撃を噛み締めるようにしていた。
実戦以上に糧になるものはない。それが彼の持論だ。激闘の時代。数多くの英雄豪傑達としのぎを削ってきた男の真理。青天の霹靂の如く、唐突に始めた彼の『洗礼』は灰の魔女に負けず劣らずの理不尽。
虐待を飛び越えて殺人的な修行だ。
撫でるよりも優しく、触れた瞬間を狙って勢いだけを返す。
無事なところは皆無。全身が泥だらけで血だらけ。なのに瞳だけは真っ直ぐと此方を見据えている。
その小さい身で耐えている。辛いと口にせず、逃げ出さない。諦めない。
我ながら悪癖だと心中で苦笑を落とす。アルフィアを笑えないと自嘲交じりに思い出すのはオラリオの糞餓鬼共の面。同じだ、同じなのだ。どれだけの理不尽を浴びせても、折れなかった連中とベルが重なる。
「ああああああッ!!」
飛び上がり、雄叫びを上げて向かってくる。上段に構えた剣を一直線に振り落とした。今日一番の鋭い太刀筋、迸る剣速が閃いて風を裂く。衝撃が両者の間に生じて、爆発する。振り落とした上段斬りと同時に、ベルの膝が折れた。
「ぐっ……、うっ……」
決壊した川のように汗が流れ落ちる。荒い息が絶えず酸素を欲して止まらない。明滅する思考、脳裏に過る。駄目だったと。
「やっと噛み合ったな」
言葉が落ちた。ザルドが小さく呟いたのだ。
「え……?」
振り絞るように声を出すベル。視線の先でザルドは笑っていた。ベルが怪訝そうにしても、ただ満足そうに笑みを浮かべて一度だけ頷いた。
「後ろを見てみろ」
そう言われて振り返る。そして、やっと気づく。吹き飛ばされていないことに。
「合格だ」
続く言葉に緊張の糸が切れた。
うつ伏せになったまま、倒れているベルの隣でザルドは腕を組む。基本となる剣の型は知らずとも既に実戦レベルに到達している。少なくともここら一帯で顔を出す、ゴブリンやコボルトの類なら問題なく倒せる程度に強く育った。
無心に振るった剣の数だけ血肉としている。ただ、自覚していなかっただけだ。だからこそ、己の血と汗で痛感してもらう必要があった。噛み合わない心と体のズレは言葉だけではどうにもならない。ベル自身が、その歯車を調節しなければならないからだ。
それも今、成った。
子供の成長は早い。目を見張るようだ。
「……ん」
「起きたか。そら、これでも飲め」
手渡された
「そう構えるな、剣の指導だ。まずは……そうだな、俺の真似をしてみろ」
それからは剣の指導が始まった。続いて教えた剣の型を取らせて、一通りが終わった頃には空は茜色に染まって、一日の終わりを告げている。
指摘や感想などは口にすることなく黙って、ベルの剣術を眺めたあとザルドは頷き、歩み寄った。
「最後だ、お前に見せたい技がある」
惜しみなく注いだ先、その最果てにある極技。剣を執った以上、それは『断つ』ということ。なら、教えなければならない。素質があるかもわからない幼子に、過分な期待を寄せていることは自覚している。それでも、受け継いで欲しかった。
本音を吐くのならば、先に極技を振るったアルフィアに負けてられないからだと、半ば言い訳をこぼして大剣を肩で担ぐ。
なんの前触れもないまま、一帯の空気が重く、圧が高まる。
流石のベルも肌で感じたのか、幾分か真顔になって此方を見ている。芽吹くかもしれない種に、大空を飛ぶかもしれない雛に向かって、武人は叫んだ。
「英雄になるとほざいたからには俺達を越えて証明しろッ!」
瞳に鋭い光を宿し、獰猛な牙を剥きだして、猛る。一瞬と一撃をもって暴食の壮烈な絶技が放たれた。
茜色の世界を引き裂く、光の軌跡を少年は瞳を通して焼きつけた。
その夜。ベルは夢を見た。
名前も知らない怪物。ダンジョンの奥深くにいるだろうモンスターの影がベルの頭上、高く現れた。次第に鮮明さを帯びていく。体皮の色は紫紺色。長躯で大蛇のように長くうねりながら空を泳いでいる。それでもベルのよく知る蛇と違い、虫のような体節が節々に浮かんでおり、一番近いのは百足だ。だが、空を飛ぶ巨大な大百足ではない。
何故ならば、鱗があったから。ベルは知っている。それが『竜鱗』であり、それを持つ怪物は一つしかいない。今、夢の世界を泳ぐ怪物の正体。
それは、竜。
同時に、聞き馴染んだ彼女の声が耳に届いた。
『――――ヴェノムスカイ・センチピード・ドラゴン。っ、間の悪い……』
彼女の、アルフィアの咳込む声だけがこだまする。その名を肯定するかのように眼を見開いて、大仰に怪物が叫んだ。
『オオオオオオオオォ!!』
『谷から抜け出したか……あるいは傷でも負って眠っていた個体が目を覚ましたか』
アルフィアと同様に姿はなく、ザルドの声だけが響く。開かれた竜口から放たれる光閃が襲いかかった。夢の中だと自覚しておきながら、息が詰まった。頭が白く染まって恐怖と熱意が同時にベルの奥底から浮かんできた。
立ち向かうにしても、逃げるにしても不可視の力が、その場に縫い止めてしまっている。ベルの足を釘づけにして、動けなかった。迫る竜の息吹が、世界を飲み込もうと迫っていた。そのときだ。
覇者の一撃が迸った。
竜の閃光を容易く飲み込むほど強大な光の斬撃が放たれたのだ。一瞬の拮抗の間もなく、竜はその光の斬撃に切り伏せられて雲散霧消していく。
そこで夢から覚めた。
厳密に言えば、それは夢ではなく過去の回想。アルフィアが放った丘を断つ斬撃。そして、ザルドが放った壮烈な絶技。想像絶する研鑽の果てに手にした英雄の一撃。それが記憶の扉を叩いた。
ベル・クラネルはその光の斬撃を既に一度、目にしていたのだ。
瞼を開く、窓の向こうにあるのは暗い夜空。
気づけば、木剣を手に取って走っていた。向かう場所は決まっている。
「はぁ……はぁ……」
立っている場所は丘。見据えているのは、未だ割ることすらできない『岩』だ。
掴み取った感触を確かめるように強く、柄を握ってベルは剣を振り落とした。
「ぐっ!!」
瞳に焼きつけた偉大な光景に追いつくために、無心になって振るった。悔しくて涙が出そうになる。無駄にしたくないと思った。託されことを諦めたくないと。
これは意地だ。
全身で息を荒げながら、呼吸を繰り返し、前を見据える。
がむしゃらに振るっても駄目だ。教えられた型を再現するように構え直す。呼気を正して、眦を決する。ずっしりとした重みを掴み取り、逃がさぬよう手の中で収めた。
押し黙ったまま、一時の静寂が訪れる。一撃だ。これ以上ないありったけを。
雲の切れ間から光が注ぎ、月光がベルを照らす。胸が熱くなる、その熱がベルを焦がしていく。殻を破るときは今だと背中を押された気がした。
持てる全てを投げ打って、力の限り地面を蹴り飛ばした。全身の血が滾る。言葉にできない闘志を燃焼させながら、その熱こそがベルの英雄憧憬で根源。
『諦めるな』
甦る祖父の言葉。最初はそれだけでいいと言ってくれた。それが最初の一歩だと。
剣を肩に担いで、『岩』に向かってその刃を振り落とした。
「ああああああああッ!!」
小さな体を打ち据えるには十分するぎる衝撃が響く。意識が遠のいていくのを感じた。不安になったが、それでも剣を通じて感じた確かな感触に笑みを浮かべて───。
気がついたら、木剣を杖代わりにするようにして膝を折っていた。はっきりとしている意識とは裏腹に全身が痺れて言う事を聞いてくれない。
息をするたび、痛みが生じる。そのまま風に吹かれて地面に倒れ込む。喘ぐように息を吸い込みながら、やけに鮮明な意識と激痛が走る体に充足感を覚えてながら、やったと笑みをこぼした。
内にあった熱を全て吐き出して、すっきりとした気分。燃え尽きた満足感を噛み締めながらベルは遂に成し遂げた。
背中を通して伝わる感触は地面ではなく、硬い岩のソレだ。意識が薄らぐ瞬間に聞いた轟音と真っ赤な瞳が見た光景は正に、岩を割る瞬間だった。
丘を断つ道のりは遠くとも、岩は割ってみせた。ベル・クラネルはまた一歩、『試練』を乗り越えた。
以下補足。
【妖精樹の無剣】
・素材は『ウィーシェの森』の大聖樹。
・『剣』としての機能は勿論、『杖』としての魔力増幅器の面も併せ持つ。
・作成者は送り主であるアルフィアであり、