「On Your Mark」
瞬間、スタジアムが静まり返った。耳に届いていた雑音はもう聞こえない。一度だけ100m先のゴールを見る。透き通るような青い空と、絵の具で塗られたような青いタータンに挟まれて、白い壁がぼんやりと見える。
スターティングブロックに足を乗せて青いタータンに手を置くと、もう自分の心音すらも聞こえない。
まるで自分の意識だけが体と乖離しているように感じる。
「Set」
声に反応して自動的に下半身が持ち上がる。緊張感なんてものは思考にも浮かばなかった。
「Go!」
頭が反応するより早く体が浮き上がって飛び出す。一本、二本、そこで顔を上げる。何度も何度も繰り返してきた練習通り、スピードが付いてきたところで上体を起こす。
目の前は晴れやかに開かれていた。
こんな夢でどうですか。いいね女将さん、これでいこう。
東京。言わずとしてた日本の首都である。
古くは様々な霊的結界を張り巡らせて作り上げられたと言われ、現在ではそんな全てがお構いなしに乱開発されて成長を続けるメガロポリス。
政治と商業が入り交じり、人の巨大な思惑が複雑に絡まりあうこの大都市には、陰と陽が必ず釣り合うように、巨大な影の部分も存在した。繁盛しているところもあれば、場末のバーのように閑散としている場所もあるというものだ。
そんなバーで一人の女が酒を飲んでいた。顔以外は手も肌を一切出さない黒いスーツで、黒い手袋を付けた手で静かにグラスを煽っている。グラスを置く音、あるいは氷が割れるか転がる音以外は、息遣いすら聞こえない。
その女はバーの陰気さと合わさって妖しげな雰囲気を纏わせていた。まるで普通に街中で売られている香水が、使用した人ごとにその体臭と混じってそれぞれ違う芳香になるようだった。
バーで飲んでいる人は他にもいた。彼女と同じく一人で静かに飲んでいる人間もいたが、誰も彼女に話しかける様子はない。けれどそれは彼女がつまらなさそうだとか、美人でないとかではなかった。彼女の纏わせる雰囲気はつまらないといった風ではなく、むしろ誘蛾灯のように人を誘い込もうとするものだった。そしてそれゆえに彼女から無意識の危険を感じ取っていた。また横から覗かせる表情は美少年にも見えるほど整った顔立ちで、影に紛れてはいるけれどスタイルもいい。けれどそのせいで傍から見た女が不定形の怪物に見えるのだ。
以前は週に何度か来店する女に釣られて何人もの人間が話しかけては、それが常連であっても次の日から店に姿を見せないという事がざらにあった。だから今は物好きが声を掛けようとすれば、マスターが事前に静止していた。
しかし今夜、場末のバーには似合わない身形の男が一人、マスターの静止を振り切って女に話しかけた。
「失礼いたします、突然話しかける無礼をお許しください。あなたが、守部桜さんですか」
男は一切の嫌味を持たせることなく、帽子を胸にうやうやしく頭を垂れた。桜は気分を害されたことよりも、その所作に素直に感心した。
「私がそう。それで、いいとこの使用人が私に何か用でも」
桜が手で椅子を指し示すと、男は一言断るとこれまたよくよく躾けられた人間のするように椅子に腰を下ろした。
「あなたの事は森中教授からお伺いしました。今回の事件、あなたであればどうにかなるのではないかと」
男は懐から封筒を取り出すと、桜の前に差し出した。封筒には大きく森中周明とあった。
桜はよく知った名に舌打ちすると、封筒を破いて中から手紙を取り出した。ほんの僅かばかりの証明が文面を照らし出す。そこにはつらつらと丁寧に手書き文字で、拝啓云々から守部桜はどうこう優秀だとあって、紹介する。守部桜嬢によろしくなどの本文と、敬具そして何度も見た判子で締められていた。
手紙の端には宛先が書いてあったが、桜にも見覚えがある名前があった。
「……わかった。森中先生の紹介だから今回ばかりは話を聞くわ。それで、事件というのはいったい」
男は隠すこともできなかったのか、ほっと一息ついてから語り始めた。
「お嬢様はもう一週間も意識不明なのです。何人もの医師に診ていただきましたが、どなたも身体に異常は見つからず原因は不明だとおっしゃられるばかりで、旦那様も私共も困り果てていたのです。
「しかし思い当たる節が一つだけあります。それは街に突如としてやってきた夢売り屋で、睡眠と望む夢を見せるとのたまうどうにも胡散臭い店です。しかしどうにも人気がありまして、曰く陸上競技のそれも日本選手権本番の練習ができた、不妊だったが子どものいる人生を歩むことができたと。それがお嬢様のお耳に入ってしまわれて、旦那様は一笑に付すのでございますが、あまり屋敷におられないのでその隙に……。それから……というもの……何度か通われたようで……ついには……」
「ついには醒めない夢路に旅立ったと。なるほどね」
言葉を吐きだすうちに後悔に襲われたのだろう、途切れ途切れになる言葉を最後は桜が奪って締めた。それで男は調子を戻すことができた。
「旦那様はそういう話をあまり信じてはおられません。ですから報酬といってもこれまで頂いた私の給料からしか出せませんが、どうかお嬢様の意識を取り戻してはいただけませんか」
「……様子を見るまではできるかどうかわからないけど」
桜の持つ紙の端に突然火が灯る。それは決して明るいとはいえないバーを、二人の座る席だけは照らした。
「前払いとしてここのツケを払ってちょうだい」
紙は完全に燃え尽きて灰も残さなかった。
畳の上に、上体が少しばかり起こされた病院用のベッドが置かれている。その周りにはいくつもの点滴台が置かれていて、それよりも多い数のチューブがベッドで横たわる病衣の少女に繋がれていた。
何とも痛ましい光景である。悲惨であるのに、当の本人は呼吸器こそ付けられているけれど、穏やかな表情で頬に陰りもないことが、さらに奇妙だった。白い病衣にかかる長い黒髪も艶やかなままだ。
いつもは専属医が側にいるのだろうが、今は守部桜と使用人の男だけがお嬢様の事を見ていた。
「ずっと変わらずにこのまま?」
桜は首筋に手を当て脈動を確かめると、そのまま機器には触れないように指を滑らせて頭を撫でる。
「ええ。今日でもう十日にもなります」
「見たところお嬢さんの心はその夢売りが代金として持って行ってしまったようね。もうこの中にお嬢さんはいません。今頃はもう黄泉で沙汰を待っているころでしょう。このままにしていてもよくないですから、早くこの肉体は処分することをおすすめします」
頭から手を離した桜はくるりと踵を返して、お嬢様から離れた。
「そ、それはどういう……」
「肉体が土に還れば精神も黄泉に還るように、精神が黄泉に還れば肉体は自然と土に還るものです。死んだ肉体はこれだけの機械程度では維持できませんから、まだこんなにも温かいのは何か別の影響が働いているということです。大抵そういうものには悪いものしかありませんからね。ああもちろん報酬はいりませんから」
桜はうなだれる使用人のそばを通り過ぎて襖を開ける。そのまま屋敷を抜けようとしたが、何を思ったか再び引き返して使用人の肩をぽんと叩いた。
「このままあなたを放っておくのも忍びないわ。そこのお嬢さん、生前はさぞ元気に走り回っては元気や愛嬌を振り撒いていたと見える。それを失うのはもちろん、処分させようというのも酷な話だった。それに森中先生の口添えもあったわ。せめてあの肉体の処分くらいは私が請け負いましょう」
すると使用人は見るも無残というほどに取り乱した動きで桜に向き直ると、恥も外聞もなくその体に縋りついた。
「私の、私の貯蓄を全てやる。だから、だからその夢売りをころ、殺してくれぇ」
「いいわ」
桜は短く吐き捨てると屋敷を後にした。もう振り返ることはなかった。
「ごきげんよう。素敵な夢を見させてくれるという店はここか」
「夢売り屋へようこそ……と言いたいけれど、表の看板が見えなかったのかしら今は休業中よ。守部桜さん」
赤を基調とした中華風の応接室で、赤いヴェールと装飾品をじゃらじゃらと身に着けた婦人が微笑みを浮かべていた。女は漆で塗られたように黒く艶やかな机に座りながら、化粧でより大きく見せた瞳をさらに開いて桜を見る。ゴーンと正午を告げる時計の音が鳴った。
「そうでしたか、見たところ寝起きのようなのはそのせいですか。これは失礼。ところで私の名前を知っていただけているとは光栄ですね。一体どこで知ったのやら。しかしながら一方的に知られているというのは、あまりいい気分がしませんから、名前をお伺いしても……っと、それにしても空調がよく効きすぎてませんか」
桜もその視線に負けないようじっと見つめながら、婦人の対面に座った。
「ふふふ……空調ね。まあいいわ、私は楼羅。けれどこんな挨拶はもう不要かしら」
「えっ、どうしてです」
瞬間、ぐらりと桜の体が揺らいだ。
「それにしても、名前と顔ばかり一人歩きしているものだから、どんな人間かと警戒していたけれど、これならどうってことないわね」
人間が心底相手を見下しているときにしか出ないような歪んだ笑い声を浮かべながら、楼羅婦人はぐらりぐらりぐらぐらと揺れる桜を侮蔑の表情で見ていた。
「これ……は……」
「いつもよりちょっとばかり強い香を空調にのせただけ。のこのこと部屋の中まで入ってくるなんて、あなた馬鹿ね」
遂には意識を保っていられなくなったのか、桜はがたりと音を立てて机に突っ伏した。
「あんたの体は素材として良さそうだからね。魂を殺しちまった後は立派に依童の役目を務めてくれそうだ。さあて、今から呼び起こすのが楽しみだねえ。あの娘だとレプティリアンくらいだったけれど。気を張っていたからちょっと疲れたわ。少し仮眠するから後の事は任せたわよ」
楼羅婦人は奇妙な高笑いをしながら奥の部屋に消えていった。
後には男たちが丁寧に桜の体を運んでいくのだった。
楼羅は店に出て客を待った。ただの睡眠処にしては法外な値段設定だが、それでも訪れる客はやってくる。
「こんにちは楼羅さん」
「おやこれは矢賀さんではありませんか。先日の大会、ニュースで見ましたよ。優勝おめでとうございます」
「いやあこれもこの店のおかげだ。ホントにありがとう。それで今度も同じような夢が見たいんだ。今度の大会に向けてね。そうだなあ……場所はイギリスなんだけれど、時間は夜の19時ころで、ライトアップされているスタジアムがいいな。客席は満員だ。お願いできるかね」
「ええもちろん。それにご希望でしたら日本からのフライトから夢を始めることもできますがどういたしましょう」
「えっ、そんなこともできるの。じゃあ大会の二週間前からで」
「ええ。それではこちらに」
楼羅婦人は男の背中をにやりと邪悪な笑みを浮かべながら見送った。
とそこで目が覚めた。
「ああ……今のは夢だったの。久しぶりに何の手も加えていない夢を見たような気がするわ」
久しぶり、とは口に出したものの振り返っても以前に見たのがいつかは思いだせない。夢とはそんなものなのだ
留めておかなければふいに煙と消えてしまうものだった。
「けれどそれが仕事の夢なんてね」
楼羅婦人はのそりとベッドから身を起こすと、時計を確認した。短針が11から12に移り変わるほんの少し前だった。それにしてもよく寝たと思った。けれどいつから寝始めたのか、夢の余韻に引きずられてよく思い出せない。けれど一つ思いだしたことがあった。
「ああいけないいけない。守部桜の準備をしなければ」
婦人はそう呟くといそいそと職場である応接室に向かった。
「お前たち準備はいいね」
婦人が奥の部屋に声を掛けると、地を這うようなおぞましい声が連なって聞こえてきた。しかし準備といっても何の準備なのかはっきりしない。
椅子に腰かけ、一息ついたところで店の扉が開いた。
「ごきげんよう。素敵な夢を見させてくれるという店はここか」
「夢売り屋へようこそ……と言いたいけれど、表の看板が見えなかったのかしら今は休業中よ。守部桜さん」
ジッと守部桜を見つめる。これが噂に聞くかの守部桜かと。けれど婦人には妙な違和感があった。
ゴーンと正午を告げる時計の音が鳴った。
「そうでしたか、見たところ寝起きのようなのはそのせいですか。これは失礼。ところで私の名前を知っていただけているとは光栄ですね。一体どこで知ったのやら。しかしながら一方的に知られているというのは、あまりいい気分がしませんから、名前をお伺いしても……っと、それにしても空調がよく効きすぎてませんか」
桜もその視線に負けないようじっと見つめながら、婦人の対面に座る。
「守部桜。あなた何かしたかしら」
会話の流れを途切れさせるような言葉に、怪訝な表情を浮かべる桜だったが、婦人にはそれがなんだか無性に腹立たしかった。
「何かって。私はね、あなたに夢を見せているんです」
「夢! 夢ですって! おまえが夢売りであるこの私に! それに私は今さっき目覚めたばかり」
「ええそうです。けれど夢を見るもしくは夢から覚める夢なんて誰でも見ますよ。さて夢とわかった夢は即座に覚めるといいますが、あなたはいつに目覚めるのでしょうね」
瞬間、チカチカと楼羅の視界が明滅する。視界の端から黒が押し寄せてきて世界を埋め尽くそうとする最中、目の前では桜がどこから取り出したか愉快そうに太鼓を叩いていた。
「そうですそうです。そんな感じでぜひともお願いいたします」
「え、ええ。では……」
では、なんだというのか。話しかけられてふいに答えたけれど、言葉が続かない。
「どうしましたか楼羅婦人。体調がすぐれないようでしたら後日でも構いませんよ。ああでも日本選手権まではあまり時間もありませんから数日以内にお願いしたいが」
日本選手権という言葉に思い当たった婦人は顔を上げて相手の顔を見た。そこには確かに陸上選手の矢賀さんがいた。しかし何か引っかかるものがあった。
「あなた本当に矢賀さんですか。彼は私の事を……」
違和感の糸を手繰り寄せようとするけれど、その先はすぐに奈落の底まで落ちて行ってしまう。しかしその糸の先というのは向こうから一人の女を連れて飛んできた。
「さすがに夢売りを営んでいるだけはありますね」
矢賀は一度ぐにゃりと歪んだかと思うと、まるでスライムのように外形が動いて女の形を作った。そしてもう一度ぐにゃりと動いて守部桜そのものを形作った。
「もう少し楽しんでいたかったけれど、あなたが気が付いたからもうおしまい。夢の終わりがあなたの終わりです。気づかなければ、あなたの後ろにあるのと同じくらいには、夢を楽しめたでしょうに。それではごきげんよう」
まるでテーブルクロスを持つかのように桜が楼羅の視界の端を掴むと、ぐいと引っ張って視界をまるまる手元に納めてしまった。楼羅の真っ暗な視界が、更に体ごと引き裂かれていって、ついには体の感覚が闇に霧散した。
「もう少し遊べるかと思ったのにまさか一週目で気が付くなんて、さすがは夢売り婦人といったところね」
ふうと息を吐いて桜は瞼を開けた。彼女の目の前では楼羅婦人の夢で桜がそうであったように、机に突っ伏して寝ていた。いくつかある相違点を上げるとするならば、今は現実で婦人が二度と目覚めることがないということだ。
「婦人。私はこれでも仙人です。仙人にそんな芳香が効果あるわけないでしょう。それにこういうのもね」
桜は自分の胸に突き刺さった短剣を一気に引き抜いた。しかし血が噴き出るわけでもなく、その短剣にも血や油は一切付着していない。桜が楼羅の夢で遊んでいる間に、婦人も眠りこけるという異常事態を察した雑用係の男が刺したのだ。
椅子を引いて優雅に立ち上がった桜は、まず短剣を奥の部屋に向かって投げつけた。鈍く重い男の呻き声が店内に広がる。それをBGM代わりにして婦人のそばに近寄った桜は、どこからともなく取り出した日本刀を掲げて、その頸めがけて一息に振り下ろした。
ごろりごろり、重たい石の転がるような音を立てて、ごとりと頭が床に落ちる。噴出した鮮血が髪を濡らしてまとめ、転がるうちに開いて、まるで紅椿がぽとりと落ちるようだった。
「ふぅー……」
ワイングラスに注がれた日本酒に一口含む。米の甘みが口内に広がって、飲み込むとフルーティーな香りが鼻を通り抜ける。後味はほんの少しだけ残り、一呼吸すればたちまち何も残さずに消えていった。
窓の外では夕陽が沈みかけていたところだった。
「へえ。これは何とも……」
桜は珍しく外の景色に見惚れてしまっていた。沈みゆく夕陽を中心に、宇宙の形容しがたい黒に向かって移り行く黄金色がなんとも神秘的だった。宇宙より手前にある青と黄金の周囲にある薄紅との境界線など、吸い込まれそうなほどの不思議な妖しさを持っていた。
その景色を焼き付けようと瞼を落とす。すると不意に眠気がやってきた。
意識がだんだんと希薄になっていく。夢売りなんかと関わったからだろうか、意識があまりはっきりしないからだろうか、今が夢でこれから現実を見るんじゃないか、それとも今も夢でこれから見るのも夢か、なんて、そんなことが頭をよぎった。
答えなんてわかるわけがない。けれど桜はすぐに一つの考えに思い当たって、眠りに落ちてしまった。その寝顔はとても穏やかなものだった。
胡蝶の夢。夢現なんて実はそんなにかわらないのかもしれない。