「イジメねえ」
放課後の琥珀色と影とで塗られた教室で、二人の女生徒が机を挟んで対峙していた。伊形早織と守部桜である。椅子に深く腰を下ろして仰け反る桜は壁の影に隠れてよく見えないが、机に両手をついて身を乗り出している早織は真っ直ぐに桜を見ていた。
「放っておけばいいんじゃない。どうせ早織が首突っ込んでるだけでしょ。まあ向こうから相談しに来たんなら話は別だけどさ、そんなふうには見えないよ」
桜はうへらへらと早織の視線を躱すが、それに応じて早織の眼は力を増すばかりだった。
「向こうが望んでないのに介入しても話がこじれるだけ」
「朱梨が誰にも相談できないだけかもしれないじゃない」
「じゃあ早織は彼女に話を聞いたの」
二人の対立は平行線をたどるばかりだった。たびたび鋭い視線で早織が突っかかっても、桜はそれを受け流してあるいはそれ以上の鋭さでもって迎撃していた。今も弾かれた早織が閉口してしまう。
「それに早織は知らないだろうけど、彼女の父は確か弁護士だったはずよ。だから何かあったらすぐ彼女の父が対応する。親子間の関係は悪くないみたいだからね。よって今は何もしなくてもオッケー」
「けどっ!」
「はっきり言うけど、あなたのそれは独りよがりの偽善よ」
しかし今回の桜は迎撃以上の力を言葉と眼とに宿していた。
「私はあなたの事を友達だと思ってるし、それに小学校の頃に助けてもらった恩もあるからこそ言うわよ。気づいてないでしょうけど、あなたはね、自分が優越感に浸って気持ちよくなりたいだけ。そのために朱梨をイジメから助けようとしているの」
瞬間、全身の血液が頭に昇ったのかと思うほど赤面した早織は、そのままに怒りながら教室を飛び出していった。桜が一人教室に取り残される。
「驚いたよ。桜も随分と強い言葉を使うんだね」
そんな一人しかいないはずの教室に、桜以外の声が現れた。ずっと影に息を潜めていたのか、廊下側の壁際からエリカがひょっこりと顔を覗かせた。
「覗きは感心しないよ。日本でもだけど、本国でもそういう文化が容認されてるわけじゃないでしょ」
初めから気がついていたのか、桜は突然の声に驚きもせず言葉を返した。
「いやあごめんごめん。桜が誰かと話してるのなんて珍しくてね、つい覗き見しちゃった。それで彼女は誰なの」
「伊形早織。選抜特進コースの子で小学校からの友人なんだ。すごい真面目でいい子だよ」
エリカが突然現れても平然としていたのと対照的に、エリカは桜の言葉に驚いた。友人かと呟いて興味深げに目を輝かせたエリカは、そのまま桜に詰め寄った。
「桜が友達なんて言うの珍しいね」
「そうかな。私はエリカの事も友達だと思ってるけど」
「ありがとう。それでその友達の事だけど、大丈夫かな」
桜がどういう事と尋ねる前に、エリカは一枚のカードを差し出した。それはいつもエリカが占いに使っている手製のタロットカードの一枚だった。オリジナルのカードに込められた意味なんて全て把握しているわけもなく、桜は首をかしげる。
「略式だけど占ってみた。ブラックスワンの正位置。あまり良くないね」
桜はふうんとそのカードをまじまじと見つめた。初めはよくわからない図形だったが、言われてみればそれがなんだか図案化された黒鳥に見えてくる。
「それでどうするの。まさか友人を放ってはおかないよね」
「まさか」
パチンと指を鳴らしながら右手を突き出す桜。右手だけが壁の影から伸びる。一つの机に降りたその影に巨大な猛禽類の影が降り立った。タカかあるいはワシか、一度大きく翼を広げた影はまさに怪鳥のそれだった。
どこからともなく現れた猛禽類は一度手から飛び立つと、今度は肩に降りた。
「……確か式神って言うんだっけ。初めて見たよ。すごいねそれ」
「でしょ。さて早織か……いや朱梨の方を見た方がいいかな。ちょっと画鋲取って」
「仕方ないな」
桜はエリカから画鋲を受け取ると、それで人差し指の腹をチクリと刺した。ぷくっと血の玉が腹にできる。それを確認すると、その血を使って手の甲に眼の模様を描いた。
「さてどこにいるのかな」
桜は眼を閉じて、眼を描いた方の手で顔を鷲掴みにした。同時に奇妙な声を発する。それが一体どんな言葉なのか、近くで聞いているはずのエリカにもわからなかった。ただ唯一それが呪文であることだけは推し量れた。
なぜか。それは空間が異様に震えていたからだった。
読み慣れているからか、南無阿弥陀仏がなんまいだーと変化するように、桜のそれは普通の発音から逸脱していた。更には自分の声に自分の声をさらに重ねて、まるで一人の声が十人や二十人のそれに増幅して教室に響き渡った。何度も何度も繰り返すうちに、教室は声に埋め尽くされて、一瞬だけエリカは自分の視界がぐにゃりと歪んだ。
あるいはこれ以上続けていれば、窓ガラスが割れたのではないかというところで、桜はそれをやめた。
「ふうん。なるほどなるほど、そんなとこにいるのね。確かにこれじゃ面倒な事になりそう」
何かしたのだろう。桜は顔から手を外すと立ち上がって、鷹匠がそうするように窓の外へワシを投げ飛ばした。
「じゃあ早織の事、頼んだよ」
まさに獰猛という言葉が当てはまるような速度で空を貫き飛ぶワシに、桜は手を振った。それを受けてワシは暮れなずむ空に溶けた。
蛍光灯を付けていなかった教室は既に夕暮れから夜に向かっていた。開けた窓から風が吹き込んでカーテンを揺らすと、もうほとんどが影に覆われる。
「勝手なことして良いの。相談されただけで、手を貸してくれって相談されたわけじゃないんでしょ。桜の言い分なら、今のだって偽善だと思うんだけど」
「そうだけど、偽善が悪いとも言ってないよ」
桜はあっけらかんとした態度でエリカに振り向いた。もう影が二人を覆い隠していて、表情まで窺い知ることは出来ない。
「それもそうだ」
言いながらエリカは笑った。釣られて桜も笑う。暗闇の教室に無貌の哄笑が生まれた。それはしばらく続いた。誰も止める者がいなかったからだ。そもそも桜の読経を遠くで聞いた者ですら震え上がって逃げ出したのだから、近づく人間などいるはずもなかった。