トンネルを抜ければ雪国、なんていうことはなく、さっきと同じ葉も無ければ雪もそれほど積もっていない殺風景な山が広がっているだけだった。それもそうだろう。だってトンネルは長くも無ければ国境も超えていないのだから。
しかしそれにしてはもう夜が訪れようとしていた。明りも無ければ人もいない山奥では、夜というのは存外早く訪れるらしい。明りがあって人も溢れるほどいる都心部が眠らない分、山々は早々に眠るのだろう。
「さてここには何があるのかな」
「私はてっきり何か遺跡のようなものがあるだけとばかり考えていたのだけれど、それだけじゃ無さそうね」
「それはちょっと視野が狭すぎじゃ。トンネルはごくたまに使われてるみたいだから、何かしら今でも使われてる施設はあるんじゃないかな」
三人が思い思いに感想を口にする。
なるほど衛星写真かと思った私はスマホで確認しようとしたが、たぶんトンネルから圏外だったのだろう、スマホはもう時間を確認するかライト代わりにしかならなくなっていた。
「……とにかく歩きましょう。人がいる可能性もあるわけだし、人を見つけたら話を聞いてみればいいわ。山を下りる分を考えたらそう長くは活動できないし、早く行きましょう」
少しずつ異様な空気にも慣れてきた私が先頭を歩くことにした。いつまでも頼りっきりなのは申し訳ない。
あてがあるわけではない。しかし何かありそうなのは間違いなかった。身が縮みあがるこの寒気は、決して季節や場所だけのせいではないのだから。
私は一応持ってきておいた方位磁針を取り出した。
しかし山の様子が変化するまで歩いても、何も見つからなかった。山では夜が一層幅を利かせてきて、昼が窮屈そうに隅へと追いやられている。そろそろ太陽が本格的に沈み始めるころだ。スマホの画面を確認した私は、諦めがちに肩を落とした。
「ごめんなさい。もう時間切れみたいだわ。そろそろ下山し始めないと帰れなくなってしまう。えーっと方角は……こっちね」
方位磁針で方角を確かめながら、これまで辿ってきた道と道中で確認した方位磁針とを、頭にある地図に当てはめてみる。すると自ずと方角は知れた。
「えーっ。もっと奥まで行こうよ。私は別に野宿でも大丈夫だからさ」
「それいいね。私も野宿で構わないよ。二人とだったらそれも楽しそうだ」
頑張って脳を働かせている間に、後ろで二人が無邪気に笑う。
「あのね。こんな季節こんな場所で何の準備も無しに野宿なんてしたら、凍えて死んでしまうじゃない。今でさえ立ち止まっていたら寒いのだから。ほら、馬鹿なこと言ってないで歩くわよ」
「じゃあそのときはボクが温めてあげるよ」
「はいはい分かったから。というか、エリカってそういう事言うタイプなのね」
わざと一人称を変えたエリカを素気無くあしらう。ほんのちょっとだけ生まれた動揺をため息とともに吐き出すと、もう一度だけ方位磁針で方角を確認して足を動かした。エリカと桜が目を合わせる。
そんな三人の前に明りが通った。それは自然に発生した炎などではなく、明らかに人工の光だった。ハッとして声を上げる。
「すみませーん!」
これまでの会話とは違い、意識して音量を上げたその声は山に響いた。それに反応して山が振動する。眠ろうとしていた山々が目覚め、そして女たちを見つけたのだ。それに合わせて明りの持ち主も彼女たちに気が付いたのか、こちらに歩み寄ってくる。風が一つ吹き抜け、木の葉が擦れ合った。
あまりにも突然の変化に、自然現象ではない何か超常的なものを感じて保穂の身は縮み上がった。せり上がりそうになる悲鳴を、これは自然現象だと言い聞かせて押し込める。しかしそんなのはお構いなしに、明りはゆっくりと近づいてきて保穂の顔を照らした。
「あんたらこんなところでなにしてんだ」
しわがれた老人の声だった。
「ちょっと登山してたんですけど、ここがどこかわからなくなっちゃって……。おじいさんこの辺りに住んでるんですか」
まだ自分を落ち着かせている最中の保穂に代わって桜が老人の前に身をねじ込んだ。老人は、ああと返事とも取れない声を吐き出して、じっと光を失ったような死人同然の眼球で桜を睨んだ。その、ともすれば眼球が抜け落ちてぽっくりと眼窩が開いているかのような暗闇に見据えられても、桜は動揺一つ表情に表さなかった。
「そうなんですか。じゃあほんとに申し訳ないんですが、麓まで案内してもらえませんか。ほんの少しばかりですがお礼はさせていただきますから」
桜のあまりにもな提案に老人はすこしだけ閉口した。しかし心優しいのか老人は何やら思案するかのように顔に手を当てる。普通ならばそんな無茶苦茶で失礼な提案など却下するに限るが、若い女を山に置いていくのは気が引けたのだろう。
「夜の山は冷える。今晩はワシの家で体を休めてから、明日の朝に山を下りればいい。ついてこい」
「ありがとうございます」
がばっと桜が頭を下げると、老人はそれを一瞥してくるりと背を向け歩き始めた。その後ろを桜が、それに続いてエリカが少し冷静さを取り戻した保穂の手を引っ張ってついていく。
「大丈夫。何かあったら私が守るから安心して」
そんなエリカに寄り掛かることでようやく、保穂は自分で歩くことができた。
連れられた家は、果たして一体どれだけ改築していないのだろうか、計り知れないほど古い家だった。外見の茅葺き屋根や内部の囲炉裏などは、これまでに保穂も見たことがあったのだが、シミやくすみ、あるいは綻びと言ったものが、これまでに保穂が出会ったことのないほど古いという印象を与えた。
しかしそうであればそうであるほど、なぜか落ち着いてしまうというものだ。個人ではなく生物種として考えた時に、あまりにも急速に変化してきた住居様式にはない安心感というものが、この家には残っていた。
だから保穂は初めて訪れた家だというのに、さほど緊張しなかった。
三人ともリュックを降ろして一息つく。
「この辺りで採れた香草で淹れた茶だ。疲れているだろう、疲労回復にいい」
「あ、ありがとうございます」
礼を言って老人から茶をもらう保穂。普段の彼女なら遠慮もするのだろうが、今に限っては未知の茶にほんのちょっとだけ躊躇するだけで、くいっと一息に茶を飲んだ。
釣られてエリカと桜も飲む。
次の瞬間、急にぼやけたエリカの視界に映ったのはぐらりと倒れる保穂だった。視界がぐわんと揺れる。老人の奇妙な笑い声がわんわんと頭に響いた。強烈な眠気が襲い掛かってきて意識が遠のく。慌ててエリカはポケットから小型の折りたたみ式ナイフを取り出して、ぐっと親指の爪と指との間に刃を押し込んだ。しかしどんなものが混ぜ込まれていたのか、指から走ったはずの激痛が脳で強烈な信号を発したにも関わらず、自覚出来はしなかった。
急速に意識が裁断されていく。姿勢を保つことができなくて、エリカは机に頭から倒れ伏した。その直前、歪む視界の中で老人が、似合わぬ素早さで既に意識を失った保穂を抱えて居間を飛び出していった。
体が倒れる。閉じていく視界に、同じように倒れている桜が呆れたように笑っていた。
「保穂はっ!?」
「おお、さすがだね。もうちょっと眠ってるかなって思ったけど。もう起きたの」
三人が眠りこけてから1時間ほど、机を叩きわらんとするほどの勢いで諸手を突きながらエリカが飛び起きた。
そんな様子とは打って変わって、桜はのんびり壁に背を預けながらひらひらと手を振っている。
「どうしてそんなにのんびりしてるの。彼女は桜の友人じゃないの」
「うーん……まあそうだとしても、さっきエリカが保穂を守るっていったんじゃない。だからまあそれを見守ってるんだけど」
「ぐぅ……」
エリカは油断した愚かさと、むざむざ眠ってしまったことを恥じる思いと、起こしてくれなかった桜へのやるせない怒りと、保穂を心配する心とでぐちゃぐちゃに搔き乱された心中をぐっとぐっと飲み込んだ。
「このまま放っておいたら夢見が悪いからね。私ひとりじゃどうしようもないから、手伝ってくれないかな」
「アレ、持ってきてないの」
「今日はアレ持ってきてないんだ。気軽に使っていいものじゃないからね。だから保穂がどこにいるか分からない」
そう、と呟いた桜は折りたたみナイフを拾い上げ、手袋を外すと手の甲に眼のマークを刻みつけた。そしてその手で自分の顔を鷲掴みにする。
千里眼の術。エリカは初めて見た時に、桜から描いた目を通して世界を見ているのだと言われた。あれ以来その術を桜が使っているのは初めて見るが、果たして今の桜には何が見えているのだろうか。エリカは少し恐ろしく感じた。
ものの一分もしないうちに桜が顔から手を離す。そこには呑気に遊山していた女子大生はもういなかった。
変わりにただ一つの魔人があった。一体桜は眼を通して何を見たのだろうか。彼女の体からは妖気が立ち込めていた。
手袋をはめなおす。その頃にはもはや刻んだはずの傷は奇麗に消え去っていた。
「どうやら生贄の儀式の只中なようね。お目当てのものも見つかったし、早く行きましょう」
瞬間、古びた家の扉が全て勢いよく開いた。桜の発した声が隠れていた魔人の存在を知らせたのだ。乾いた音が家中に響く。中には恐ろしさのあまり、強く打ち付けて自壊してしまう襖もあった。
床板を踏み抜かんばかりの勢いで立ち上がった桜は、いややはり踏み抜きながら屋敷を飛び出した。
あまりにも急な態度の変化にエリカは文句を言う気にはなれなかった。触らぬ神に祟りなしというが、似たような心境だったのだろう。人間は神に触れてはならない。神に触れるならば自分も神になるしかなかった。
そして矢のように駆け抜ける桜の後を追う。風切音が家に響いて、エリカはまるで桜が鏑矢のようだと思った。
夜の山に一陣の風が吹く。それは夜の闇にあってなお闇を切り裂くばかりの黒い影が引き起こしているものだった。守部桜だ。彼女が駆け抜けた側から地面がひび割れ、小石が飛び散った。運悪く逃げ損ねてしまった、道にはみ出た小枝などは、桜の体にぶつかって無残にへし折られていった。彼女の襲来を感じて山は慄き震え出した。まるで絶叫にも似た葉が擦れ合う音などが山に響き渡る。
凍えるような突風が唸りを上げながら山に吹き荒れた。それは落ち葉や枝を巻き込み、篠突く雨となって桜に降り注いだ。あるいはそれが精いっぱいの抵抗だったのかもしれない。
しかし魔人にそんなものが通用するはずがなかった。その後ろを走るエリカはぴったりと背中に着くことで何とかやり過ごす。
そしてついに桜たちは山奥の洞窟に到達した。
暗かった。暗い暗い山の中にあってなお暗い。まるで光すらもその中に入ることを拒んでいるようだった。更にはぷんと異臭も漂う。カビの臭いに混じってほんの僅かに鉄分と肉の腐った臭いが混じっている。
「ここだ。保穂の方はエリカの仕事だから、エリカの獲物は私に任せてもらおう」
「わかった」
二人は頷き合った。エリカは突如闇に生まれた2mほどの雷を握りしめ、桜は自分の胸に右手を突き立てズルリと刀を引き抜いた。
一瞬だけ風が止む。山は凪いで静まり返った。正に嵐の前の静けさだった。
そして嵐が始まった。
二人が突入すると同時にエリカが雷を洞窟に放つ。直視できないほどの閃光と耳を劈く轟音が山を駆けた。洞窟にもそれは襲い掛かる。暗闇は一瞬にして晴れ、入り込んだ小枝が燃えて明りとなった。轟音は洞窟を何度も反響し、中で奇怪な儀式を執り行う老人を震え上がらせた。そして保穂も目を覚まして飛び起きた。けれど体が縛り付けられていて動けない。
保穂の眼には松明で照らされた洞窟の天井と老人が映った。
「ここどこよ!」
ほとんど反射的に叫ぶ。だがそれが老人の気に障った。あるいは静かにしていればもう少し長生きできたかもしれないのに、生贄が目覚めたことを厄介に思ったのか、老人は手に持った短剣を振りかざした。
口を閉ざした老人の、夕闇の下にある谷底よりも深い闇に澱んだ瞳が保穂を見る。
「ひいっ!」
そんな目に見据えられて保穂は少女のように悲鳴を上げた。しかし老人はその無機質に光る刃を高く掲げ、ついに頭上で一瞬だけ制止する。それは振り下ろす直前を意味していた。
保穂は思わず目を瞑る。ごくごく一部の人間を除いて、そんなことをしても痛みが和らぐはずもないのに、身に入る力を抜くことは出来ない。
しかしいくら待っても予感していた痛みは訪れなかった。
恐る恐る目を開ける保穂。そこには老人の姿はなく、代わりに今日一日は頼りにしてきた背中があった。
「エリカ」
「ごめんね。さっきは私が守るなんて言っておきながら怖い目に合わせちゃって。もう大丈夫だから」
保穂は恐怖からか、あるいは恐怖から解放された安心感からか瞼の内に涙をためた。だからだろうか、振り返ったエリカの顔がさっきまでとは少し違うように見えた。同じなのだが、雰囲気というかなんとなく感じる女っぽさが消えたように思った。しかし男とも違う。不思議な見目だった。
「ちょっとだけ、いいよって言うまで目を瞑ってくれる。あまり気分のいいものじゃないからね」
言われて保穂は素直に目を瞑った。
さてそれから老人がどうなったか、私はここに記述しなくてもよいだろう。いや記述したくないのだ。古来より雷は神の裁きだとされることが多い。かの著名な詩人の描いた叙事詩にも、神が幾万もの雷霆を以って悪魔の軍勢を貫いたとある。
神の裁きはあの悪魔ですら恐れ逃げ惑う。それなのに、もちろん悪魔と比べてだが、いたいけな老人が雷に撃たれるところなど、どうして描けようか。
では桜はどうしたか。桜は雷と同じ速度で洞窟内を飛んだ。途中にあった保穂の捕らわれていた生贄の祭壇を後にしてさらに奥へと進んだのだ。そしてエリカが保穂を助けて洞窟から出ると同時に、洞窟の最奥へ到達した。
そこには松明に照らされて祭壇と一体の像があった。俗にいう三大宗教やその他の雑多な宗教とも似ても似つかない祭壇と、長い鼻と大きな耳を持った小さな象の石像だ。
桜がその姿を確かめるや否や全身に力が込められた。一歩一歩がまるで怒り狂う鬼の如く変化する。洞窟が大きく振動した。鬼の到来を知って像が蠢動する。その像はただの石像などではなく、生きて動くことができたのだ! 像が動いた。石像の鼻が長く伸びて先端がおぞましく開く。中からチラチラとぬらぬらした触手器官が顔を覗かせた。
ただの人間なら醜悪な見た目と人知を逸する存在に発狂するだろう。しかし桜は鬼人だった。
「ハハハ見つけたぞ! 人の世界が訪れてもまだしぶとくこの世にしがみ付く邪神め!」
桜の狂気に満ちた笑い声が洞窟内に響く。それを搔き消すように空間にノイズが走った。反響する声がノイズと混じって怪音となる。
松明の光に桜の魔剣が煌めいた。刹那、邪神の鼻が桜に突き出される。正に蛇が獲物に襲い掛かるがごとく、凄まじい捕食行為だった。けれど桜は屈んで躱すとすれ違いざまに鼻を切り落とした。
ノイズが一際高くなる。それは邪神の絶叫だった。
「邪神め!」
刀を振りかざした桜は裂帛の気合もろとも刃を一閃させた。それだけでは飽き足らず、装飾を蹴散らしながら祭壇に躍り出た桜は邪神の首を落とした。血が吹きあがる。
ごとりと石像が地面に倒れる。しかし桜は警戒をやめなかった。その証拠に邪神はまだまだ動いている。
「さすがにしぶといな」
桜は刀を地面に突き立てると、邪神に向かって手を合わせた。
ゴキリと関節が外れる音がする。もしかしたら骨が折れた音も混ざっていたのかもしれない。桜の手がぐるぐると一回転し、指もあらぬ方向にねじ曲がっていく。あるいは皮が伸びて常人には形成不可能な印を結んだ。かの死神が使うと言われる死の印だ。
途端、洞窟を崩壊させかねないほどの絶叫を邪神が放った。けれどそれもすぐに止んで邪神は死んだ。あっけない最期だったかもしれない。しかしかの印を結ばれて死ななかったものはこれまで一つもないし、これからも一つもないのだ。例えそれが桜の扱うものであっても、例え印を結ばれたものが神であっても、万全ならともかく全身を四つに分割されていれば抵抗できないのも無理はない。
桜はまた手をゴキリと鳴らして元通りにすると、のんびり来た道を引き返していった。
「で、これからどうするのよ」
寒空の下、震えながら保穂が呟いた。文明下を離れた人間は無力なもので、冬の山ではただ身を引き締めて震えるしかない。そんな哀れな姿を星々は瞬きもせずに見下ろしていた。
桜のコートを羽織らせてもらったぐらいでは、保穂の身は温まらない。
「うーん……あのおじいさんの家は桜が半壊させちゃったし、まあこの洞窟で一晩過ごすしかないね」
エリカが後ろを振り返る。そこには保穂を救出したばかりの洞窟があった。先ほどまでの異様な暗さはもう影もなく、ごく普通にかび臭く暗い洞窟だ。
保穂の表情が引き攣る。
「……仕方ないわね」
他に手段もない保穂は諦めたようにとぼとぼと洞窟に向かった。ぽっと明りが灯る。それは桜が付けた炎だった。瞬く間に洞窟内部が照らされ、焚火が出来上がる。
まるで吸い込まれるように、寒さで震えていた保穂が焚火に駆け寄った。小さい星形焚火だが、それでも暖かい事に違いはなかった。
「おー、これで地べたに眠らなかったら大丈夫だね。じゃあ私は荷物取ってくるから」
エリカが夜の山に駆け出す。心配で止めようと手を伸ばした保穂だったが、桜が呑気にいってらっしゃいなんて手を振っているのを見ると、手を引っ込めて口を噤んだ。
ぱちぱちと木の燃える音が洞窟を走る。
「ごめんなさいね、こんなことに巻き込んでしまって」
じっと火を見つめていた保穂が呟いた。
「どうして保穂が謝るの。守るって言っておきながら、むざむざ攫われてしまったエリカが謝るならともかく」
「どうしてって。そりゃ付いてきてもらったからよ。もし私と一緒に来なかったら、変なことに巻き込まれずに今頃暖かい部屋でのんびり過ごしていたはずよ」
「付いてきたのは私たち。それに、暖かい部屋なんてエリカはともかく私にはどうでもいい事なんだ。それこそえーっとね……地名が付いたブランド食材が実はそこで生産されてなかった……くらい」
適切な例えが思いつかなかった桜が炎の向こうで困ったように笑う。
「それにエリカはいずれここには来なくちゃいけなかったし、もちろん私も随行するだろうし……。だからね、むしろ私たちは保穂に感謝してるんだよ」
桜の言っていることのほとんどは意味が分からなかった。なぜこんな場所に来なければいけないのか。たぶんそれはあの老人と関係しているのだろうが、果たして老人は一体何だったのだろうか。
「それよりさ。結構落ち着いてるよね。普通、人に攫われたりした後だともっと精神が不安定になると思うんだけど」
「ああ……そりゃね、昔から幽霊とか妖怪とか色々見てきてるから、今更こんな事じゃ驚かないわよ。超常現象に巻き込まれたことも何度かあったし、そのうちに慣れてしまったの。今回のも、もし私が儀式場に縛り付けられていなければ、もしかしたらまだもっと取り乱していたかもしれないわ」
「色んな経験してきたんだね。よかったら聞かせてよ」
「またそのうちね。今日はもう疲れてしまったわ」
そうやって話しているうちにエリカが荷物を持って帰ってきた。余っていた食料をお腹に詰め込むと、登山疲れなども相まって保穂は眠気に襲われた。
ほとんど視界もぼやけて意識もはっきりしない保穂は、起きよう起きようと思っても落ちていく瞼を止めることは出来ず、また形崩れていく意識を保つことも出来なかった。
保穂は眠気と随分長い時間戦ったが、しかしそれでも実際にはほんの少しだっただろう、くうと音を立てて眠りに落ちてしまった。その体を冷やさないように、桜が後ろから優しく抱え込む。エリカは火を絶やさないように、焚火の様子を見ては少しずつ薪をくべていった。
そうして夜は明け、三人は山を下りた。保穂はもうフィールドワークを続けようとは言わなかった。何故ならあの洞窟あの老人こそが、老婆に津安を恐れさせていた原因だと思ったからだった。本当はその奥があったのだが、桜もエリカもそれを口にはしなかった。
保穂は津安について、古い因習がいまだに残っているとまとめてみようかと思ったが、やめた。桜に聞いてみようかとも思ったが、それもやめた。
神話にもある。知らない方がいいこともある、むしろその方が多いと。今回の事は、保穂にとって知らない方がいいに分類されたのだった。