「なんだかパッとしないなー」
桜は前のめりに伸びをしながらふと呟いた。そんな桜の呟き一つは、終礼後の教室の喧騒の前で消え入るしかなかった。教室内外の生徒の会話やカバンを持ち上げる際の些細な音、床と椅子が擦れあう音や掃除の音が混じりあって雑音となる。けれどそれはあまり不快感を与えるものではなく、むしろ心地よかった。
呟きなんて気にもせず、バイトかはたまた部活動か、遊びに行くのか何人もの生徒が足早に教室から抜け出していく。
「どうしたんだい桜、机に突っ伏しながらぐでーっとして。そんな体じゃ運気が逃げてしまうよ」
「……こんなんで逃げる運気なら、それまでってことで」
そう言いながらも、桜は起き上がって今度は上に伸びをした。
「で、エリカは何か私に用事でもあるの」
「用事がなけりゃ話しかけちゃいけないってのは、ないと思うんだけど……。まあこれからちょっと遊びに行こうって、それだけだよ」
見ればエリカはもうリュックを背負って準備万端だった。
うーんと唸りながら視線を落として考え込む。というのも、その提案があまりろくでもなさそうな予感を孕んでいるからだ。エリカは社交性がないわけじゃない。むしろその逆で友人はそれなりにいるし、今も後ろには占ってほしそうな生徒が何人か待機していたりする。
つまり普通に遊びに行きたければ、そんな生徒を適当に連れて行けばいい話なのだ。それなのに桜に声を掛けたということは、やっぱりそれなりの事があるとも考えられる。
もしくは旅行に行こうという誘いだ。明日は土曜日、一泊する旅行に行くにはちょうどよく、当日行こうと言われても大丈夫そうなのは桜くらいだった。
そんな考えに及んで臍を噛む。互いの、いや相手に自分の素性を知られているというには厄介なことだと。
しかしまあエリカの服装は学校指定服だった。だからそんなに遠出することもなさそうだ。
分かったわ、と桜はまだ机に置いたままだったプリントを鞄にしまい、荷物をまとめた。
「それでどこに行くの」
聞いてもエリカはにっこり笑うだけだった。
「いやー話には聞いていたけど、日本の夏は本当に蒸し暑いねー」
「そりゃここは四方を海に囲まれた島国なんだから」
カラオケボックスに入ったエリカはさっそくエアコンをつけた。桜も暑さに耐えかねて、ぱたぱたと体を仰ぐ。少しずつ改善はなされてきたが、しかしどうしても体面というものを気にしすぎてしまうようで、家のあるいは学校の外でそんなはしたない行動はしなかった。けれど限界に近かったのだろう。少しでも中にこもった空気を入れ替えようとしている。
そんなこんなで、室内が快適な空間になり自分の不快感を追い払うのに10分ほどの時間を要した。
「で、ただ遊びたかったの? それとも何か話でもあるの?」
桜はドリンクバーのウーロン茶を飲み干して訊ねた。同じく乾いていた喉をオレンジジュースで潤したエリカがコップを置いて一息つく。そのままごく普通の女子高生がそうするようにタッチパネルを手に取って曲を入れ始めた。
「まあまあせっかくカラオケに来たんだしさ、桜もまずは何か歌おうよ」
そう言うとエリカはタッチパネルを桜に渡して、自分はマイクを握った。その様子は年相応の少女のようで、随分とカラオケを楽しみにしていたようだ。
「……それもそうね」
桜はエリカがカラオケに来たのは話のついでだとばかり思っていたが、彼女の様子からどうやらカラオケもほとんど主目的と同じだったらしい。たまにはこういう普通の事もしてみたいのかと、彼女の境遇を知っているからかそれとも自分と重なるからか、桜は少し目頭が熱くなった。
それから二時間ほど、桜もエリカと同じくごく普通の同年代の女子がそうするように、何とか慣れないカラオケを楽しもうとした。それは傍から見ればぎこちなく、ほんの少しの痛々しさすらもどこかに見えるだろうが、それでも彼女たちはしばし日常の延長を楽しんだ。
しかしそんな時間もすぐに終わった。エリカが桜からマイクを受け取って元の場所に戻し、エリカの向かいに座りなおして口を開く。
「実はね。ちょっと調べてほしい場所があるんだ」
瞬間、それまでただ普通の帰国子女の皮を被っていたエリカが素の自分をさらして見せた。同時に鞄から一枚の紙を取り出してテーブルに置く。目の前に置かれた紙を桜はざっと眺めた。
「森谷精神病院……」
まず目についたのは肝心の場所だった。精神病院とはなかなか面倒そうな場所であると、桜は内心でため息を吐いた。精神病院というのは総合病院などと比べても近寄りがたく、一部で問題になる程度の閉鎖性を持っている。調査内容によっては非常に困難な依頼となるだろうと覚悟して、更に目を下に滑らす。
「……治療内容の調査ね……なかなか大変そうな調査だわ」
紙にはそんなことが書いてある。他には期間や位置情報なども書いてあるが、調査内容に比べればそれほど重要な物でもなさそうなので一旦スルーする。
「大変だと思うけどやってくれるかい」
「うーん、まあやってみるよ。うまくできるかはわからないけど」
一応は私にできた珍しい友人の一人だ、協力してあげたいという気持ちは大きかった。下世話な話ではあるが金払いもいいし、それに今は遊んだ後で気分が良かった。
「詳しい事はその紙に書いてあるから後で読んでね」
エリカが紙をより桜の方へ滑らせる。ちょうどその時だった、カラオケの終了を知らせる電話が鳴る。エリカがなんだかうれしそうにそれを取り、桜は紙を鞄にしまって帰り支度を済ませた。
「それじゃもう時間だし出よっか。それで、何か食べて帰る」
「そうね、それじゃ食べて帰りましょうか」
ひらひらと伝票を振りながら扉を開けたエリカの向こうからは、やや暑い空気が入ってくる。まだまだ夜とは言えない時間だ……いやどうせ夜になったところでこの熱気は消えないのだろうと少し気分が沈みそうになった。
夏の熱気で気分が沈んでいたら、果たして精神病棟なんて入ったらどうなってしまうのかと思う。
「そういえばなんで精神病院の治療内容を調査するのよ」
桜はふと浮かんできた疑問をエリカに聞いた。
「まあそれはあれだよ、高い閉鎖性からくる虐待なんかが行われていないかってね」
エリカはそんなことを言っているが、桜にはそれがただの方便だとわかっていた。分かっていて、恐らくは面倒で重大かつ一般的ではない依頼だとも。