守部桜と幻想   作:KRYP

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蔭洲升①

 文化人類学部資料室を一人の女が利用していた。学生……それも服装を見るに大学院生だろうか、ほんの少しだけの外聞を取り繕うような服装の利発そうな女が、資料室の棚から一つまた一つと資料を取り出して中を開いては、じっくり捲って唸っては戻していた。

 

 彼女はフィールドワークの題材を探していた。夏休みも終盤に差し掛かり、教授も完全な私用で海外旅行に行くともう院生は暇になる。これが他にもゼミ生がいれば別なのだろうが、一人きりだとどうしようもなかった。

 だから自主的に何かごく簡単にでもいいから、フィールドワーク(みたいな何か)をしてみようということになった。

 

 もう二時間になるだろうか、そんなことを幾度も繰り返していて疲れたのか、ふうと一息ついた。

「あらもうこんな時間だわ。急がないと」

 携帯で時刻を確認した女は足早に資料室を抜け出して食堂に向かった。

 

 時刻は十二時少し前。夏本番だと地域活性化などと謳ってキャンパスを地方に移したせいか、蝉が近くでけたたましく鳴り響いていたが、夏も終わりに近づくと蝉ももういなくなっていった。そのせいかグラウンドで夏休みの部活動に励んでいる学生の声が構内にも届くようになる。

 そしてそんな学生が食堂を利用するよりも少し早く、女は食堂を利用できた。

 決済をするために学生証を取り出す。そこには当たり前だが女の名前があった。平岡保穂。それが女の名前だった。

 

 

 食事を終えた保穂と入れ替わりに、部活動を終えた集団が食堂に流れ込んでくる。それは平時の濁流の如き人波とは違って穏やかだけれど、保穂はほっと一息ついて再び資料室に戻った。けれども保穂が求めていたものはなかなか見つからなかった。

 

 そうしているうちに手に取った一つの資料。それはほとんど無造作に取っていた保穂の手を止めさせたそれだけなんだかとても薄いのだ。

 不思議に思って注意深く一枚一枚ページを捲っていく。そしてあるところで保穂の手が止まった。調査報告書の形式をとられたそれは、調査報告書の体を成してはいなかった。ある漁村を調査したものらしいが、その名前と大まかな場所が書かれているだけで他には何も書かれていなかった。

 不気味な報告書である。しかし保穂が求めていたものだった。

「一応、桜さんにも声をかけてみようかしら」

 少し前に別れた友人を思い浮かべてふふふと微笑んだ。

 

 保穂は部屋に備え付けてあるコピー機で報告書の部分だけをコピーすると、資料を元に戻して資料室に鍵を閉めた。その旧き漁村の名は蔭洲升。

 

 

 

 

 

 いくつものトンネルを抜けると、窓からの景色が一変した。それまではそれなりに新しそうな住宅や娯楽施設が目についたものだが、いまは一面が海になっていた。水面で太陽の光が反射して弱くきらきらと煌めいている。けれど秋に差し掛かるあたりだからか日差しもだんだん弱くなっていて、海全体がどんよりとしていた。

 遠いところに来たと、漠然と思う。大学もこの景色も同じ日本だと理解はしているのに、それらがうまく結びつかないといった変な感覚があった。

 人のいない車両もそう思わせるのだろう。いつからか、気が付けば電車に乗っているのは保穂一人だった。

 

 最寄り駅で降りると、保穂は駅前の路肩に見知った車とそれにもたれかかる女の姿を見つけた。向こうも気が付いたのか、まるでキリスト教の司祭服にも似たほとんど無地の服から腕を出して保穂に手を振った。

「遅れたみたいでごめんなさいね。エリカが来るって知ってたら、もっと早く来たのに」

「そういってもらえるのは光栄ですけど、サクラに申し訳ないな」

「保穂のこういう扱いは慣れてるからいいよ」

 車のウィンドウが開いて守部桜が顔を出した。

「さあ早く乗ってよ。その蔭洲升とやらまでさっさと行こうじゃない。こんな何もないとこにずっといたら気が滅入ってくるよ」

 保穂は周囲を見渡した。駅の他には古ぼけた民家がぽつぽつとあるだけで、娯楽施設や商業施設は見当たらない。散歩をするにはいい気候だけれど、そんな人は誰もおらず、道路を走る車も見当たらない。

 寂れた場所だと保穂は思った。

「それもそうね」

 エリカは助手席に、保穂は後部座席に乗り込むと、車は静かに走り出した。

 

 

 

 

「蔭洲升。保穂から連絡がきて少し調べた。昔は漁業が盛んだったらしいけど、今はもう死んでしまって漁業もあまり盛んではない村らしいのよね」

 駅から離れてすぐ、山間部に入る。桜の言葉が示すように、道路はよく整備されていてスムーズに車が走っていく。けれどそれ以外の車を見ることはなかった。

 道路の両脇にはぽつぽつと人が住んでいるのかどうかも怪しいような、ぼろぼろの家が見える。

「死んでしまったって……村というか有機物以外に対してあまり使わない表現のような気がするけれど」

「サクラはそのあたりに詳しいからね。例えばソロバンだっけ、アレを習得した人間がそうでない人間と比べて計算時に少し変わった方法をしたりするように、サクラも生死に対してはちょっと違う感覚でもって見ているんじゃないかな」

「そうそう。まあ色々あるけれど、一つ物質だけに焦点を当ててみると、私は中と外で物質の遣り取りが双方向に行われているか、というところに着目する。人が死ぬ前と後で何が違うか要点を取り出して、それをもとに解釈を拡大したの。私の調べる限り村には外からの人間が流入したという事実はここ数十年ないらしい。そんな村、吹けば飛んでしまいそうじゃない。ああそういえば、そのことを【流れている】とか【澱んでいる】とか言ってる宗教もあったっけ」

 そのとき、ふいに開け放った車窓から潮の臭いが鼻についた。ほんの少しだけ魚の生臭さが混じった臭いに保穂が苦い顔をした。

 それを桜がバックミラーで確認でもしたのか、全ての窓が閉まっていく。

「なら村が死んでしまったといってもいいかも」

 フロントガラスの向こう。だんだんと海が開けてくる。彼女達は三者三様の心持ちで蔭洲升が近づくのを見ていた。

 

 

 

 

 澱んでいる。

 保穂の頭に先ほど桜が言った言葉が蘇った、死んだ者を澱んでいると表現する宗教があると。パッと浮かぶほど近くで見る蔭洲升の雰囲気がその言葉に合っていた。それはもう寂れたというだけでは表現できない。

 スマートフォンで写真を撮ってみる。なんの加工もしていないはずの生の写真が、どこかくすんだセピア色もしくはモノクロに見えた。

 漁船があるから漁業はしているのだろうが、果たして古びた小さな漁船一艘でどれだけの収穫が見込めるのだろう。そんなに収穫量はないはずだ。海沿いにたった一つだけ開けている魚屋の店頭には生簀があるが、魚の気配はおろか人の気配すらしない。

 ねこやかもめなんかいてもいいと思うけれど、そんなのもいなかった。

「澱んでいますね」

 エリカが呟く。どうやら彼女も保穂と同じ感想を持ったようだった。

 少し窓を開けたけど、瞬間的に魚臭さに襲われてすぐに閉めた。

「なんで調査しなかったのかここに来るまで不思議だったけれど、普通こんな村なら来た途端に引き返してしまうでしょうね」

 いくら目的を持っていたとしても、おそらく自分でも二人がいなければすぐ帰っていただろう。そう保穂が思うほど、この村は不気味だった。生物の気配がないというのは、これほどまでかと。

「昔は漁業の他にも、近くに温泉街があったおかげで旅館業なんかもあったらしいけど、今じゃ誰も出歩いてないわね」

 車で軽く村を走っただけだが、目につくのは魚のいないとわかるだけマシな魚屋や看板の傾いた宿屋に窓が開け放たれていても人影が全く見えない住宅、閉めてもう十年以上は軽く経過しているのではないかと思われるような駄菓子屋。

「けど人はいるね。なんだかこっちを窺ってるみたいだ」

「えっ?」

 保穂が後部座席で素っ頓狂な声を上げると、前席に座る二人がコロコロと鈴を鳴らすようなとはいいがたい笑い声をあげた。

 そのときまるで昼間の星の明りのように弱弱しく小さな光を見つけた。

「あっ、あれ見て。人が居そうじゃない」

 保穂が前に乗り出して一軒家を指さした。それはぼろぼろの暖簾と看板を掲げて何とか飲食店としての体裁を保っているようなところだった。お昼時は過ぎているが、少なくとも店の人間はいそうだ。

「あれは……ははぁ、いいんじゃないかな、じゃあちょっと保穂見てきてよ。あなたがみつけたんだからさ」

 そう言って桜は道の脇に車を止めた。保穂は桜の含み笑いのようなものが気にかかったが、今はなんだか無性に人の姿が見たかった。

「ごめんくださーい……」

 流石に幽霊屋敷と言われても疑いようがないような店構えのところに堂々と入っていく勇気はなく、おずおずと扉を開ける。

「……」

 突然やってきた部外者を値踏みするように、店主と店内にいた僅か数名の客がじろりと保穂を睨みつけた。大きく見開かれたまるで瞼のないような目と、半分だらりと開かれた分厚い唇。同時に異臭が保穂の鼻を突く。まるで町にあるチェーン店ではない安い寿司屋などでするような魚臭さを、より強くした臭いだった。

 それらが相まって、店にいる人間が全員まるで魚人のように見えてしまった。

「失礼っ!」

 猛烈な不快感に襲われた保穂は扉をぴしゃりと閉めて、そのまま桜の車まで逃げ帰った。その後ろ姿を、いくつもの目が追っていた。

 

 

 真っ赤に燃える太陽が地平線に触れる。瞬間、やはりどこまでいっても太陽と海は混じり合わないのだなあと、保穂は思った。だって陸から見ている分には火球が大海に触れて消えるような気がするのだ。けれどそんなことはなくて、太陽はいつまでも、むしろ海に触れる前よりも、空からすら隔絶されていた。

 この世ではないような光景だ。そんなふうに感じるようになったのはいつからだろうと保穂は記憶の旅に発った。そして程なく、それが桜に勧められた小説を読んでからだと思い当たった。

「どうしようかな。昔は旅館業やってたくらいだから、民宿くらいはあるはず……まあいまは営業してないかもしれないけど」

 そんな桜の言葉が保穂を現実に引き戻した。心の中で深い深いため息を吐く。しかしそれは考えなければならないことだった。

 保穂たちは二日あるいは三日ほどかけてフィールドワークを行う予定だった。元々が漁村だというのだから、漁業に携わる人に話を聞かないことにはどうしようもない。少なくとも漁がどのようにして行われているのか見ないことには、漁村に来た意味が見いだせないというものだ。というかそれを題材にするのが楽というのが本音としてある。

 だからどこかに泊まって、出漁時は難しいとしても入漁時には港に行くというプランを保穂は想定していた。

「でも民宿は嫌よ。なんだか……嫌よ」

 保穂は食堂での言い知れない不快感を抱えたままだった。

「保穂の気持ちはわかる気がしますよ。だってさっきの保穂の慌てっぷりときたら……ふ、踏み外してましたからね、車に乗るとき」

 思いだして、それでも悪いと思ったのか笑い声を抑えるエリカ。保穂は少しだけ頭にきたけど、起こる気にはなれなかった。それほど不快だったし、慌てていたのも事実だったから。しかしどうしよう。

「じゃ車中泊しようか」

 困っていたところに桜が声を上げた。

「もしも泊まるとことか食事処がなかった場合を想定して、後ろに布団とちょっとした食料積んでるから」

「それ面白そうだね。私も乗った」

「じゃあ私も……」

 消え入りそうな声で保穂は呟いた。自分のお願いで付いてきてもらった二人に、わがままで車中泊をさせて平気でいられるほど彼女は無神経ではなかった。それがわかっているからだろう、前席の二人が小さく笑った。

 

 夜。車内で昼間に撮影した写真を改めてみていると、横から桜が写真の一部を指さして笑った。その部分をよく見てみると、何かがこちらを見ていたのだった。

 

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