守部桜と幻想   作:KRYP

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恐怖の世界 保穂②

 コモンルームは騒然としていた。雨のせいで明りを付けていてもどこか暗い部屋の四方に生徒がいる。普段ならそれぞれのグループかあるいは個人でボードゲームなり読書なり楽しんでいるのだろうが、しかし今は雨の心配をしているのだろう、生徒はみな一様に不安そうにしていた。

 保穂は不安であまり読書が手に付かない利発そうな女生徒を見つけると、佐藤先生に許可を取ってからその女生徒に近づいた。

「こんにちは、さっきの講演は楽しんでくれたかしら」

「あっ、ええと……平岡さんでしたっけ。はい楽しめました、自分たちの町にも根付いていて気づいていない伝承があるんじゃないかなって」

 女生徒は突然話しかけられて小さく驚いたけれど、すぐに笑みを浮かべた。

「それはよかったわ。ところで私は研究も兼ねてこの町に来ているのだけれど、この町の伝承か……いえ昔はこうだったみたいな話はあるかしら」

「えーっと、そういえば明治大正くらいまでは今よりもっと漁業が盛んだったみたいです。なんでも捕鯨で有名だったとか。今はもう捕鯨はしてなくて、細々と普通の漁しかしていないみたいですけど」

 漁業と聞いてかつて訪れた嫌な村の記憶がほんの一瞬だけ蘇ってきたが、それも今目の前に広がる生徒たちの談笑する光景に蔭洲升の予感はすぐに消えた。

 女生徒の話をタブレットにまとめ、次いで保穂は本題に入った。

「ありがとう。他には……そうね、最近何か町で変な出来事とかあったりしなかったかしら」

「変な事ですか」

 そういうと女生徒は考え込んでしまった。それも当然だろう、急に変な出来事と言われても答えに窮してしまう。女生徒の反応を待っている間にコモンルームを見回していると、併設されている食堂で何やら慌ただしい人の動きがあった。視線を戻しても女生徒はまだ頭を悩ませている。

 もういいと声を掛けようとしたとき、女生徒が顔を上げた。

「そういえば、同級生が二日前くらいに何か変な人を見たって動画をSNSにアップしてました。えーっと確か……」

 そう言うと女生徒は自分のタブレットを取り出してその画面を見せようとした。しかしその顔が曇る。

「あれ、アカウントが凍結されてる……」

 保穂はそこになにやら作為のようなものを感じ取った。いわゆる世界の真実を隠したい何某かによる隠ぺい工作というような陰謀論に近い感覚だろうとは保穂も思ったが、桜とエリカや彼女らと体験した事柄がそんな感覚を簡単に取り払うような気がした。

「いったいどんな動画だったの」

 自分でも少しずつ気持ちが逸っていくのがわかる。それに伴って強くなっていく語気を懸命に抑えなければいけないと思った。しかし今は大丈夫でも時間が経てば難しくなっていくはずだ、なぜなら今でも女生徒の肩を掴みそうな手を抑えているのだから。

「夜道の向こうに歩き方も形も変な人が映っている動画で……確かこう腕や背中に三角形の影があって、背中がせり上がっていて肩が前に押し出されていて、腕をだらんと垂らしながらヒタヒタと歩いていたと思います」

「ッ……」

 慌てて口を塞ぐ。喉奥からせり出してこようとしてきたのだ、陰洲升という邪な名前が。生臭さまで漂ってきそうな、その動画に出てきたという人型の持つ魚人のようなを特徴を呼び水として。

 保穂は佐藤先生に目配せをすると、理解が早い先生は渋々といった様子で頷いた。あまり個人情報は外部に漏らしたくないのだろう、ありがたいことだった。保穂はその優しさにつけ込むことにした。

 余裕がなくなりつつあった。

「本人にも聞きたいからその生徒の名前とか部活動とか教えてもらえるかしら」

「今日は休んでいますが、2-Aの岩本姿子さんです。部活動は……」

 と女生徒はそこで言いよどみ、そして周囲を見渡した後に小さな声で言った。

「……美術部です」

 瞬間、その声が聞こえていたであろう佐藤先生の空気が固まった。それはこの学校では美術部の話題はタブーなのだろうと、そう部外者にも悟らせるには十分なほどの変化だった。そのあまりの変化に、失いつつある余裕を取り戻すことができた。

 今はあまりこの話を突っつかない方がいいだろうと判断する。と、そのときだった。教員たちが手に傘のいっぱい入った業務用ポリバケツを持ってコモンルームに入ってきたのだ。

「学校を閉めますので皆さん早急に帰宅してください。傘を持っていない生徒はここから取っていってください」

 教員の一人はそうコモンルーム中に聞こえる声で言うと、ポリバケツを置いて生徒の誘導に入った。同時に同じ内容の校内放送が流れる。

「平岡さん、申し訳ありませんが……」

 佐藤先生が校内の状況を把握したのか保穂に断りを入れて教員たちの誘導に加わる。保穂も取材に付き合ってくれた女生徒に帰宅を促すと、その女生徒もすぐに立ち上がって帰宅する生徒の波に混じっていった。

 窓の外では豪雨が降り注いでいる。保穂は自身のキャリーケースが一応は完全防水を謡っているものの、中身が濡れないかどうか心配になった。

「さて、それじゃ私も帰ろうかしら。これ以上ここにいてもしょうがないだろうし」

 美術部というのが気にかかったが、生徒を無理やり帰らせるような緊急時に余計な混乱を生ませるのも気の毒だ。保穂はそそくさと生徒の波に乗ってコモンルームを抜け出すと、自分が社会科準備室に置いてきたキャリーケースを持って学校を出た。

 

 校門の外では家族が車で迎えに来ていたり、あるいは学校で受け取った傘をさしていたり、自転車通学のために傘を受け取れず必死に自転車を漕ぐ楽しそうな男子たちの姿もあった。

 バス停でバスに乗り込むと、後からバスで通学している生徒も乗り込んでくる。生徒はそれぞれ雨に濡れた鞄に頭を悩ませたり、またずぶ濡れな下半身でバスの床を濡らしてしまうことに申し訳なさそうにしていた。

 この時間帯はほとんど生徒専用なのか、バスの乗客は保穂を除けば生徒ばかりだった。今は教員の目もないし、生徒たちも学校の外ではただの一市民という建前を作ることができる。有り体に言えば取材のチャンスだった。

 保穂は自分の横にいる二人組の生徒に目をやった。するとその生徒たちは自分たちから滴る水で保穂のキャリーケースがさらに濡れるのを申し訳なさそうに見ていたために、保穂と目が合った。

「ああえっと……平岡さんですよね、すみませんケースを濡らしてしまって」

「いいのよこれくらい、もともとかなり濡れてるし。それこそ私の方が申し訳ないわ」

 逆に謝られて少し戸惑う生徒たちに、よくよく情操教育というものが行き届いているのを感じる。気にしなくてもいいとは思いつつ、保穂はそこから会話を続けることにした。

「でもこんなに雨が降るなら先にホテルに荷物を置いてくればよかったわ。天気予報では大雨だったの」

 二人の生徒に聞いてみると、彼らも困ったように首を横に振った。

「いや、天気予報でも晴れだったと思います。だからみんな傘を持ってきてなくて困ってたし」

「ふうん、じゃあ誰かが雨ごいでもしたのかしらね」

「雨ごい……ですか」

 こんな時代になっても雨ごいなんていう単語は人々の間に残っているらしい。ある有名なゲームのおかげだろうか、生徒は保穂の口からでた魔術的な言葉をきちんと認識していた。けれど同時に雨ごいなんていう非科学的な事象はゲームの中だけで、それが現実あるとは思わなかった。

「そう雨ごい……実際に私たちの学問でも研究されていることでもあるわ。確かアメリカの砂漠化に関する古い研究の中でも言及されていたはずよ」

 キャリーケースではない方の鞄からタオルに包んであったタブレットを取り出し、自分の気になる論文をまとめたファイルから件の論文を映して生徒たちに見せた。その本文は一応、授業で使用したために保穂が日本語に訳していたのもあって、生徒たちもよく内容を読むことができた。

 論文には都市騒音のただ中にある水と美しく響く音のただ中にある水とでは、前者は極端に水の蒸発量が落ちるのに対し、後者はより水の蒸発量が大きくなったというものだ。

 生徒たちも初めて見る論文に興味を惹かれたのかじっくり読んでいて、へぇと感嘆の声を上げた。

「じゃあここに書かれているような音楽を流せば、地面の水や海水が蒸発して雨が降るということですか」

「ええそうよ……例えば──」

 保穂は一段と声を低くした。その様子に生徒が身構える。

「町内放送の音楽とか」

 生徒たちのはっと息を呑む音が聞こえる。それは今日ずっと高校の近くでも流れてたものだ、生徒にも心当たりがあった。

 と、そのときバスが保穂の降りる停留所をアナウンスした。

「二人とも気を付けて帰りなさいね」

 少し不穏な空気を残してしまったかと心の中で生徒たちに謝罪しながら、保穂はバスを下車してホテルに向かった。遠く近くゴロゴロという雷の音を聞きつけて、保穂はその足を速めた。

 

 雨はいまだに降り続いている。それはついぞ激しい雷をも伴って雷雨となった。ホテルにチェックインした保穂は部屋の窓から町に雷の降り注ぐ様を見ていたが、それはずぶ濡れになった保穂がホテルで諸々を終えて落ち着いた後でも続いていた。ときおり地鳴りかと思うような雷が地面に降り注いではそこそこの轟音が室内に鳴り響き、保穂はしばし寝るのにも難渋した。

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