須利戸の町にとって未曽有の豪雨から一夜明け、まだ空に曇は目立つものの天気予報的には晴れとなった。林業が盛んなのかそれ以外にあまり職がないのか、保穂がホテルの窓から見る限りきちんと整備された山は大きな土砂崩れも見当たらなかった。
彼女が設定してあったアラームで目を覚まして初めに見た光景は、窓からのそれだった。カーテンを開ける前からその隙間から漏れ出た朝日で晴れを予感していたが、実際にカーテンを開けて晴れ間が差している町の光景を見るとほっと一息ついた。今日まで昨晩のような雨が降り続いていたら調査どころの話ではなかった。気になって窓を開けると、もう昨日聞いたような音楽は町のスピーカーから流れていない。よかったと思うと同時に、保穂は雨の降っていない町を見て、あれは本当に雨ごいだったのではないかという考えが浮かぶ。そんな考えを締め出すように窓を閉めて、今度はホテルに備え付けてあった旧式のテレビをつけた。けれど番組は放映されず画面にはアンテナの設定や調整を確認するような文字が映るだけだった。
「あれ、番組が見れない」
保穂は何度もリモコンのボタンをかちかち押したが、どの放送局も同じでテレビは使い物にならなかった。それがこのホテルだけなのか、それとも町全域で同じようになっているのか気になってタブレットからSNSを閲覧しようとした。しかしタブレットに電波は届いておらず、画面には圏外の二文字が映っている。
就寝までは使えていたはずの電波が使用できなくなっていたことに、保穂は少なからず動揺した。
「まさか両方とも雷雨の影響かしら」
面倒な事になった。これでは大学から急な連絡が入っても分からない。少しばかり残念だが社会に生きる者として通信が通らない場所にいつまでもいる事はできなかった。それなりの用事があれば許されるだろうが、今回の調査のようにいつでもいいのであれば、さっさとこの町から脱出して大学に戻るべきだ。
「……九蔓高校にも一応連絡を入れておくべきね」
明日もまた来ると言っていた人が豪雨の翌日に来なくなったりでもすれば要らぬ心配をさせてしまうだろう。一言入れるだけなのだからいらぬ手間を掛けさせるわけでもない。学校の守衛にでも話を通せばいいことだった。
頭の中で今日の予定を組み立てなおす。と言っても一番初めに高校へ行くことが増えるだけだった。そうして予定を決めた保穂はホテルを出る前にシャワーを浴びようと、部屋に備えてある風呂のシャワーから水を出した。
「きゃっ……ちょっとなにこれ」
保穂はシャワーの水を手に受け止めた途端、久しく出していなかった可愛らしい悲鳴とともにシャワーヘッドを向こうへ向けてシャワーを止めた。手には油のようなものが混じった黒みがかった水が付いている。その不快な感覚が手にへばりついていた。
「昨晩の雨で水道もダメになったってこと」
タオルで手を拭ってもう一度、今度は勢いを弱めてシャワーの水を出す。けれども変な浴びたくも飲みたくもない水が延々と流れ出るだけだった。
「……早く行きましょう」
保穂は自分にそう言い聞かせた。さっさとこの町を出なければ良からぬことに巻き込まれると、これまでの人生経験からそう判断した。一夜の豪雨にして起こった通信障害と水道水の異変は、それこそ町民の心を大きく混乱させるだろう。ともすればそれはこの町の治安に関する重大な懸念事項につながる恐れがあった。
念のために儀式用のナイフを内ポケットに入れると、今はまだ必要ないキャリーケースはホテルに残してホテルを後にした。
一応受付で電話を借りてみたものの、どこにもつながることはなかった。
町にまだ混乱の兆しは見えない。けれど確実に各住居内では混乱が広がっているはずなのだ。そもそも今の社会において情報というのは行動の指針の中心となるものだった。けれど今はその何もかもが奪われた状態に等しかった。はたしてそれがどれほど混乱を生むか想像すらもできない。そうして生まれた混乱が不安となり爆発する可能性は大いにあった。
そこまで計算された上での昨日の雨ごいだったとしたら、それを仕組んだものたちは何を企んでいるのだろうか。「……桜とエリカにも来てもらうべきだったかな」
そんなふうに色々と考えながら方向だけを頼りに九蔓高校までの道を歩いていく。
そのまま町の様子を眺めながら寂れた住宅街に差し掛かっても、人の姿はまだ一つも見なかった。時間的に仕事や学校に行く人はもう行ってしまっただろうが、テレビも水道も電話も使えなくなった混乱がそうではない人を家に閉じ込めているのか。
しかし耳に小さな悲鳴が届いて住宅街の角を曲がると、前方から走ってきた女の子と正面からぶつかった。普通なら躱せる距離だったが、その女の子は後ろを見ていて前の保穂に気が付かなかった。
「きゃっ!」
その女の子は小さな悲鳴を上げながら保穂の胸に飛び込む。ごく普通の人間ならそこでこけて尻餅でもついただろうが、そこは華光を飲み込んで仙人となった保穂だ。女の子をたやすく受け止めた。
「大丈夫、前見て走らないと……」
と保穂がそう注意しようといたとき、女の子の更に後ろから走ってくる人間を見つけた。
……いやあれでは人間ではない。大きくせり出た鼻梁の両端にある瞼のない瞳がぎょろりと動く。ひたひたと大きな水かきがある足でコンクリートを無様に走りながら、ひれの付いた背中が盛り上がったために前方へと出た腕を振り回している。正しく蔭洲升でも見た魚人だった。
なるほど前を見て走るという当たり前のことをしないのにはそれなりの理由があるはずだった。
「後ろに回って」
保穂は女の子にそうささやくと、内ポケットから儀式用ナイフを取り出し、まだ人であったころの服装を一部残している魚人に相対した。よほど恐ろしかったのか保穂の服を握る女の子の手はぶるぶると震えている。
それを感じ取って保穂は少し笑った。一昔前の、かつて蔭洲升を訪れたときの私も今のようだったのかと。あの時と今とは大きく違っていて、それから生まれる余裕が保穂を笑わせた。
女の子の様子はかわいらしかったが、しかしこれでは少しばかり動きづらいのも事実だった。なによりこれ以上の事態を見せたくはなかった。
「角の向こうで隠れていなさい」
今度は背中越しにそう言うと、たったったと走る音が保穂の耳に届く。同時に魚人の声にならない絶叫も。
「────────!」
真の意味で空間を震わせる絶叫に合わせて魚人が保穂に襲い掛かりながら腕を振る。それには魚人となってしまった自らの運命に対する怒りが多分に含まれていた。その凶爪が保穂に襲い掛かった。
素早い動きに保穂の肩が服ごと引き裂かれる。しかし保穂はそれより早く自身のナイフを魚人の首に生まれたエラに深々と突き刺していた。魚人が吐き気を催す悪臭とともに苦悶に呻く無音の絶叫を放って、びちびちのたうつ。隙を見て今度は保穂が魚人に飛び掛かってナイフを引き抜くと、再びの絶叫とともにひどく生臭い血液がびちゃびちゃと飛び散った。どうやら普通の魚にする血抜きのように、保穂のナイフが魚人の太い血管を断ち切ったらしい。
生臭い血が路上に広がる。それはひどく醜悪な魚の締めだった。魚人は次第に弱まっていき、一二度びくっと身を震わせてからはもう動かなくなった。
なにか手がかりはないかと血で汚れた魚人のズボンをまさぐると、カード入れに運転免許証が入っていた。保穂はそれを手早く入手すると、残りのカードはまたズボンに戻した。
「ふう……」
少しばかり汚れたナイフや手をティッシュで拭って捨てる。後ろを振り返ると、どこから見ていたのか女の子は角から身を乗り出してこちらを見ていた。
見られてしまったが、それも仕方なかったと思いなおして保穂はその女の子に声を掛けた。
「もう大丈夫よ」
するとその女の子はゆっくりとこちらに歩き出してきた。保穂はほっと心の中で胸を撫でおろすと、あまり後ろにある残骸を見せたくなくて逆に歩み寄る。
角から姿を現した女の子をよくよく見ると、それは昨日に多く見た九蔓高校の制服だった。向こうも保穂の顔を思いだしたようで、平岡さんと声をかけてきた。
「……あの、大丈夫ですか……その肩」
女生徒は心配そうに爪で深々と裂かれた保穂の肩を見た。保穂はそこでそういえば私も負傷したのだったと気づいた。仙人となってこのかた、年々と痛みに鈍感になっていたのだった。
「あー……まあ何とかするわ。それよりもあなた登校中でしょ、私も学校に用があるから一緒に行きましょう」
すると女生徒はほっと安心したような表情で頷いた。
閑静な住宅街で起きたそんな事件は誰かに目撃されただろうか。もしかしたら家の窓から誰かが覗いていたかもしれない。けれど目撃したところでどうにもならないだろう、警察に通報するための電話は通じないのだし、噂の広まりも町の混乱で緩やかだろうから。