「すみません……身内の入院先を探してるんですけど……」
エリカから依頼を受けたその土曜日に、桜はさっそく森谷精神病院を訪ねていた。初めは千里眼の術を使用してさっさと依頼を済ませようとしていたのだが、魔術的な結界が張られているらしくうまく中を覗けなかったのだ。というわけで現場に訪れるしかなくなった桜は、身内が精神を患っているという設定を作って病院の扉をくぐった。ひどくやつれた顔と声をしながら。
森谷精神病院は岩守文化振興会という法人が運営している民間の病院らしい。インターネットで上辺だけをさらりと洗っただけでは、特に母団体も含めて何も怪しい部分は見つからなかった。
しかし何かあるのだろうと桜は思っていた。そもそも何もなければエリカが頼みごとをすることもないだろうし、何よりごく普通の病院が魔術的な結界を張っている意味が分からなかった。
表面を取り繕っているだけの可能性が高い病院というのが桜の調査前評価だった。
それはエントランスから病院の内部を眺めてみても変わらなかった。僅かばかりの開放感を取り入れようと頑張った内装に暖色系の白い明りが、エントランスから精神病院特有の閉塞感を拭っている。しかしそこから奥に続く廊下は病院の名の通り森のようで、入口よりは暗くてよく見えなかった。エントランスには見えない入院患者もそこにいるのだろう。
そんな風に介護疲れで沈んだ目を装いながら、鷹のような目を桜は施設全体に向けていた。
すると桜の様子に気が付いた職員がさっそく声をかけてきた。
「よろしければ施設内をご案内いたしましょうか」
そんな男性職員の声に、桜は釣れたと一息つくと同時に気持ちを引き締める。ここからが重要なのだ、どのような治療が行われているのかを調べなければならない。
男性職員の提案に弱々しくうなずくと、彼はニコニコと笑顔を張り付けながら施設内を案内し始めた。談話室をはじめとして食堂などの生活に必要な場所や中庭などを一つ一つ回っていく。しかし肝心の治療室や治療に関する事柄に遭遇することはできなかった。
そればかりか、患者に話を聞こうとしても職員が間に割って入ってきたのだ。これではどんな治療が行われているか話すら聞くことができない。そんな調子がずっと続き、止まることなくずっと言葉を吐きだし続けていた職員の口が止まるころ、桜はエントランスまで戻ってきてしまっていた。
(さて、ここからどうしたものか)
エントランスの一角で施設案内書をぺらぺら捲りながら喋る職員を前に桜が頭を悩ませる。ここらで釘でも打っておかないとずるずる入院の手続きまで進められてしまいそうだ。そうなってしまえば、次に潜入する機会を得るには精神を病んでしまった架空の身内を連れてこなければならなくなってしまう。平井さんのとこからそんな人間を一体借りてくることはできるだろうが、そこまで大事にしたくはなかった。
と、そのとき丁度職員の説明が施設内での治療に移った。
「当院では入居者同士の交流や向精神薬など症状に応じた薬物の投与に加え、専門家の談話や絵画教室なども治療として取り入れております」
治療内容の調査を遂行するためには、ここだと桜は思った。職員の説明が次に移る前に言葉を挟む。
「あのー……その治療も見学してみたいのですけど……」
「そうですね、ではぜひそちらも見学していただきましょう」
ここぞとばかりに精神を衰弱させたふりをして見せると、どこか調子のよくなった職員がさっそく桜を治療棟に案内し始めた。
治療のための病棟は生活するための病棟は違うようで、先ほど案内された病棟とは別の病棟に入る。そこは精神の治療という分野を扱っているが故に、独特の雰囲気があった。初めてそんな場所に足を踏み入れた桜は、それが他の病棟でも同じなのかこの病棟特有のものなのか判別がつかなかった。
ただ桜はこれまでの半生の中に、この病棟に漂う空気と似たものがあったように感じていた。けれどそれが何か病棟に入ってから考えていたが、見つける前に職員が桜に声を掛けた。
「こちらがレクリエーションルームとなっております。現在は絵の創作活動を行っているところです」
そう言って職員は大きな部屋の扉を開ける。中では職員の言った通りに治療を受けている入居者がそれぞれ絵を描いていた。しかしそれは普通ではなかった。
入居者はみな一様に異様としか形容できないような様子で絵を描いていたのだ。それこそ正体を失っているのではないかと思えるほどだった。焦点の合わない目とかたかた震える手で一心不乱に絵を描き上げている。それは精神治療なんていう言葉で片付けられるものではなかった。そもそもこれは本当に精神治療なのだろうか、これでは逆に精神が衰弱してしまいそうだ。
「……創作、ですか」
桜は目に飛び込んできたその光景に、なんとか精神を沈めたままやり過ごすことができた。そして何かに憑かれているようにキャンバスへと向かう入居者の姿に、ここの雰囲気がかつて修行の一環として訪れた狐憑きの斎場に似ていると気が付いた。
なるほどエリカが私に依頼した理由はこれかと、桜は調査対象の一つを注視した。
桜は職員に許可も取らず、病んだ人間がそうするような足取りでふらふらと入居者の一人に、正確には彼らが描いているという絵に近づいた。桜の行動を職員も、絵を指導している職員も誰も止めようとしない。
キャンバスに近づいて心身ともに疲れた様子で絵を覗き込む桜。瞬間、彼女は自分の心が思い切りぶん殴られたような感覚に襲われた。まるでイベリア半島の南部に存在するジブラルタルの巨岩が打ち寄せる白波のことごとくを跳ね返しているようなその絵は、もはや風景画を超えて宗教画の域に達しながら見る者の心を激しく揺さぶった。
肉体に限らず精神的な修行も山伏の如く行ってきた桜だからこそ、そんな宗教画の持つ異様な力にも心を持っていかれる事はなかった。けれどもその心に負ったダメージは甚大であり、もはや桜は精神を病んでいるふりなどしなくてもよくなった。
(結構まずいかも……)
早くも治療を受けさせてほしいと言ったのは軽率だったかと臍を噛む。精神を揺さぶられて視界がぐらぐらと揺れて手足も僅かに麻痺しているほどだった。エリカの望むと思われる情報を手に入れただろうが、しかしここから脱出できなければどうしようもなかった。このままでは私がそのまま入院することだってあり得る話だった。
一先ず職員のところへ戻ろうと、ふりではないふらふらとした足取りで歩き出す。しかしそのときぐらり揺れる視界の端に、桜は入居者の肌が岩のように変質しているのを見た。
そのとき忌まわしい記憶が桜に湧き上がった。エリカと初めてあったときの事件、邪神に関する事物よって人が変貌していく呪いと変貌した魚人の姿。いまこの精神病院で行われているのは人を邪神の信者とし、その眷属を増やすことだと桜はほとんど直感的にそう理解した。
ここで引くべきだと思う。この治療と称するものだけを報告したとしても、エリカは十分だと判断する可能性はある。けれども桜の目の前で繰り広げられている行為が本当に絵画教室で、例えば一心不乱に集中することが治療につながることも考えられる。専門家ではないのだから、少なくとも桜にはそうでないと断言できるだけの知識はなかった。
「他にも、どのような治療を」
職員のところまで戻った桜は、結局そう言って調査を続けることにした。
桜は一息吐いて先に歩き出した職員のあとを追う。その後ろ姿をまた別の職員がじっと見つめていた。