「ありがとう、助かったわ」
保穂は九蔓高校の正面に掛かった時計を見上げながら、女生徒にそう言った。だいたいの場所は分かっているとはいえ、昨日とは違って徒歩で来たのだ。彼女の案内がなければ周辺の詳細な道などがわからなくてもっと時間がかかっただろう。時計は9時30分を示していて、それに合わせてチャイムが鳴っていたが、もう何度か遠くから聞こえるチャイムを聞くはめになっていたかもしれなかった。
「ああいえこちらこそ……」
女生徒は力なく返事して、魚人に襲われた公道から学校という安心できる場所に辿り着いた安心感からか、その場にへたり込んだ。魚人から逃げたことによる疲労もあったのか、保穂が手を貸しても立ち上がれなかった。
「どうしましたか」
その様子を見ていた守衛が少し慌てた様子で駆け寄ってくる。こんな田舎町での見慣れない顔だからか守衛もまた保穂の顔を覚えていたようで、事情を説明するとすんなりと状況に納得した。もちろん魚人のことは伏せて暴徒に襲われたという事にした。
しかしその後も昨日の冷静な様子は見る影もなく、守衛はどこか慌ただしく右往左往している。多くの異常事態が重なって守衛も冷静な判断ができていないのだろう。
保穂は申し訳ないと思いつつ、その隙に甘んじることにした。
「この子は歩けそうにないので、私が保健室まで負ぶっていってもいいですか」
「ええ、ええ。お願いします。場所は受付に聞いていただければ」
「そうですか」
そのまま押し流すような勢いで女生徒を負ぶって正門を抜ける。昨日も話した事務員に声をかけて同じ説明を繰り返すと、事務員は少々お待ちくださいと保穂をその場に残しこちらも慌てた様子で恐らくは職員室がある方へ小走りで行ってしまった。
守衛や事務員の様子を見たからか、学校には緊急事態下のような緊張感や不安感が漂っているように保穂には感じられた。それは背中の女生徒も同じだったようで、保穂に抱き着くその腕が固くなった。
するとどたどた足音とともに事務員が佐藤先生と白衣を着た恐らくは養護教諭の女性を連れて戻ってきた。二人ともやはりどこか焦燥感のようなものを隠しきれていない。
「大丈夫ですか、保健室はこちらです」
ぐったりしている女生徒と肩の部分の服を裂かれている保穂を見てまず養護教諭が保健室まで急ぎ足で先導した。廊下を歩き階段を一つ上がってすぐに保健室があり、鍵を開けて中に入る。
養護教諭は、ただのひっかき傷にしては深くえぐら、更にはほとんど出血していない傷を不審に思いながらも消毒と手当を済ませた。女生徒はベッドに横たわり、保穂を手当てした養護教諭が今は側についている。どうやら極度の緊張と不安から解放された反動ですやすやと寝息を立てていた。
その様子をほっとしながら見ていると、佐藤先生が保健室の扉を開けて静かに保穂を外に招いた。
「どうしましたか」
保健室から出て後ろ手にその扉を閉める。無駄な声で女生徒を起こさないという先生の配慮に乗らない理由はなかった。
「……それでその暴徒というのは……」
佐藤先生が重々しく口を開く。日本という世界でも比較的治安のいい国でごく普通の生活をしていたのならば、ほとんど聞く機会などない言葉や事態に、学校教員としても一市民としても聞いておきたくもあれば事実から目を背けたいような、そんな思いが口を重くしていた。
どうしたものかと保穂は少し悩んだが、昨日のコモンルームでの取材を見ている佐藤先生には言ってしまってもいいだろうと思った。
「……そうですね、いや実は暴徒ではなかったんです」
保穂の言葉に佐藤先生は一先ずほっと一息吐いた。保穂の嘘を咎める気持ちよりも安心の方が勝ったのだ。けれどのその安心は続く保穂の言葉で消え去った。
「女生徒を襲おうとしていたのは実は魚人です」
「まさかッ!」
突如として廊下に現れた得体のしれない言葉に、思わず佐藤先生は声を荒げた。それを保穂は静かにという一言と自分の口に指を当てるジェスチャーによって制した。その若い女には出せないような、生きてきた時間の長さを叩きつけるような威圧感でもって無理やりその口を閉ざさせたのだ。
「昨日のコモンルームでの取材でも別の女生徒が言っていたでしょう、あの特徴はまさしく魚人のものだった。それがこの町にいても不思議ではないし、それでも信じられないならあとで女生徒にも聞いてみてください」
「……それもそうですな、失礼しました。いやそれにしても生徒を助けていただきありがとうございました」
魚人の件はいったん置いておくことにしたのだろう、佐藤先生は生徒の件で深々と頭を下げた。
保穂はそんな話題の転換に少々申し訳なく思った。佐藤先生だって学校の教諭としてもこの町の一住人としても色々考えなければならないことが多いのだろう。水の確保や外部との連絡、生徒の統制なんかについても考えているはずだ。本来なら保健室にいるだろう養護教諭と佐藤先生が職員室にいたことからも、会議をしていたのではないかなどと推察できる。そこに魚人が町に出たなんて言ってしまうのは、少しばかり軽率だった。
「いえいえ、たまたま通りがかっただけですから。それに私も学校に用事があったので道案内助かりましたし」
「用事……ですか、しかし取材の約束は放課後のはずでは。それか他に何か」
「取材の事ですよ。昨晩の雷雨で外部とデジタルな連絡が取れなくなってしまったので、一旦この町の調査は諦めて大学へ戻ろうかと。雷雨の翌日に私が来ないとなると無駄な気をもませてしまうと思って挨拶に来たんです」
「ああそうですか……いや、それは難しいと思います」
えっと驚く保穂に、佐藤先生は顔を低く寄せ周囲に聞こえないように手で口元を隠しながらひそひそと続けた。
「実は山が土砂崩れしたようでして……町から外に出る唯一の山道と線路がどちらも使えなくなったんです」
「そんなまさか」
保穂も佐藤先生に合わせて周囲に声が聞こえないように小さい声で話し出した。もし運悪く近くを通りがかった生徒にこの会話を聞かれでもしたら多大な混乱を生むことは必至だ。それを防ぎたいという佐藤先生の意図は保穂にも簡単にわかった。
「町外から出勤している先生は昨晩、土砂崩れの心配から学校に泊まって明朝に一度帰宅することになっていました。その道中で土砂崩れを発見して、あれでは町外に出られないと引き返してきまして」
「なるほど」
確かに電波障害や水道の異変に加えて町外にも出られないとなれば学校も混乱するに違いなかった。
しかしこれでは町外に出ることが困難になってしまったと保穂はため息を吐いた。むろん人を超越したことを自覚している保穂のことだ、困難ではあるがキャリーケースを担ぎながら雨に濡れた山を一つ超えることはできる。
ただそれは他の人にとって多大な徒労であると同時に、保穂にとってもそうだった。
「……ならもう少しこの町に残って研究調査をしたいと思います。また放課後に取材に伺いますのでよろしくお願いします」
これもまた運命だと町での調査を続行することに決めた保穂は、そう佐藤先生に頭を下げた。そのまま町に行こうとしたのだが、ふと気が付いて佐藤先生に住所を確認してから校舎を後にした。
魚人から回収した免許証には魚人に変貌する前の人間が住んでいた住所が示されている。メモした町の情報と住所を頼りに保穂はその彼が住んでいたアパートへと足を向けた。