守部桜と幻想   作:KRYP

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恐怖の世界 保穂⑤

 暇つぶしにコンパスをくるくる回しながら、同時に高校で教えてもらった魚人の住所がある方角に向かって歩く。スマートフォンの充電ができなくなった時のためにいつも鞄に入れていたコンパスが役に立った。電波を使用しない機能を使えるには使えるが、今は出来るだけスマートフォンの充電を減らしたくなかった。

 既に水と電波が使えなくなっている、いや呪術ともいうべき雨ごいによって引き起こされた豪雨により使えなくさせられているのだ。いつ電気まで使用できなくなるかわかったものではない。

 まだ町に混乱は訪れていなかった。しかし町の状態を考えるにいつ暴動が起こってもおかしくはない。

 水道が使えないというのだから、人々は日々の水不足におののくだろう。となれば使用可能な水が飲料水の形として売られているコンビニやスーパーに人が駆け寄るだろうが、店舗数や在庫にも限りがあるし、同じく水不足の心配を抱える従業員が素直に在庫を吐き出すとも限らない。行政に詰め寄るものもいるはずだ。

 嫌な方に進んでいく思考に思わずため息を吐いてしまった。

「それにしても町はそんなに汚れていないのね」

 川沿いを歩きながら町を眺めてそう思う。あんなに雨が降ったのだから、川の一つでも氾濫していてもおかしくはない。しかし道路には氾濫後特有の汚れが一切見当たらない。川がないのかと言われればそんなことはなく、この町にはそんな氾濫しそうな川が多いくらいあるし、そんなにきちんとした堤防があるわけでもない。

「川が深いっていうわけでもなさそうなのよね」

 ガードレール越しに川を覗き見ても、昨晩の豪雨でもあれば氾濫しそうな川の深さであることは間違いない。

 昨晩の豪雨のように雨ごいの魔術のような何かがされたのかと、普段なら考えすらしないそんな在りうべからざる考えで以って川を注意深く眺めた。

 と、そのときハッと息を呑んだ。この辺りの下流にあるのはおかしいくらいの長い巨岩がのそりと動いたのだ。ただの岩ではない、かのジブラルタルにあるという海峡の大波を打ち返す巨岩に似たものが。

 それは豪雨のために速くなっていた川の流れによって少しずつ押されているが、先ほどのは明らかに川の流れによって動いた動き方ではなかった。

 その巨岩はこっちを向いた、そう確かに保穂の方を見たのだ、恐らくは首と言うべき部分をぐるりと回して。

 少なくとも保穂にはそのようにしか見えなかった。

 ただの見間違いかもしれない。けれど保穂はタブレットを取り出してその岩を写真に収めると、急いでその場を後にした。

 空は晴れていたのに、今はなんだか暗くなっているように思えてきた。

 

 

 

 

「ここが魚人の住んでたアパートかな」

 住所をあてに歩いていると、どうやらそれらしい大きなアパートがあった。そのアパートは魚人が住んでいたにも関わらず、ごくごく普通のアパートに見えた。もちろん都会にあれば普通の大きさでボロくセキュリティ的にも問題視されるだろうが、私はそのセキュリティの甘さに甘えることにした。

 さっそくアパートに乗り込み、いきなり本命から攻めるのもなあと少し離れた部屋から話を聞こうとインターホンを押す。

「すみませーん、少しお話をお伺いしたいのですが……」

 そんなことを言いながら色んな部屋を回り、都合5つ目の部屋でついに住人が顔を覗かせた。

「はいー……なんのようですか」

 心労にくたびれた40代くらいの主婦がチェーンの掛かった扉越しに返事してきた。朝から生活インフラが一部ダメになったダメージがその顔には如実に表れていた。交渉用にした飲料水をちらつかせると、その眼が変わった。

「実は302号室の田村さんのことで──」

 ガタッとそう言った瞬間、主婦は空いた扉の隙間から目いっぱい顔を出そうとしながら周囲を見回し、口に指をあてながらシーっと声を漏らした。

「ちょっと入りなさい」

 主婦はチェーンを外して保穂を部屋の中にほとんど強引に引きずり込んだ。普段なら多少は抵抗しただろうが、保穂もなんだなんだと思っているうちに、気が付けば土足のままリビングまでやってきていた。

 どうやらこのアパートで魚人であった田村という元人間の話は禁句らしいと、恐ろしい顔をしている主婦を見て保穂はそう思った。

「まあまあこれでも飲んで少し落ち着いてください」

 まだ尋常ではない主婦にペットボトルの飲料水を差し出すと、主婦はごくりと喉を鳴らしてペットボトルをひったくり水を飲んだ。水分は三日取らなくても大丈夫というものの、半日でも喉が渇くのだろう。

「お水ありがとね」

 主婦は半分くらい飲んでようやく息を吐いて落ち着いた。

「でもなんで田村さんのことなんか……」

 今度はまた別の理由でため息を吐く。まさか魚人になっていたとは言えず言葉を濁すと、怪訝な表情をしていた主婦が再三のため息の後に口を開いた。

「田村さんのこと最近は見てないからいま何をやってるかとかはわからないわ。ちょっと前まで少しは姿を見ていたけど、引っ込み思案なのか話したことはないわねえ」

 うーんと、もらった飲料水に見合う分だけの情報が何かないか主婦は唸りつつ考えていると、ああそういえばとぽんと手を叩いた。けれど主婦はすぐに表情を曇らせて言いよどんだ。

「……そういえば104の水谷さんとは話していたようだけど、あの人も……ねえ」

「なるほど、情報提供ありがとうございます。それでは」

 何がねえなのか保穂には分らなかったが、これ以上はあまり情報を得られないと判断して保穂はさっさと切り上げて部屋を出た。

「さてどうするか」

 魚人であった302号室の田村に彼と関係があった104号室の水谷、その両名はマンションの住人からあまりいい印象を持たれていないらしい。飲料水をチラつかせた効果もあっただろうが、五つ目の部屋で彼らの話を聞けたのは運が良かったと思う。これ以上、彼らの情報を聞くのは厳しい気がする。

 となればどちらかの部屋から調査するのだが、既に死んでいる田村の方が調べやすいだろうと、保穂はまず302号室に向かった。

 

 マンションの住人とはあまり交流を図っていなかったような人間の部屋だ。死んでしまった住人の他に誰か連れ込んでいるわけもないだろうと、ノックもインターホンも押さずにドアノブを回す。するとどこかで予感していた通り鍵はかかっておらず、ぺりぺり何かが剥がれる音の後に扉が開いた。ごく普通の人間がもし魚人に変貌していくとしたら、恐らくはどこかで発狂してこれまで生活していた空間から飛び出す。そんな人間に鍵を掛ける余裕なんてあるはずがないと考えたが、その通り扉が開いて助かった。

「やっぱりというか、暗いわね……」

 部屋はドアを開けたというのにほとんど何も見えないほどに暗かった。普通はあるはずの生活のために必要な電子機器の光やカーテンからの光なんかも一切なかった。それは魚人になるにつれて失われていった瞼のために、あらゆる光を防ごうとしたための処置によるものだった。

 見るとドアとの隙間からの光を防ぐためのガムテープが張られてある。そんな風に黒い段ボールなんかを窓に貼ってあったりするのだろう。

 スマホのライトを付けて部屋を照らす。残バッテリー量からみてもこの部屋ともう1つくらいなら余裕で探索できそうだった。

 そのまま部屋をどんどんと踏み荒らしながら探索するも、見つかるのは腐った食べ物か過保護な毒親からの手紙くらいなもので、魚人に関係するものは何も見つからなかった。他には

「こっちで何も見つからないとなると……もう一つの104号室か」

 保穂は302号室に見切りをつけて今度は104号室に向かった。

「こっちも……」

 ため息を吐きながら、302号室と同じく鍵のかかっていないドアを少しだけ張り付いているガムテープの抵抗を受けながら開け放つ。やはり太陽の光が反射して部屋の中にも入るはずなのに、光が室内に侵入するのを拒んでいるかのように部屋は暗いままだ。

 スマホの光で照らしてようやく部屋は明るくなった。そうして部屋を照らしながら何かないか探し始めると、本棚にどす青い背表紙の本を見つけた。

「なにこれ」

 本棚の中で一つだけ特異的な背表紙をしていたその本が気になって手に取ってみる。

 そして表紙を見た瞬間、保穂はその大海の荒れ狂う只中を何層にも重ねて描いたような表紙に精神を大きく揺さぶられた。それは即座に身体へとフィードバックされてぐわんぐわんと視界が揺れる。保穂はえずきそうになったが吐き気を抑える余裕はなかった。

 その揺れは次第に自分が海で大波に揉まれているような気分にさせ、潮の臭いに包まれたまま海中に引きづり込まれそうになって、保穂は一瞬だけ部屋の中でもがきそうになった。

 しかし保穂はその精神力で以って吐き気と衝動を抑えつけると、空中を掻こうとした右手をそのままポケットに突っ込んでナイフを取り出し、刃をさらして左手の平に思い切り突き刺した。

「はぁ……はぁ……」

 ぽたぽたと左手から血が滴り、その上にへたり込んで大きく肩で息をする。危うく精神を海底まで持っていかれるところだったと、保穂はほっと一息ついた。同時に、自分が仙人だったからよかったものの、もしごく普通の人間がこんなものを見れば即座に心を海底まで引きづり込まれるだろうと思った。

「こんなものを読んでいれば心はおろか身まで海に還りそう……」

 敬虔なクリスチャンがキリストの受難に共感するあまり、その身に聖痕を宿すように。呼吸を整えながらそんなことを考える。そこまで心を揺さぶるものはほとんどない。とすればこれも海に関する宗教関連の教本かもしれなかった。

 これが魚人に関する、もしくは蔭洲升で見たあの宗教画にも関連するものである可能性が保穂の中で浮かんできた。

 ふぅーっと大きく息を吐き、意を決してばっと本を開く。同時にまた精神を大きく揺さぶられないようにナイフを親指の爪の間にねじ込んだ。

「ぐぅぅぅ……」

 保穂の低い呻き声がぺらぺらと本を捲る音に混じって部屋に響く。ぺらぺらと捲っていくと、全く見たことのない文字と蔭洲升で見た神の姿や、より強大と思しき神の姿もあった。

 順に突き刺していった中指で、もうこれ以上は本から内容を読み取れないと判断して本を鞄にしまう。

「はぁ……まあ収穫はあったかしらね」

 

 保穂は本が魚人の原因だと断定してアパートの調査を終えた。潮の臭いまで漂ってきそうなアパートを抜け出して時計を確認すると、針は3時過ぎを示していた。

 保穂は一先ず放課後の取材を行おうと九蔓高校へと向かった。

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