空に赤みがかかり始めて、その赤がほんの少し須利戸町に降りかかっている。町の様子に目立った混乱はまだ見られないが、それでも町に赤色が少しずつ降り注いでいるのと並行して混乱がぽつりぽつりと生まれようとしていた。九蔓高校に向かうまでのコンビニやスーパーには人が殺到していた。飲料水がすべての人に渡ることはないだろうというくらいの人だかりが店にできている。
電気まで使えなくなれば行政の治安維持機能も正常に働かなくなるが、そうなれば町民は飲料水を購入できても略奪に怯えなければならないだろう。町に混乱が到来しようとしていた。
「はぁ……」
暴徒化した町民に襲われながら調査しなければいけない未来を憂いてため息が出る。けれど本当に大変なのは町民であり、これから取材に行く高校の生徒たちなのだ。
道の脇を見ると自動販売機があった。それはが既に売り影に小さく目立たないようにあったからか、まだ何の商品も売り切れていなかった。一人の生徒を助けたといえ、その恩だけを持って学校に行くには抵抗があった保穂は、鞄に詰めれるだけの水を購入して鞄に詰めた。
九蔓高校は町で起こり始めている騒動とは打って変わって静まり返っていた。守衛に水を差しいれながら声をかけると、もう保穂を見慣れたのか守衛は笑顔で迎えた。彼もまた町民と同じく喉が渇いていたのか、ペットボトルを受け取ると一気に半分くらいまで水を飲んだ。
入校の許可はすぐにもらえたが今はまだ授業中だと注意を受けた保穂は、一先ず今朝助けた生徒のことを確認しようと保健室に向かった。
保健室のドアをノックすると、中から養護教諭のどうぞという声が聞こえてきた。
「失礼しまーす……」
治療を受けている生徒がいる可能性を考慮して静かに入室する。けれどそんな心配は不要だったようで、二つあるベッドはどちらも空だった。助けた生徒はもう大丈夫なのだとほっとすると同時に、学生時代を思い出して少し懐かしくなった。
「あら、ええと確か平岡保穂さんだったわよね。今朝は生徒を助けてくれてどうもありがとう」
「いえいえ人として当然のことですから」
「でもあなたも若い女性なんだから気をつけてね。その手、治療してあげる」
保穂はまさか自分が仙人であることなど言えるわけもなく、ほとんど治りかけている左手を養護教諭に差し出した。消毒液で血を拭われて特に深々刺したためにまだ自然治癒していなかった親指に包帯が巻かれる。
「そういえば佐藤先生から聞いたけど、平岡さんってこの町にフィールドワークのために来たんですって」
「ええまあ」
養護教諭まで話が通っているとほとんど全ての先生が私のことを周知しているはずだ、校内をうろついて不審者扱いされることも少ないだろうとほっと胸を撫でおろす。
「じゃあね、歴史部に顔を出すといいわよ」
「歴史部ですか」
養護教員の口から出た単語を繰り返すと、彼女はうんと頷いた。
「うちの高校には歴史部があるんだけど、昔の須利戸町とか調査しててその資料もあって面白いわよ。はい、もう手は大丈夫よ」
「ありがとうございます」
丁度その時、授業終了のチャイムが鳴った。同時に校内の静寂は破れて保健室まで生徒の話し声が届いてきた。保穂はそれじゃあと言って保健室を後にした。
「んー歴史部か、けどなあ」
廊下に出た保穂はそう呟いて顔をしかめた。なぜなら初めに校長先生に挨拶した時に、部活動中の生徒には話しかけないと約束してしまったのだ。
「まあ許可は降りないかもしれないけど、聞くだけ聞いてみるか」
歴史部という私の研究にもつながるような活動をしているのだ、もしかしたら部活動の一環として交流目的で許可が降りるかもしれないと、保穂は校長室に向かう。
校長室のある廊下に行くと、ちょうど校長室から出てきたばかりの校長先生がいた。あたりを見回して誰かを探しているようだったが、こちらを見た校長先生は保穂が話しかける前に声をかけてきた。
「ああちょうどいいところに、少しいいですか」
「ええまあ……何でしょうか」
「いえ実は我が校には歴史部という部活があるのですが、そこの生徒から平岡教授と交流したいと打診がありまして。彼らはこの地域の歴史にも詳しいですから、是非とも協力願いたいのですが」
校長は何とも申し訳なさそうに小さくうつむきながらそう言った。その顔には他にも心労が刻み込んだ皺が走っている。
「構いませんよ」
そんな疲労を少しでも和らげることができるならと、保穂は校長のお願いを承諾した。半分くらいは歴史部の部員に取材やその資料を見ることが容易になると考えてはいたが、それでも残りの半分は校長を慮ってのことだった。
「そうですか、ありがとうございます。では歴史部の部室ですが──」
「校長先生」
校長がほっと一息ついて案内しようとすると、ちょうどショートホームルームを終えた女生徒が校長に話しかけた。左手首にはリストカットしたのだろうか包帯が巻かれていて、右腕には何か書かれた腕章をした何だか陰気そうな女生徒だった。
彼女をみて校長はほんのわずかにたじろいだ。しかしそれも一瞬で、校長の責務感からかすぐににっこりと笑顔を作った。
「ああ、恵子さん。平岡教授には話をつけておきました。交流してくれるそうなので、粗相のないようにしてくださいね」
「ありがとうございます」
恵子と呼ばれた生徒も同じようににっこりと笑顔を浮かべたつもりの表情を作ってみせた。話からすると彼女は歴史部の部員なのだろう。雰囲気からすれば歴史部というよりオカルト部だがと、保穂は苦笑いした。
しかし保穂も歴史というか民俗学の研究をしていながら、当の本人はオカルトの塊なのだった。
「それでは平岡教授を歴史部の部室まで案内してください。では私は職員会議がありますので」
校長はそう言うと、そそくさと廊下を早歩きで行ってしまった。
その後ろ姿にぺこりと頭を下げた恵子は、顔を上げて今度は保穂の方を見た。
「はじめまして。私、歴史部部長の眞鍋恵子と申します。では部室まで案内しますので付いてきてください」
もう一度ぺこりと頭を下げた恵子は振り向いてすたすた歩いて行った。保穂もその後ろを追った。
部室は校舎のなかでも隅のほうにあって、途中から生徒と出会わなくなった。そんな場所は何かやましい事をするにはうってつけだと思うのだが、歴史部以外の生徒はよりつきすらもしないのだろう。部長もなんだか怪しげな雰囲気だし、それだけ不気味な部活ということらしいと保穂はごくりと唾をのんだ。
眞鍋恵子が扉をがらっと開ける。その向こう、部室には廊下から見えるだけでも本棚と何やら不気味でオカルティックな装飾が壁に施されている。お年頃という言葉で片付けるには少々行き過ぎているように保穂は思った。
「どうぞお入りください」
招き入れるような部長の仕草に自然と保穂の体に力が入った。
「失礼します……」
恐る恐る入った部室は廊下から見た一部分がそのまま全体に拡張されていた。保穂でも見たことがないような様式の日本人形に五寸釘が刺されてたり、西洋の黒魔術的な魔方陣や呪文がところせましと描かれたりしていた。よく言えば広く、悪く言えば節操なしにかき集められたオカルトを大いに含んだ歴史が部室には溢れていた。専門家と趣味の違いがそこにはあった。専門家である保穂には深い知識はあっても広い知識はない。保穂は歴史部の活動に素直に感心した。同時に大学で教鞭を執る保穂は教室をこんなにして怒られないのだろうかと心配にもなったが、すぐにこれを怒れるほど度胸のある先生も少ないだろうと思った。普通なら廊下から見ただけで飛び上がって逃げる。
用意されていた席に座った保穂に一枚のメモ用紙が部長から差し出された。
「部員たちからいくつか質問を預かっていますので、今のうちに答えられない質問がないか目を通してください。もうすぐ他の部員も来ると思いますので」
「は、はあ」
開いたメモにはいくつもの質問が並んでいた。さすがに歴史部というかオカルト部というか、質問に一般的なものは少なくて、どうして研究者になろうと思ったとか、今までのフィールドワークで危険な目にあったことはあったかなどだった。
しかし質問の内容や部室の様子から名前だけの歴史部ではないようだ。保穂は逆にこの須利戸町の歴史についてどんな質問をすべきか、考えを巡らせた。