精神が限界に近付いている。けれど立ち止まるわけにはいかなかった。魔法の生き物は旅立ち、月が沈む。彼は一人立ち止まった。
怪しい部屋の中に男一人と女が五人いた。男は中年で女は三種類の制服を着ている。それだけでも怪しいものだが、壁に掛けられた曼荼羅、真言の数々が部屋の壁を覆う。そしてそれらを照らすのはいくつも置かれた蝋燭とその光を反射する鏡だった。
「道者……つまり私も含めて修行によって道教や仏道あるいは陰陽道を極めた、極めんとする者たちは自分の身一つで世界と対峙する力を得る」
男の話に女どもはみな聞き入っていた。さしずめ新興宗教である。
「宗厳さん」
女が一人、女一人を連れてやってきた。引きずられるようにしてやってきた女は涙に瞼を晴らしていた。
「どうした早織、その子は」
「好きな人に貶されたんです。バカとかブスとかって」
すると女は床に倒れ伏し泣きわめき散らし始めた。それは声にならずただただ嗚咽混じりの音に過ぎなかった。ときどきそれらが一つの声を成すことがあった。私なんかもう死んでしまったらいいのにと。
宗厳は心の中でそんな女に唾を吐いた。どうせここにいる連中はみなその程度なのだ。例えば家庭に難があるといっても家を飛び出して身を売る気概などはないのだから、宗厳を縁にして放課後を過ごせば家に帰るのだ。心を傷つけられたといっても、それがもとで病にかかったりするほどでもない。
ここにいるのは、そういう連中ばかりだった。ただ一人、伊形早織を除いて。
しかし利用価値のある人間であることにも違いはない。
「誰しもが傷を抱いている。それが目に見えるか見えないかに関わらずだ。そしてその傷は時にその人間自身を殺してしまう。そうならないためにはどうすればいいか」
宗厳が話し始めたことで、早織は素早く女をなだめた。静かにその話を聞く七人を、宗厳が一人一人見る。それはまさに、その答えがお前たちにわかるかという教師のそれと全く同じだった。
こんなところに集まる女たちは、普通ならそんな視線には敏感に反応し、多大に反発するところだ。しかし女たちはじっと宗厳の話に耳を傾けている。
「修行ですか」
そんな中、早織だけが声を上げた。
「そうだ。道者はいずれもそのような傷によって心身を痛めることは絶対にない。その程度の傷など修行の過程でいくつも乗り越えているからだ。しかし誰しもが修行を積めば道者のようになれるわけではない。彼らはみな特別な存在だからだ」
その言葉に女たちはごくりと唾を鳴らした。
「誰しもが傷を抱えている。ではなぜお前たちだけが、ここに集っていると思う。それは、お前たちがその特別だからだよ」
それは甘美な酒となって女たちの喉を潤した。それは日本酒あるいはウィスキーなんかと比べてもずっとずっと強かったようで、女たちは瞬く間にその言葉に酔ってしまった。
お前は特別なのだよと、誰かに言ってもらえるのは至上の甘言である。社会の荒波に揉まれて生きているものですら抗いがたいものがあるのだ。平々凡々とした世間知らずの若者が逆らえるはずなかった。
しかしただ一人、早織だけは口に含むだけで早々に吐き出してしまった。
「だから修行をするのだ。他の雑多な人間に飲み込まれないように。では復唱したまえ」
そうして宗厳は呪文を唱え始める。それは抑揚をもって、まるで太鼓を打ち鳴らしたときのように部屋全体を、女たちの体の芯を震え上がらせた。それに突き動かされて女どもが復唱し始める。
それは遂に巨大な詠唱となって世界を揺り動かした。しかし早織は口を動かすだけで詠唱には参加しなかった。その詠唱に本能的な警戒心を抱いていたのだろう。
詠唱が終わったとき、遠くで一人の男が命を失った。
「ごきげんよう大川宗厳さん。どうやらあなたの術は成功したようですよ。一応、祝っておきましょう」
不意にどこからか話しかけられる。声のする方に振り返ると、そこには自分が道具として飼っている女子高生と同じような女がいた。臍を出した黒いぴたっとしたトップスに黒いパンツ、全身を覆うレインコートのような黄色いシースルーパーカーといった奇抜ないで立ちの女だ。
そんな女が無邪気に手を叩いている。
自分とそして女がいるというのに、ここがどこか見当がつかなかった。女以外のすべてがぼんやりとしていてわからない。ただ女の鋭い瞳が自分を射貫くだけだった。頭の中で警戒アラームが高らかに鳴り響く。女に射竦められて全身が震える。
「おまえは一体誰だ。そしてここは」
年端も行かぬ小娘に怯えている事実が、なんだか無性に腹立たしくてついつい口調が荒くなってしまった。
「私は守部桜といいます。ここですか。ここはいわゆる精神世界ですよ、あなたのね。夢と言った方がわかりやすいかもしれません。誰しもが自分の内側に持つ自分だけの世界ですが、今回は少しあなたの世界にお邪魔させていただきました」
自分にはそれが荒唐無稽な話だと断じることはできなかった。なぜなら宗厳は自分の夢を荒らされないように、身の回りに結界を張っていたのだから。
しかしその結界が破られてしまい、あまつさえ夢にまで侵入されてしまったのだ。それも自分自身の夢だとすら気づけない。
「さて、国家が体を成すには暴力の独占が必須条件だと言われますが、こちらは全く違った法がありましてね。ご存じかとは思われますが、こちらは取りまとめるものが政府ほど発達しておりませんし、個の力というものがより強く働きますので、ほとんど自然界と変わりなく、力関係が重要でございます」
女は話すごとに下手に下手にへりくだるような言葉遣いに変化していった。
それは女から宗厳に向ける憐憫だった。
「あなたは自身の持つ力の分を弁えない行動をなさいました。ですから、ね」
いうや否や、どこからともなく巨大な樹の根が現れて、宗厳の体に絡みついた。まさにその体から精魂までも吸い尽くしてしまうかのように、宗厳を雁字搦めにしてしまった。
「なっ! なんだいったい」
「それは桜ですよ。あなたの全てを、それこそ骨がカラカラになるまで吸い尽くしてくれるでしょう。この世の未練とか、怨念とか遺恨までも全部ね。だから桜は便利で……だから好きなんです」
もう宗厳の体は見えなくなっていた。
「おやすみなさい」
その一言を最後に、夢は破けてしまった。