桜とエリカの二人が教室に戻ってくると、もう教室は閑散としていた。いつもならもう少し誰かが残っていてもおかしくない時間帯なのに、今日は珍しく誰もいない。
「あれ、もう誰もいないんだ」
だから桜はふとそんなことを言ってしまった。屋上でエリカに黙らされた彼女は、どこかでなにかしら言葉を発したかったのだ。教室に戻るまでの道中ではもうエリカの雰囲気も霧散してしまっていたが、それでも桜は口を開けなかった。
「あー、まあそれはそうじゃないかな」
すっかり女子高生に戻ったエリカは桜を追い越して教室に入ると、置いてあった自分の鞄からプリントを一枚取り出してひらひらと掲げて見せた。桜も教室に入って、自分の鞄にも入っているはずのそのプリントを取って見る。
そのプリントは、この市で連続殺人事件が起こっているから用事のない生徒は速やかに帰宅するように通知するものと、そのような処置を取っていると各家庭に連絡する内容だった。
昨晩の疲れでホームルーム中もぐっすり寝ていた桜は、学校としては比較的重要な通知も全く知らなかった。
「そのプリントにもある魚人の件については昨晩に私が対処したはずだけど……大谷さんは取り逃がしでもあったって言うの」
エリカ曰くこの事件はまだ終わっていないらしい。それは桜が魚人のうち一体でも取り逃がしてしまったことによるものだと、そうしか桜は考えられなかった。
「ボクのことはエリカでいいよ、苗字にさん付けは似合わないし。で、桜の仕事自体は完ぺきだったと思うよ、たぶん取り逃がしもなかったと思うし、あっても平井が対処してるでしょ。けど問題はそんなところには無い。桜は疑問に思わなかったの、どうして急に魚人なんてものが出没したのかって」
「……ッ!」
エリカに言われて桜ははっとした。言われてみればその通りだった。桜は幼少期から式神やらなにやらと触れてきたから魚人もいるのだろうと漠然にそう考えていたかもしれないが、世間一般からしてみれば魚人なんていうものは存在しえないものだった。そんな表の世界にも桜にも知られていない魚人が急に事件を起こすなど、裏で何某かの策謀が働いていることの証左だった。
「そう、そもそも魚人なんていうものが急に降ってわいてくるわけないんだよ。真実を言ってしまうとね、彼ら元人間は呪いとも言うべきものによって魚人に変貌してしまったんだ」
「呪いってそんな……」
有り得べからざるものを否定しようとした言葉はそこで止まってしまい、最後まで言い切ることができなかった。それもそうだろう、魚人化の呪いとは別種のものであっても桜は呪いというものをよくよく理解しかつ使用していたのだから。仕事として人を呪殺することもある桜が、呪いを否定するなどできるはずもなかった。
春の陽気に満たされていたはずの教室が、途端に不穏な空気で汚染された。
「でもまあ、桜の思っているような日本で言われるところの呪いとはちょっと違うかもね」
エリカはそんな教室を窓際まで歩くと、くるりと振り向いた。ちょうど昼と夕方の境にある太陽の角度で、教室に太陽光が差している。エリカはそんな光に胴から下を照らされ、逆に上は薄暗がりに覆われてしまった。
その影に顔を覆われている姿は、人の本能的に持つ未知への恐怖を刺激するものだった。それは桜とて例外ではない。
「例えば、敬虔なクリスチャンがキリストの受難に触れて聖痕を負う。それもまたキリスト教を邪教と捉えている者からすれば呪いとなる」
言いながらエリカは両手を軽く上げる。するとその両手首に正しく聖痕とも呼べる痕が浮かび上がった。そればかりか額まで横一文字に裂け始めて、茨の冠を思わせる傷が生まれる。それは桜に畏怖を抱かせるのに十分だった。
「まあボクはちょっと違うけど、こんなふうに宗教に触れて体が魚人になっていくようなことだってあるわけ」
「……じゃあ何、そんな海か魚の神さまがいるっていうの」
「ああ、いるさ」
瞬間、空気が止まってしまったかのように張りつめる。桜の当然ともいえる疑問にエリカが短く答えたのだが、言葉の中には怒りや憎しみなど敵意に満ち満ちていた。そんな強烈な感情の発露に、桜はエリカと出会って初めて全身の鳥肌が一斉に立つのを感じた。
それはどれほど続いたのか、桜は長く感じただろうが実際にはあまり時間は経っていなかった。エリカが直ぐに緊張を解いたのだ。それで空気が弛緩されて桜はエリカのプレッシャーから解放された。もう彼女の手と額に聖痕は刻まれていなかった。
「やめてよ」
桜はそういうだけで精いっぱいだった。元に戻ったエリカがそんな桜を見て小さく笑う。
「ごめんごめん、どうしても奴らのことを考えるとね。でまあ、そんな唾棄すべき邪神の信仰がこの町周辺で広がっているか、もしくはその教団員が潜伏していると思うから、桜にはそいつらの調査及び処分に関して手伝ってもらいたいわけ」
先ほどまでの常人離れした様子とは打って変わって、エリカは年相応にニコニコしながら依頼の内容を伝えてきた。その様子と内容とのギャップにおかしくて顔がほころぶ。けれどどこか言葉の奥にはちゃんとその邪神への怒りがあった。
「いいわよ。私もやりかけの仕事から手を引くのは好きじゃないし」
「じゃ、さっそくボクの家で作戦会議しようか。資料も簡単に揃えられるし」
そうねと桜が同意しようとしたとき、ぐーっとどちらかからお腹のなる音がした。
「ハハハ、まずは昼ご飯食べようか、もうお昼過ぎだし」
「それじゃ食堂に行きましょ……ああそういえば食堂にも案内しなきゃいけないんだった。ついてきて」
もう食堂は空き始めているころだろう、昼食には遅い時間だが食堂を利用するにはまあまあいい時間だった。私はエリカを連れて食堂に向かった。
二人は食堂で昼食を済ませ、真っすぐエリカの家に向かった。エリカの家はちょっと小奇麗で一人暮らしには広いマンションの一室だった。
「にしてもエリカってよく食べるのね。食堂の人も他の生徒も唖然としてたよ」
「まあね、怪物と対峙するんじゃあれくらい食べないとやってけないから」
エリカは自分のベッドに腰かけながら笑った。桜もとりあえずカーペットの上に腰を下ろした。その脳裏には食堂でエリカの前に並んだ日替わり定食と親子丼の映像が浮かんでいた。
見た目に反した大食いに食堂で浮かべた苦笑いをもう一度浮かべながら、部屋を見回す。同級生の部屋なんて初めて入ったから一般的にはどうなのか判別しかねるが、それでもエリカの住んでいる部屋はとても質素だと思う。ベッドや机と椅子にパソコンやその充電器が目立ち、後はあまり服が入らないようなタンスが一つあるだけで、そのどれもが何の装飾もされておらず、壁もベージュ一色だった。あまりにも女子校生らしくない部屋に、自分と似ているなあと桜は思った。
エリカはぐーっと背伸びをするとベッドから跳ね起きてパソコンの置いてある机の前にある椅子に座り、そのパソコンの電源を付けた。
「じゃあ早速本題に入ろうか」
一体何のOSを使っているのか、画面中央にぴょこりと日本人っぽい短髪の女の子が現れると、スイッチを押したりレバーを下げるとかの作業をし始めた。他にもせっせこ段ボールの荷物を荷ほどきして部屋を飾り付けたりするその姿に少々唖然としていると、作業が完了したのかパソコンが立ちあがって普通とはいいがたいホーム画面が表示された。
「ニクス、例のやつお願い」
エリカがそういうと、ディスプレイの中にいたニクスという名前だろう女の子が作業台に何度かトンカチをかんかん振り下ろす様子が表示された。変なパソコンだなあと思っていると、すぐに作業が終了したのか作業台に出来上がった紙を広げて見せた。するとそこには周辺の地図と魚人の発生したポイントが点で表示されていた。何ともコミカルで、デジタルなディスプレイには似合わない光景だった。
「ありがとうニクス」
エリカがそう言うと画面のニクスがお安い御用と書かれた看板を立てて地図の後ろに戻った。
昔の人は映画の中に人が入っていたと思ったらしいが、エリカとニクスの遣り取りはパソコンの中にニクスという本物の人間が入っていると桜に錯覚を起こさせた。
「桜、これが魚人の出たとこなんだけど……って話聞いてる?」
「ああうん……ごめんごめん、続けて」
だから桜は少しニクスの方に思考を取られていた。しかし今はまず魚人の方が優先だとぶんぶん頭を振ってディスプレイ上の地図とエリカの話に意識を集中させた。
「でまあ魚人の出現位置から考えると、邪教の司祭がいそうな範囲はこれくらいになるかな」
エリカの話を地図の裏で聞いていたらしいニクスが画面に飛び出して地図に赤ペンで円を描く。その範囲は都道府県までは行かなくとも町以上、市くらいの範囲はあった。二人で調査するには少々骨が折れる広さだ。
「広いわね、こんな範囲どうやって調べるのよ」
「難しそうに見えるでしょ。でも実はそんなに難しくなくってね、簡単な方法があるの。桜は魚人が地上で生活するうえで最も大変なことって何かわかる」
「……いえわからないわ」
「それはね、光だよ。魚人に変貌していくにつれて瞼が失われていくんだけど、そうなるともうカーテンを貫通した光とか電子機器の光なんかも無理になっちゃう。だからずっと引きこもりで電気もガスも使わない生活を送るんだよね。そんな特異的な生活をしている家なんて、現代じゃほとんどないから簡単に特定できるんだよ。ほら」
エリカが画面を指さすと範囲内のいくつかの家が赤で塗られた。
「えっ」
まさか昼から今の間にそんなところまで調査が及んでいるのかと、桜は驚いて間抜けな声を上げた。電気やガスの使用量なんてメーターを見る他には企業の個人データを参照するとか、各家庭のネットワークにハッキングしてデジタル情報を吸い上げるくらいしか思いつかない。もしくは財団の強権を使用したのかもしれないが、いずれにしても行動が早すぎた。
「これくらいか……まあいくつか空き家もあるだろうし、もう少し絞れそうだね」
「日のあるうちに人が住んでるか周囲に聞き込みとかしようか?」
どうやって調査したのかは置いておくとして、とりあえず今はエリカとの作戦会議に集中する。ディスプレイを見ると、日没までに人が住んでいるかどうかの判別が付きそうな場所はいくつか近くにあった。
「そうだね、まだ時間はあるしそうしようか。けど桜は寝とかなくて大丈夫かい、今日も予定じゃ深夜に行動するつもりだったけど」
「二日くらいなんてことないわよ」
「頼もしいね。じゃあ行こうか」
また勢いよく椅子から立ちあがったエリカはスマートフォンをポケットに入れると、ほらほらと桜をせかした。桜はまず心を引き締めることにした。これまで色んな仕事をしてきたが、魚人はともかくとして、その元にある邪教の広まりを封殺するというような仕事は初めてだった。
部屋を出た桜は空に夕暮れを予感させるほんの僅かな薄い赤を見つけた。同時にそれは地平線との間に遅れてやってくる青黒い夜空の始まりをも想起させた。深海にも似た青を。