冬はどれだけ晴れていても、やはりどこか物悲しい気分になる。人がわいわいとお喋りしていても、それだけではどうしようもないというものだ。
午後4時30分。大学とその最寄りの駅とを結ぶ道では、大勢の学生が人波を形成していた。授業を終えた学生が、これからバイトに向かうか帰宅するのだろう、その流れはキャンパスから駅に向かっている。
その流れに歯向かうように、駅からキャンパスに向かって歩く黒い人影があった。人波にあってそれは埋もれることなく存在感を放っている。他にもサークル活動に向かうなどでキャンパスに向かう学生もいたのだが、目につくのはその黒い人だけだった。
黒い外套と黒い帽子に白ネクタイなんて人間は、その学生が作る人波に存在するわけがなかった。
明らかに不審者ではあるが、よほどの女子大でもない限り警備員などは常駐しておらず、それはこの大学でも同じようで、その紳士然とした人間は見咎められることなく構内に入り込んだ。
「十年そこらも経つと、それなりに変わるものか」
校舎を見上げて女の声色でそう呟く。長い鍔から覗くその顔は正しく女のそれだった。女は迷うことなく構内の奥に入り込むと、森中周明とプレートの掛けられた部屋をノックした。
中からのどうぞ―という声を確かめると、女は帽子を取って扉を開けた。
「お久しぶりです。お変わりないようで安心しました」
「おー、久しぶりだね桜さん。どうぞ座って座って、外は寒かっただろう」
「どうせしょうか、学生を見ていると寒いのだなあとは思いますが、如何せん私は仙人ですから、そういった事はわかりませんね」
桜は着ていた外套を脱ぐと、失礼と断って外套と帽子をハンガーに掛けて椅子に座った。
「ふむ、そりゃそうか」
そのとき、予めつけておいた電気ポットがカチッとなった。それを確かめると、森中教授は自分用にコーヒーを淹れた。ふわりとコーヒーのいい香りが部屋に漂う。
「ところで研究はどうですか」
「まあぼちぼちだ。いずれまた桜さんにも手伝ってもらうこともあるかもしれないが……今日はちょっとまた別の要件でな」
本題に入ろうと言って、教授はコーヒーを一口飲んで喉を潤した。
「俺のゼミ生に市岡ってやつがいるんだが、ここ数ヶ月顔を見せないんだ。まあお前たち学生の立場からじゃあまりわからないだろうが、こんな大きな大学じゃ飛ぶ学生はそれなりに出てくる。だからそんなに気にしないし、俺も何度か連絡するくらいだ。普通そういう奴は返信もないもんだが、市岡は助けてとメッセージを寄こしてきたんだ」
気を落ち着かせるためか、森中教授はこのご時世だというのに煙草を取り出した。桜は慣れた手つきでその煙草に火をつけると、桜も自分の煙草を吸った。
部屋にふわりと桜の重たい匂いが広がった。
「その煙草なんかいい匂いがするな」
「そうでしょ。あー、でも先生にはちょっと刺激が強いと思いますから、これはやめておいた方がいいですよ」
森内教授はそうかと呟いて、また煙草を味わい始めた。
冬の夜は早く到来する。茜色だった空は二人が煙草を吸ってる間にすっかり真っ暗闇に変わってしまった。それに冬の夜は随分と冷え込む。この部屋は問題ないが、しかし一歩廊下に出ればそれはそれは辛い。恐らく今頃寒気たちはサークル活動や部活動に励んでいる者に容赦なく襲い掛かっているだろう。
「これなんだがね」
森中教授は桜にスマホの画面を見せた。そこには一冊の異様な本が映っていた。それは青いのだ。それも、空のように透明で透き通るようなものではなく、まるで大海。青の中でも暗色系のもので上に上にと塗られているようで、中心部はもはや吸い込まれそうなほどの黒さになっている。
それも表紙の外縁部から中心にかけて金属製の装飾がなされていた。
「市岡はこの写真と一緒に、人には会えない、この本の呪いだとかって、随分と支離滅裂な日本語を送ってきたんだ。無視するわけにもいかず、さりとて呪いなんてのは門外漢なわけだ……っと、どうした桜くん」
桜は何か思い当たることがあるのか、じっとスマホの画面を眺めていた。話は聞いておらず、森中教授の呼びかけにようやく弾かれたように顔を上げる。
「あ、ああ、すみません。ようはその市岡という学生が、この本の呪いにかかってしまったという事ですよね」
「そうだ。どうにもこうにも、俺には桜くんくらいしか手がかりがないもんでな。こうして連絡を取らせてもらったわけだ。頼むこの通りだ、わかることがあるなら教えてくれ」
教授が元教え子に頭を下げて教えを請い、物事を頼み込んでいる。それは普通なら珍しい光景だろうが、二人にとってはそれほど不自然なことではなかった。一つの事を深く深く探求する森中周明教授と守部桜とでは、所有する知識の範囲が異なるのも当たり前の事だった。
「それはある神と教えについて書かれたもの……いわば教本です。彼の言う呪いについても心当たりがありますが、詳しく教えることはできませんね」
教授は煙草を灰皿に押し付けて火を消すと、ため息交じりにそうかと呟いた。
「無知は罪とはソクラテスの言葉らしいが、知ることもまた罪であるとは多くの神話に共通してみられるものだ。その本は人間にとって無知の帳の外側にあると、そういう事か」
「ご慧眼恐れ入ります」
桜は芝居がかった動作で恭しく頭を下げた。ふざけているとか馬鹿にしているというわけではない事は、桜のその真剣な表情で察することができる。それがわかっているから、森中教授は腕を組みながらうーんと唸った。
「その呪いとやらは解けるのか」
「不可能ですね」
きっぱりと桜は言い放った。まるで通り雨のような沈黙が部屋に到来して、過ぎ去る。初めの音はライターの音だった。
「ですから、この件は私に一任していただきたい」
ぞわりと悪寒のようなものが森中教授に走る。風が吹いたのか、ガタガタと窓が音を立てた。森中教授は桜に学生ではない顔を見て、ぼそりと懐かしいなと呟いた。
「わかった」
森中教授は紙を一枚、机の上に置いた。
「では、ごきげんよう。またいつかお酒でも飲みにいきましょう」
桜はその紙を取ると、帽子と外套を手に部屋を後にした。
校舎の外は寒気が幅を利かせてたむろしていた。不用心にもその中を通り過ぎた人に襲い掛かっては、その身を縮み上がらせた。
しかしそんな寒気でさえ桜には道を譲った。その一歩一歩の足音が、逆に寒気を震え上がらせた。それらは桜が近づくと大慌てで騒ぎ出す。そして桜がくゆらせた紫煙を巻き込んで、方々に逃げ出してしまった。
だから後に通りがかった人は、季節外れの桜の匂いに驚いた。
住宅街にあって、その一角は他と違って明りが灯っていなかった。冬だから夜が来るのは早い。しかしまだまだ普通の人が寝るには少々早い時間だ。古風な門構えと僅かに見える古めかしい住居と相まって、とても不気味な雰囲気を漂わせている。
「藤宮家ねえ……」
桜はそう呟いて高い塀を一息で飛び越えた。住まい部分は古くからリフォームや増築を繰り返したのだろうか、膨れ上がり外部からは構造がよくわからないようだった。しかしそれで桜が止まるわけもなく、影から影へそれこそ影の走る速度でもって家に乗り込んだ。
守部桜という魔人の襲来をはじめに察知したのは屋敷そのものだった。塀を軽々と乗り越えられるや否や、屋敷は宿主の事を裏切って守部桜に服従した。玄関は突き破られることを恐れて勝手に開き、入り組んだ廊下部分は桜の目的の人物がいる寝室まで一直線になるよう、その体を捻じ曲げて歪ませた。そして普段は安眠を支える床が跳ね暴れ、市岡というものをたたき起こした。
そのおかげで桜が市岡の前まで来るのに、屋敷は床が踏み抜かれてずたぼろになる程度で済んだ。
「お前が市岡泰三で間違いないな」
桜は跳ね起こされたものに向かってそう問いかけた。それはもはや人とはいいがたく、まさに呪いを受けた姿であった。本によって、深海に眠る神の呼び声を聞いてしまったものの末路がそこにはあった。髪の抜け落ちた頭部、瞼のないぎょろりとした双眼、分厚く大きく裂けた唇 大きくせり上がった背中、うろこのついた四肢。
「あと一月もすればお前も全てを捨てて彼のものの下へと参上し、歓喜に打ち震えるのだろうが、それまでに人目に付くとあまり良くなくてね」
許せ、と桜は元は市岡であった魚人を細切れにした。
後に残ったのは教本だけだったが、それもずたずたに切り裂く。
桜が煙草を握りしめて粉々にし部屋に振りまくと、その屑は一つ一つが大きな炎となって本や市岡の死体を屋敷ごと燃え上がらせた。
夜の住宅街の一角から黒煙が上がる。それに乗じて、桜は夜空に消えていった。