はてさて一体私たちは何を知っていて、何を知らないのだろうか。
人が誕生した遥か昔から今に至るまで、ありとあらゆる人間が研究というものを行い、その結果として今の世の中がある。しかしまだ現実というものは曖昧模糊としている。
世界は夢であるとかいう思考実験があれば、そういう風な事を描いた作家や詩人、あるいは哲学者も何人もいた。そして今もいる。
今もいるという事は、結局のところ誰も世界の様相を理解しているものはいないという事に他ならない。こんなにも世界というのは身近であるのにも関わらずだ。
世界の様相を知るものがいるとすれば、それはすなわち神という存在だろう。
つまり世界の様相というのは、人と神とを隔てる無知の帳に編み込まれた一糸に違いないのだ。
ありとあらゆる学問がその帳を破ろうとしている。
人がその帳を破った時、あるいは僅かにでも触れてその向こうを垣間見る時、果たして何が起こるのだろうか。
「あのトンネルの先には何があるのですか」
瞬間、空気が張りつめる。老婆はおろか、まるで自然がその答え自体タブーだとでもいうように口を噤んでしまった。これまで蝉の合唱に木の葉を擦り合わせて楽しんでいた山は静まり、地面に当たった光のじりじりという音も消え去る。
そんな異様な状況に、現実が崩壊して夢に入れ替わってしまったような錯覚を覚える。視界がぐにゃりと歪んで地面が不安定になる、力を込めていないとすぐに倒れてしまいそうだった。
それがどれほど続いただろう。実際にはそんなに長くないはずだ。
耐えきれなくなったのか老婆が口を開いた。
「あの先は津安。決して立ち入ってはいけないよ」
老婆はそれだけ言うとふらふらとした足取りでトンネルとは反対方向に歩き去ってしまった。トンネルには背を向け、数々の神話で神ですらが抗えなかったのにも関わらず、一度たりとも振り返ろうとしなかった。
その一方で、私はくぎ付けになっていた。
まるで魅入られてしまったようだ。言い知れない恐怖がそこにはあったのに、視線を逸らせなかったのだ。
講義室は音であふれかえっていた。大方話し声なのだが、期末試験が終わった直後だからか様々な声が混同していた。試験の出来で一喜一憂する声や、四限だというのに途中退場を認めなかった頭の固い教授の愚痴、もしくはそのせいで後半ずっと寝ていたからか欠伸交じりの声。拙い編み物のように、細かく見れば一本一本解けている。
そこにまた一本縫い込まれた。
「お疲れ様。結構余裕そうだったけど、テストはどうだった」
「たぶん単位はもらえるんじゃないかな。えーっと……ヒラオヤスハさん」
「ヒ・ラ・オ・カ・ヤ・ス・ホよ。守部桜さん」
「ああごめんね、平岡さん」
期末試験が終わった直後だというのに、疲れなんて一つもないという顔でニコニコと笑う桜。けどその細められた目から一瞬だけ強いチカラを持った。
「それで、二年間も話していないような人に何の用?」
保穂はまるで本物の拳で正面から思い切り殴られたように感じた。その眼力にたじろいだせいでほんのちょっと仰け反ったのが、保穂の脳に誤作動を引き起こしたのか眉間のあたりが痛む。
そしてそんな事態を引き起こした当の本人は、すっかりもとの眼に戻っていた。
そんな眼力いらないだろうと思いつつも、向ける理由もわからなくはないと保穂は思った。それに自分も似たようなことをするのではないか。どこに危険思想の持ち主や詐欺師が隠れているともわからないのだし、ほとんど話さない人間に話しかけられたなんていうのは、警戒してしかるべき案件だった。
「す、少し手伝ってほしいことがあるの。内容はこんなところで話してもつまらないし、どこかでご飯でも食べながらどうかしら」
こめかみに冷や汗が垂れるのを感じる。まるで昔テストの結果を親に見せた時のような、妙な緊張感が走る。
「いいわよ。じゃそれこそこんなとこにいてもどうしようもないし、さっさと行きましょう」
ほっと息を吐く。気付けば講義室には他に誰も残っていなかった。私も席に置いてきた鞄を手に教室を出た。
「店のめぼしは付けてあるけどまだ予約はしてないの。守部さんは何か食べたいものでもあるかしら」
「そうなの。じゃあ私が行きたいところに行きましょう。個室もあるしあまり人もいないから話しやすいと思うわ。ああそれと私の事は桜って呼び捨てでいいから」
壁際にある、それこそ使うのは手のひらサイズの小人ぐらいだろうって小さな襖が静かに開く。そこには何とも高そうな石皿に乗せられた焼き鳥が二本、それとぬるま湯に浸かった燗酒があった。
手を伸ばして取ると、食欲を本能から刺激するような匂いと熱で飛ばされてきたアルコールが鼻腔をくすぐる。
「あっ、きたきた」
桜はさっそく酒を自分のお猪口に注いで口に含んだ。短い時間、けれども香りや味を十分に味わってから飲み込む。そして恍惚といえるような惚けた顔でため息を吐いた。
「……おいしい」
酒の方は分からないけどとにかく美味しいし、焼き鳥の方は絶品だった。素材がまず違うというのは分かるのだが、これまで味わったことのない絶妙な火加減というものがあった。なるほどこういうのを職人技というのだろう。
「いいお店でしょ」
「ええそうね」
純和風の個室はそこらの居酒屋にある個室とは比べ物にならないほど清潔感に溢れている。それでいてライティングはそこまで明るくないから、落ち着かないという事はない。料理は言うまでもなく、普段からあまり酒を飲まない私でさえ、もう少し飲みたいと思えるものだった。
私でさえなのだから、こんな店に連れてきた桜はまるで砂漠の旅人が水を求めるかのように、体内に流し込んでいた。頬がほんのり色付いているのは燗のせいだけではなく、それ以前に摂取された多量のアルコールにもよるところがある。
これまで僅か30分。蟒蛇というか、もはや腹に酒虫でも飼っているんじゃないか。
「それで、手伝ってほしいことってなに」
見れば、どんな魔法を使ったのか桜から酔いがきれいさっぱりと抜け落ちていた。不定だった姿勢も一つ姿にキチンと収まり、赤みが消えて目もはっきりとしている。
「フィールドワークを手伝ってほしいのよ」
「フィールドワーク……」
桜が要領を得ないといった風に聞き返す。
「そう。以前も一度だけしたことがあるのだけど、その時は村の人に止められて行けなかった場所があるというか、怖くて行かなかったというか。でも気になるのよ。だから一緒に調査してくれないかしら」
「そういう事ね。まあ春休みは特にすることもないし、手伝ってあげてもいい。というか、そんな顔されちゃ断れないよ」
にっこり笑う桜。そんな顔とはどんな顔だろう、自分ではよくわからないのだが、よかったと胸を撫でおろした。
桜がけれど、と続ける。無意識だけれど体に力が入っていくのがわかる。
「ここの支払い多く出してね」
「いいわよそれくらいなら」
何を言われるかわからなかったから少し身構えてしまったが、お金でなんとかなるならそれに越したことはない。
同級生に金で依頼するのは気が引けるが……と思ったところで別の事に思い当たった。
ここの料理はすごくおいしい。特に焼き鳥は絶品で、焼き加減なんて、それこそそこらの店では味わえないだろう絶妙な火加減だ。出てくる酒もそれぞれ名前がついていて、そこらの居酒屋のメニューにあるような、ただ日本酒とだけあるようなものとは同じ種類で括っていいものかと憤ることさえ許されるんじゃないだろうか、というものが提供される。
一体いくらするのだろうか。
熱燗で体が温まった、では言い訳できないような発汗の予感が走る。けれど目の前では桜が私のおちょこに酒をなみなみ注ぐ。
ああ……ダイエットに失敗するというのは、こういう感覚なんだろうな。
私は伸びる手を抑えられなかった。
数時間後、個室には正体を失った女とそれを肴にちびちびとやる女が出来上がった。ぐたりと机に突っ伏した保穂は夢現の間を行ったり来たりしている。現に帰ってきては〆の小ラーメンを食べて水を飲み、夢に旅立っては小さな寝息を立てた。
「そういえば、その行けなかった場所ってどこなの」
桜がちょうど帰還したところに声をかける。
「んー……」
保穂は声とも唸りともつかない音を喉から発して、何とか水をたぐり寄せて口を付ける。すると、砂漠に垂らした水のように瞬く間にコップが空になった。
一応桜に答えようとしているのか、姿勢を正す。けれど感覚が散らかっているのか頭がぐわんと揺れる。
「美味しかったのは分かるけど、そんなピッチで飲むから潰れるんだよ。次からは」
「津安……」
「えっ」
保穂が桜の言葉を遮って単語を発した。普段の彼女なら絶対にそんなことはしない。少なくとも断りを入れるだろう。しかし酒が人の本性を暴くというのとは違っていて、たぶんアルコールで浸された神経はまともな速度で桜の言葉を運べなかったのだろうし、思考というのにもひどく時間がかかったはずだ。
一つ言葉をつぶやいた保穂は、何とか自分を律していた糸の一本が切れたのか、再び頭を机に付ける。まだ夢には旅立てないようで、ふらふらと手だけを動かして水を求めている。
「津安か」
呟いた桜は、ほんの少し前までの面影など露ほども残さないほどに変性した。姿形は変わらないのに、その中身はまるで悪魔か鬼にでもなったようだ。キャンパスで保穂に放った眼光などそれの前では逃げ出してしまうだろう眼で、保穂を見つめる。
「私の友達も一人、連れていくけどいいね」
それはまるで抑えつけるかのような言葉だった。けれど幸いなことに酒に酔っていたせいか保穂には効果がなく、そしてやはり物事を考えることができなかった。
「……ええ、いいわよ」
その言葉を最後に、再び夢の世界に旅立つ保穂。そんな様子を見ながら、とりあえずここは私が払おうと桜は思った。