明かりがほとんどない暗い部屋で、少女がいまのっそりと起き上がった。カーテンは閉め切られて外からの光もなく、あるのは夕方から稼働しっぱなしの冷房に付いている青白い光だけだ。それが少女にほんの少しだけ部屋の様子を伝える。
「んん──ー……ぁ」
欠伸混じりの伸びをした少女は、カチカチと弱い電灯を付けた。
人工的な光が部屋を照らす。出来ればカーテンを開けて朝日を取り入れたいところ。しかし例え夏場でなくても少女の部屋を外に晒すわけにはいかなかった。
冷房でなんとか快適性を保っていた部屋から一歩廊下に出ると、そこはもう夏が支配していた。少女は包み込む熱気にうなだれ、床や壁を反射する白い光に思わず一瞬だけ目を覆った。夏である。全てにほんの少しだけ影を纏わせる冬はとうに過ぎ去り、視界が白むほどの夏が到来した。
少女は暑い暑いと息を吐くたびに言葉を床に落としていった。けれどそうしたからと言って気温が下がるわけでもなく、ぽつぽつと額に汗が浮かんでくる。
少女はそのまま洗面所で歯を磨くと、パジャマを脱ぎ落してバスルームで水浴びをし始めた。
桶に冷水を溜めては頭からかぶり、また溜めてはかぶりを何度も繰り返す。それは浴みというよりは垢離、まさに水垢離だった。夏の熱気や人いきれが不快感や、ひいては汚らわしさまでもを掻き立てるのならば、冬の冷気は清浄をもたらす。それに空気中の塵埃を洗い流す雨という概念が合わさって、水垢離なんていうものが生まれたのだろう。実際に水垢離を終えて冷え切った彼女の体は、水滴を拭い去って汚れなんていうものとは決別されていた。
しかしそんな状態を保っていられるのもせいぜいが家の中だけ。一歩玄関あるいはマンションから出た時点で、汗が吹き出し始め、高校に着くくらいにはもう熱気に包まれてしまう。
ショートホームルームが始まる8時30分ぎりぎり、いつもと同じような遅い時間に桜は教室に入る。部活動の朝練習に励んでいたクラスメイトすらも既に教室で談笑していた。しかしどこか暗い。学校のどこかでけたたましく鳴いている蝉が、今日に限っては場違いなBGMに聞こえてしまう。
桜が教室に入ると、いつものようにエリカが待っていた。
「おはよう桜」
「おはようエリカ。ところで、なんだか教室の雰囲気がいつもより暗いんだけど、何かあった」
桜は教室を見回して首を傾げた。クラスメイトはみなSHRが始まる直前だというのに、いくつかのグループを形成していた。そしていつものように会話に花を咲かせているのだが、今日に限ってはいつもより活気がなかった。
「ああそれはほら、私と桜は受けてないけど昨日は模試があったでしょ。みんな自己採点の結果があまり良くなかったみたいでね。それで気持ちが沈んでるんだと思うよ」
エリカが説明し終わると同時に、SHR開始を告げるチャイムが鳴った。それじゃ、と軽く手を振ってお互いの席まで戻る。他のクラスメイトもいそいそと自分の席に戻りはじめ、最後の一人が着席するかどうかという時に、担任が教室の扉を開ける。
「皆さんおはようございます」
担任の声が教室に響く中、桜は直前に聞いたエリカの言葉を考えていた。
外部入試組かつ成績上位者でない生徒が集められるこのクラスでは、受験に対する準備が遅れていても仕方ないと言える。何人かはそれなりの結果を出せているのだろうが、まあ今のところ大学受験する予定のない私がどうこう言っても仕方ない事ではある。
教壇では担任の佐藤が淡々と今日の連絡事項を垂れ流していく。と言っても今日は終業式。これからの流れなんかを簡単に説明したら、すぐに校内放送で始業式が始まる。
最初は真面目に聞いていただろう同級生も、三年生ということもあってすぐにだれる。担任も担任で配布物の準備を始めていたりした。
大学か、どうしようかな。
エリカの言葉に模試という言葉があったからか、窓の外を眺めながら桜はそんなことを考え始めた。窓の外は目線より高かったり低かったりする建物がたくさん並んでいる。より遠く、もはや背景と言うべき部分には、更に山々を背景にして高いビルが乱立している。
そんな光景を教室から見ていると、自分はなんて世間に近づいたのだろうと思う。自分が俗に小学生低学年と呼ばれる年齢の頃には、少しだって考えられなかったことだった。これも本家筋に近い平井さんが後見人になってくれたおかげだ。
これ以上は迷惑かもしれない。そんな考えがずっと頭の片隅に残り続けている。担任には後見人である平井の跡を家業を手伝うなんて言ってあるけど、本当にこれからどうしよう。
外の世界は教室と比べてあまりにも大きすぎる。あと数ヶ月でこの巨大な世界に一人で挑まねばならないというのは、あまりにも心もとない話だった。
そんなことをつらつらと考えているうちに、どうやら終業式が終わったようで、目の前に回ってきた配布物が突き出される。
「ごめんぼーっとしてた」
「いいよ」
一度だけ滞ったものの、それからは掃除終了まで些細な事もなく解散となった。
夏休みの始まりである。教室はほんのちょっぴり生まれていた影なんて、それこそ見る影もなく、一気に活気が生まれた。夏季講習辛いわーなんて言う声も、やっぱりどこか浮ついていた。
「一緒に帰ろうよ」
なんていうエリカの言葉も……いやこれはいつも通りだった。
「ただいまー!」
「ちょっとやめてよ。ここは私の家であってエリカの家じゃないんだから」
エリカは桜の家に入った途端、勝手知ったるというふうにずかずかと歩き回り、お茶の準備をして桜の部屋に侵入した。桜ももはや注意することなく、家主だというのにエリカの後をついていく形で自室に戻った。
まずは籠った暑い空気を扇風機で入れ替えてから、クーラーをがんがんに稼働させる。
「そういえば桜。昨日誰か殺した?」
「よくわかったね」
エリカは氷の入ったコップに麦茶を注いだ。パキパキ、カランコロンという涼し気な氷の音がクーラーの効き始めた部屋に響く。そのおかげで一気に部屋の気温が下がったように二人は感じた。
「そりゃそうだよ。ほんのちょっぴり纏う空気が違うからね、すぐにわかる。死の気配っていうのは、そんなに簡単に落ちないものだから」
「それ、前にも言われたことがあるよ」
桜が注がれた麦茶を喉に流し込む。体の芯が一気に冷やされる心地がして、ふうと吐き出した息すらも少し冷えている。ようやく二人は夏の熱気から解放された。
「もしよかったらさ、誰をやったか教えてもらえるかな。まあ守秘義務だっていうなら構わないんだけど」
「大川宗厳。最近、ある新興宗教のトップが原因不明で死んだってニュースになってたでしょ。大川はそのトップとの権力闘争に敗れた男。呪殺なんかするから私のとこに命令が来た」
桜の言葉を聞いて思い当たったのか、エリカはそんなこともあったかと呟いた。
部屋に沈黙が降りる。氷の音、あるいは麦茶を注ぐ音だけが空間を占めていた。十分に遮音を施した部屋では、外の音だって入ってくる事はない。煩わしい蝉の音もここでは何も聞こえないのだ。
そんな沈黙を破って言葉を紡いだのはエリカだった。
「そういえば今日から夏休みだね」
「そうだけど、エリカは今年も本国に帰るの」
桜が何気なしにそう聞くと、エリカはいやと前置きして続けた。
「今年は帰れそうにないかな。ちょっとばかり厄介な案件がこっちに舞い込んできてね。しかもまだよくわかってないからどうなるか、まあそれこそわからないんだよね。もしかしたらまた桜に何か頼むかもしれない」
「別にいいよ。私なんてもともと本家の下請けみたいなものだからね」
「そういってもらえるとホントに助かるよ」
エリカはため息交じりにそう呟いた。そんなエリカの様子を桜は出会ってから初めて見た。
その時エリカのスマホから通知音が鳴った。
「ああごめん。ちょっとその件で連絡が入った。それじゃあまたね」
スマホを見るや否や、エリカはいつもとは違って慌てた様子で鞄を抱えた。そして桜の返事をほとんど待たずして部屋を飛び出す。
よっぽど急な連絡だったのか、あるいはそれほどまでに、厄介な案件というのが厄介なのだろうか。桜は一抹の不安を覚えた。