夜の影から影へと黒衣でもって身を潜ませながら思う。果たして魔術魔法とは何なのだろうかと。
確かに私はある種の魔術を行使できるし、現在も使用している。しかし使えるという事と知っているという事では、大きな差があるのではないだろうか。
例えばコンピュータは仕事でも使用している人間が大勢いるだろうが、しかしそのうちの一体どれだけの人間が理論を理解できているというのだろう。決して多くはないはずである。
魔術もそうではないかとはよく考える。私でさえ、なのだから。
影へ影へと並ぶ外灯を避けながら夜の街を駆け抜けていく。普段なら粋がる少年少女や酔っ払い、今の季節であれば夜桜見物に繰り出した人なんかが歩いているものだが、今日に限ってはひとっこひとり見当たらない。それは桜が施した人払いの結界によるものが大きかった。
(人払いの結界と言ってもねえ……)
桜は小さく頭の中で呟いた。結界ではあるが、それはなんとなくここに行きたくないなと思わせる程度のものだ。それだけなのだから、別に魔術魔法でなくても何とかなってしまうような気がしてならない。道に猫の死骸がある、汚物がぶちまけられている、異臭がする、烏が鳴いている、真っ暗だ、などなどその道を使いたくないと思わせる要因なんて、この世の中にどれだけあるというのか。ある場所に人を寄せ付けたくないと言うならば、そこに続く道全てに色々すれば、別に魔術なんて使わなくても済む話だ。
それでも作為は感じ取られる可能性がある。しかしそれは魔術でも同じだ。それに魔術なんて普通はわからないから人目に隠すこともしないし、だからもし魔術に少しでも精通している者が見ればすぐにばれてしまう。
本当に魔術とは何なのだろうか。そんなことを考えるのは、こんな魔術を使用しているからなのかもしれなかった。
人のいない街を走る。そしてついに目的のものを外灯の明りに見つけた。
それは冷たく暗い町のコンクリートの上を歩く、奇怪な影だった。それは人型だったが、それにしては顔が異常なほど大きかった。また首がほとんどなく、背中が異様に盛り上がっており、そのためか肩が前面に押し出されていて腕がだらんと垂れている。しかもそんな影が幾つもあるのだ。
それはまさしく魚人と呼ぶべき姿形だった。
私は静かに鞘から刀を抜き放った。
「今朝、○○県○○市で損壊した遺体が……」
カーテンを開け放ったリビングに、朝日が差し込んでいる。それは柔らかな春の光だった。夏のようにとげとげしくなく、また秋のように物悲しくもなければ冬のようにオアシスでもない優しい光だ。
しかしのどかな朝に相応しくないニュースがテレビで放送されていた。
どうやら私の住んでいる町で原因不明身元不明の死体があるというものらしい。なんとも恐ろしい話であるが、このところこういう事件が頻発しているように思う。私もたまにしかニュースを見ないし、以前に見たのは一週間ほど前だったが、確かその時も似たニュースが流れていたと覚えている。
記憶を辿っていたそのとき、滅多に使用しない固定電話が鳴りだした。今時FAXまでついている古いタイプの電話だ。
だが電話番号を知っている人間はそれほど多くない。そして彼らは少しを除き総じて厄介ごとを運んでくるのが通例だった。
「はい。守部です」
吐き出したいため息を何とか飲み込んで電話に出る。すると少し前まではよく聞いていた声が返ってきた。
「おはよう桜さん。平井です。今から時間大丈夫ですか」
「ええ大丈夫ですよ、今日はまだぎりぎり春休みですから。それにしても平井さんが電話を掛けてくるなんて珍しいですね」
電話の相手は私の後見人である平井さんだった。こうして電話がかかってきたのは、高校に上がった去年の春に一人暮らしを始めてから初めてのことだ。たまに連絡があってもいつもはメールかたまにFAXで済ませていた。
「ははは。たまにはあなたの声を聞いて状況を知らないといけませんからね。元気そうで何よりです」
向こうの声も変わりないようで少し安心する。けれどほんの少しだけ声に衰えが見えて、これまた少しだけ動揺した。
しかし途端に声は柔らかさを失って、代わりに鉄のような硬さと冷たさを持った声に変化した。
「本題に入りましょう。桜さんに仕事の依頼です。今しがたFAXを送りました。それを見ていただければだいたいはわかると思うのですが、一応今回に限ってはこうやってお電話をさせていただきました」
見れば、電話から紙が吐き出されてくる。それを手に取ってざっと眺めた。
「魚人……ですか。河童や水虎ではなく、あの俗にマーメイドとか言われるような」
その紙には魚人の二文字があった。他はこれまで通りごく普通の事がつらつらと書かれていただけだったが、その二文字はこれまで見たことがなかったから、よく目についた。
「おとぎ話のマーメイドのように奇麗ではないですね。写真も添付してあったはずですが、本当に人間に魚がくっついたような見た目です」
なるほど紙を二枚捲れば醜悪な見た目の合成獣が何体も夜道を歩く写真があった。
「最近、桜さんの住む町で連続殺人事件が発生しているでしょう。なんとも凄惨な殺され方をしているという事で、ネットではちょっとした騒ぎになっていましてね。人の手によるものではどうやってもあり得ないと。それで私どもに調査が回ってきまして、調べたところ犯人はその魚人達でした」
「それで私に奴らを殺せと?」
「話が早くて助かりますよ。なるべく早く、できれば今晩にでも全ての処理をお願いします。平井の者達も日付が変わる少し前ほどから偵察に向かわせますので、その後の処理は彼らに任せてください。その他の情報は紙に書いてあるので、読んでおいてくださいね。それではごきげんよう」
彼が良く使う〆の言葉を言うと、電話は切られてしまった。
ふうとため息を吐く。それは受話器を戻す音を消した。
さて準備をしなければならない。桜は自室に戻って今晩の支度をし始めた。
時刻は午後11時。桜は全身を覆えるだけの大きな黒い外套を羽織り、それに日本刀を隠して、明るい玄関側からではなく窓から屋根伝いに、町の夜へと溶け込んでいった。
桜は影から一気に外灯の下へと躍り出た。掲げた白刃が煌めき、闇に一筋の軌跡を描く。瞬間、まるで水道管が破裂したかのような飛沫が一体の魚人から吹きあがった。最も、それは水ではなく赤色をした粘性のあるものだった。あたりに魚臭さと混じってぷんとした鉄の臭いが広がる。
そうしてようやく、他の魚人が異常事態に気が付いた。舌のない魚が声を発するとしたらそうなのだろうという、ただ喉を絞っただけの意味のない絶叫が夜の街に轟く。しかしもう全てが遅かった。
桜はマントで血しぶきが体に降り注ぐのを防ぐと、そのまま再び魚人の影から外灯の外に逃れる。逃れざまに一体の魚人を横二文字に切り払う。
遠くから声に呼ばれた魚人が群れてやってきた。桜がそれを確認すると、片手間に残った魚人の頭をまとめて串刺しにし、そのまま纏めて切り落とした。
「肺が退化しているね。他の臓器も肺ほどじゃないけど普通の人間と形状がちょっと違う。人間から魚に変貌する途中という感じかな」
桜は肉片の一つを足で踏み動かし、切断面をまじまじと観察する。ポケットから紙を取り出して刀身を拭うと、影から迫りくる魚人を見つめた。
魚人の群れは影に隠れて見えない桜にではなく、外灯の光の下でばらばらになっている仲間の死体を見つけて、慄き足がすくんだ。それは確かに人に似ている。けれども依頼を受けている桜が躊躇することなどあるわけがなかった。まるで板前が調理場でするような美しさで、先頭の一体をド真ん中で真っ二つにすると、そのまま続くものも逆袈裟に切り捨てた。
その時微かに銃声に似た音が魚人の断末魔に混じって桜の耳に届いた。警戒のレベルが跳ね上がる。自分の事はいったん外に置くとして、ここはアメリカとは違って銃の所持が認められていない国だ。ましてや路上でぶっ放しているなんてありえないと思いつつ、魚人の胴を切り離して上体を落とす。そのさき、切れかけているライトに照らされて鉄の照り返しが見えた。
高めていた警戒心が役に立った。桜はそれを辛うじて短筒であると認識することができた。確かに銃声はあった。しかしあまりにも唐突なことに思考が一瞬だけ止まる。
けれど体が反応して無意識のうちに屈みこんだ。それは本当に自分の足元が抜け落ちたと感じてしまうほどにまで、脳が体と乖離していた。
桜は久しぶりに心臓が跳ね上がる感覚を思いだした。
頭上すれすれを何かが飛んでいく。桜は次の瞬間に倒れようとする魚人の下半身を蹴飛ばして、大きく踏み込みながら何かがいるであろう場所に向かって斬りかかった。しかし手ごたえはなく、刀が空を切る。
たんと離れた場所から足音がする。点々と並ぶ外灯の一つに、拳銃を構えた女が桜を睨んでいた。どこか日本人の面影を残しつつ、日本に暮らす桜には判別できないがどこかの西洋の血が混じった顔つき。真っすぐ伸びた自然なブロンドヘアが外灯の光を受けて輝いている。桜も弱弱しいライトに当てられて全身をあらわにしていた。
気が付けば息が荒くなっていた。動きを悟られないように小さく呼吸をすると、痛烈な魚臭さと血の臭いが桜を襲ったが、たじろぐことは許されない。刀を前に突き出す。こめかみを汗が流れた。
僅かに女の体がぶれる。瞬間、桜は剣先をほんの少し横にすべらせた。刀を取り落とさないまでも、小さな痺れが桜の手に伝わる。その背後で、一体の魚人が断末魔を上げた。
「なっ!?」
女は短く驚嘆すると、暗闇の中に後ずさっていった。
「ふう」
強張った体を弛緩させる。しかし眼だけはジッと女の背中を追っていた。背後から忍び寄る魚人を後ろ手に刺殺する時には、もうその姿は見えなくなった。
午前三時。あの場にいたのをすべて処理してから一度家に戻り、衣服を一新させてから再び夜の街に繰り出した。しかしそれ以外はあの女が殺したのか魚人の亡骸以外は見当たらなかった。
春。それは心機一転するいい機会である。長い冬を終えてどんどん暖かくなるのが感じられる中、これまでは身体を温めるのに使っていたエネルギーも、別に使う余裕が生まれてくる。新たな出会いというのもあり、これまで交流してきた人物とは異なる交友関係を作るのもいいだろう。
桜の花が散って葉桜に移り変わるころ、希望と一抹の不安に満ちた新入生が登校してくる。しかしそれに混じって登校してくる生徒にそんなものはない。
成績や高校入試の形式によって分けられるクラスでは、クラスの98%くらいは新学年になっても同じ人間で構成される。だから教室に入っても、ああ新しいきょうしつだなあという感想だけで、あとはいつもの長期休暇後と変わらない。
「ふあ──……」
「どうしたの桜。今日はとっても眠そうね」
「うん……ちょっとね」
教室では、いつもぎりぎりのくせに珍しく普通の時間に登校した桜が、自分の腕を枕にして机に突っ伏していた。少しは名前を憶えていない同級生に返答していたが、それもだんだん厳しくなってきて、最後は何かあったら起こしてとだけ伝えて脳をスリープモードに移行させた。
「ねえねえ早く起きなよ」
「んあ……」
桜はクラスメイトに肩をゆすられて起こされた。あまりにも眠たげだったから気を利かせたのか、もう担任が配布物を配り終えたところだった。
危うくまた落ちかけるところを、何とか気力でもって持ち直す。
「今から転入生が来るらしいよ」
「え、そうなの」
まだ思考がはっきりしない桜は欠伸をしながら小さく背伸びをした。そのとき丁度、教室の扉が開いて先生がやってきた。
ああ今年も去年と同じで佐藤先生なんだって考えていると、続いて転入生も入室してきた。こんな私でもどんな生徒が来たのかは、やっぱり気になるもので、少し身を乗り出してみる。
瞬間、とんでもない衝撃が私を襲った。
まるでジャーキングが起こったときのような大きな音が教室に響く。びっくりして腰を浮かせたのがそのまま机に当たってしまったのだ。教室中からくすくすとした笑い声が湧き上がる。けれどそんなこと気にする余裕はなかった。そして足の痛みなんていうのもなかった。それに、音だって私だけのものじゃない。教壇付近でも似たような音が鳴った。
目の前に、昨晩の女がいる。日本人の面影を残しつつ、どこかの西洋の血が混じった顔つき。真っすぐ伸びた自然なブロンドヘア。それだけじゃないけど、見間違えようがなかった。
鏡がないからわからないけど、たぶん私はいま相当すごい顔をしていると思う。だって相手もある意味私がこれまで出会ってこなかったようなすごい表情をしているのだから。