「初めましてフロイライン。私は大谷・リイリル・エリカ、どうぞよろしく」
「え、ええ。私は平岡保穂よ。こちらこそよろしくね、大谷さん」
何とか平静を装いながら挨拶する。ただでさえ人見知りする質なのに、駅に桜と連れ立ってやってきた美しい女を見て保穂はひるんでしまった。
先日の件は覚えていた。どうやら自分は酒に呑まれても記憶を失わないらしく、今日もぼんやりながら誰か連れてくるようだと、頭には残っていた。しかしこんな目鼻立ちのよく通った美人が来るなんて思いもよらなかったのだ。
「私の事はエリカって呼び捨てでいいよ。桜には桜って呼んでいるんだろう」
「……わかったわ、エリカ。じゃあ早速だけどもうそろそろ行きましょう。少し遠いから、できるだけ日の高いうちに着きたいのよ」
気恥ずかしさから背を向けてさっさと歩き出す。少し無愛想だなとちょっとだけ後悔するけど、それは背後から聞こえるクスクスという二つの笑い声で吹き飛ばされた。たぶん二人にはこれが照れ隠しだとわかっているのだろう。
「ああ、ちょっと待ってよ保穂。ここから電車で長いんでしょ、だから駅弁買いたいんだけどいいかな」
だからと言って別に急ぎたいという事まで、照れ隠しで言った出任せという訳じゃないんだけど……。
まあ仕方ない。
「なら私も買うわ。けれどなるべく遅くならないようにしてよ」
はーいという可愛らしい二つの返事が生まれる。
照れ隠しの部分を突っついてこない分とこれとで、相殺することにしよう。
しかしエリカという人は大丈夫なのだろうか。役に立たないまでも、足を引っ張るという事はやめてほしいというのが本音だ。酔っていたとはいえ同行を許可したのは私だから、今更断ることなんてできはしないが、少しだけ不安が残るのも事実だった。
車窓から外を眺める。そうしているのはいつぶりだろうか。した事があるのはわかるけれど、遠い記憶を辿ってみても思い出せない。それにその時は今みたいに気まずさからではなく、単純に面白いと思って見ていたはずだ。
そこでああと思い当たる。昔は面白かったのだ。移り変わる景色や目新しい光景が。けれどいつの間にか地下鉄がほとんどになって、もちろん車窓からの景色なんてあるわけもなく、たまに地上に出ても均一なコンクリートジャングル。それではつまらないというのも仕方ない。
そして今も平坦な自然が続いているだけ。私は諦めて視線を元に戻した。するとエリカの視線とぶつかった。
「ねえヤスホ、一つだけ聞いてもいいかな」
「いいわよ」
「ヤスホはどうしてフィールドワークに桜を誘ったの」
茶色より僅かに明るい瞳が私をじっと見つめる。興味津々、しかし子どものようにキラキラした目ではなく、尋問官のような高圧的な視線が後ろからひょっこりと顔を覗かせていた。
「頼りになると思ったからよ」
嘘をつけば負けると思った。何に負けるというのか、仮に負けてどうなるというのかそれはうまく言葉にできないけれど。
エリカは言葉を出さずにじっと保穂を見つめ続ける。それは無言の圧力だった。何も言葉がないのにも関わらず、その強制力たるやこれまでされてきた言葉での命令よりも強力なものがあった。
「夏休みにね、学科で旅行に行ったのよ。妖怪が出るっていう噂にかこつけて避暑地にね。それでまあ場所が場所だから夜になると探検してみようという事になったのよ。それで、みんなというか私以外の見ていないところで、桜が妖怪を握りつぶしていたのよ。それでちょっと恐ろしいと思ったけど、いざという時の頼りにはなりそうだなって、ね」
昔の事を振り返りながら、そういえばと思うことがあった。桜はそういう行事ごとには参加しないわけじゃなかった。名前をぼんやりとしか覚えていない事から推測するに、積極的に人個人には関わっていかないのだろうが、根っから集団から孤立して一人がいいという訳ではないのだろう。来るなら拒まない程度か。
「なるほどね。確かにそういう事なら桜くらい頼りのある人間は、そう多くはいないはずだからね」
エリカが手で口を隠しながら笑う横で、今度は桜が私を見た。
「そういえばそんなこともあった。で、まあそれは置いといてと、保穂って妖怪とか見えるんだ」
「……昔からよ。子どもの時に一度見てから時々見るの。まあだからこそこんな学部に入ったのかもしれないわね」
桜はふうんと言ったきり、何か考え込むように俯いていった。
そのとき丁度誰かのお腹が鳴った。エリカが照れながら駅弁を取り出したから、たぶん彼女のお腹が鳴ったのだろう。スマホを取り出して時間を見ると、時刻は既に12時を回っていた。これではお腹が鳴るのも仕方がない。
太陽が決して低いとは言えないところまで昇っているのに、車内はおろか視界の端に映る窓の外も、冬特有の薄い影がかかっている。
私はこれ以上初対面の人と話さなくていい事にそっと胸を撫でおろし、駅弁を取り出して食事を始めた。
目的の駅までもうそろそろ。食べ終わって少し休憩したころには、到着するだろう。
季節によっては景色が大きく変化しない人工的な町と違って、自然である山の様相は半年前と比べて著しく変貌していた。溢れんばかり緑で覆い尽くされていた山は、葉が全て枯れ落ちていて枝の茶色があらわになっていた。雪がほんの少しだけ装飾を施してはいたが、夏の白さとは違って光り輝くことなく、むしろ黒さすらある白だ。
澄んだ空気だった。雪が消音作用を以って音を消し、雨の性質を以って空気の塵を洗い流したよう。
「ここね」
枯れた地面を踏み締めながら1時間ほど、以前に訪問した村を抜けて廃トンネル前までやってきた。冬の暗さも相まって、トンネルの向こうは何も見えない。ずっと暗い道が続いているだけだった。
桜がスマホのライトで中を照らす。
「これが津安に続く道か。今は使われていないみたいだし、結構雰囲気あって不気味だね」
「今でも使われているみたいよ。照明はついていないけど封鎖もされてないし、ほんの少しだけだけど人が歩いた痕跡も残ってる」
私も二人に続いて中を覗く。何が原因だとはわからないけれど、トンネルはただの暗闇というだけではない雰囲気があった。しかしパッと見た限りでは足跡なんて見えやしなかった。けれど、封鎖されていないというのは少し気がかりだ。
「ねえ。ほんとに行くの」
桜が真っすぐ見つめてくる。臆病とか恐怖とかあるいは虚勢なんていうのは、そこに見ることは出来なかった。つまりそれは、【私は何とも思ってないけど、あなたはどうなの】という問いかけなのだ。
本人にその気はないのだろうが、ほとんど挑発といってよかった。
私はスマホのライトをつけた。トンネルがほんの少しだけ明るさを増す。
「ええ。もちろん行くわよ」
その挑発に、乗るというよりはむしろ押される形でトンネルに踏み込む。
途端に寒気が全身を襲った。それはトンネル特有のものでも、あるいは冬の寒さが急に鋭さを増した、なんていうのともまるで次元が違っていた。
芯が冷えるのはもちろん、極度のストレス下に晒された時のような寒気が全身を襲った。心臓が早鐘のように脈打つ。
「はあっ……ぁ……」
呼吸すらまともにできなくなったのか、息が詰まって肺が膨らむ。あと少しで上下に動きそうだった肩に、ぽんと手が置かれた。
「大丈夫かい。私が前を歩くから、後ろからついておいでよ」
「……ええ、ありがとう」
そんなセリフチックな言葉にびっくりして、エリカに先頭を譲る。それらのおかげか、ちょっとだけ平静を取り戻すことができた。
エリカはさっきの私と違ってごく普通にライトで照らしながら暗闇を歩いていく。当然ながら暗いために足取り自体はゆっくりながらも、真っすぐ同じ調子でずっと歩く。
その後ろをついていくと、少しずつ恐怖が薄らいでいった。そこでああと気が付く。
(そうか、私は怖かったのね)
けれど、だとすれば今先頭を歩いているエリカは怖くないのだろうか。
その背中から頼もしさとともに、ちょっぴりの恐怖を感じた。
「エリカは頼りになるでしょ」
後ろからひょっこりと顔を覗かせた桜が楽しそうに笑う。どうやら私がこんなに怖がっているのに、この二人にとっては肝試しみたいなアトラクション程度にしか思っていない可能性すらある。
「ええ。桜が連れてきてくれて助かったわ」
そう言っている間にも、暗闇に慣れてきたのかずんずん進むエリカ。私たちもエリカが歩いた後をぴったりくっついていく。
その向こうに僅かな光が見えた。スマホのライトではなく、それはトンネルの終わりだった。