親友の彼女と初めてキスをしたその日。
これからというときにチャイムが鳴って、ドアを開けると熊みたいな人物が立っていた。
「お父さん」
よりにもよって、見吉の父親らしい。
見吉が武闘派なのは、この人の血を引いたからだろう。
ぼんやりと現実逃避に入る。
「邪魔させてもらう」
「ちょ、ちょっと……えっと……真城?」
見吉が入れていいのか、こちらを振り返る。
現実逃避中の僕に、判断を求めないでほしい。
これが新聞の勧誘だったら押し返すけど、人間は熊に勝てない。
白旗を上げて、仕事場に見吉の父親を受け入れるのだった。
5分後。
唐突に襲い掛かってきた熊は、勝手知ったるといった感じで、二人掛けソファーをドカッと一人で占拠していた。
向き合う形で、僕と見吉が並んで座る。
とりあえず、見吉がお茶をいれることになり、間を取る事ができた。
でも、その貴重な時間は、一言も喋る事はなく終わった。
緊張感がやばい。
さすが熊だ。人語を話せないのか。
「それで、どうしてお父さんがここに?」
「香耶があまりにも家にいない。気にするのは親として当然だ」
「そんなこと全然家では言わなかったじゃない。それに、なんでここの場所を知ってるのよ。まさか、つけてきたわけ?」
見吉が仕事場の場所を教えたもんだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
仮に、つけてきたとしたら気づけよ、見吉。
どう考えても目立つだろ。
「そんなわけあるか。香耶がよく『真城のところ行ってくる』って言っていたからもしかしたら、と思って来てみただけだ。見覚えのある自転車を見つけて確信した」
「なんで、真城ってだけでここが分かるのよ」
見吉の疑問は、もっともだ。
珍しい苗字ではあるけど、それだけで特定できる程ではない。
駐輪場に自転車を止めているけど、それで確認できるのは、このマンションまで辿り着いた後での話だ。
その質問に答える前に、熊は部屋の中を見渡した。
「……ほとんど変わってないな。机の数が増えたくらいか」
「え?」
「はい?」
「ここは、亡き真城信弘。ペンネーム、川口たろうの仕事場だった場所だ。真城最高くん。久しぶりだ、大きくなったな」
「え? はじめまして、じゃないんですか」
「ノブの葬式でチラッとな」
熊は、おじさんの葬式に来るような関係だったのか。
特徴的な人だけど、あのときは、ショックが大きすぎて現実を受け入れられていなかったから、誰が来てたかなんてあまり覚えていない。
ジャンプの編集長が来てたことを覚えていたのは、その頃からそれだけジャンプに憧れがあったからだろう。
「……おじさんとの関係は?」
「小中高同じ学校で、何度も同じクラスになった親友だ。君の父親とは、柔道部で先輩後輩の関係だった」
「お父さんと!?」
そういえば、亜豆の母親もそんなことを言ってたっけ。
「真城先輩は、主将で鬼と呼ばれていた。強豪校からの柔道推薦の話も蹴って、自力で進学校に進んだのは、柔道部の伝説だ。当時は今と違って生徒数も多く、倍率は今の比じゃない。ノブはその弟で、一見似ていないようで芯は同じだ。どちらも根性があった」
「お父さんの口癖が『今の若い奴は根性がねー』です」
「……そ、そうか。変わってないな。真城先輩には、よくしごかれたもんだ」
若干、びびっているのは気のせいだろうか。
先輩後輩って関係だったとしても、この熊をびびらせる父親っていったい。
確かに、言葉がやたら重い人だけど。
「……ノブの話だったな。ノブと俺は大学で別になり、俺は卒業後不動産会社に就職して、ノブは大学在学中にマンガ家になった。ノブがこの部屋を買って、改築したとき、手配したのは俺だ。3LDKを1部屋にしたいとか、そんな無茶に付き合うような関係だと思ってくれたらいい」
「この部屋にそんな経緯があったんですね」
「へー……あんまり見ない間取りだとは思ってたけど。お父さんの仕事だったんだ」
マンションの1室だけ大幅な改装。
僕にとっては、昔からこういう部屋だったから気にしてなかったけど、確かにマンションでこれはおかしい。
熊は、相当無茶したんじゃないか。
おじさんとかそのあたり気にせずに、頼んでそうだ。
おじさんの代わりに謝っておこう。心の中でだけだけど。
「ノブがまさか死んでしまうとはな。たまに様子見がてら遊びに来てたんだが、ノブの邪魔しちゃ悪いと思って、頻度を遠慮していたのがあだとなった。もっと頻繁に顔出しとけば……いや、ノブを止めるのは無理だな。あいつはそんな男だった」
おじさんが死んでしまった事に対して、何もできなかった事を悔いているみたいだ。
おじさんに、こんな親友がいたとは、知らなかった。
それもまさか、見吉の父親とは。
「……僕もよく通っていましたけど、おじさんは最後に会った時も、いつものおじさんでした。体調が悪いとかは、なかったです。痩せ気味でしたけど、それはずっとでしたし。煙草を吸いながら原稿と向き合っていたのが、僕が見た最後の姿でした」
だからこそ、僕はずっと自殺だと思っていた。
実際は、最後の最後まで絞り切るようにマンガを描いて、過労死だったらしい。
最後まで走り抜けた自慢のおじさんだ。
僕の言いたいことが伝わったらしく、熊は目を見開いた後、指で鼻をかいて笑った。
「そうか……そうだよな。あいつはそんなやつだ」
「そうです。おじさんは、そんな人でした」
その姿からは、おじさんのことを本当に大切に思っていた事が分かる。
僕も、胸に熱いものが湧き上がってくるのを止められなかった。
泣きたくなるけど、なんとか堪える。
熊が泣いてないのに、先に泣くわけにはいかない。
「すまん、しんみりしちゃったな。香耶、ちょっとコンビニまで行って、甘いもの買ってきてくれないか?」
「えーーー、なんで私が!? こんな遅い時間に」
「お前は襲われても勝てるだろ。それに夜遅くまで出かけまくっておいて今更だ」
「ひっどー。分かったわよ。買ってくればいいんでしょ、甘いものね」
熊の出した千円を受け取ると、ズカズカという効果音をつけたくなる足取りで見吉が外へと出ていった。
見吉には申し訳ないけど、熊に同意する。
よほど油断したり、手練れでもない限り、見吉なら勝てる。
そして、見吉が負ける相手だったら、僕がついていっても変わらないはずだ。
「騒がしい奴で、すまん」
「見吉……さんの明るさに救われてますよ」
「そうか。ならいいんだが……」
見吉には、救われている事が多い。
亜城木夢叶が一時的に解散した時も、彼女の明るさに救われ──エロ目的だった気がする。「彼女のエロに救われました」とか父親に言えるわけがない。
「ごほん。娘が居ないうちに話すが、ノブとは親友であり恋敵でもあった」
見吉を追い出したのは、この話がしたかったからか。
おじさんと恋敵。連想される相手は1人しかしらない。
「春野美雪さんですか?」
「……驚いたな」
「この仕事場を使うようになって、おじさんが取ってあった手紙を見てしまって」
「そうか……大事に取ってあったんだな」
「はい。棚の一番奥に、しっかりとした箱の中に」
棚の方を手で指し示す。熊は、そちらを見て、少し考えてから首を振った。
それから熊は、顔を赤らめながら教えてくれた。
中2の林間学校で、互いに好きな人を言い合って、同じ相手だった事。
おじさんに熊ならいい、と譲られた事。
熊は、中3に上がる前の春休みにフラれた事。
おじさんが、卒業式に手紙をもらった事。
そこから先は、おじさんの手紙を読んだから知っている。
おじさんが駆け出しのマンガ家になった時は、社長秘書をしていて、格差を感じて言い出せなかった。
おじさんがヒット作を描く前に、亜豆母は結婚してやり取りは終わる。
おじさんが超ヒーロー伝説でアニメ化までいったのは、その数年後だ。
「見吉さんの親友の亜豆美保って、聞いたことがありませんか?」
「ミホちゃんか。たまに香耶の口から聞くが……それがどうかしたのか」
「僕も知って驚いたんですけど、彼女が春野美雪さんの娘さんです」
「……谷草は狭いな」
初恋だった人の娘が娘の親友。どんな確率だろう。
少年マンガが描けそうな設定だ。
ちょっと狙いすぎか。少年マンガより、対象年齢層が高くなりそうだ。
「ただいまー。買ってきたー」
見吉が帰ってきたので、話は打ち切りになった。
父親には、シュークリーム。自分の前にはケーキを置き、僕にはプリンを渡してきた。
「はい。真城の分」
「……ありがとう」
「なによ。不満あるわけ?」
「いや、好きなヤツだったから驚いただけ」
「何度か食べてたの知ってるし」
見吉のこういうさりげない気遣いって、いい子だよな。
いつもって言えるほど食べていたわけじゃない。たまに、甘いものが欲しいときに食べていた程度なのに、本当によく見てるなって思う。
一見、ガサツそうなだけに、ギャップにやられそうになる。
「真城くんは、ここを使っているって事は、マンガ家を目指しているのか?」
「お父さん。真城は目指してるんじゃなくて、もうすぐジャンプでの連載が始まるマンガ家」
「連載が始まるって……まだ高校生だろ」
「すっごい頑張ってたんだから。マンガがヒットしてアニメ化したら結婚するって」
バカ、見吉。余計な事言うなって。
やっぱり、見吉はガサツだ。
「アニメ化したら結婚!? そうなのか」
熊が食いついてきた。
身を乗り出してくる迫力に、思わず後ずさる。
言わないで黙っている事はできたけど、嘘をつくことはできない。
「……はい。そのつもりで頑張っています」
「そうか……おじさんと甥でこんなに似るものなのか?」
「おじさんに影響された部分は、大きいとは思います」
おじさんが居なかったら、マンガ家になろうなんて思わなかっただろうし、おじさんと亜豆母との関係を知らなかったら、ずっと我慢するなんて選べたのか分からない。
僕の中で、おじさんはそれだけ大きい存在だ。
「それで、あたしだけ蚊帳の外っていうのが嫌だから手伝ってるの。っていっても、ご飯作ったり雑用したりだけど……外出が多くなってる事は謝るけど、浮ついた気持じゃない。あたしはあたしにできる事がしたいの」
「邪魔になっているんじゃ……」
「見吉さんには、本当に助けられてます。小うるさいところもありますけど」
「真城がご飯食べなかったりするからでしょ。夢中になると自分を蔑ろにするんだから」
「だって、面倒だし」
「またそう言って……」
見吉には、頭が上がらない。
見吉が僕達の傍にいて色々やってくれるのが、もはや当たり前になっているけど、年頃の女の子がここまでしてくれている事なんて、奇跡だと思う。
シュージンは、絶対に手放さないでほしい。
「香耶。お前が好きで手伝っているんだな?」
「そうよ。真城が成功して、結婚するのがあたしの夢なんだから。だから出入りをやめろとか言わないでよね」
亜城木夢叶に成功して欲しい。
僕と亜豆が結婚し、シュージンと見吉も結婚する。
それが見吉の夢で、その夢に向かって頑張ってくれている。
「僕からもお願いします。見吉さんが僕には必要なんです」
「真城……」
熊に向かって頭を下げる。
最初は、性欲処理のためだったけど、それだけじゃない。
見吉はもう、三人目の亜城木夢叶だ。
見吉のためなら頭くらい、いくらでも下げる。
「こうなると俺も応援するしかないか」
その言葉に、ゆっくりと頭を上げた。
熊は、いい笑顔を浮かべていた。
「一流のマンガ家に……そして結婚。ノブの
「お父さん」
「いい歳してやめろ」
見吉が感極まって熊に抱き着くと、熊は嫌そうに押し返したが、嬉しそうな顔は隠せていない。娘に抱き着かれて喜ぶ父親の姿があった。
「真城くん。香耶は、この通りガサツな奴だけど、よろしく頼む」
「はい、任せてください」
見吉の夢は、亜城木夢叶の夢だ。
絶対に、叶えてみせる。
「香耶は、好きにしていいから、真城くんの体調管理だけは、しっかり見ろよ。ノブみたいな事は、絶対にごめんだからな」
「分かってる。殴ってでも無茶させ過ぎないから」
「……程ほどにお願い」
見吉は、年頃の女の子だ。
本来なら、仕事場とはいえ、異性のところに出入りするのは、好ましくないだろう。
それでも見吉の父親は、許可してくれた。
それはたぶん、おじさんの果たせなかった夢を託してくれたのもあるけど、おじさんを死なせてしまった事を、ずっと後悔していたんだろう。
もっと顔を見せておけば良かった。
その悔いがあるから、見吉が出入りする事を許可してくれたんだと思う。
託された想いに負けないように『TRAP』の連載を頑張ろう。
こうして、突然の見吉のおじさんの訪問は、見吉がおじさんの許可を手に入れるという最上の結果で終わった。
と思いきや。
「しかし、嫁の貰い手がないと思っていた香耶の結婚相手がノブの甥っ子とは」
「え?」
「はい?」
熊の発した言葉の意味を考えて、止まってしまった。
今、なんといった。
見吉の結婚相手が僕!?
あれ? 僕の結婚相手は亜豆って伝えてないっけ。
『真城が成功して、結婚するのがあたしの夢なんだから』
見吉は見吉で、シュージンとって言っとけよ。
盛大な誤解が生じている事に気づいて、相手が違うと弁明するのに長い時間が掛かるのだった。
最終的には、納得してもらったものの、シュージンが熊のところへ挨拶しに行くことが決まった。
連載が上手くいったらって猶予付きだけど。
シュージン、すまん。
外堀が埋まりまくった。
もう、シュージンは見吉と結婚するしかないと思う。
頑張って欲しい。