Lotus in the mud   作:十志 佐都

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 閲覧ありがとうございます。ちょっと箸休め的なお話。


幕間 彼女と千枝とビフテキと

 11月21日 日曜日

 

 昼食をお腹いっぱい食べて、里中千枝は快晴の八十稲羽にくり出した。気温が最高潮になる午後、清流が心地よい河原でカンフーの稽古をしてから、空いたお腹を抱えて稲羽市中央商店街へと向かう。

 

「にーく♪ にーく♪ やわくておいしい♪ ビフテキコロッケ♪」

 

 鼻歌交じりに、千枝はステップを踏んだ。目当てはもちろん、美味しい肉(陽介や雪子は微妙な顔をするが)を使ったお手頃価格の総菜を揃える『総菜大学』。暖かくて気持ちのいい河原で身体を動かして空かせたお腹を、おいしいお肉で満たせば最高に幸せな気分になれる。晴れた休日、千枝のひそかなお楽しみだった。

 

 ルンルン気分で商店街北側を訪れると、辰姫(たつひめ)神社から出てくる人影がある。なにやら手元を見つめている彼女は、千枝の知り合いだ。トレードマークである蓮の髪飾りを身に着けているから、遠目でもよく分かる。手元を見ている彼女が気付くよう、千枝はお腹の底から声を響かせて、彼女の名前を呼んだ。

 

「おーい、瑞月ちゃーん!」

 

 千枝の呼びかけに気が付いた彼女は、ぱっと顔を上げる。氷細工のように冷たいかんばせの中で、ひときわ冷たい紺碧の瞳が親し気に千枝を見つめた。

 

「千枝さん、こんにちは」

 

 友だちの瀬名瑞月だ。手を振ったと思うと、彼女は自ら足を進めて駆け寄ってきた千枝と向きあった。交友を持って10日くらいしか経っていないけれど、何気ない誠実さがにじみ出る瑞月の仕草を、千枝はとても好ましいと思っている。

 

「おっす、偶然だね。何してんの?」

「散歩がてら、神社の境内で休憩していたんだ。そういう里中さんは?」

「あたしも似たようなもんかな。身体動かして、お腹空いたからコッチきたの。天気いいし、こんな日は身体動かすと気持ちいいからさ!」

「そうか。天気のいい日に考えることは、みんな同じだな」

 

 力こぶを作ってみせる千枝を、瑞月は穏やかに眺めている。友人になってからというもの千枝は瑞月に驚かされてばかりだ。

 

 冷たい外見や態度につられてクラスメイトから遠巻きにされる瑞月だが、話してみると会話にきちんと応じてくれる。合気道をやっている影響か、身体づくりにも案外詳しくて、千枝がトレーニングの話を振ると真摯に答えてくれた。

 

 散歩に行ったという通り、瑞月は動きやすそうな恰好をしていた。アッシュブルーのラップスカート風ロングパンツに、ノルディック柄が描かれた水色と白の厚手のセーター、襟のきちんと整えられたブラウスと、パステルながら上品な着こなしである。

 

「そっちは、おみくじでも引いてきた? 珍しいね、今日別に初詣とかじゃないのに」

 

 千枝の問いかけに、瑞月はピシッと固まる。 いわくありげな反応に、千枝はいぶかしんだ。不思議がる千枝をよそに、瑞月は言いよどむが、結局は口を開く。

 

「それは……その、少し、勇気が欲しいことがあったというか」

「え、なに。なにその意味深な言葉。勇気が欲しいってドユコト?」

 

 千枝の問いかけに、瑞月は手元の紙片──辰姫神社のおみくじを見つめる。思わせぶりな瑞月の態度に、千枝はがぜん興味を引かれた。“勇気が欲しい”なんて言ったら、年頃の女子である千枝は心ときめく色恋沙汰を想像してしまう。

 

 だが、瑞月の表情は恋の予感に浮き立つそれではなかった。眉尻を下げて、本当に困っている様子だ。

 

「その……千枝さん。相談に乗ってはくれないだろうか……」

 

 弦が緩んだ楽器みたいに張りがない声を上げる瑞月に、千枝の気持ちが切り替わる。瑞月は本気で困っていた。そんな人間を、千枝が放っておけるはずがない。

 

 ◇◇◇

 

「────つまり、動きがうるさくて注意したら、花村が怒って、瑞月ちゃんは屋上から逃げ出したと」

「怒ったというより、私が傷つけた……かな」

「いや、それ瑞月ちゃん悪くなくない? ただ単に目に余るからアドバイスしただけだし」

「ことの発端は相手が悪かったとしても……、メールで謝意を示した上に、謝ろうと私を探してくれた花村を避けてしまった私も私なんだ……」

「それで休みを挟んで、お互い話もせずにここまで来ちゃったと」

 

 総菜大学の簡素な休憩場で、瑞月は頭を抱える。対面する千枝はと言うと、相談料として瑞月がおごってくれたビフテキコロッケ2個目を頬張っていた。ゴロゴロと豪快に角切りされた食べ応えのある肉がほくほくしたジャガイモと玉ねぎ、ソースの甘さと合わさって美味しい。

 

「だーから花村、昨日の土曜様子おかしかったんだ。どっか落ち着きなかったし、昼休みは廊下ウロウロして午後の授業に遅れそうになるし」

「ああ……。雨の日は、私が空き教室で一人になると知っていて探していたんだろうな」

 

 瑞月はこめかみを押さえ、ため息交じりにこぼす。自分用に購入したビフテキ串(「ソース物はしばらく遠慮したい」と謎めいた理由で選んでいた)には手も付けず、千枝としては冷めていくのがもったいない。ビフテキ串は温かい方がおいしいのに。

 すると、瑞月は千枝へとビフテキ串を差し出した。

 

「……千枝さん、これもよかったら食べてくれ」

「え、いいの?」

「食欲のない私に食べられるより、おいしそうに食べてくれる千枝さんが食べたほうがいいだろう」

 

 瑞月は弱々しく唇を曲げる。普段は冴え冴えとした寒色の瞳も、溶け落ちる氷のように儚く、元気がない。反射的に、千枝は瑞月のビフテキ串を押し返した。

 

「や、それはダメっすよ、瑞月さん。肉はパワーの源なんだから、元気ない時にこそ食べなくちゃ」

「千枝さん……」

 

 瑞月の提案は肉好きの千枝にとってはありがたい申し出だ。しかし、弱っている人から食べ物を取るのは、千枝のポリシーとしていただけない。弱っている人こそ、おいしいものを食べて元気を出すべきだ。

 

「てことで、私も瑞月ちゃんも元気になれる半分こってのはどうスかね」

 

 だが、肉を食べたい気持ちも千枝の中には確かにあった。よって、折衷案を瑞月にむかって笑顔で示してみる。欲張りと言われても仕方がないが、千枝にとって肉は最上位の必須栄養素なのだ。

 

 くっついた両手を割るようにして「半分」のジェスチャーを示す千枝に、瑞月はぽかんと無言になる。判断を間違えたかもしれない。千枝が肝を冷やしていると、瑞月が口元を隠した。

 

 瑞月は、楽しそうに笑った。弱々しく曲げられた唇は、愉快そうに角度を上げている。

 

「ふふっ、そうしようか。私も全部食べ切るのは辛いから」

「あざ――――すっ!!!! ビフテキ串1.5本めー!!! なんという贅沢!!」

 

 高級なおやつを与えられた犬のように、千枝は瑞月が分けてくれたビフテキにパクつく。瑞月も沈んだ雰囲気が和らいでいる。千枝は誇らしそうにビフテキ串をもう一つ頬張る。肉はやはり楽しく食べたほうがおいしい。

 

「普段だったら、そこまで怒んないのにねー花村。よっぽど地雷ついちゃったんだねー」

 

 和やかにビフテキを食べ終えたところで、千枝と瑞月は相談を再開する。

 

 友達になってからというもの、千枝と雪子、陽介と瑞月の4人は登校してか朝のSHRまでの時間を喋って過ごすのが日常となっている。

 

 瑞月はグループが暴走したときのツッコミ役だ。かといって、人を怒らせる機会は今まで皆無だ。陽介の口が滑ったり、雪子が天然をさく裂したりすると、冷静にたしなめる立場なので人を怒らせる行動からは一番縁遠いともいえる。

 

 そして、陽介が怒る場面を千枝は想像できなかった。陽介と千枝となんだかんだ言い争いになる機会が多い。けれど、あれは親しさの延長のようなものだ。いじられるネタも返しが決まっているので、(ムカつくのは変わりないけれど)千枝は対応できる。

 

 それは陽介も同じである。テンプレートな会話に、テンプレートな口論。相手が本気で怒るはずもない会話の応酬が千枝と陽介のやり取りのすべて。だからこそ、陽介が本気で怒ったところなんて見たことがない。

 

 なぜ陽介は怒ったのか。千枝の隠された疑問に答えるように、瑞月は口を開いた。

 

「怒っているというより……悲しんでいるようだったな」

「悲しむ? 忠告に? なんで?」

「私が、花村を『ジュネスの息子』扱いしたから」

「……あー、そういうのかぁ」

 

 千枝は納得がいった。『ジュネスの息子』というレッテルが、陽介にとって無視できない大きさを占める現状を、友達である千枝は把握していた。

 千枝たちのクラスにはいないけれど、他クラスや違う学年に属する、地元の商店街に関わりを持つ生徒からはいまだ厳しい視線を陽介は向けられているのだ。

 

 いまは学年全体で一目置かれている瑞月と友達になってからは──彼女の恐ろしさに腰が引けたのか──悪質な陰口や絡みはぐんと減ったが。それでも、ときたまそうした悪意のある人間たちに絡まれると、どこか寂しそうに肩を落としていた。(本人なりに取り繕っていたけれど)

 

「でも、それってそんな深刻なコト? アタシもたまにネタにしてるけど」

「私はそういった扱いをしてこなかったからな」

「なんで?」

「ご実家の商売を揶揄われるのは、相手を育てた両親を貶すことと同じだと、私は思っている」

 

 苦々しく、瑞月は吐き捨てる。実感がこもった言葉に、千枝はドキリと冷汗をかく。たしかに自分の両親がバカにされているのは、いい気分ではない。千枝は己の浅慮を恥じた。これからは陽介に少しだけ優しくしようと思う。

 

 内省する千枝の心など知らず、瑞月は力なく首を振った。

 

「しかも、彼が声を荒げたことから考えて、相当にストレスが溜まっていたんだろうな。それに気がつけず、本当に悪いことをした。花村を傷つけてしまった」

「え、瑞月ちゃん。気にするのそっち? 花村にひどいこと言われたのに」

「彼は理由なく、人を傷つける人間ではないよ」

 

 瑞月は不甲斐なさそうに、しゅんと肩を下げる。

 

「私がショックだったのも確かだが──友人として、彼が追い詰められていると気づけなかった。さらに、私は彼に謝る勇気もなく背を向けて逃げた、臆病者だ」

 

 言い終えた瑞月は、どこか寂しそうだった。ビフテキ串が乗っていた、空になった皿に視線を落としながら、彼女は言葉を選ぶ。

 

「謝らなければいけないとは、分かっているのだが……。花村を避けてしまった私に対して、彼が何を思っているのか、怒ったり、軽蔑していたりしたらどうするのか、想像すると怖くなった。だから、どうやって謝ればいいか決心がつかなくて」

「嫌われたりするのが、イヤだってこと?」

「……そうだな」

 

 おずおずと、そしてなよやかに、瑞月は頷く。瞳の紺碧がゆらゆらと不安定に波打つ。千枝は驚く。相当に、瑞月は陽介との交友がギクシャクとしている現状に参っているようだ。そして、悪い思い込みに突っ走っている。

 

「んー、花村ってそんなヤツじゃないよ。なんだかんだ言いながら、アイツ、結局お人よしだからさ。そういうところ、文化祭から付き合いのある瑞月ちゃんなら知ってるでしょ」

 

 転校直後、花村と友達になった千枝が知っているのだから、もっと交流の深い時間を過ごした瑞月ならば、知らないはずがない。

 

「それにさ、アイツだって瑞月ちゃんのこと大切な友達だって思ってる。昨日、散々瑞月ちゃんを探してたのがその証拠だよ」

 

 ゆらゆらと不安定だった紺碧が静止する。千枝はふっとほほ笑んだ。陽介が瑞月を大切に思っているというのは本当だ。

 

 雪子を含めた4人で話したとき、陽介が瑞月にかける声は。千枝や雪子と話すときと違った。

 

 妙にテンションの高いものではなく、柔らかく力の抜けた──いうなれば、安らいだものだった。きっと、陽介にとって瑞月は、気負わずに接することができる相手なのだろう。

 

 それに、どうでもいい人間ならば昼休みをおじゃんにしてまで必死で探したりしない。

 

「それにさ、謝りたいって決めてるなら、くよくよ悩むより動いた方が良いよ。瑞月ちゃんは花村と友達でいたいんでしょ?」

「──ああ。そうだな」

 

 からりと笑う千枝に、瑞月はしっかりと頷いた。そして、懐から携帯を取り出す。

 

「里中さん、私が逃げないように見ていてくれないか」

 

 何やら瑞月は宣言する。意を決した様子で、彼女はコール音を立てる携帯を耳に押しつけた。

 

 ◇◇◇

 

 電話相手との会話が終わり、瑞月は携帯を閉じる。心なしか、通話を始める前よりも表情筋が硬い。それもそのはず。千枝はあっけにとられた様子で呟いた。

 

「まさか直接、ケンカ中の相手に電話かけちゃうとはね……」

 

 電話相手は、瑞月と気まずい仲になっている陽介本人だった。

 

『……もしもし、花村だろうか。先日は、その……済まなかった』

『だから、ちゃんと……謝りたいんだ。だから日取りを……って、えっ? 今から行く?』

『いや、きみに足労をかけるわけには……いや、そのうん、ああ……』

『……分かった。では……辰姫神社に来てはくれないだろうか。時刻は……』

 

 瑞月は簡単な謝罪を述べた後、陽介となにやら電話でひと悶着した。そしてなんと、今日会うことになったらしい。

 

「辰姫神社で午後3時だ。今日きちんと謝る」

「いや、思い切りいいな! さっきまで引け目感じてた相手に会おうとするなんて」

「そうしないと、逃げてしまいそうだったから」

 

 千枝のツッコミにも動じず、彼女はぎゅっと手のひらを握りしめる。元気がなく緩んでいた目じりは凛と張って、清水の舞台から飛び降りる人は彼女のような面持ちなのだろうと思う。

 

「花村と仲直りができるよう、逃げずに話して、謝る」

 

 一言一句、瑞月は自身に言い聞かせるように、はっきりと発語する。陽介と会うにあたって、覚悟を決めているらしい。瑞月の決意の強さに千枝は心を打たれた。頑張る人の背中は押してあげたい。ポンッと千枝は瑞月の肩を軽くたたく。

 

「よし、言ったね。だいじょぶ、もし仲直りできなかったら、アタシが花村の頭にかかと落としてやるから」

「絶対に仲直りする。花村が再起不能になってしまうのは嫌だ」

 

 身をカチコチに固めながら、瑞月は青い顔で宣言した。ふだん冷静な彼女からは想像できない慌てた様子が面白い。千枝は固くなった瑞月へと、意外さとともに問いかけた。

 

「瑞月ちゃんってさ、変わったよね。文化祭のときから」

「交友関係のことか?」

「それもそうなんだけど……。優しくなったというか、うーん、人に向ける関心が広がったというか」

「学校への関心はいつだってある。林間学校も、中間テストも欠席にした覚えはない」

「えーと、そうなんだけど、そじゃなくてね……」

「?」

 

 頭上にハテナを浮かべて、瑞月は首をかしげる。そういうところが変わったと、千枝は言いたいのだ。

 

 ***

 

 入学当初の瑞月を千枝は覚えている。雪子に勝るとも劣らない美しさの彼女は、当時クラスで話題となり、声をかける人間も少なくなかった。かく言う千枝もその一人だ。

 

 だが、クラスの誰一人として、彼女と交友を持った者はいなかった。一緒に下校しないか、と誘ったときの彼女を千枝はよく覚えている。

 

『すまないが、予定があるんだ。先に失礼する』

 

 取り付く島もなく、彼女は千枝の誘いを断った。端麗な面差しは微動だにせず氷のような冷たさを放ち、よく通る、しかし熱のない言葉に拒絶がありありと浮かべられていた。

 

 ***

 

「瑞月ちゃんって誰かと一緒にいたことなかったから。いつも、一人でいてさ──」

 

 外界と自分を、完全に見えない壁で切り離しているようだった。クラスとの関りは最小限に留め、ただでさえ少ない動作であっても決して自分の内側にある感情は一つとしてこぼさないよう堅く堅く閉じ込め、周囲を冷気で遠ざける、氷像のような人。それが文化祭前までの瀬名瑞月だったのだ。

 

「でも、ナヨナヨしたところなんか全然なくて、モロキン相手でもはっきり意見言えるし、すごい自立した子だなって」

 

 にべもない瑞月に取り入る者などいない。かといって、コケにする人間もいなかった。

 瑞月相手では、あの尊大なモロキンでさえ尻込みする。何者にも媚びず屈しない瑞月は、八高一年にて一目置かれている存在なのだ。本人はきっと知らないだろうが。

 

「意見? 諸岡先生に意見したことなどほとんどないが。せいぜい、政経の時間に長引いた説教をやめさせる程度だ」

「イヤ十分すごいから。他にも、モロキンを一学期のテストでコテンパンにしたとか」

「それは誤解だ。バイト先について苦言を呈した諸岡先生に認めてもらうために、彼が示した及第点を取っただけだ。コテンパンにはしていない」

 

 いやそれコテンパンにしたんと同じやん。と喉元までこみ上げたツッコミを千枝は抑えた。こともなげに首を振る瑞月には、きっと言っても通じない。彼女の表情は見慣れた無表情に戻っていた。

 

 無感情な、瑞月の凪いだ冷たい美貌。それこそが、彼女の象徴だった。周囲の人間にどう見られようが、何をされようが眉一つ動かさず、自分の力で進んでいく。乱されはしない、完成した、能面じみた面差し。

 

 けれど、今は──

 

「──やっぱ、瑞月ちゃんが変わったきっかけってさ、花村だったりする?」

 

 瑞月の瞳孔が丸くなる。やっぱり変わったなと、千枝は人間らしい瑞月を眺める。モロキンの長広舌にも崩れない、整った無表情がたった一言で瓦解してしまうのだから。

 

「……そうだな。あんなに優しくて、誠実な人を、私は初めて見たよ」

 

 瑞月は瞳を閉じる。そうしてゆっくりと瞼を開いた彼女は、ゆるりと笑った。

 

「花村がいたから、自分の世界を広げてみようと思ったんだ」

 

 千枝は呆気にとられた。目じりを優しく細めて柔和に笑う彼女に。氷のような冷たさは溶けて、雪の下に淡く咲いた花のように温かい笑みだった。簡単に言えば、慈愛に満ちていた。

 

 なぜか分からないが、千枝はお腹いっぱいになった。押し出された疑問を千枝はそのまま口に出す。

 

「瀬名さんって、もしかして花村のことすごい好き?」

「そうだな。友人として好ましい人間だと思うし、誠実な一面は尊敬している」

 

 生真面目に、瑞月は答えた。ちょっと想定している答えと違って千枝は戸惑う。瑞月が見せた感情って、こう、青春によくある甘酸っぱい感情ではないだろうかと。

 

「うーそうマジメな答えじゃなくて。もうそれこ──」

「──ないよ。これは友愛であって、恋じゃない」

 

 ピシャリと、瑞月は否定する。いつの間にか、彼女は自嘲気味に頬を歪めていた。どこか辛そうな様子の彼女に、千枝は何か声をかけたかったが──黙るしかなかった。安易な励ましの言葉をかけてはいけない雰囲気だったからだ。

 

「それにね、私はむかし、決めたんだ」

 

 ──誰かと睦み合う未来は生きないって。

 

 言葉は戒めのように厳かで。呟いた瑞月の声は低く、重く、

 まるで狭い場所に閉じ込められた人のように、苦しそうだった。

 




 お読みいただき、ありがとうございました。次回から本編に戻ります。
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