第1話 鳴神大社の呑兵衛
その男は多くを失った。
最初は大天狗の戦友――魔神オロバシの惡王との戦いで斃れてしまう。
男はその時、別の魔神と激闘を繰り広げており、助けに行くこともその死を看取ることもできなかった。
男の心は傷付いた。
次は鬼族の女性――漆黒の厄災にて、魔物と化してしまう。
男は鬼族の女性が正気を失い、男達の主君へと刃を抜いてしまう。男は主君を守る為、主君の目の前で鬼族の女性を斬り、女性は逃げ去った。最期は誰かに殺されてしまったと、風の噂で耳にすることになった。
男の心に闇が巣くった。
その次は仙狐の女性――同じく漆黒の厄災にて、国を護るために尽力し、神櫻の穢れを払おうとして闇の意識体に呑み込まれてしまう。
男は違う場所で漆黒の軍勢と戦っており、気付いた時には仙狐の姿は何処にも無かった。
男の心は摩耗した。
そして最後は――最も親しい友であり、守るべき主君であり、最愛の神だった。
その神は半身と男に黙って死地へと向かい、半身が駆け付けた頃には息絶えていた。
男は最愛の神を守ることができず、何も守れなかった無力感に絶望した。
男の心は完全に砕けてしまった。
それから五百年――男は生きた屍のまま現世に在り続けた。
友であった仙狐が宮司を務めた鳴神大社で、新たに宮司となった八重神子の下でひっそりと身を潜めているのであった。
その男の名は
焔硝は鳴神島にある高い山の頂にある鳴神大社の一棟にて、日の当たらない場所でいつも酒を飲んでは眠るを繰り返している。酒が無くなれば稲妻城の街へ繰り出し、飯屋で酒を飲んでは酒を買って帰る。
それを五百年、焔硝は毎日繰り返している。
酒浸りと言っても、酔っ払ったことは一度も無い。それは焔硝の身体が特別であるからだ。もし酷く酔っ払ったりしていたら、今頃八重神子を筆頭に巫女達の手によって鳴神大社を追い出されていることだろう。
今も焔硝は酒を飲み、大社にそそり立つ神櫻を眺めて無意味な時間を過ごしている。
神櫻は稲妻全土に根を張る、謂わば国を護る神聖な木だ。綺麗な桜の花弁を咲かせ、まるで狐のような形の幹をしている神秘的な外見をしている。
焔硝が酒を飲んでいると、彼の背後に誰かが立った。
桜色の長い髪を揺らし、髪と一体化しているような狐耳を生やし、大胆にも肩や背中、脚の肌を曝け出す巫女服に身を包んだ女性――鳴神大社の宮司、八重神子である。
八重神子は畳の上に置かれているいくつもの空になった徳利を見て軽く溜息を吐く。
「はぁ……相変わらず酒浸りじゃな」
「……」
八重神子の言葉に何も反応せず、焔硝はお猪口を口に付けて傾ける。
八重神子は肩をすくめ、焔硝の手にあるお猪口を小さな雷で弾き飛ばす。
そこで焔硝はやっと八重神子に反応を示す。
「……八重、何の真似だ?」
「それは此方の台詞じゃ。一日に許す酒の量をとうに越えておる。妾と約束したじゃろう?」
「……そうだったか?」
惚ける焔硝に、八重神子の顔から温かみが消えた。
「酒も無尽蔵ではない。酒を買うモラにも限りはある。それ以上飲むというのなら、お主にも働いて稼いでもらうぞ?」
「飲むな、とは言わないんだな?」
「言うても聞かんじゃろ……。しかし、今日はもう駄目じゃ。このまま閉じ籠もっても酒が飲みたくなるだけ。外に出て気分でも紛らわせてくるがよい」
そう言って八重神子は焔硝の後ろ首を掴み、引き摺って大社から外へ放り投げた。焔硝が外出する時にいつも身に纏っている赤黒の大きな羽織と赤鞘の刀を、地面に尻餅をついている焔硝に投げ渡した。
羽織を受け取った焔硝は重い腰を持ち上げ、羽織を羽織る。刀を腰に差し、付いた汚れを叩き落として大社の敷地から出ていく。
「はぁ……汝の時は、何時になったら動き出すのじゃろうな……?」
去って行く焔硝の背中を見送りながら、八重神子はそう呟いた。
鳴神大社が建っている影向山から下りた焔硝は、行く当ての無い散歩をしていた。
晴天の下をのらりくらりと歩き続け、穏やかな景色を眺める。
普通ならこの長閑な景色を散歩すれば、心は穏やかになり気分も良くなることだろう。
だが焔硝には目に映る光景が、とても虚しいものに感じていた。隣に感じるはずもない温もりが過り、焔硝の目がどんどん曇っていく。
砕けてしまった心が更に磨り潰されていく。忘れようとしていた過去の情景が頭を過り、焔硝は顔を顰める。
これ以上散歩を続けても良いことは無いと思い、焔硝は街に行って酒を買って帰ろうと考えた。
ふと、今自分が何処を歩いているのか分からなくなり、立ち止まって辺りを見渡す。
どうやら紺田村と呼ばれる村の近くを歩いていたようで、何やら小さな喧噪が聞こえてきた。
その時、焔硝の心に使命感が宿る。稲妻に住まう民達の悲痛な声が聞こえてしまったら、見過ごすことができなくなってしまう。
それは今まで多くのモノを守れず失ってしまったが故の贖罪か、焔硝は喧噪の中心へと脚を進めていく。
焔硝が喧噪の中心に辿り着いた時、ある人物が目に入って足を止めた。
稲妻では見たことが無い出で立ちをした金髪の少年と、その傍らでふよふよと浮かぶ白い生き物だった。
焔硝はその少年達を目にした時、何か不思議な感覚がして魅入ってしまった。
姿が魅力的だとか、外国の人間だから珍しいとか、そう言うものではない。
力だ――何か不思議な力を少年から感じたのだ。
焔硝は少年達に気取られないよう、物陰に身を潜めて事の成り行きを見守る。
どうやらこの喧噪は、目狩り令によって神の目を奪われた手島という男が村から出ようとしたのを止めていたのが原因らしい。
手島は神の目を奪われ、記憶と心にぽっかりと穴が空いたように虚無に苛まれ、村に留まる理由を忘れて出て行こうとしていた。
目狩り令――稲妻を統治する雷神、雷電将軍がお触れを出した施策であり、神の目を所有する者から神の目を奪い取り、稲妻城の広場にある千手百目の像に埋め込む。
神の目とは、所謂元素力を扱う為に必要な器官であり、神から認められた者に発現する物である。神に認められるには、一般的には最も険しい分岐点にて渇望が極地となる必要がある。
その神の目が奪われたとなると、渇望していた願いや情熱を失うのと同意義。手島のように空虚になることがある。
金髪の少年は、その手島に記憶を取り戻してあげようとしているようだった。
焔硝はどうしてか少年から目を離せず、そのまま後を付けて成り行きを見届けることにした。
少年達は手島の記憶を取り戻す為に手段として手島の日記を探し始める。日記を見付け、何か手掛かりを見付けたのか更に移動して祠の前に立つ。祠から何かを見付け、少年達は再び何処かへと歩き出す。
やがて少年は立ち止まり、足下の地面を掘り出す。地中から何かを取り出し、いきなり走り出した。焔硝も慌てずに少年達の後を追いかける。
少年達は手島の下へと戻り、先程掘り出した手紙を渡す。それによって手島は失った記憶の一部を取り戻したようだ。
聞き耳を立てて話を聞かせてもらうと、手島はこの村で一人の女性を待ち続けていたようだ。
三十年間、手島は日記に面白い出来事を書き留め、女性と再会した時に話してやるつもりだった。
手島は女性の名前や、三十年前に何があったのかまでは思い出せていないが、女性を待ち続ける情熱を取り戻した。
手島は村に留まる理由を取り戻し、村で女性を待ち続けることにした。
焔硝は手島のその情熱を、女性一人に向ける愛だと感じた。記憶を失い、女性のことを忘れても、その愛だけは心に残し続けた。空虚になっても、その愛が手島の心を苛ませていたのだ。
少年達はその愛に見事火を灯した。焔硝は少年達に先程よりも強い興味を抱く。
「あいつはいったい……何だ?」
その後、少年達は次の人を助けに行こうと口にし、紺田村を出発した。白狐の野を越え、稲妻城の街の入り口に入る。
そこで神の目を奪われた黒澤という武士を、先程と同じく渇望を取り戻して助けようとした。
黒澤は目狩り令に不満を抱いていたようで、それが切欠で神の目を押収されたらしい。
少年達は黒澤から話を聞き出し、行動を開始した。
先ずは黒澤の家に入ったという宝盗団を追いかけ、追いかけた先で宝盗団との戦闘が始まった。
その戦闘を見て、焔硝は目を疑う。
少年は元素力を扱っていた。それ自体は驚くことではない。神の目を持つ者ならば元素力が扱える。
だが少年は神の目を持っていなかったのだ。
服の中に隠しているのか? そう思い、焔硝は目を凝らす。だが何処にも神の目が見当たらない。少年は神の目を持たずに元素力を行使しているのだ。
焔硝は未知の存在である少年に目が釘付けになる。少年の存在が稲妻にとって吉と出るか凶と出るか見定めるべきかと考えた。
今の稲妻は雷電将軍が提唱する『永遠』によって、変化を限りなく排除している。その施策の1つとして鎖国令も出されている。
少年達は稲妻の外からやって来た者達だ。稲妻に変化を齎す者達かもしれない。そうなれば雷電将軍の『敵』になるやもしれない。
焔硝は左手を腰に差している刀に手を添える。だがすぐに手を離した。
敵になるからどうしたと言うのだ。雷電将軍が少年達にどうこうされるとは到底思えない。
焔硝はもう暫く様子を見ることにした。
少年達は宝盗団から奪った物を片手に街の中へと走り去っていく。追いかけようとしたが、手島を救ったように何か手掛かりを求めに行ったのだろうと察し、その内黒澤の下に戻ってくると推測して少年達が戻ってくるのを待つことにした。
暫くして少年達は戻って来た。予想通り、黒澤の情熱を取り戻す切欠を手に入れたようで、黒澤は情熱を取り戻すことは無かったが、昔抱いていた情熱を考えさせることはできた。
また少年は歩き出し、今度は小さな道場へとやって来た。
どうやらそこの主である明鏡止水流の現師範が邪気に取り憑かれてしまったらしい。
その師範は焔硝も知っていた。土門という名で、確かな剣の腕前を持っている。その腕前は大社に閉じ籠もっていても耳にするほどだ。
それ程の腕前を持つ男が、邪気に取り憑かれるとは、これも神の目を奪われた弊害なのか。
土門の邪気を払うために、門下生は鳴神大社の巫女にお祓いを頼んだという。
確かに巫女はある程度の邪気を払うことは可能だ。
しかし――、と焔硝は道場に目を凝らす。
邪気に取り憑かれているという土門は中にいるようだが、道場からは邪気を感じ取れなかった。
巫女は夜に来るらしい。少年達は夜になるまで何処かで休むようだ。焔硝も夜になるまで待つことにした。
夜――、焔硝は再び道場へと足を運ぶ。
その時、邪気祓いを頼まれた巫女と遭遇する。
巫女は焔硝に気が付くと立ち止まり、礼儀正しく腰を曲げて挨拶をした。
「これは焔硝様、この時間にこの様な場所でお会いするとは……お珍しいですね」
「……それは当て擦りか?」
「いいえ、滅相もありません。八重様はもう怒っておりませんでしたよ」
「別にそう言った理由で帰らなかった訳じゃない。はぁ……明鏡止水流師範の邪気祓いか?」
「はい、ご明察です。ですが、どうしてそれを?」
「別に……ん?」
焔硝と巫女は道場の前で男が錯乱しているのに気が付く。
それは土門だった。土門は誰かの名前を叫びながら門下生達を押し退けて暴れていた。
焔硝と巫女は目配せし、土門の下へと駆け付けた。
巫女が土門が邪気に取り憑かれて錯乱していると判断し、儀式をすぐに開始することにした。
だが土門が落ち着かず儀式に移行できないのを見ていた焔硝は巫女をそっと土門から離し、土門の頭に手を置いた。
「フッ……」
焔硝が力を込めると土門は意識を失い、規則正しい呼吸をして眠りに着いた。
これで儀式ができるだろうと巫女に土門を明け渡し、巫女はお礼を言って土門を連れて道場の奥へと入っていった。
焔硝は連れて行かれる土門を見て確信する。土門からは邪気を感じられない。巫女の儀式は意味を成さないだろう。
「あ、あの!」
焔硝がその場から立ち去ろうとした時、外に残っていた門下生が焔硝に声を掛けた。
「……何だ?」
「先程は師匠を落ち着かせてくださり、ありがとうございます!」
「……手荒な真似をして悪かったな」
「いえ! ああでもしてくださらなければ、儀式は行えませんでした!」
「……左様か」
「あの……貴方様は巫女様のお付きの方でしょうか?」
焔硝は目を丸くした。まさか己が巫女のお付きだと勘違いされるとは思わなかったのだ。
言われてみれば巫女と一緒に現れたし、間違われても仕方が無い。
焔硝は軽く咳払いをして「あー……」と言葉を漏らす。
「まぁ、そんな所だ」
焔硝はその間違いを肯定した。
門下生は「そうですか!」と言い、改めて姿勢を正す。
「でしたら、儀式が終わるまで茶をお出しします!」
「何? あ、いや……ぅん、馳走になろう」
焔硝は少し迷うが、確かに儀式が終わった巫女を夜道一人で帰す訳にはいかないかと、門下生の提案を承諾し、茶を御馳走になることにした。
このまま茶を飲んでいたらいずれあの少年達が戻ってくるだろう。遭遇しても巫女の付き人だと言い張れば、不審に思われないだろうと焔硝は考える。
外で茶を飲んでいると、少年達が戻ってきた。
ここで初めて、少年は焔硝の存在を確認した。少年は隣に浮かぶ生き物に声を掛けられるまで焔硝を見続ける。
「おい! 空! いきなり立ち止まってどうしたんだよ!?」
「え? えっと、あの人……」
「ん? 誰だぁ? 明鏡止水流の門下生かな?」
焔硝も改めて少年達を確認する。
空、と呼ばれた少年は、見れば見るほど不思議な力を感じる。感じる力に悪しきものは見当たらない。寧ろ綺麗に澄んでいるとさえ、焔硝は感じた。
少年の隣で浮いている生き物も焔硝は初めて見る。大昔の妖怪や魔物にも該当しない未確認生物だ。
赤ん坊の霊魂だろうか、と焔硝はふとそんなことを考える。
「あ、来たか」
門下生が少年達に話しかけた。少年達に今の状況を説明し、水を汲んでくると言って場を離れた。
その時だ、焔硝は近くから慌てて立ち去る気配を察知した。
少年達もそれに気付き、立ち去っていく男を追いかけていった。
追いかける直前、少年は焔硝を気にしていたが、焔硝は何も言わなかった。
暫くすると、少年は帰ってきた。その様子からして、立ち去っていった者は悪人では無かったようだ。
「……」
少年は焔硝を見つめる。焔硝は気にせず茶を啜る。
「あ、おい」
少年が焔硝に近寄る。焔硝の前に立つと、少年は挨拶をする。
「こんばんは」
「……」
焔硝は少年へと顔を動かす。
「こんばんは!」
「聞こえている」
挨拶を返さない焔硝に怯まず、少年は無垢な笑顔を向けて再度挨拶をした。
焔硝は湯飲みを置き、少年に返答する。
「俺は空! 貴方は?」
「……焔硝、そう名乗っている」
「オイラはパイモン! 焔硝、お前は此処で何をしてるんだ?」
少年の名は空、その隣の浮かぶ生き物はパイモンと名乗った。焔硝は二人の名前を覚え、己の名を名乗る。
「俺は今中で儀式をしている巫女の付き人でな。儀式が終わるのを待っている」
「お前も鳴神大社の関係者なのか?」
「ま、関係者と言えば関係者だ」
「……」
空は焔硝をマジマジと見つめる。焔硝はまるで観察されているような気がして居心地が悪くなる。先程まで己も空を観察し続けた身だが、まさか目の前で観察仕返されるとは焔硝は思わなかった。
すると、道場から門下生達と巫女が出てきた。儀式は終わったようだ。
結果から言うと、土門が邪気に取り憑かれているのを巫女は確認することができなかった。
焔硝から言わせてもらうと、それは巫女の力不足ではなく、土門は邪気に取り憑かれていないからだ。
巫女は邪気には様々な種類があり、もしかしたらまだ見ぬ邪気かもしれないと告げ、八重神子が土門に会ってみたいと言っていると門下生達に伝える。
八重神子が診てくれると聞き、門下生達は大変喜ぶ。これで土門が助かると。
指定された時間に鳴神大社へと来るようにと告げ、巫女は大社へと帰り始める。
焔硝も立ち上がり、巫女の後を追いかける。
「あら? 焔硝様、どうかなされまして?」
「……成り行きで俺はお前の付き人になった。夜も更けている。共に帰るとしよう」
「……? かしこまりました。お供、感謝致します」
巫女は艶やかに笑い、焔硝と一緒に帰路につく。
道中、二人は口を開くことは無かったが、夜風に晒された巫女が小さなくしゃみをした。
それを見た焔硝は羽織っている羽織を脱ぎ、巫女へと差し出す。
「……お戯れを。焔硝様の羽織とは畏れ多い」
「何も言わず着ておけ。俺が側に居ながら巫女に風邪を引かせると、八重が煩い」
「……ありがとうございます、焔硝様」
巫女は焔硝から羽織を受け取り、丁寧に羽織る。焔硝の羽織は大きく、巫女の全身をすっぽりと包んでしまった。
それが切っ掛けとなったのか、焔硝は巫女に先程の儀式について話し始める。
「先程の儀式、お前の力量不足ではない。アレは邪気に取り憑かれていない。八重が診たところでそれは変わらん」
「左様でございますか。でしたら、何故あの場でそれを申さなかったのですか?」
「……少し、気になることがあった。それだけだ」
それ以降、大社に辿り着くまで二人は口を開くことは無かった。
帰宅後、焔硝は神櫻の夜桜を眺めていた。住み込みの巫女達は既に就寝しており、起きているのは焔硝だけだ。
焔硝は神櫻を眺めながら、空のことを思い返す。
不思議な力を感じたが、それは悪しきモノではない。見た目は普通の人間だが、世界の理から外れているようにも感じた。
神の目を持たずに元素力を扱う異邦人――焔硝は己でも分からぬ心の胎動に寝付けないでいた。
すると、焔硝の部屋に一人の気配がやって来た。
焔硝が視線を動かすと、白絹の寝間着を着た八重神子が立っていた。
「なんじゃ焔硝、眠れぬのか?」
「……お前こそ、何故寝ていない?」
「巫女からお前の様子が変だと聞いての。寝る前に確かめに来たのじゃ」
八重神子は焔硝から一人分間を空けた隣に座り、一緒に神櫻を眺める。
「何かあったのか?」
「……明日、おそらく珍しい客が来る。お前の眼にどう映るのか、見物だ」
「ほぅ? 汝がそこまで言うのは珍しいの。ならば期待しておこうぞ」
八重神子は妖艶に微笑む。月夜と夜桜の明かりで、八重の美しさがより際立つ。
夜が更け、男女が二人きりだというのに、焔硝は八重神子を一瞥するだけで何も反応しない。
「……はぁ、八重、いくら俺とお前の仲と言ってもこんな時間に一人で此処に来るな」
「何でじゃ?」
「俺より巫女達と関わっているお前が知らないとは言わせないぞ。新人の巫女達の間で噂されてるんだぞ? 面倒は御免だ」
「くくっ、言いたい者には言わせておけば良い。それで汝が此処に居辛くなり出て行くことになるのなら、それはそれで良い薬じゃ」
「……酒の件は悪かったって」
「ふむ……まぁ良いじゃろう。明日が楽しみじゃ」
八重神子はフフフと笑い、部屋から出て行った。
焔硝はもう暫く神櫻を眺め、そのままゆっくりと目を閉じるのであった。