翌日の夜――鳴神大社。
焔硝は社から出ず、内から外の様子を眺めていた。
外では予想通り、空とパイモンが門下生達と一緒に訪れていた。
巫女と八重神子が社から出て、皆の前に姿を現す。
八重神子は空とパイモンを興味深げに一瞥し、それを悟られる前に土門へと顔を向ける。
八重神子が土門を診ても、焔硝の言う通り土門には邪気が取り憑いていなかった。
土門が嘗て己が負かした相手が罵ってくる幻覚を見るようになったのは、神の目を奪われたからだった。
神の目を奪われるのは願いを奪われるのと同じ。
剣術で天下一を目指した土門にとって願いとは、剣術で他者の夢を打ち砕く罪悪感を忘れるための薬だったのだ。その願いが奪われた今、土門は罪悪感から逃れられず、今のように発狂しているのだった。
今回ばかりは、空とパイモンがこれ以上手を出せないものだった。
最終的に土門を救ったのは、嘗て土門に敗れた兄弟子である安西だった。安西と門下生達の言葉により、土門は心の落ち着きを取り戻したのだった。
焔硝は土門の姿を見て、土門が発狂した姿は己のもう一つの姿だったかもしれないと考えた。
友と最愛を守れず失った罪悪感に堪えきれず、発狂して正気を失っていたかもしれないと。
そうならずに済んだのは己の特異性なのか、発狂する前に心が砕けたからか、それとも発狂する前に八重神子に匿われたからか。
焔硝はどちらの方が良かったのかを答えられなかった。生きた屍となって無意味に日々を過ごすのと、発狂して正気を失い誰かに斬られるのと、どちらが幸せなのか焔硝は分からなかった。
焔硝は社の中でただ静かに自問を繰り返した。
土門達が大社を後にした時、八重神子は空とパイモンを引き止めた。
「やはり汝らが……」
「……?」
「異教から訪れる風、この海域に新たなる望みを吹き付ける……焔硝が目を付けるのも納得じゃ」
「あの……」
「妾たちの出会いは、少々早過ぎたかもしれぬ。じゃが、汝がこの島を訪れた時機はちょうど良かったと言えよう。妾の期待に応えられるよう励むがよい、童よ」
八重神子はそれだけ言うと、神櫻の前で腕を組み口を閉じた。
空とパイモンは八重神子に言われた言葉に首を傾げる。
「んん? あの八重様って人、お前に興味津々みたいだな。不思議な奴だな。さっき言ったことの意味はいったい……それに焔硝って……。うーん、これについてはまた今度話そう。今は早く戻って綾華に報告しようぜ」
「うん、そうだね」
空とパイモンは鳴神大社から出て行った。
「……もうあやつらは帰ったぞ、焔硝」
八重神子が社に向かってそう言うと、焔硝が社から姿を現した。八重神子の隣に立ち、神櫻を見上げる。
「お前にはあの子らがどう見えた?」
「言った通りじゃ。あやつらは稲妻に『変化』を齎す」
「……期待しているのか?」
「それはもう……汝も期待しておるのではないか?」
「――俺が何を期待すると言うんだ? 俺には影の意志を肯定することも否定することもできない。それをする権利などとうに失っている」
八重神子は少し悲しそうに顔に影を落とし、焔硝を一瞥する。
焔硝は力の無い瞳で神櫻を見つめ、まるで悔いて懺悔しているかのように暗い顔をする。
八重神子は小さく溜息を吐き、少しの間二人で神櫻を見上げ続けるのであった。
八重神子と空の邂逅から数日が経過した。
稲妻城の方で何やら軽い騒ぎがあったようだが、それ以外は何も無く変わらない時が流れていた。
空とパイモンが稲妻に現れたことで稲妻に変化が訪れると思われたが、どうやらそれはまだまだ先のようだった。
焔硝は鳴神大社の一部屋で相も変わらず酒を飲んで過ごしていた。空とパイモンとの出会いにより、焔硝も八重神子も稲妻に風を起こすと感じている。八重神子はそれが良い傾向だと思っているようだが、焔硝は不安を感じていた。
彼らの影響で稲妻は確かに変化を齎すだろう。だがそれによって起こることは必ずしも良いものとは限らない。今の情勢より更に悪くなることだってありえる。
今の稲妻は雷電将軍が提唱する『永遠』に基づいて『変化』を目狩り令という形を取り、力尽くで排除している状態だ。鎖国令でも異人に悪い影響を与えてしまっている。
もし空達が齎す変化が雷電将軍をより『永遠』に固執させるようになってしまえば、『永遠』によって苦しんでいる民達がより苦しく、最悪完全に弾圧されるかもしれない。
何も焔硝は雷電将軍が民達を完全に力尽くで平伏させるとは本気で思っていない。いくら『永遠』が正しいと信じていたとしても、焔硝が知っている『彼女』がそれを良しとするとは到底思っていない。
だが『将軍』は別だ。アレは『永遠』という規則に従い、『永遠』を成し遂げる為にただ執行する心無い人形だ。いくら『彼女』が設定したからと言って、『彼女』が予期せぬ行動を取ることだってあり得ない訳じゃない。
焔硝は空達の行動が、稲妻に悪い影響を齎すのではないだろうかと、心配しているのだ。
だが――と、焔硝は溜息を吐く。
守るべき者を何も守れなかった己が、『彼女』が目指す稲妻に対して口出しすることも、手を出すことも許されない。空達の行動が齎す変化について己が気にする必要は無いと、焔硝は再び大社という殻に籠もった。
その日――焔硝は夢を見た。
まだ焔硝の宝が存命しており、戦乱の世であったが一番光に溢れていた時代。
大天狗である笹百合とは男二人で戦場を闊歩し、鬼族の美姫である御輿千代とは優雅に酒を飲み交わし、仙狐である狐斎宮とは彼女の弟子達と稲妻を練り歩いた。
そして二人の雷神――眞と影の二人とは前者の三人よりも長い付き合いであり、生きてきた時間の大半は彼女達と過ごしてきた。
眞の天真爛漫さに振り回され、影はいつも薙刀を片手に組み手を要求してきた。影の負けん気に焔硝はいつも苦笑しつつ、影が満足するまで相手をしてあげた。とは言っても、影の実力は焔硝と同等であり、白星と黒星を交互に付け合っていた。
焔硝にとって眞は唯一の宿り木だった。戦いに明け暮れて『摩耗』していた焔硝の心と身体を癒やしてくれたのは眞だ。眞の笑みと慈しみが焔硝の原動力だった。
武神として恐れられた焔硝から刃を置かせることができる唯一の神だった。
だが――焔硝はそれを全て失った。
魔神戦争、カーンルイアの滅亡、漆黒の厄災、それらが焔硝から全てを奪った。
焔硝の知らぬ所で、手の届かぬ所で、気付いた時には全て奪われた後だった。
眞の死を影に知らされた時、焔硝の心は砕け散った。
だから気が付けなかった――奪われたモノは全てではなかったことを。
まだ焔硝には眞の半身である影がいた。だと言うのに、焔硝は眞の死によって目が曇り、影を取り零してしまう。
焔硝が影に気付いていれば、影は摩耗を恐れ『永遠』を追い求めることはなかったのかもしれない。
それに焔硝が気付いたのは、既に影が表舞台から去った後だった。
焔硝は何もかも遅かった。その事実が、焔硝の時を完全に止めたのだ。
そう――焔硝もある意味、『永遠』に囚われてしまったのだ。
「……」
「随分と魘されておったが……悪い夢でも見たのかの?」
夢から醒めた時、目の前には八重神子が鎮座していた。眠気覚ましの酒を飲もうと徳利を探すが、そこに置いてあったはずの物は全て片付けられていた。
「酒なら片付けたぞ。焔硝……最近益々酒の量が増えておるぞ?」
「……そうか。気付かなかった」
「いくら汝が酒に飲まれぬと言っても、酒では汝の乾きは満たされぬぞ」
「……何か用か?」
「先も言ったが、汝が酷く魘されておったからの。いつ目覚めるのか見ていたのじゃ」
「起こせよ……」
焔硝は酷く疲れた様子で溜息を吐き、部屋の障子を開いて神櫻を眺める。
この神櫻は焔硝にとって特別な物だ。目の前に桜の花が咲き誇るこの神櫻の下には、焔硝にとって最も愛する神が永遠の眠りに着いている。
だからこそ焔硝はこの神櫻の前から、鳴神大社から出て行こうとしないのだ。
「……あの時のことか?」
「……言いたくない」
「言っているのと同じじゃぞ。汝はまだ彼女達の死を責めておるのか? アレは汝の所為ではない、と言っても聞かぬのじゃろうが……」
「……千代は俺が斬った。最期は別の誰かに殺されたが、俺が殺したようなものだ。狐斎宮も、側に居てやれば助けられたかもしれない。あの時にそれができたのは俺だけだ。眞だって……側で守り続けると眞と影に約束したのに、俺の知らないところで眞は――」
焔硝は口を閉じた。悔いるように唇を噛み締め、耐えられない何かを耐えるように顔を歪める。
八重神子も嘗ての戦いを目にしている。焔硝が友を失う所を目の当たりにしている。
焔硝は稲妻を厄災から守る為に戦い、その援護に付いていたのが八重神子だった。五百年前、摩耗していく焔硝を一番側で見ていたのは八重神子本人だ。
焔硝の心が壊れていく様を目の当たりにしたからこそ、八重神子は焔硝を鳴神大社に匿い続けているのだ。
八重神子は己を責め続ける焔硝を見て、表情を伏せる。
だがこのまま放っておくことはできないと、八重神子はあることを焔硝に教える。
「ところで焔硝、何やら稲妻城で騒ぎが起こっておる。気にはならぬか?」
「……?」
「――『将軍』が直々に外に出てくるようじゃ。これをあの童が知れば……」
「……それがどうした?」
「もしかすると、あの童が何か仕出かすかもしれぬぞ? 気にはならぬか?」
「……」
要は、今すぐに行って確かめてこいと、八重神子は言っているのだ。
焔硝は八重神子を一瞥し、溜息を吐いてから立ち上がった。羽織を肩に掛け、刀を腰に差して部屋から出て行く。
数日ぶりに浴びた日光は眩しく、まるで焔硝の出を待っていたかのようだった。
八重神子に言われたから、焔硝は出た訳ではない。焔硝自身も、本心ではあの異邦人のことが気になっていたからだ。それに将軍が態々赴くものとはいったい何だろうかと、強い興味を持った。
急ぎ足で稲妻城へと向かい、街の中を歩く。いつも賑わっている街中は、別の意味で騒然としていた。人々は街の中央に集っており、その中心には目狩り令によって押収した神の目をはめ込む千手百目神像があった。
そしてその前に手を縛られた青年が武士達の手によって座らされていた。
どうやらその青年は神の目を持っているようだ。目狩り令の象徴である神像の前で神の目を持つ青年が縛られている……おそらくこれは目狩りの儀式なのだろうと、焔硝は当たりを付ける。
将軍が自ら出てくると聞いたから何かと思えば、ただの目狩りとは来て損をしたと、焔硝は踵を返そうとした。
その時、空とパイモンが人集りの中にいるのを見付けた。
焔硝は脚を止め、事の成り行きを見てからでも良いだろうと思い、傍観に入る。
視線を中央に戻すと、焔硝は目を見開いた。
居た――雷電将軍が。
紫の髪を靡かせ、紫の着物に身を包んだ雷神が青年を見下ろしていた。
将軍を目にしたのは何時ぶりだろうかと、焔硝は息を呑む。
冷酷な眼差しで見下ろす将軍は、青年に手を伸ばし神の目を引き寄せる。
青年の神の目が将軍の手に収まる直前、人集りの中から空が雷元素を引き出して飛び出し、青年の神の目を掠め取った。
空は将軍を睨め付け、将軍は空を怪訝な目で見下ろす。
青年を取り押さえていた武士達が空に襲い掛かるが、空が放った雷によって返り討ちに遭う。
その隙に空は青年を縛っている縄を解こうとするが、将軍が雷を飛ばし遮る。
壇上からゆっくりと、雷を踏んで降りてくるその様は、まさに雷神に相応しい。
「神の目が無くとも、元素力を扱える……。あなたは『例外』……例外、それは『永遠』の敵」
将軍は雷を発した。空が発した雷よりも更に激しく強大な紫雷を放出し、胸元から雷の一刀を抜き放つ。雷鳴を轟かせながら抜き放たれたそれは、雷電将軍を言い表す『無想の一太刀』を繰り出す最強の刀。
銘を――『夢想の一心』。
「あなたを神像へとはめ込みましょう!」
将軍は刀を横に一閃振り払うと、将軍の背後の空間が割れ、それは大きくなっていき最終的に対峙している空を呑み込み、空の姿は消えた。
「一心浄土……影、お前……」
一心浄土、それは雷電影が創り出した精神世界。夢想の一心に内包している世界であり、『将軍』ではなく、『彼女』が直々に空を叩くつもりで世界に引き摺り込んだのだ。
空の姿は現世から消え、動かなくなった『将軍』とパイモン、そして縛られている青年だけになった。
パイモンが空の名を叫んで探していると、空はすぐに現れた。一心浄土で大きな一撃を受けたのか、気を失って倒れている。パイモンが身体を揺さぶって起こそうとするも、空が起きる気配は無い。
将軍は刀を握り締めたまま空へと近寄っていき、刀を振り上げた。
空が斬られる――そう確信した焔硝は、気付けば人集りから飛び出していた。
『赤雷』を発しながら空と将軍の間に割り込み、腰から抜いた赤刃の刀で『夢想の一心』を受け止める。紫雷と赤雷が激しくぶつかり合い、衝撃を撒き散らしていく。
「――ッ!」
「っ、あなたは……」
焔硝は足下にいる空をできるだけ傷付けないように蹴り飛ばし、縄の拘束をといた青年に受け止めさせた。パイモンも頭を掴んで投げ渡し、焔硝は将軍を押し止める。
「行け!」
「誰だか知らないが、恩に着る!」
焔硝がそう言い放つと、青年は空を抱えて走り出し、この場から去って行く。
空達の姿が見えなくなると、焔硝は未だ鍔迫り合いをしている将軍に目を向ける。
将軍は冷静な眼差しで焔硝を見つめており、手の力を一切緩めない。
このまま焔硝を斬り伏せようとしているのだろうか。
焔硝が放つ赤雷と将軍が放つ紫雷が大きくなっていき、集まっている民達の近くで弾けていく。更に言えば、赤雷が直撃した箇所からは炎が立ち黒い煙が上がっていく。
このままでは民達に甚大な被害が出ると判断した焔硝は、将軍の刀を大きく弾き、将軍から距離を取った。
「あなたのことは『彼女』から聞いています、『赤雷の将』。これは何のつもりです?」
「……さて、何でだろうな? 俺も分からん」
「あなたも『永遠』の敵になるのですか? ならば、ここで斬り捨てます」
将軍は紫雷を纏い、刀を構える。
焔硝はゴクリと固唾を飲み込み、赤雷を将軍へと落とした。将軍が赤雷を斬り裂いた隙を狙い、焔硝は全力でその場から逃げ出した。焔硝が立っていた場所が燃え出し、火が広がっていく。
将軍は逃げた焔硝を追うことはせず、武士達に消火作業と空を目狩り令の対象に加えるよう指示を出した。
「次は、必ずや一太刀を……」
稲妻城から逃げ出した焔硝は鳴神大社に駆け込んだ。息を切らし、大量の汗を流し、敷地内で膝を着いた。
尋常で無い様子の焔硝を見て、八重神子は顔から優雅さを消して駆け寄る。
「どうしたのじゃ!? 何があった!?」
「ハァ……ハァ……! 八重……俺は……!」
「先ずは落ち着くのじゃ! 今、水を持ってこさせよう! ほれ、立てるか?」
焔硝は八重神子に肩を借り、社の縁側に腰を掛ける。巫女が持ってきた水を一気に飲み干し、息が落ち着くまで深呼吸を繰り返す。落ち着いたところで焔硝は汗を拭い、心配そうな顔をしている八重神子に「すまん」と謝る。
「いったい何があったのじゃ? 汝がここまで動揺しておるとは……」
「――『将軍』と刃を交えた」
「――ほぉ?」
八重神子が驚きの声を上げる。だがすぐに面白そうな物を見つけたような顔を浮かべ、手でニヤける口を隠す。
「それはそれは……何事かと思うたが、まさかそんなことがあったとは」
「……あの異邦人が斬られそうになった。気付けば刀を抜いて将軍の刀を受け止めていた。力を使ったのも、五百年ぶりだ」
「汝も心の内ではあの童に期待していたのじゃ。だから本能で動いたのじゃろうな」
「俺が……期待している……?」
焔硝は己が手を見る。五百年ぶりに受けた雷神の一撃の感覚が、まだはっきりと手に残っている。震える手を握り締め、久しく動かなかった心の胎動を鎮めていく。
八重神子はその様子を見て、どこか嬉しそうに笑うのであった。