一心浄土の中で、影は遠い過去を思い出していた。
姉である眞、盟友の笹百合、狐斎宮、御輿千代が存命しており、焔の魔神であった焔硝の六人で過ごしていた一番輝かしかった時代。魔神戦争中であり、稲妻の治安は不安定で危険なものであったが、それでも一番幸せだったかもしれない。
この頃、影は武神として常に研ぎ澄まされており、影を知る者からはまるで刃そのものという印象を抱かれていた。毎日毎日、自身に厳しい鍛錬を課しては政に関わらない時間の殆どを費やしていた。
あの日も、影は誰も立ち入らない道場で薙刀を振るっていた。
焔硝と出会い本気で刃を交わしてから、数百年が経過しようとしていた。己に並ぶ武を持つ魔神が他に存在しているとは思っていなかった影は、焔硝と出会ったことでその考えを改めた。まだ見ぬ魔神も、焔硝と同等の力を持っているかもしれない。もしかしたらそれ以上かもしれない。眞を守れるのは己だけだと、より一層に力を求めていた。
「……」
影にとって、焔硝との出会いは特別だった――。
影と眞は双生の魔神として同じ姿、同じ元素力を持って生まれ落ちた。
だけど内面はまるで違っていた。眞は敵であっても優しさを見せ、影は敵に一切の情けを掛けない。眞は芸に長け周りを魅了し、影はただ武だけを突き詰めた。
影にとって眞は光だ。温かな光で拠り所。彼女の前だけでは刃のように冷たい心が解かされ、安らぎを得られる。眞が居なければ己に心が宿ることはなかっただろうと考えており、影は眞を大切に想い、愛していた。二人はずっと一緒にこの世を生きていけるのだと、信じて疑わなかった。
しかし心の何処かではずっと、ある孤独を感じていた。
影は武神と呼ばれるまでに強大な力を得ていた。如何なる強敵も、己の手に掛かれば赤子の手を捻る程度で済んでしまう。苦労したとしても、それは一瞬で必ず勝利をこの手に齎す。
いつしか、影は戦いにおいて孤独を感じていた。己と並ぶ者など存在しない、双生の姉である眞ですらその力を持たない。強者故の寂しさが心を蝕んでしまっていた。
そこに現れたのが焔硝――焔の魔神アウナスだった。
彼が振るう『槍』は確実に己の命を穿つ、彼が生み出す焔は確実に己の命を燃やし尽くす。
そう確信した時、影は嬉しさと喜びを抱いた。己の全力を出しても同等の力で斬り結んでくる彼が――彼こそが、己の心を埋める最後の欠片だったのだと悟った。
焔硝と戦いは両者の気絶によって幕を閉じた。先に目覚めたのが己だからと、勝者は己であると影は思っているが、ともあれ戦いそのもので勝負は付かなかった。
あれ程、心が躍ったのは生まれてから無かったかもしれない――。
この時から、影は焔硝に小さな執着心を抱いたのだ。
「……」
何百何千何万と振ってきた薙刀を消し、額に流れる汗を拭う。
数百年――この数百年、焔硝は稲妻で暮らした。戦いの後、眞が焔硝の手当てをし、茶を飲み交わしてからと言うもの、焔硝は大人しくなった。あの修羅の如く闘気を纏っていた焔硝は徐々にその形を収めていき、人との共存の術を学んでいった。
あれから一度も焔硝と刃を交えてない影は少々不満を抱いていたが、共に眞を守れる存在ができたことに関しては喜んでいた。
ただ一つ――今まで抱いたことが無かった感情が心に生まれていた。
「ほら、焔。見て、植えたスミレウリの実が生ってるわ」
「……育ったら食うべきか、塗料にするべきか」
「あら……食べる以外の選択肢、貴方にあったの?」
「最近学んだ」
道場の外から眞と焔硝の声が聞こえてくる。二人は庭で仲睦まじく並び、影が鍛錬している間散歩していた。
最近、眞と焔硝の距離が近いことに影は気が付いていた。誰とでも仲良くなれる眞ならそれ自体は不思議なことではない。だけど、どうにもそれだけではないような気がすると、影はモヤモヤしていた。二人の肩が触れそうになるのを見て、胸の奥が痛くなる。
ある日、影は眞に呼び出された。
稲妻城の眞の部屋に入った影は、正座している眞の隣に焔硝が腰掛けているのが目に入る。
嫌な予感がした――。
影は眞と焔硝の正面に座る。
「影、大事なお話があるの」
「……何でしょう?」
耳を塞ぎたくなった。今すぐ立ち上がってこの部屋から出て行きたいと思った。
眞は恥ずかしそうに笑みを浮かべ、焔硝を一瞥してから影に向き直り、口を開く。
「私と焔ね――――
視界が遠退いた。目眩がした。呼吸が止まった。何も聞こえなくなった。何も考えられなくなった。
眞はそんな影に気が付かず、嬉しそうに笑っている。焔硝も照れているのか、気恥ずかしそうにそっぽを向いている。
半身とも言える大切な姉が、唯一の『同族』と夫婦になる――。
影は酷く乱れる心を落ち着かせようと、膝の上で拳を握り必死に耐える。
「それで、どうかしら? 影が良ければ――」
「――おめでとうございます、眞。心から……祝福します」
気付けばそんなことを口走っていた。何とか作り出した笑みを浮かべ、影は目の前にいる『夫婦』を見た。
「本当!? 良かったぁ……あなたが嫌がったら考え直すところだったけれど、許してもらえて何よりだわ!」
「……」
焔硝の目が、影を見つめる。
影はその視線に耐えきれず、すくっと立ち上がる。
「すみません、斎宮に呼ばれていまして。ついでに彼女達にも知らせてきます」
「え、影? まだ話が――」
「失礼します」
影はその場から逃げ出した。
部屋を飛び出し、廊下を走り抜け、城の外に出る。そのまま雷の速さで走り去り、気付けば影向山まで来ていた。
影は心の奥底から湧き出る感情に理性が追い付かず、生まれて初めて涙を流していた。
――この感情は何!? どうしてこんなにも苦しいの!?
長く続く石段の上を早足で駆け上がりながら、影は自問自答を続ける。
――これは何!? 怒り? 悲しみ? 分からない……何に怒って何に悲しんでるの!?
影の頭の中で、眞の側にいる焔硝が浮かんでくる。眞の側にずっといて、眞の笑顔と心を一身に受けている。
――眞を焔硝に取られたから? 眞の側に焔硝だけが立っているから? だから焔硝に怒っているの?
石段を駆け上がる足が止まる。信じられないという表情のまま、影は固まる。
――違う……違う……そうじゃ……ない。
影がずっと思い浮かべているのは――焔硝だった。
焔硝の顔だけがずっと浮かんでくる。彼の声が、彼の目が、彼の感情が己に向けられているのを思い浮かべている。
「眞に……焔硝を……取られた……」
己と対等な力を持つ魔神。孤独感を無くしてくれた唯一無二の魔神。心にできた隙間を埋めてくれた魔神。
その魔神を――姉に奪われた。
影はその場に座り込んだ。頭を抱え、ボロボロと涙を流し出す。
「そんな……! 私は……! 眞に何て感情を……!」
影は自己嫌悪に陥った。
守るべき大切な姉に対して怒りを抱いてしまった。到底許されない感情を抱いてしまったことで情緒が滅茶苦茶になり、人間の子供のように泣きじゃくってしまう。
そこへ、一つの足音が近付いてきた。
「ふーんふふーん……およ? そこに居るのは影じゃ――んなぁ!? 泣いてるぅ!?」
「き、狐斎宮……?」
現れたのは鳴神大社の宮司である狐斎宮だった。煙管を片手に、斎宮は慌てた様子で影に駆け寄る。
「ど、どどどどうしたんだい!? 影が泣くなんていったい何があったんだい!?」
「斎宮……斎宮ぅ!」
「おわぁ!?」
影は斎宮の胸に顔を埋め、わんわんと大泣きした。何が何だか分かっていない斎宮は、一先ず影が落ち着くまでポンポンと影の頭を撫でてやるのだった。
「そっかー、眞と焔硝がねー。いやー、何時かそうなるんじゃないかと思ってたよ」
「……」
一頻り泣いて落ち着きを取り戻した影は、鳴神大社の櫻の下で膝を抱えて座り込んでいた。その隣では煙管を吹かしながら斎宮が座っている。
「それで、影はどうして泣いてるんだい?」
「……実は」
影はポツポツと斎宮に話した。自覚した感情も偽ることなく吐き出し、それを静かに聞いていた斎宮は煙管を加えて煙を吐き出す。
「成る程ねー……影にも嫉妬心があったか」
「嫉妬……? 怒りではなく?」
影は目を丸くした。
斎宮はニマニマとしながら、うんうんと頷く。
「そうそう、怒りとは全然違うよ。強いて言うなら悔しさ、かな? お姉ちゃんに大好きな人取られちゃってキィーってなってるんだよ」
「大……好き……? 誰を……?」
「んぇえ? 焔硝のことじゃん。影は焔硝のことが好きだったから、眞に嫉妬してるんでしょ?」
「……?」
「……え? そこまで分かってて、そこを自覚してない?」
斎宮は呆れて乾いた笑みを浮かべ、頭の上に生えている狐耳をしならせる。
「影は、焔硝のことが好きなの。友達として好きじゃなく、一人の男――魔神だけど、恋愛対象として好きってこと」
「……」
この時、影は「何を馬鹿なことを」と思っていた。
だが斎宮の口から出て来た「好き」という言葉が頭の中を反響し、次第に心臓の鼓動が激しくなっていくのを感じた。顔が火照り始め、両手で己の頬を包み込む。
「おぅ、かーわいい! 魔神と言えど、影もちゃんと女の子なんだねぇ」
よーしよしと斎宮は影の頭を撫でる。
影は徐々に焔硝に対して抱いている感情を理解し始めていく。それは止まることを知らず、一瞬にして『恋心』なのだと完全に自覚して胸が一杯になる。
「う……あ……! で、でも……! 焔硝は眞と……!」
「うーん……」
斎宮は空を眺めながら何かを考え出す。プカプカと煙りを何度か吐き出し、徐に思ったことを口にする。
「別にさ……我慢することないんじゃない?」
「え?」
「だってさ、影と眞って二人で一つじゃん? なら影も焔硝貰っちゃえば?」
「……はあ?」
影は本気で呆れた。
それでも斎宮は何でもなさそうに話を続ける。
「双生の魔神だし、あっちも魔神だし。別にいいんじゃない?」
「何を言ってるんですか?」
「まぁ、いきなり同時にってのがアレなら、ある程度期間を空けてからとかさ。眞だって、大好きな妹と一緒に夫婦になれたら嬉しいんじゃない?」
ケラケラと、斎宮はとんでもないことを言ってしまう。
影は別に眞から焔硝を取り返したいとか、奪いたいとか、そんなことは考えていなかった。
ただ眞に焔硝を取られてしまったことに気が動転してしまい、眞に怒りの感情を向けてしまったと嫌悪に陥っていただけである。
それがどうして己も焔硝と夫婦になれば良いと言う話になるのだろうかと、影は心底呆れてしまった。
斎宮は煙管から灰を落とし、さっきとは打って変わって真面目な表情を浮かべる。
「ま、ともあれよ。眞とは話をしたほうが良いんじゃない? どうするにしろ、気持ちの整理とか、折り合い付けなきゃ、眞との間に大きな溝を造っちゃうよ?」
「……」
影は眞を思い浮かべる。優しくて、温かくて、大きな愛を注いでくれる大好きな姉。守るべき、守りたい唯一の姉。彼女との関係に傷を付けたくないと、影は思っている。
眞が幸せになるのなら、どんなことだってしてあげたい。それが焔硝と夫婦になることならば、心から祝福してあげたい。
影にとって、眞の笑顔が何よりも大切であり、彼女の幸せが己の幸せなのだから。
「……斎宮、私は二人を祝福します」
「……今決めなくても良いんだよ? 眞と話し合ってからのほうが――」
「いいえ」
影は立ち上がる。目元には涙を流した跡が残っているが、その表情はしっかりとしていた。
影向山から見える鳴神島を見渡しながら、影は自身の中で出た答えを口にする。
「大好きな眞と……大好きな焔硝が幸せになるのなら、私はそれを選びます」
「……我が儘言っても良いと思うけどなぁ」
「いいえ。私は彼女達と一緒に居られるだけで幸せです。それ以上は望みません」
それを聞いた斎宮は今度こそ何も言わず、成長した子供を見守る母親のような目で影を見つめる。そして慈愛の籠もった笑みを浮かべて影の隣に立つ。
「そっか。なら、その気持ちをアレに伝えてきなよ」
斎宮は長く続く石段の下を指した。
そこには件の焔硝が佇んでおり、静かに影と斎宮を見つめていた。
おそらく、様子がおかしかった影を心配して探しに来たのだろう。
「っ……」
影は最初こそ息を呑んでビクついたが、すぐにいつもの凛とした様子に戻る。
そして焔硝の前まで歩み寄っていき、目の前で立ち止まる。
「……影」
「焔硝…………眞をお願いします」
「……」
「眞は強がりですから……辛くてもそれを隠そうとします。それをちゃんと助けてあげて下さい」
「……お前……いや……あぁ、そうだな」
「約束してください。絶対に眞を裏切らないと。私を裏切らないと」
影は焔硝の瞳を見つめる。焔硝も影の瞳を見つめ、そして確りと頷いた。
「ああ、約束しよう。雷電眞、雷電影――お前達を裏切らない」
「……嘘も隠し事も無し、ですよ? 眞は優しいですから、きっと数日で許すでしょうけど、私は絶対に許しませんよ?」
「分かった」
「……約束ですよ、焔硝」
影は湧き上がる何かを押し殺しながら、柔らかな笑顔を焔硝に見せた――。
「……約束……したのに……」
一心浄土で、影は悲しげに呟いた。
焔硝に嘘を吐かれていた。それも己だけではなく、眞にまで嘘を吐いていた。
あの時の約束の言葉を裏切られたという気持ちが抑えきれず、焔硝に対して怒りと悲しみがこみ上がってくる。
あの約束を信じたから、眞を任せられたのに。焔硝を信じたからこそ、己は想いを押し殺して祝福したと言うのに。
想いを踏みにじられ、影は全てを投げ出して一心浄土に閉じ籠もる。外界からの全てを遮断し、悲しみに暮れる。
もう数日は経っているだろう。そのお陰で少しは物事を考えられるようにはなってきていた。
焔硝はベリアルを殺したと嘘を吐いていた。島に封印して生かしていた。
稲妻に、眞の命を狙った『敵』を殺さずに隠していた。
どうして、どうしてなのか……。影は彼女を思い出す。
ベリアル――霧依とは何度か顔を合わせている。生まれた経緯も、焔硝が責任を持って育てるということも知っていた。
だから焔硝が霧依に何かしらの特別な情を抱いていたのは、考えられたことだ。
例えば――親愛。己が眞に向ける愛情と同じ物を抱いていたとしたらだ――。
有り得ないことだが、もし己が眞と戦うことになれば、その時はどうなるだろうか?
一切の情を捨てて斬ることが、果たしてできるだろうか?
答えは――言わずとも分かることだった。
「……我ながら、随分と幼稚で愚かですね」
影は己の精神に呆れた。嘘を吐かれたのは確かに大きなショックだった。実際に泣いたし、子供のように一心浄土に閉じ籠もってしまった。
だが焔硝が霧依を殺せないことは、考えれば分かることだった。理解もできたことだし、当時は兎も角、今ならちゃんと教えてくれたら受け入れられたはずだ。
――私は稲妻の将軍。雷神バアルゼブル。何千年も生きている神なのですから、しっかりなさい。
影の心は晴れた。完全にではないが、少なくとも焔硝の謝罪を聞き入れる程度には折り合いを付けられた。
そろそろ一度、一心浄土から出ようと思い始めたその時、外にいる『将軍』から声が掛けられる。
――旅人が来ています。あの宮司からの書簡を携えています。
――分かりました。私が対応します。
影は一心浄土から出て将軍と入れ替わる。
目の前には空が一人で立っている。いつも側にいるパイモンは見当たらない。
「影?」
「……はい、私です。申し訳ありません、酷く動揺していました。今は大丈夫です」
「……後で焔硝をぶん殴っておくよ」
「……そうですね。では、お願いします。ところで、神子から書簡を預かっているとか」
「あ、うん」
空は影に状箱を渡す。受け取った影は蓋を開いて手紙を取り出す。
その手紙に目を通していくと、肩をすかす。
「どうしたの?」
「いえ、何でもありません。ただ、そろそろ外に出てこいと書かれていただけです」
空は首を傾げる。
――そんな簡単な伝言を、態々手紙にして大袈裟な箱に入れて頼み込んできた?
何かおかしいと疑問に思う空であったが、あの八重神子のことなので何を考えているのか分からないという結果に落ち着いてしまった。
もしこの時、空がその疑問にもっと強く反応していたら――。
その疑問を影に伝え、影が八重を問い詰めていたら――。
運命は変わっていたかもしれない――。
「――――そこを退け、影」
「――――退きません。あなたを止めます。四肢を斬り落としてでも」
もうすぐ、書きたかったシーンの一つがやってくる。