八重堂にやって来た空達は、将軍の姿を前に酷く動揺する店主に事情を説明し、影と一緒に娯楽小説を手に取る。
影は高を括っていた。娯楽小説とは文字で書かれた物語である限り、理解できないということはありえないと。
しかし現実は違った。一冊の小説を手に取った影はその題名を目にして表情を強ばらせ、開いて内容を読んでいくと目を回し始めた。
最終的には本を置き、頭を抱えて苦しそうな声を漏らす。
「うぅ……どういうことでしょう? 私が甘く見ていたのでしょうか……? 本に書かれた文字や単語は分かるのに、繋げて読むと意味が理解できません……」
影は読んだ本の一冊を手にし、空に差し出す。
「例えばこの、『転生ヒルチャール、夕暮れの実を食べ続けたら最強になった件について』……名前が長いですね」
題名からして、影は娯楽小説についての理解を早々に躓いてしまった。
内容についても、『設定』とやらに理解が追い付かず、現実的な面からの指摘をしはじめてしまい、理解からより遠ざかっていってしまう。
だがせっかく友人である八重神子が自慢するのであるからと、娯楽小説への理解を深めようと空とパイモンに助けを求める。
二人は影のために影が分かりやすい小説を選んで聞かせることにした。
二人が選んだ小説は、璃月の武侠物語であった。
その物語を聞いた影は最初こそワクワクしていたものの、次第に真剣な表情になっていき、最後には重苦しい雰囲気を纏う。
そして感想を一言――。
「今の璃月に暮らす者の心は、こんなにも複雑なのですか?」
どこからか誰かが転ける音が響いた気がした。
空は辺りを見渡すが、桶が地面をコロコロ転がっているだけで人の姿は見られない。
「この主人公、今はどこにいるのでしょう? 稲妻へ来るつもりはありますでしょうか? ぜひ奉行衆に彼を招いてもらい、彼と一勝負してみたいものです!」
影は満面の笑みでそう言った。
だからこれは『設定』であり架空の人物だとパイモンが説明する。
影はまだそこら辺についての認識ができていないようだ。
「それよりも注目すべきなのは悪役の方だろ。ああいう悪どいやり方をした奴らに対して、何も思わないのか?」
「悪役? あの愚かな人達のことですね。悪者であれば、最後に裁きを受けるのも『自業自得』でしょう」
ガタガタガタッ――!
今度こそ空の耳にはっきりと物音が聞こえた。
空はその音の方を目線だけで確認すると、見覚えのある赤と黒の羽織が物陰からはみ出しているのが見えた。
――えぇぇ……?
空は困惑した。
まさかのまさか、彼の赤雷の将、元神であるあの焔硝が隠れて此方の様子を窺っていたのである。
焔硝は空の視線に気が付くと、空だけに伝わるように明確な威圧感を目で与えた。
言うな、絶対に言うな。言ったら殺す。バレたら殺す。殺すったら殺す。
空はゴクリッと唾を飲み込み、そーっと焔硝から視線を外し、影に戻した。
今、自分はもの凄く面倒な立ち位置にいるのではないかと、改めて認識する空。
そんな空を余所に、影とパイモンは小説について語っていた。
空は思う――もしかしてこれ、チャンスなのでは?
焔硝がストーカー染みた、というかストーカーしているのであれば、今こそ影の気持ちを聞き出すことができれば、焔硝の耳に直接言葉を届けることができるのではないか、と。
そうとなれば善は急げ、空はさっそく影に焔硝の話題を振ることにした。
「ねぇ、影。実はちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい、何でしょう?」
「焔――赤雷の将について聞きたいんだけど」
空がそう訊くと、影は目を大きく開き、一歩後ろへとズサッと下がる。
そして焔硝が潜んでいる物陰からも、大きな音が聞こえた。
将軍を言葉だけで下がらせてしまった。もしかして、影と戦う時には焔硝の名前を出せば勝てるのではないかと、空は思ってしまった。
影は今までの余裕は堂々とした態度を崩し、酷く狼狽えた様を空に見せる。
「ど、どうして彼のことが貴方の口から出てくるのですか!?」
「それは、えっと……実は影と戦う為に特訓してくれたのが、焔硝だったんだ」
一先ず、影に自分と焔硝の関係を伝えることにした。
何も間違いではないし、影から聞き出すためには自分と焔硝の関係を明確にしておく必要があると感じたのだ。
影は狼狽える自分を抑え、何とか佇まいを戻して極めて冷静に在ろうと努める。
「な、なるほど……。通りで貴方の戦い方は、私の技を見てきたようなそんなものでした。その裏では彼が動いていたのですね。彼ならば、私の技を模倣することなど造作もないでしょう。何せ、いくつかの技は彼と編み出した物ですし」
「そうなのか? でもあのだらしない格好からは想像できないなぁ」
パイモンが腕を組んで焔硝を頭の中で思い浮かべる。
パイモンの呟きに、影が訝しんだ顔をした。
「だらしない……? 私が知る彼は決してだらしなくはありませんでしたが……」
「影は知らないんだな。あいつ、影が『一心浄土』に閉じ籠もってからお酒ばっかり飲んで、髪はボサボサで髭もチクチクしてるぞ」
「ぱ、パイモン……!」
空は物陰を気にしながらパイモンの口を後ろから抱えるようにして閉じる。
物陰から哀愁に満ちた雰囲気を感じ取る空。
影は手を顎に当て、何かを思い出すような仕草をする。
「……思い出してみれば、『将軍』が見た光景では確かにそんな感じでした」
「で、でも服装はしっかりしてたよ! いつも立派な羽織を身につけてるし」
「……そうですか。それは、そうでしょう。彼にとってあの羽織は、とても大切な物ですから」
「……?」
影はどこか悲しそうな表情を見せる。
あの羽織に何かあるのだろうか? あまり深入りする訳にもいかないだろうし、これは避けて本筋に話を持っていこう。
空はそう考え、口を開く。
「それはそれとして、影と焔硝ってどんな関係なのか訊いて良い?」
「……少し、場所を変えましょう」
影はそう言うと歩き出す。空とパイモンは顔を見合わせ、影が離れていかない内に後を追いかける。その後ろを、焔硝が付けてきているのを空は確認した。
人が少なく、鳴神島を見渡せる場所に辿り着き、影は景色を眺めながら静かに口を開く。
「彼は……私にとって最も古い友であり、魔神戦争を共に駆け抜けた戦友でもあります。何より私の姉、雷電眞にとっては契りを交わした者です」
「ふんふん――――えぇっ!? そそ、それってつまり……!?」
パイモンが顔を真っ赤にして空の頭の後ろに隠れる。
どうしてパイモンが照れているのか分からないが、空は冷静に影の言葉を分析する。
契りを交わした者とは、一般的に言えばつまり婚約者――だと言うことになるだろう。
魔神同士がそう言った関係になることはきっとおかしなことではない。嘗て璃月で戦った魔神も夫婦だった。
「彼との出会いは突然でした。まだ稲妻を平定する遙か昔、魔神戦争が始まった頃、彼が私と眞の前にフラリと現れました。その時の彼は戦いだけを望む修羅で、私は彼と問答無用で刃を交えました。それが最初で最後の殺し合いでした。彼との戦いは実に激しく、季節が何度も巡るまで休むことなく続きました。やがて互いに疲れ切って倒れた時、眞が彼に休戦を提示してあろうことか茶を出したのです。それっきり、彼は私達に敵意を見せることはなく、私達の前に現れては茶をくれた礼と称して共に戦ってくれました」
影は昔を懐かしんでいるのか、薄らと笑みを見せた。
今日一日で影は何度も笑っていたが、そのどれよりも一番儚くて嬉しそうな笑みだった。
「私と眞と彼、三人で過ごしてきた時間は戦乱の中に咲き誇る儚くも美しい桜のように、忘れたくても決して忘れることのできない、もう二度と手に入れることができない思い出です」
「……彼は影が全てを失ったのは自分の所為だって、ずっと自分を責めてる」
「……神子からもそう聞きました」
「本当に、そう思ってるの?」
物陰から、息を呑むような気配を感じた。
空は真っ直ぐ影を見据え、影から本心を聞き出そうとする。
影は空に背中を向けたまま、少しの間黙っていた。
そしてようやっと、影の口からその思いが語られる。
「――最初は、そう思っていました」
「……」
「彼は私に約束したのです。眞を……私を、私の友を必ず守り通すと。私は彼を心から信頼していました。彼の約束を信じ、私は稲妻を守るため最前線で戦いました。ですが、彼は他の戦いに集中し、守るはずだった友を失うことになりました。眞も……彼が目を離した隙に居なくなってしまいました」
「……でも、それは――」
焔硝一人で全てから全てを守るのは、無理がある。
神とて万能ではないはず。事実、戦いに負けて死亡する魔神や力を失う魔神がいる。あの焔硝ほどの実力を持つ者が一つの戦いに集中するというのだ、それは相当な戦いだったのだろう。
そんな中では必ず失うモノがあるだろう。守りたくても守れないモノもあるだろう。
どれだけ理想を語っても、現実は決して優しくはない。必ずどこかで選択を迫られたり、代償を払うことがあったり、失うことがある。
焔硝一人が責任を負えるようなものではない。焔硝は命懸けで戦っていたはずだ。
空には分かる。彼の強さが。焔硝ほどの力を強さを持つ人が、戦いで手を抜いたことはないはずだ。
その焔硝に、誰が友を失った責を問えよう。
影は空の言いたいことが分かり、目を伏せて頷く。
「分かっています。彼は何も悪くありません。寧ろ彼だって友と、愛する者を失ったのです。その痛みは私と同じだったはず。けれど、あの時の私の心は脆かった。一度に多くを失い、稲妻の神である私にこそ、その責があったはずなのに、それから目をそらし、眞を失った私は感情のまま彼に……酷いことを言ってしまいました」
影は拳を握り締め、嘗ての自分の行動を悔いているようだ。今の身体が人形だからなのか、もし生身であったらきっと影の目からは涙が流れていることだろう。
それほど、今の影の表情は悲しみに暮れていた。
「『どうして眞を守ってくれなかったの』……眞の死を知って愕然としている彼に向けて放った言葉は、きっと彼の心を抉ったことでしょう。眞を守る役目は彼だけではなく、自分もそうだったと言うのに、私はそれを棚に上げて彼を糾弾してしまいました。私は……酷く醜い神です。友を守れなかったのも、私の責であるはずなのに……」
「影……」
パイモンから同情の声が漏れる。
「私はその後、知っての通り『永遠』を求めて『一心浄土』へと入りました。それまでに彼と話をする時間はあったはずなのに、私は彼を遠ざけてしまった。今でも彼とは……顔を合わすことができません」
「……ねぇ、影。影は今でも焔硝のことを恨んでるの?」
影はバッと振り向き、否定の意味を持つ首を横に振る動作を空に向けて行った。
「いいえ、そんなことはありません。寧ろ私は彼に謝りたい……彼を追い詰めたのは私です。彼に会ってこの五百年間、彼を苦しめ続けたことを謝りたい」
「なら焔硝に会おうよ。彼は今でも鳴神大社に居るし、いつも稲妻城の前を彷徨いてる。何だったらそこに――」
「いいえ、それはできません」
「っ、どうして――?」
影は空の言葉を遮り、会うことはできないと断言した。
空は納得ができず、影に食ってかかる。
影は弱々しく顔を俯かせ、後悔を告げるかのように理由を説明する。
「いったいどの顔で彼に会えば良いというのですか……。それに彼が私に会おうとしないのは、彼も私に会いたくないということでしょう。彼がそう望むのなら、私は彼の意志を尊重します」
「……」
空は思った。
――神、ほんっと面倒くせぇ。
要するにこうだ。影も焔硝に対する罪悪感から会いに行くことができないでいるだけなのだ。
互いに罪悪感を抱き、自分を悪人にして責めて、子供のように閉じ籠もっている。
ただそれだけ、ただそれだけなのである。
どうやら稲妻に住まう魔神は意気地無ししかいないようだ。
空とパイモンは「あちゃー」と頭を抱え、同時に天を仰ぐ。
――この神、ぜぇったい他人がアドバイスしても意固地になって耳を貸さねぇ。
空は全てを察し、八重神子の頼みだろうが何だろうが放棄することにした。
無責任? 上等、こちとら妹を探し出さなきゃいけないしアビスとか色々背負ってんだ。目狩り令は廃止させてやったけど、それ以降のことはもう知ったこっちゃねぇ。どうぞご勝手にやってくれや。
と、荒んだ空の心の声が漏れそうになったが、空はグッと堪えた。
だが頼み事は放棄する。
何せ、これはもう他人がどうこうできる問題じゃない。当人の何方かが自分を許して一歩踏み出すしか解決策は無い。と言うかもう半ば解決してるようなものなのだから、さっさと顔見せて一言二言話せば良いだろう。そうすれば自然と気持ちが出てきて仲直りできる。
もうそこまで来ているのだから、これ以上何もしてやれないじゃないか。
空は少し鬱憤が溜まった表情を物陰に向ける。
そこに居たはずの焔硝の姿と気配は既に消えていた。
空は思う。もし一歩を踏み出すのなら、それは焔硝の方だと。
だって男だし、こういう痴話喧嘩みたいなのでは男から謝るものだ。自分も妹と喧嘩をしたら必ず自分から謝っていた――はず。たぶん、きっと、めいびー。
空は影に気付かれないよう、溜息を吐くのだった。
この神様同士の擦れ違い、いつ終わるのだろうか――。
その後、鳴神大社では――。
焔硝は神櫻の前で佇み、神櫻を見上げていた。
思わぬことで影の心情を知ることができた焔硝は、あの場で影に会う決心はつかなかったが、知る前より心が随分と軽くなっていた。
未だ眞と友らを失った責任は己にあると責め続けてはいるが、影が己に対して恨みを抱いていないことが分かり安心した。
同時に、影に同じような気持ちを抱かせてしまっていることに罪悪感を抱き、再び自己嫌悪には陥っている。
空の言う通り、このグダグダと絡みに絡まっている痴情の縺れを解決するためには、一刻も早く二人が顔を合わせることなのだが、焔硝はそれが未だにできないでいる。
それはどうしてか――。
八重神子と空に言わせてみれば、意気地無しで終わることだ。
しかし焔硝にはどうしても踏み出せない理由があった。
それは、決別である。
眞が死んでから五百年――焔硝は今も眞を愛している。もっと言えば、眞の死を受け入れきれていない。
影と対話することができれば、きっとお互い自分自身を責め、お互いを許し合うだろう。
だけどそうなれば必然的に悲しみに目を向けることになる。
眞の死に目を向け、死を受け入れて悲しみと決別することになる。
焔硝はそれが怖かった。眞の死を乗り越えられない、死を認めたくなかったのだ。
これは、八重神子ですら見抜けていない事実。本人も最近になって自覚したことだ。
今はまだ、己を責め続けることで自我を保ててはいる。
だが、眞の死を目の前にした時――果たして摩耗に耐えられるだろうか。
もし耐えきれなかった時――その時、己は狂って影に牙を向けてしまうのではないだろうか。
「……眞。もう一度、もう一度だけでいいんだ……お前の声が聞きたい」
焔硝は神櫻に額を預け、ボロボロと涙を流すのだった。
その後ろでは、八重神子が哀しげに焔硝の背中を見つめていた。
未だ彼の心は、『永遠』から抜け出せずにいる――。